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過去のイベント情報

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令和6年度企画展「皇室と福岡県」

開催期間 令和6年8月30日(金)から令和6年12月15日(日)まで
場 所 福岡共同公文書館 1階展示室(筑紫野市上古賀1-3-1)
関連イベント
 

内容

 「皇室と福岡県」

 当館は、福岡県の初代県知事に就任した有栖川宮熾仁親王に関する文書(明治4年)、昭和天皇即位式典の大嘗祭に供奉する新穀を栽培する田(斎田)に福岡県が選ばれた時の経緯を記した文書(昭和3年)、戦前・戦後の行幸・行啓・お成りの文書等の皇室に関する文書等を所蔵しています。
 これら、皇室と福岡県の関わりや行幸・行啓・お成りの記録とともに、各時代の福岡県の様子を紹介します。

 初代福岡県知事「有栖川宮熾仁親王」

 有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王は、有栖川宮幟仁(たかひと)親王(霊元〔れいげん〕天皇玄孫〔やしゃご〕)の第一王子です。1848(嘉永元)年10月に仁孝(にんこう)天皇の猶子(ゆうし)(実親子でない二者が親子関係を結んだときの子)となり、1849(嘉永2)年2月に親王となり、名を「熾仁(たるひと)」と賜ります。
 幕末の朝廷内では、尊王攘夷(そんのうじょうい)側に立った幟仁親王・熾仁親王父子は謹慎・蟄居(ちっきょ)を命ぜられましたが、1867(慶応3)年1月、明治天皇の践祚(せんそ)(三種の神器を継承して天皇の御位につくこと)により幟仁親王・熾仁親王父子は許され、熾仁親王は王政復古(おうせいふっこ)の際に新政府の最高司令官職の総裁に就任し、その後も征東軍の大総督、兵部卿を歴任していました。
 1870(明治3)年、福岡藩で贋札(がんさつ)事件が発覚すると、翌(1871)年7月、知藩事黒田長知(くろだながとも)が罷免(ひめん)・閉門処分(へいもんしょぶん)となり、熾仁親王が福岡藩知事(のちに初代福岡県知事・県令)に任命されました。親王は、旧藩主の処分と佐賀藩兵による警備に不満を持つ福岡の士族を鎮(しず)め事件の処理に当たり、1872(明治5)年4月5日に県令を免官しました。


「福岡県の百年」(福岡県行政資料:2-1-0016688)
 東宮御慶事奉祝会

 1900(明治33)年2月11日、皇太子嘉仁(よしひと)親王と九条節子(くじょうさだこ)さまの御婚約が正式決定し、5月10日に御婚礼がとりおこなわれました。挙式は皇居の賢所で神式により行われ、皇居から青山御所への帰路は大勢の市民で埋め尽くされました。
 皇太子殿下のご結婚に際して、飯塚町(現在の飯塚市)は町費として予算を計上し支出していました。


「明治39年 笠松村村会事蹟」(飯塚市公文書:1-2-0014597)
 明治天皇の行幸

 天皇の外出を「行幸(ぎょうこう)」といいます。奈良時代までは、畿内各地の行幸の例は少なくありませんが、平安以後は、安徳(あんとく)天皇の福原(現在の兵庫県神戸市)行幸や南北朝争乱期の諸天皇の場合を除き、ほとんどが都下とその近郊の行幸に限られ、わずかに数度の南都春日社行幸の例を見るにすぎません。特に、江戸時代は、京中の行幸さえ幕府に抑制されていました。
 しかし、1868(明治元)年の大阪親征行幸を皮切りに旧慣は打破され、ついで東亰(京)( とうけい)行幸以降、行幸は全国に及びました。1872(明治5)年の旧山口・鹿児島両藩地行幸を主眼とする中国・西国巡幸に始まり、1885(明治18)年までに北は北海道から南は鹿児島県におよぶ大規模な巡幸(じゅんこう)(2カ所以上行幸があること)が行われました。
 また、1892(明治25)年から日本の旧陸軍において、天皇統監のもと原則として毎年1回「陸軍特別大演習」が行われるようになりました。福岡では1911(明治44)年に実施され、久留米に大本営が置かれました。


「宮内省御貸下 明治天皇御冩真帖」(みやま市公文書:1-2-0051380)
 貞明(ていめい)皇后陛下(大正天皇妃)の行啓 
 
 1922(大正11)年3月、貞明皇后陛下は大正天皇の快癒祈願のため、福岡県に行啓されました。皇后陛下の九州行啓は、神功(じんぐう)皇后以来とされた一方、天皇が重態と推測されることから盛大な奉迎は見送る世相でした。しかし、最終的には主目的の香椎宮のほか、福岡県内の神社や公的機関、経路上の厳島神社(広島県)や住吉大社(大阪府)、さらに海軍兵学校在学中の高松宮宣仁(のぶひと)親王との面会も設けられ、皇后陛下単独としては異例の大規模な行啓になりました。


「東久邇宮家本縣御成リ際ニ於ル獻納願綴(久邇宮家本縣御成リノ際ニ於ケル獻納願綴)」(福岡県公文書:1-1-0021174)

*写真は旧福岡県庁(正面)

 御聖影(御真影)
 
 1873(明治6)年に奈良県知事が県庁に掲げるために天皇の肖像写真の下賜を具申したことがきっかけとなり、各府県が次々と同様の請願をはじめました。教育現場に本格的に下賜されるようになったのは1890年代からであり、教育現場に配布された御真影は、奉安殿(ほうあんでん)に教育勅語と一緒に保管されており、天皇と同一視され最大限の敬意をもって取り扱われるようになりました。


「御聖影拝載ニ関スル事蹟(大正2年度~4年度)」(福岡県公文書:1-1-0021158)

 主基斎田(すきさいでん)

 1926(大正15)年12月25日、大正天皇が崩御(ほうぎょ)されると、裕仁(ひろひと)皇太子が即日践祚(せんそ)し、新たに「昭和天皇」となりました。1927(昭和2)年1月3日から12月25日にかけて1年がかりで大正天皇の大喪儀(たいそうぎ)がおこなわれ、1928(昭和3)年1月17日、昭和天皇の即位の礼と大嘗祭(だいじょうさい)の期日が告示され、11月に執り行われました。
 この大嘗祭に用いられる新穀を栽培する田を斎田(さいでん)といい、古来亀卜(きぼく)によって定められた悠紀(ゆき)・主基(すき)の二つの国の斎田から収穫された稲が使われます。平安時代以降、ほとんどが「悠紀」国は近江国、「主基」国は丹波国か備中国が選ばれてきましたが、1909(明治42)年2月公布の「登極令(とうきょくれい)」によって、「悠紀」は京都以南以東、「主基」は京都以北以西と定められました。
 昭和天皇の大嘗祭にあたっては、悠紀斎田は滋賀県、主基斎田は福岡県と勅定(ちょくてい)されました。


「主基斎田事蹟 十七冊ノ六」(福岡県公文書:1-1-0005904)

 皇族の方々のお成り  

 当館には大正から昭和初期(戦前)に皇族の方々が、福岡県内の御視察や大日本帝
国陸海軍軍人(皇族軍人)として演習に参加されたお成りの記録を50冊ほど所蔵しています。
 1918(大正7)年1月、皇太子殿下妃に内定された久邇(くに)宮家の良子(ながこ)女王は、1923(大正12)年春にご一家で九州・四国・関西を旅行され、福岡県には5月14日にお出ましになりました。
 この文書は、久邇宮良子女王への献納 願です。提出された文書の大半は久邇宮邦彦(くにひこ)王への献納(伝献)願ですが、良子女王へのものも含まれています。


「東久邇宮家本縣御成リ際ニ於ル獻納願綴(久邇宮家本縣御成リノ際ニ於ケル獻納願綴)」(福岡県公文書:1-1-0021174)


 昭和天皇の九州巡幸(じゅんこう)
 
 昭和天皇は、第二次世界大戦の終結後、1946(昭和21)年2月から1954(昭和29)年8月まで、8年半をかけて当時アメリカの統治下にあった沖縄を除く全国各地、全46都道府県にお出ましになりました。
 1949(昭和24)年5月17日~6月12日に、福岡・佐賀・長崎・熊本・鹿児島・宮崎の各県を巡幸され、福岡県には5月18~22日と29日そして6月10~11日に行幸されました。


「天皇陛下行幸録」(福岡県行政資料:2-4-0016734)
 第43回 全国植樹祭
 
 全国植樹祭は、国土緑化運動の中心的な行事として、1950(昭和25)年以来、天皇皇后両陛下の御臨席のもと、全国各地から緑化関係者等の参加を得て、両陛下によるお手植えや参加者による記念植樹等を通じて、国民の森林に対する愛情を培うことを目的に毎年開催されています。福岡県では、1992(平成4)年5月10日に「第43回全国植樹祭」が開催されました。


「行幸啓誌」(福岡県行政資料:2-1-0015876)
 皇太子殿下・同妃殿下の行啓
 
 1995(平成7)年8月22~24日、9月3~4日に、皇太子殿下(今上天皇)・同妃殿下(皇后陛下)は「第18回ユニバーシアード大会1995福岡」に御臨席されるとともに、県内を御視察されました。


「行啓誌」(福岡県行政資料:2-1-0017239)


このほかにも今回の企画展では多くの公文書等を展示しておりますので、ぜひ当館へ
お越しください!






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