福岡公文書館ブログ

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    緊急事態宣言の発出に伴い公文書館を休館します

    福岡県が5月12日(水)から緊急事態宣言の対象地域に追加されることになり、当館も12日(水)~31日(月)まで臨時休館とさせていただきます。

    福岡県では、東京オリンピックの聖火リレーが11日から2日間、公道でのリレーはすべて中止され県内の2か所に集約して点火セレモニーだけが行われました。当館においても聖火リレーに合わせて、常設展の特集展示「ふくおか スポーツの軌跡(リバイバル)」 を5月11日(火)より行っていましたが、開始した次の日から休館してになってしまいました。

    今回の特集展示は、令和2年2月4日(火)~3月22日(日)に開催した企画展を一部リニューアルしたものです。この企画展も開催期間中に、新型コロナウイルス感染症の感染とその拡大防止のため令和2年2月28日(金)より臨時休館となったため、今回「リバイバル」で展示を行うことにしました。またしても、休館になってしまいましたが、しばらくは、Web展示でお楽しみいただけたらと思います。

    なお、休館中も、電話、ファクシミリ、メール等による収蔵資料等についての問い合わせや相談については対応いたしております。

     

    2021年4月3日

    出張展示 in 大木町 (3/16~28) を行いました

    新年度を迎えました。コロナはまだまだ油断できない状況ですが、今年度も福岡共同公文書館をよろしくお願いいたします。

    ここ数日、HP改修のためご迷惑をおかけしました。

    さて、今回は前回のみやま市に続き、大木町図書・情報センター「こっぽーっとギャラリー」(大木町図書・情報センター:こっぽーっとギャラリー (library.oki.fukuoka.jp)において 実施していた『おいでよ!福岡共同公文書館へ』 と題した出張展示の報告と、3月末まで当館の職員として働いていた大木町から派遣の職員さんのインタビューです。お話を聞いたのは当館キャラクターのしょこらです。

            【出張展示 ㏌大木町の様子】

     まずは自己紹介をお願いします。

    大木町から派遣されていた堤です。

    当館では、「文書班」で、県や各市町村からの文書の収集・保存に関する業務を行っていました。

    派遣が決った時は、今まで通勤時間自転車で約2分だったのが、自転車、電車、徒歩で約1時間20分になってしまうので「早起きがつらい!」ということが最初に頭に浮かびました。しかし、今年度末で派遣が終わり名残惜しい気持ちもありましたが、4月から大木町役場の職員に戻りました。

     公文書館の印象は?

    福岡共同公文書館に勤務する前は「公文書館」は

    「歴史」公文書を集める施設?

    「歴史」公文書ってなかなかないよな…

    という印象でした。しかし、実際にはそんなことはなく、身近な公文書が「歴史公文書」になっているということを知りました。

    当館の利用者の方から、「ここにある資料は『お宝』です」といわれたことが、文書収集を担当するものとして非常にうれしく感じた瞬間でした。

     実際に働いてみていかがでしたか?

    比較的新しい施設なので1年中快適に仕事を行うことができました。

    また、職場の皆さんにもさまざまな場面で助けていただきました。共同公文書館で県の職員、他の市町村職員、さまざまな経歴をお持ちの会計年度任用職員と「共同」して業務を行えたことは、私にとって非常によい経験でした。

     最後に大木町のPRをお願いします。

    大木町は面積が県内60市町村中49位と決して大きな町ではありませんが、

    アスパラガスの生産県内 ナンバー1

    キノコ類の生産量九州  ナンバー1

    の魅力あふれる町です。ほかにもたくさん町の魅力をお伝えしたいのですが、百聞は一見にしかずぜひ、大木町にお越しいただき、大木町を見て、聞いて、感じてみて下さい。きっとあなたにとってほかの町にはない「ナンバー1」もしくは「オンリー1」が大木町で見つかるのではないかと思います。

    「アクアス」の柔らかなお湯たちがあなたの旅の疲れを癒したがっています!

    「道の駅 おおき」のきのこたちがあなたにもぎ取られたくてうずいています!

    「おおき田園小旅行 サイクリング・ウォーキングマップ」 (2-4-0009291)

     

    「木の子のとっておきレシピ きのこの郷 大木町発」 (2-4-00092909)

    1度ならず、2度、3度のご来町をお待ちしております。

    私も4月からは町の魅力をより多く・大きくするために力の限り頑張っていきたいと思います。

     

    ありがとうございました。4月からは町のために頑張ってください。

    でも、公文書館のことも忘れずに気にかけてくださいね。

    また、大木町の紹介は前回の「公文書でめぐる ふるさと福岡 ~大木町~」もご覧ください。

     

     

    2021年3月12日

    公文書でめぐる ふるさと福岡~大木町~

    『公文書でめぐる ふるさと福岡』今回は、大木町をご紹介します。(大木町HP

    三潴みづま郡大木町は、福岡県の南西部、筑後平野のほぼ中央にあって、山ノ井川、花宗川はなむねがわの沖積で形成された肥沃な土地、豊富な水に恵まれた穀倉地帯です。

    筑後川下流左岸地域にあるこの地方は、古代「水沼のあがたとよばれる沼地で、鎌倉時代末期ごろ水沼みぬまが転じて三潴みづま荘になったといわれています。立花氏の柳河藩時代、有馬氏の久留米藩時代を経て、明治4年の廃藩置県により、久留米・柳河・三池の三県が合併して三潴県となり、明治9年(1876)三潴県を廃して福岡県となりました。

    明治22年(1889)町村制が施行され、旧来の村々が合併して大溝おおみぞ木佐木きさき大莞おおいとなり、昭和30年(1955)市町村合併促進法に基づき、この3村が合併して大木町になりました。町名は村民から募集し、協議で絞られた「大木」「木佐木」「花井」から全村民投票で決定したそうです。

    平成17年(2005)に三潴みづま町と城島じょうじま町が久留米市に編入したので、現在の三潴郡は大木町のみです。

    標高4~5mのほぼ平坦で水田の多い町内を、ほりと呼ばれるクリーク溝渠こうきょ)が縦横に走る景観が特徴的で、堀の面積は町全体の14%を占めています。県内で同じように堀を持つ市町村(筑後市、柳川市、大川市など)の中でも特に堀の密度が高く、全国でも有数の溝渠地帯です。

    堀(溝渠)灌漑・排水・貯水の役割を兼ねています。平坦な沼地に水路を作り、掘削した土を盛り上げた部分を住居とし、洪水時に水を逃がす排水路や干ばつに備えた用水源にもなっており、この地域の農耕文化やくらしを古くから支えてきた構造物です。秋の菱の実とり(掘割に自生する菱の実「半切り」と言われる大きなタライに乗って収穫する)や、冬の堀干し作業なども、かつてはどの堀でも見られていたそうです。近年は、生活雑排水による堀の汚濁などの問題も発生し、住民とともに堀再生の取組が行われています。

    米麦を中心とした農業が主産業で、特産物としてイ草、イチゴ、アスパラガスやキノコ類の栽培、畜産業、イ草加工品である畳表、花筵はなござや久留米絣などの伝統工芸品も生産されています。(参考:福岡百科事典、大木町誌)

    中学生の歌声にのせて大木町を紹介するPR動画 この町が好きだよ (大木町公式Youtubeチャンネル)より

    大木町から福岡共同公文書館に移管された歴史公文書は451点(令和3年2月現在)で、循環のまちづくりに関する文書や、堀の再生や保全に関する文書などがあるのが特徴です。また、大木町が大川市との合併を協議検討した際の文書もあります。合併はしないことになりましたが、この時の文書は大川市からも移管されており、当時の意思決定の過程を将来の検証にたえうる形でのこす公文書館の使命と、当館が「共同」公文書館だからこそできることを考えていくうえでも重要な資料といえます。

    平成17年(2005)大木町は九州で一番先にバイオマスタウン構想を公表し、リサイクルやごみの減量といった循環のまちづくりに取り組んできた自治体です。

    九州農政局のバイオマスタウンマップ(大木町が提出したバイオマスタウン構想を見ることができます。)

    バイオマスというのは、「動植物から生まれた、再利用可能な有機性の資源(石油などの化石燃料を除く)」のことです。化石燃料ももとは有機物ですが非常に長い年月をかけて化石になった限りのある資源です。しかし、バイオマスは、太陽エネルギーを使って水と二酸化炭素から生物が生成するものなので、持続的に再生可能な資源で、さまざまな利用方法があります。木材、海草、生ゴミ、紙、動物の死骸・ふん尿、プランクトンなど様々なバイオマス資源を、原料やエネルギーとして利活用した場合、植物が育つ過程で吸収した大気中の二酸化炭素を、物体(炭素)として固定、また大気中に戻すだけで、増加させないので、気候変動の抑止に役立つとされています。

     転機となったのは平成14年(2002)、ロンドン条約に基づいた廃棄物処理法施行令の一部改定で、し尿・浄化槽汚泥等の海洋投入処分の全面禁止(適用猶予期間5年)が決まったことです。それまでのし尿等の海洋投棄処分を速やかに停止し、陸上処理に切り替えることになり、大木町は平成18年(2006)から、家庭の生ごみ、し尿、浄化槽汚泥を循環施設「くるるん」で資源化する事業をはじめました。バケツコンテナ式の生ごみ分別を確立し、その後、プラスチック紙おむつなども資源化したので焼却ゴミの量は半分以下に減り、施設でのエネルギー(メタンガス)創出と消化液(メタン発酵液肥)の農業還元に成功した事例として、多くの視察も受け入れてきました。

    平成20年(2008)3月には全国で2番目のもったいない宣言(ゼロ・ウェイスト宣言)を公表し、その年の可燃ごみ組成調査で焼却ゴミの重量比の中で大きな割合(約1割)を占めていた紙おむつをリサイクルする仕組みづくりに着手します。紙おむつの処分(リサイクル)は現在、超高齢社会の日本の廃棄物行政において、大きな課題となっていますが、大木町は福岡県のリサイクル総合研究センター大牟田エコタウンのリサイクル施設企業紙おむつメーカーとも連携して、平成23年(2011)10月に家庭から出る紙おむつ分別回収をいち早くはじめました。年間100tを超える紙おむつが回収され、再資源化されています。(参考:『ごみを資源にまちづくり』中村修,2017年8月,農文協、『月刊廃棄物』日報ビジネス,2019年4月号ほか)

    大木町公文書「平成23年度紙おむつリサイクル事業」(1-2-0023751)

    大木町公文書「平成23年度ゼロウェイスト関係文書」(1-2-0023750)

    大木町公文書「EPR・デポジット(協議会)」(1-2-0030051)

    平成22年(2010)、大木町・筑後市・大川市が共同開催した『第18回環境自治体会議「ちっご会議」』では、「拡大生産者責任(Extended Producer Responsibilities:EPR)」「デポジット制度」の導入で循環型社会の再構築をめざす ちっご会議決議が採択され、EPRデポジットの法制化を求める署名活動を行っています。環境保全や温暖化防止は、廃棄物処理等の行政活動だけでは実現できません。自治体内で住民とともに目標を持って根気強く取組むこと、県や近隣市町村とも連携し、全国に向けて発信していくことなど、大木町の取組みから学べることは多いですが、環境や廃棄物の問題は多くの自治体がよりよいあり方を模索し、つながりをつくりながら取り組んでいることがわかる資料です。

    おまけ
    堀の写真が表紙の『広報おおき』を探して、閲覧室の10年分の広報を確認してみたところ、3月号表紙は、圧倒的な確率で堀干し(体験)の写真です!

    大木町のように堀のある地域では、農閑期である冬に、堀に沈殿した堆積物(泥土)をくみ上げる、堀干し・ごみ揚げという作業を行います。ここで【ごみ】というのはこの有機物の栄養をたっぷり含んだ泥土のことを指していて、水田や藺田いだ(イ草を作る田)に客土かくどとして入れて土壌改善をおこなったり、肥しに使ったりしていたそうです。堀の貯水量を維持して町内に水をめぐらせ、土も循環させてきた大木町の風土が、循環型のまちづくりの基層にあるのですね。

    もちろん、3月以外でも堀は表紙を飾っています。

     

     

     

    福岡県立公文書館であり、福岡県市町村公文書館でもある当館では、大木町職員もはたらいています。せっかくなのでコメントをもらいました。

    この度は、福岡共同公文書館のブログをご覧いただき、どうもありがとうございます。今回のブログでお伝えしきれなかった、大木町・福岡共同公文書館の魅力がたくさんありますので、ご来町・ご来館を心よりお待ちしております。(文書班・堤)

    2021年3月3日

    出張展示 in みやま市 (3/2~14) のご案内

    みやま市立図書館「市民ギャラリーKusu-Kusu(くすくす)」みやま市立図書館 みやま市立図書館 (library.miyama.fukuoka.jp) で 『 おいでよ!福岡共同公文書館へ 』 と題した出張展示を実施しています。
    「なかなか筑紫野市まで行けないよ~」という方々にも「福岡共同公文書館」のことを知っていただこうと、企画しました。

    福岡共同公文書館は福岡県と県内市町村が共同で設置・運営している公文書館です。平成24年11月に当館が開館して「福岡県内市町村の公文書館設置率は100%」になったのです。
    ここで働く職員は15名。県の職員と市町村から派遣された職員がそれぞれ3名ずつと、会計年度任用職員が9名という構成になっています。
    市町村への出張展示『おいでよ!福岡共同公文書館へ』は初の試みです。きっかけとなったのは、当館職員にみやま市から派遣の職員さんがいたからです!

    ここからは当館キャラクターのしょこらによるインタビュー形式でお伝えします。

     まずは自己紹介をお願いします

    みやま市から派遣されている高木と申します。生まれ育ったのは自然豊かなみやま市高田町です。福岡共同公文書館の存在は知っていましたが、一般の方も利用できる施設であることは知りませんでした。派遣が決定したときは、「みやま市の看板を背負って仕事する!頑張ろう!」という気持ちでした。当館では、「総務企画班」で、施設の利用促進、展示や講座に関する業務や広報誌等の作成を手掛けました。今年度末で派遣が終わり、4月からはみやま市役所の職員に戻る予定です。「出張展示inみやま市」が実現したので嬉しいです。たくさんの皆様のご来場をお待ちしています。

     みやま市ってどんなところですか?

    みやま市は、平成19年1月29日に瀬高町(せたかまち)・山川町(やまかわまち)・高田町(たかたまち)が合併して誕生しました。福岡県の南部に位置し、一部は熊本県と接しています。東部には山々が連なり、中心部は広大な筑後(ちくご)平野、西部には有明(ありあけ)海の干拓によって開かた低地が広がっています。

    市内を流れる矢部川(やべがわ)を中心とした河川がもたらす肥沃な土壌と有明海の恵みによって農業・海苔養殖業のまちとして発展してきました。

    JR鹿児島本線と西鉄大牟田線が乗り入れ、九州新幹線「筑後船小屋駅」にもほど近く、また、九州自動車道の「みやま柳川IC」があるなど、交通面は充実しています。ICを降りてみやま市内に向かうと、「みちの駅“みやま”」があります。四季折々のみやまの特産品がずらりと並び、中でもセルリー(博多セロリ)の大きさには驚かされます。テレビでも話題になった「玉めし」など、フードコートも充実しています。ぜひ、お立ち寄りください。

     おすすめの一冊を教えてください!

    みやま市からの公文書の移管は1,364冊(2021年2月現在)あります。そのほか、行政資料も所蔵しています。私のおススメの一冊はコレ!

    「みやまの人と歩み みやま市史Ⅰ」(2-4-0006384) H26.12発行

    「みやま市史」の人物編として発行されたものです。みやま市出身で全国的に目覚ましい活躍をした人や地元の経済・文化・福祉の向上等に功績のあった方々を、読みやすい文字で、写真等を交えてわかりやすく紹介しています。

     最後にしょこらから~!

    みやま市の次は、大木町図書館・情報センターの「こっぽーっとギャラリー」(3/16~28)に行くよ。

    うちの市町村にも来てほしい~☆という声をお待ちしていま~す。

     

    2021年2月18日

    公文書でめぐる ふるさと福岡 ~岡垣町~

    1月は「いく」、2月は「にげる」、3月は「さる」といわれているように、気が付けば2月も半ばを過ぎていましました。

    さて、「公文書でめぐる ふるさと福岡」今回は岡垣町です。

    岡垣町(おかがきまち)は)、福岡市と北九州市の間に位置し、町の東部は芦屋町(あしやまち)と遠賀町(おんがちょう)、西南部は孔大寺(こだいし)山系を隔てて宗像市(むなかたし)に接し、北部は響灘(ひびきなだ)に面し、三里松原(さんりまつばら)が美しい海岸を形成しています。町の総面積は48.51平方キロメートルで、遠賀郡(岡垣町・芦屋町・水巻町(みずまきまち)・遠賀町)の総面積のはぼ半分を占めています。

     

    「おかがき」という町名の由来

    1907(明治40)年に岡県村(おかがたむら)と矢矧村(やはぎむら)の二つの村が合併して岡垣村が誕生しました。明治維新後、廃藩置県の影響で誕生した二つの村は、基本的な風俗や性格に共通する部分が多く、加えて日本国有鉄道(現在のJR)の停車駅の誘致運動なども影響して次第に合併の機運が高まってきました。しかし、そこで問題となったのが新しい村名でした。岡県村は「矢矧村も古くは岡の県だったから岡県村とすべきだ」という声がありました。一方の矢矧村は「神功皇后(じんぐうこうごう)の時代に、当時武器である弓矢を作った故事から名付けられた矢矧川が村名の由来なので、こちらも由緒正しい名前だ」と意見がまとまりませんでした。そこで、当時の遠賀郡の郡長(郡の行政をつかさどる長官)が、「岡県の岡と古くからこの地を垣崎(かきさき)と呼んでいたことから垣をとり、『岡垣』とする」という決定を下したのです。こうして、村名を残せなかった矢矧村の名前は、矢矧川にその名を残し、また1910(明治43)年に開業した日本国有鉄道の駅に、矢矧村の中心地であった「海老津(えびつ)」の名を残し今日に至っています。そして、55年後の1962(昭和37)年10月1日に岡垣村から岡垣町になりました。

    「(昭和37年十月)町制施行に関する事績」 (1-2-0033643)

    遠賀郡の合併

    遠賀郡ではで1998(平成10)年から合併に関する動きが始まりました。1999(平成11)年)に「遠賀郡4町合併任意協議会」が発足しました。この協議会は2001(平成13)年に解散しましたが、2003(平成15)年に「遠賀郡4町合併協議会」(法定協議会)が設置されました。その後、合併に向けての協議が進められましたが、2004(平成16)年9月5日(日)に岡垣町では合併に関する住民投票が行われ、そこで反対が賛成を上回ったため、岡垣町は合併協議会から離脱を表明しました。その結果、4町での合併は断念することになり「遠賀郡4町合併協議会」は同年10月31日の解散することになりました。

    「遠賀郡4町合併に関する住民投票(③)」(1-2-0033634)

     

    岡垣町の周年行事

    1962(昭和37)年10月1日に町制施行した岡垣町では、1977(昭和52)年町制15周年、1982(昭和57)年町制20周年、その後10年度とに周年記念事業を行っています。

    町制20周年記念事業において「岡垣音頭」(レコード)を制作し、40周年記念事業において「変わらない岡垣(ふるさと)」というイメージソングを制作しています。また今回、参考にした「岡垣町総合学習副読本 おかがきナビ おかがきの、いいとこ探そう!」(小学生向け)は町制50周年を迎え、ふるさと岡垣町のことをもっと知ってもらい、ふるさとを誇りに思い、愛する心を育ててもらいたいという気持ちをこめて作成されたそうです。

     

    「(昭和57年度)町制20周年事業(事績綴)」(1-2-0033648)

             「岡垣町イメージソング 変わらない岡垣(ふるさと)」(2-4-0012647)

    「岡垣町総合学習副読本 おかがきナビ おかがきの、いいとこ探そう!」(2-2-0000881)

     

    現在、当館で開催中の「常設展 冬」「特集 公文書のいろいろ」において30周年をアピールするために作成されたのぼり旗を展示しています。

     

    2012(平成24)年に町制施行50周年を迎えた岡垣町は交通網の整備や団地の開発が進められ、自然環境にも恵まれた住みよい街として発展しています。

    岡垣町から移管された公文書は令和2年1月現在455冊です。また公文書のほか岡垣町が作成した行政刊行物も所蔵しています。

    それではまた、次回「公文書でめぐる ふるさと福岡」をお楽しみに!

    2021年2月5日

    評価選別会議

    緊急事態宣言が延長されましたが、福岡共同公文書館は、感染拡大防止対策をおこないながら開館しております。

    さて今回は、2021年1月29日(金)10時よりおこなわれた県文書(長期保存文書)評価選別会議についてです。

    その前に、評価選別会議は文書班のお仕事なので、以前説明したことはありますが、久しぶりなのでここで文書班のお仕事を少しおさらいです。

     

    福岡共同公文書館のお仕事(文書班編)

    保存年限が満了になった公文書の中で、行政の推移・内容・仕組みなどが明らかになるものや住民生活・社会情勢を反映しているものなど、将来への残すべき文書(歴史公文書)を移管元である県や市町村が選びます。

    県や市町村が歴史公文書として選んだ文書は、公文書館へ運び込まれ、担当職員(文書班・専門員)が1冊ずつ内容の確認をおこないリスト化します。そのリストをもとに館長及び担当が参加する評価選別会議をおこないます。

    評価選別会議とは、運び込まれた公文書が福岡共同公文書館として永久保存とするべき公文書がどうかを判断する会議です。

    この評価選別会議で、「保存」と判断された文書については外部有識者によるチェックを受けた後に、検索システムに登録しID番号・バーコードが印字されたラベルを貼り、燻蒸(くんじょう)をおこないます。

    燻蒸が終わった公文書は、中性紙の保存箱に入れ、保存庫に収納します。

     

    ここまでが文書班のお仕事です。(過去の記事もご参照ください CATEGORY:公文書館・文書班からとべます)

     

    では、話を評価選別会議に戻します。

     

    今回は、福岡県の長期文書の評価選別会議をおこないました。

    福岡県の文書は有期文書(保存年限が1~20年の文書)と長期文書(保存年限が30年)の2回に分けて運び込まれます。有期文書の評価選別会議は2020年12月17日(木)に実施しました。その際は、2,459冊の文書を保存するか否かについて話し合いました。

     

    今回は、長期文書の評価選別会議です。539冊の文書について話し合いをしました。会議では、当館で設けている選別基準(1~20)や分類(17分類)のどれに該当するのか、ということについての意見交換をおこないました。

    選別基準とは、文書を形式的に「1.例規等に関する文書」、「2.組織・制度等に関する文書」というように20類型に区分したものです。選別基準には、細目が設けられており具体的にどのような文書が保存に値する文書なのかが示されています。また、分類とは、行政の分野を「総務企画」、「議会」というように17に区分したものです。

    当館の基準に従って、事前に準備していた評価選別シートとそれに対する意見票をもとに、時には実際に資料を確認しながら、保存するか否かの判断をおこないました。

    評価選別会議は、公文書館において非常に大切な仕事の一つです。

    ここで、保存しないとことになった文書は、移管元で保存するか廃棄ということになります。廃棄されてしまえば、その文書は二度と見ることができなくなります。公文書を保存するか否かの判断は、慎重に行わなければなりません。

    今回は福岡県の文書でしたが、福岡共同公文書館では県内の市町村文書も保存しています。福岡県の文書と同様に各市町村から運び込まれた文書は評価選別会議をおこない保存するか否かを判断しています。そのため、福岡共同公文書館では、月に1回程度、評価選別会議をおこなっています。

    2021年1月27日

    公文書でめぐる ふるさと福岡 ~飯塚市~

    今回は、飯塚(いいづか)です。

    飯塚市の位置

     

    【飯塚市と筑紫野市】

     

    福岡共同公文書館が所在する筑紫野市と、飯塚市とは隣接するおとなりさんです。

    当館の専門員さんにも、飯塚市から出勤している方がいますが、この二つの都市は、

    そもそも江戸時代から、同じ街道沿いの宿場町としてのつながりがありました。

    江戸時代、長崎と小倉を結び、参勤交代をはじめ多くの旅人の通行があった長崎街道。

    長崎街道の筑前国内の六つの宿場を「筑前六宿(ちくぜんむしゅく)と呼びました。

    その西の端の原田(はるだ)宿と次の山家(やまえ)宿は現在の筑紫野市、

    その次の内野宿飯塚宿は現在の飯塚市です。

    しかし隣り合う山家宿と内野宿の間には、長崎街道一の難所ともいわれた

    冷水峠(ひやみずとうげ)が立ちはだかり、旅人を苦しめました。

    その冷水峠にも、1985年に全長2,891mの冷水トンネルが開通し、

    飯塚市と筑紫野市を結ぶ道路ルートはぐっと快適になりました。

    鉄道の方も、筑豊本線(若松駅(北九州市)-原田駅)が飯塚市と筑紫野市を結んでいます。

     

    【交通の要衝・飯塚】

     

    福岡市・北九州市の両政令市と飯塚市とを考えてみても、

    道路は八木山(やきやま)バイパスや直方(のおがた)バイパスなどが整備され、

    鉄道は福北ゆたか線(黒崎駅(北九州市)-博多)が通っており、通勤・通学圏内となっています。

    交通の要衝でもあり、人口は福岡市、北九州市、久留米市についで、県内4番目の規模で、

    まさに筑豊地域の中心都市といえます。

     

    【炭都・飯塚】

     

    飯塚といえば、やはり「炭鉱」をイメージする方も多いのではないでしょうか。

    福岡の近代化と発展に大きく寄与したのが、明治期に始まる石炭産業です。

    そして、飯塚は良質な産炭地として、大手資本が注目し、多くの炭鉱が開坑しました。

    筑豊御三家の一として有名な麻生太吉(あそうたきち)や、

    朝の連続テレビ小説にも取り上げられた炭鉱王伊藤伝右衛門(いとうでんえもん)も飯塚出身の人物で、

    明治期に石炭の採掘から身を起こし、一財を為して、政界や実業界で活躍をした、

    まさに石炭ドリームを実現した男たちです。

    彼らは、町にも大きな貢献を果たしており、公文書にも、高額納税者や寄附者として、

    たびたびその名が登場します。さらに朝ドラ「あさが来た!」の主人公のモデルとなった

    広岡浅子(ひろおかあさこ)(日本女子大学の設立や大同生命の創始で著名)が再開発に成功した

    潤野炭鉱(うるのたんこう)も飯塚にあり、ドラマでもその再開発の様子は克明に描かれていました。

     

    【鉄道】

    明治期の筑豊地方は、石炭産業の隆興により、いち早く鉄道が走り、道路も整備されていきました。

    福岡県で最初の鉄道といえば、明治22年(1889)に博多~久留米間を開通させた九州鉄道ですが、

    2番目の鉄道は、筑豊興業鉄道(ちくほうこうぎょうてつどう)でした。

    産炭量が増加するにつれ、川ひらた舟を使った水上輸送を鉄道による大量輸送に切り替えるために、

    筑豊五郡によって明治22年7月に設立された鉄道会社です。

    会社設立からわずか8年後の明治30年(1897)に九州鉄道と合併した

    筑豊興業鉄道についての資料は数が少なく、当館でもほんのわずかしか所蔵していませんが、

    飯塚市から移管されてきた公文書のなかに、鉄道建設に関する貴重な資料があります。

    「鉄道係スル事蹟」(1-2-0013000、明治25年度、飯塚市公文書)です。

    これは、筑豊興業鉄道が路線を延長する際に、

    関係町村とどのような協議をおこなったのかがわかる資料で、

    そのころ筑豊興業鉄道会社の監査役であった安川敬一郎(やすかわけいいちろう)が折衝のために、

    飯塚を訪れた事蹟や、新路線開業時の試乗会に飯塚町長を招待した事蹟などを確認することができます。

    明治25年8月12日に作成された飯塚町役場から同町鉄道委員へ向けた文書。内容は、筑豊(興業)鉄道の岩鼻鉄橋建設について関係町村との協議のために、同鉄道監査役の安川敬一郎が飯塚へ来ているので、鉄道委員は速やかに集まること、とあります。
    筑豊興業鉄道は、福岡県で2番目に設立された鉄道会社であり、開業後わずか6年で九州鉄道と合併した。市町村文書に残るこうした鉄道建設に係る事蹟は、筑豊興業鉄道の社史を調べる上でも貴重です。

     

    【市制施行】

     

    石炭産業の隆盛によって人口が増え、インフラの整備も進む飯塚は、

    昭和7年(1932)1月、市制施行を行います。福岡県では10番目の市ということになります。

    市制施行の詳しい事蹟は、県の公文書に残されています。

    (『市制施行』(昭和7年、1-1-0024554))
    市制施行申請書の一部。昭和6年6月の飯塚町議会において、満場一致で市制施行申請が可決されたことがわかります。

     

    【飯塚市公文書について】

     

    飯塚市から当館へ移管された公文書は、現在約4,000件

    飯塚市公文書について特筆すべきは、明治期から継続して残された文書群が非常に多いということです。

    例えば、議会文書は市制町村制施行前の明治18年から約100年にわたって保存され移管されています。

    しかも、合併により現飯塚市の一部になった、旧町村の文書を並列して見ることが可能です。

    これは、飯塚市をめぐる様々な出来事を検証するだけでなく、議会史、地方行政史を考える上でも、

    大変貴重な一次資料となります。

    また、学校教育課が保存していた「学齢簿」「学籍簿」

    明治27年のものから約60年にわたり残されています。この膨大な資料群も、

    先祖探しに役立つということだけでなく、時代や社会に応じて変遷していく教育制度をたどる

    重要な一次資料といえるのです。

     

    このように非常に見どころの多い飯塚市の公文書ですが、とにかく数が多いので、

    今後も折に触れご紹介していこうと思います。

    「明治十八年度 村費決議録報告留 飯塚村外五ヶ村戸長役場」(1-2-0014506)

    村費の内の「一時買入費」(紙や筆墨のように毎月購入しなければならない物品以外の物についての購入費用)に計上された物品の内訳(火鉢、そろばん、七輪、提灯…)を見ると、当時の役場内の様子が目に見えるようです。

     

     

     

    2021年1月6日

    公文書でめぐる ふるさと福岡 ~宇美町~

    新しい年を迎えました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。福岡共同公文書館は1月5日(火)より「三密」に気を配りながら開館しています。

    昨年は大変な年でしたが、今年は少しでも良い兆しが見えるとよいですね。

     

    さて、「公文書でめぐる ふるさと福岡」は今回「大木町」の予定でしたが、予定を変更して今回は宇美町を紹介します。

     

    宇美町(うみまち)は、福岡都市圏に属する糟屋(かすや)郡の町で、西は大野城(おおのじょう)市と福岡市、北西は志免(しめ)町、北は須恵(すえ)町、東は飯塚(いいづか)市、南は太宰府(だざいふ)市と筑紫野(ちくしの)市にそれぞれ隣接しています。

    東部は砥石山(といしやま)(828m)、三郡山(さんぐんざん)(936m)、頭巾山(とっきんざん)(901m)、仏頂山(ぶっちょうざん)(868m)などの三郡山系と、南部は四王寺(しおうじ)山塊の大城山(おおきやま)(410m)に囲まれており、町の面積のおよそ6割を豊かな森林が占めています。

     

     宇美町の歴史は古く、西暦665年に築城された日本最古の古代山城「国指定特別史跡 大野城跡」をはじめ、近年、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に記載がある「不彌(ふみ)国」として本町が注目される根拠となった「国指定史跡 光正寺(こうしょうじ)古墳」などの史跡が多くあります。また、古事記や日本書紀に、神功(じんぐう)皇后が応神天皇を出産された地を「宇美(産み)」と呼ぶようになったという記述があるように、安産の神様として全国的に有名な宇美八幡宮があります。                                  (宇美町 HPより)

     なお、宇美町から移管された文書は、令和3年1月現在で約140冊です。

    大正9年(1920年)10月に糟屋郡で最初に町制を施行して誕生した宇美町は、令和2年(2020年)に町制100周年を迎えました。

     

     

     

     

     

     

    「広報うみ町制施行100周年特別号」(2-4-0015161)

     

    今回、宇美町をご紹介したのは、当館で1月8日(金)より「常設展 冬」の

    「特集 公文書のいろいろ」

    と題してさまざまな記録媒体を紹介しており、その中で、宇美町からの移管文書も展示しているからです。

    展示で紹介しているのは、宇美町の「町勢要覧」です。「宇美町文庫」と題して表紙も本の写真が掲載されています。「町勢要覧」とは、町の概要や魅力を紹介するために写真や文章で分かりやすくまとめたものです。「〇〇年 △△町勢要覧」という表紙が多い中、パッと見たら「町勢要覧」とはわからないけれども、非常に目を引く表紙だと思いました。よく見ると表紙に掲載されている本の背は、「宇美物語」(歴史)、「宇美町散歩ガイド」(町の紹介)、「【近未来エッセイ】いま、明日のために」(総合計画の概要)、「Quiz-U」(クイズで楽しむ宇美町のアレコレ)と目次になっていて、とても遊び心のある表紙だと思いました。また、映像編も制作されています。

                           「宇美町文庫 DVD(映像編)」(2-4-0010253)

      「宇美町町勢要覧2005(宇美町文庫)」 (2-4-0006679)

     

    展示にちなんでもう一つ。展示の中で「市町村のオリジナルソング」を紹介しています。当館に所蔵がないので展示では紹介できませんでしたが、宇美町にも「宇美町町制施行70周年を記念して制作された「宇美町賛歌」という「町歌」があります。この歌は宇美町のHPからダウンロードできます。

    宇美町賛歌ダウンロード [MP3/2.69MB]

    かつては炭鉱の町として栄えた宇美町は、町制100周年を迎えた現在、福岡市のベッドタウンとしてとして成長を続けています。

    次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!

    2020年12月9日

    公文書でめぐる ふるさと福岡 ~福津市~

    今年も残り1ヶ月をきってしまいました。

    さて、今回は「公文書でめぐる ふるさと福岡」で福津市を紹介します。

    平成17年1月24日、旧福間(ふくま)町と旧津屋崎(つやざき)町が合併し、「福津市(ふくつし)」が誕生しました。

    福岡県の北部で福岡市と北九州市の近隣に位置し、北東側は宗像(むなかた)市、南東側は宮若(みやわか)市、南側は古賀(こが)市に隣接しており、西側は玄界灘(げんかいなだ)に面しています。

    また、東部を山、西部を海に囲まれ、特に海岸一帯と宮地嶽(みやじだけ)神社周辺の山林は、昭和31年に玄海(げんかい)国定公園に指定され、風光明媚な自然景観を形成しています。

    東西にJR鹿児島本線、国道3号が延び、海岸線と併行して国道495号が走っており、九州自動車道若宮(わかみや)インター、古賀インターも近く、広域的な交通利便性にも富んでいます。このため、福津市は宮地嶽神社や津屋崎・福間海岸などを中心とした観光レクリエーションの場として、また、福岡・北九州両政令市への通勤・通学の利便性を背景とした住宅地域として、さらには、新鮮な食料品の生産供給地域としての広域的な役割をもっています。

     

    「福津市」という名称

    「福津市」という名称には、幸福や多くの人が集まる津(港、場所)という意味が込められています。市の名称を決めるにあたり、全国に公募したところ3,064通の応募があり、合併協議会において協議され、最終選考で残った「福津市」と「北筑前市」で決選投票を実施した結果、過半数の票を獲得した「福津市」に決定しました。

    次に、福津市が行ってきた事業を紹介します。

    国民健康保険制度のルーツ

    福津市は、国民健康保険制度の参考にされた定礼(じょうれい)(常礼)制度が、かつておこなわれていた地域です。1930(昭和5)年ごろ、世界中をおそった不景気により、農村では経済状況も衛生状況も悪化し、都市部に比べ平均寿命も短く、多くの病気が蔓延しました。特に、結核は栄養状態の悪い農村の人々の間で広まり不治の病と言われていました。農村のこのような状況を救うため国(当時の内務省社会局)は全国の医療の状況を調査しました。すると、福岡県の19地区(宗像郡11地区・鞍手(くらて)郡8地区)と熊本県の1地区ですでに「医療互助組合」が運営されていました。

    当時宗像郡では医療互助組合のことを「定礼」または「常礼」と言っていました。この言葉は村人たちが作り出した言葉で、「医者にかかってもかからなくても、その人の収入に応じて、まった額をおするので。日ごろ、お世話になっている医者へのおを欠かしてはいけないということから常礼」と言っていたそうです。定礼(常礼)には、ほとんどの家が加入しており、各家から玄米を集め、それを診療所の医者に差し出せば、1年間無料で治療が受けられる仕組みになっていました。1938(昭和13)年7月に世界でも初めてといわれる国民健康保険制度がスタートしました。この手本となったのが宗像の定礼(常礼)で国民健康保険制度のルーツといわれています。

     

    (「やさしい福間町の歴史」 2-2-0001942)より)

     

     

    「うみがめ課」という課がある

    福津市には、福津市の環境保全活動の象徴として「うみがめ課」という名の「課」があります。この課は他自治体でいう「環境課」「環境整備課」などに当てはまり、ウミガメの保護活動だけではなく、地域のゴミ問題や動物全般の保護など多岐に渡った業務をしています。

    課名の由来は、福津の海岸にアカウミガメが産卵に来ることからきています。福津市は、昔からウミガメが産卵に来ることは知られていました。しかし都市化が進み、ゴミの不法投棄や、浜辺に車で乗り付けて夜遅くまで遊ぶ人が増えるなど、ウミガメにとって環境は悪くなるばかりでした。そこで、平成9年に地元住民の方々が自発的にウミガメを守る会を作り、保護活動を始められました。その後、当時の津屋崎町役場にウミガメの保護活動について相談がなされ、町長の「官民一体でウミガメが来てくれるような環境保全をしていかないか」という呼びかけのもと、平成14年に「環境整備課」から「うみがめ課」と課名の変更を行い、住民と行政が一体となり、ウミガメ保護に取り組んでいくことになりました。

    そしてこの活動は、平成17年の合併後も福津市の環境保全活動の象徴となり、課名もそのまま継続されています。また、うみがめ保護条例なども策定され、「うみがめ」現在でも福津市の環境保護の象徴のような特別な生き物となっています。

    「ウミガメ保護条例関係資料」 1-2-0034598)

     

    また、「広報ふくつ」(お知らせ版 2020年11月15日号)に、「遠くて近い ウミガメのこと」(「環境掲示板」)として、ウミガメの孵化(ふか)に関する記事が掲載されています。

    (「広報ふくつ」 2-4-0015042)

    *福津市のHPでも見ることができます fukutsu20201115_page16.pdf

    福津市から移管された公文書は令和2年12月現在で約1500冊です。また公文書のほか福津市が作成した行政刊行物も所蔵しています。

    次回は大木町です。

    2020年11月27日

    ミニ特集「公文書と〈害虫〉」より ③IPM日記

    朝晩冷え込んでまいりましたね。皆さま、秋の夜長の虫の声♪は耳にされましたか。

    今回は、常設展秋のミニ特集「公文書と〈害虫〉」より、文化財IPMと当館の【館内IPM】のお話です。またしても、虫の写真が出てきますので、苦手な方はご注意ください。IPMってなんだ?という方は前回のブログ「ミニ特集「公文書と〈害虫〉」より ②IPMとおまけの展示」をどうぞ。

    9月の館内IPM(トラップ調査など)の様子をご紹介します。(クリックすると各項目に移動します)

    (さらに…)

    2020年11月19日

    ミニ特集「公文書と〈害虫〉」より ②IPMとおまけの展示

    芸術の秋ですね。皆さまは、美術館や博物館にいかがお過ごしでしょうか。

    10月20日のブログ「ミニ特集「公文書と〈害虫〉」より①虫損を受けた公文書」でもご紹介しましたが、受け入れた資料を長期にわたって虫やカビの害から守り保存することは公文書館の大切な仕事です。今回は、入替から1か月が経過しました、常設展秋のミニ特集「公文書と〈害虫〉」より、文化財IPMとエントランスのおまけの展示についてご紹介します。

    曝書ばくしょ曝涼ばくりょう(虫干し)とは、奈良時代から千年以上もつづく、日本の伝統的(文化財の)保存管理法(行事)です。書物や宝物を日や風に当て、湿気を飛ばし、虫やカビを払い、目通し・風通しにより状態を点検を行います。資料を丁寧に扱い、何重にも収納し、定期的に曝涼と点検を行い、必要に応じて修理を行うというサイクルになっています。

    第二次世界大戦後(1960(昭和30)年代から)、臭化メチルと酸化エチレンの混合ガスによる燻蒸くんじょう(気化させた薬剤による殺菌殺卵殺虫処理)が採用され、次第に大規模で定期的なガス燻蒸が曝涼の代わりに普及していきました(1980年代)。1997年「オゾン層を破壊する物質に関するモントリオール議定書」の締結によって、先進国では2005年から臭化メチルが全廃されることとなり、文化財IPM総合的有害生物管理そうごうてきゆうがいせいぶつかんり:Integrated Pest Management)の考え方が本格的に導入されていきます。

    文化財IPMとは、「博物館・美術館・資料館・図書館・文書館等の建物において考えられる有効で適切な技術を合理的に組み合わせて使用し、展示室、収蔵庫、書庫など資料のある場所では、文化財害虫がいないことと、カビによる目に見える被害がないことを目指して、建物内の有害生物を制御し、その水準を維持する」という考え方で、薬剤だけに頼らず日常的な保存環境の点検整備による予防対策が中心となっています。(参考:公益財団法人 文化財虫菌害研究所『文化財IPMの手引き』2014年)

    IPMという概念はもとは農業分野で生まれました。1960年代、環境問題が深刻化して、生物多様性や環境保全型農業といった自然にとって望ましい在り方への関心が高まり、1965年以降IPMという考え方が育っていきます。

    Integrated Pest Management (総合的有害生物管理:IPM)とは、「利用可能なすべての防除ぼうじょ技術を経済性を考慮しつつ慎重に検討し、病害虫・雑草の発生増加を抑えるための適切な手段を総合的に講じるものであり、これを通じ、人の健康に対するリスクと環境への負荷を軽減、あるいは最少の水準にとどめるものである。また、農業を取り巻く生態系のかく乱を可能な限り抑制することにより、生態系が有する病害虫及び雑草抑制機能を可能な限り活用し、安全で消費者に信頼される農作物の安定生産に資するもの」とされています。(農林水産省,2011ガイドライン:FAOの定義(2013))

    IPMを実践する生産者は「要防除水準ようぼうじょすいじゅん」や「病害虫発生予察びょうがいちゅうはっせいよさつ情報」などを参考に、病害虫・雑草の発生をよく観察し、防除要否や防除手段およびタイミングを判断する必要があります。このIPMの考え方は、現在、病院、食品工場、建築物衛生分野等の多方面でいかされ、文化財分野にも影響を与えています。


    文化財IPMや資料の保存について、もっと詳しく知りたい方は、こちらもどうぞ。


     

    【エントランスのおまけの展示】

    展示室入口では、文化財害虫ザウテルシバンムシの昆虫標本と被害本を実際に手に取ってご覧いただけます。

    (資料協力:東京文化財研究所 保存科学研究センター)

     

    国際植物防疫年2020関連資料スペースでは、門司植物防疫所福岡支所からお預かりした植物検疫のパンフレット類と、展示でも資料をご紹介している福岡農林業総合試験場のご案内を置いています。ご来館の際には、エントランスのおまけ展示もご覧ください。

    ロビーでは過去の企画展のポスターを展示しています。

    福岡共同公文書館では常設展の一部を入替、秋のミニ特集「公文書と〈害虫〉」がご覧いただけます。

    Web展示で一部資料をご紹介しておりますので、そちらもどうぞ。

    2020年10月29日

    公文書でめぐる ふるさと福岡~筑後市~

    収穫の秋ですね、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

    『公文書でめぐる ふるさと福岡』今回は、筑後市をご紹介します。(筑後市HP

    筑後市

    筑後市は福岡県の南西部、筑後平野(九州最大の筑紫平野の福岡側)の中央に位置する田園都市です。市の南を流れる矢部川の流域は、縄文・弥生時代の集落跡である裏山遺跡があり、古くから人が住んでいた地域です。

    (地名がたくさん出て来ますので、末尾に地名等のよみがな対照表をつけています。)

    市内を南北に通る坊津街道ぼうのつかいどう(薩摩街道)は江戸時代の参勤交代の通り道で、羽犬塚はいぬづかはその宿場町でした。ややルートの変遷はあるものの、平安時代に編纂された『延喜式えんぎしき』(10世紀前半)の中にも「西海道さいかいどう」(古代飛鳥・奈良時代の幹線道路)の駅名として「葛野駅かどののえき」(現在の羽犬塚付近と想定される)が登場しており、九州縦断の交通の要衝であったことがうかがえます。(参考『福岡県百科事典』)

    筑後市から当館に移管された資料は9月末現在で789点です。年代が古いものは、明治時代の字図・一筆限竿入帳などの土地の台帳です。また、教育委員会作成の埋蔵文化財報告書では遺跡や西海道に関連する場所について調査したものも多いです。

    温暖な気候と、土壌や水にも恵まれた農業が盛んな土地で、米・麦・イグサ・ナシ・ブドウ・八女茶などが生産されています。炭酸泉の船小屋温泉郷や恋の木神社などの観光スポットがあり、「恋のくに筑後」と題して市をあげての婚活イベントなども盛んです。

    筑後市を紹介しながら、恋も応援するPR動画 恋のファーム♡Chiku−Go! ちくご恋するチャンネル(広報ちくご・筑後市公式Youtubeチャンネル)より

    筑後市内遺跡群Ⅳ 筑後市文化財調査報告書 第45集 (2-1-0019164)

    藩政時代には久留米藩に属していた地域で、明治22年(1889)町村制施行により、上妻郡かみつまぐんの羽犬塚村、二川村ふたかわむら下妻郡しもつまぐんの水田村、下妻村、古川村の五ヵ村が成立します。明治29年(1896)上妻郡、下妻郡は生葉郡いくはぐんの一部とともに八女郡となります。水田村(明治41年(1908)合体合併;水田村、下妻村、二川村)と、羽犬塚町(大正14年(1925);町制施行)と、古川村、岡山村(一部)が合併して、昭和29年(1954)4月に筑後市が誕生しました。その後、三潴郡西牟田町と八女郡下広川村の一部を編入して、現在に至ります。

    実は、筑後市は、常設展秋の特集「公文書と〈害虫〉」の中でご紹介している、明治の螟虫めいちゅう駆除とも深いかかわりがあります。今回は『筑後市史』2巻「益田素平と螟虫駆除法」に登場する、益田素平(八女郡江口村の老農、のち二川村長)と螟虫駆除に関連する資料をご紹介します。

    近世、農作物の〈害虫〉は、「虫」または、稲につく虫「いなむし」と呼ばれ、天災のひとつとされていました。民俗行事で今も残る虫送りや虫追いは、呪術的な害虫駆除による豊作祈願であり、虫供養は農作業の過程で駆除した虫への鎮魂でした。

    明治の福岡県では、品種改良や施肥の改善によって、茎が太く収量の多い稲がつくられるようになりましたが、この稲の茎を中から食す螟虫メイチュウ(螟蛾めいがの幼虫)による甚大な被害が発生します。

    (ニカメイチュウ写真提供:福岡県農林業総合試験場 病害虫部)
    螟虫というのは通称で、方言でスムシズイムシナカザシシンキリイネノドウムシカラクダシなどと呼ばれていました。稲の茎の中で幼虫が成長し、年2回(2世代)発生するので二化螟虫ニカメイチュウ二化螟蛾にかめいがの幼虫)と名づけられました。現在はあまり見られなくなりましたが、ウンカと並び稲作に大きな被害をもたらした〈害虫〉で、とくに筑後地方では、年3回発生する三化螟虫サンカメイチュウ三化螟蛾さんかめいがの幼虫、イッテンオオメイガ)による深刻な被害を受けていました。

    福岡で、県や明治政府に掛け合いながら螟虫駆除予防に尽力したのは益田素平をはじめとする筑後地方の老農ろうのうたちでした。老農というのは、西洋農学を学ばずに在来の農業技術の改良をおこなってきたひとたちのことです。益田は自身の試験田での研究と新しく知られるようになった西洋昆虫学の情報を照らし合わせ、稲の茎を中から食して穂枯れをおこすメイガの幼虫(特に、三化螟虫)の存在を確信します。1877(明治10)年、当時副戸長でもあった益田は「螟虫駆除予防稟申書」を福岡県に提出し、県の対応を求めます。県からも国へ上申し、内務省勧農局員の鳴門義民(青森のニカメイガと九州で発生していたサンカメイガについて、虫害の調査、駆除の方法の指導に当たっている)が派遣されます。鳴門との協議の結果、益田が提案した様々な防除方法の中から、稲刈りを終えた稲株をすべて掘り起こして寒気にさらし焼却する「稲株掘り起し法」が有効とされ、導入への働きかけが行われます。

    1879(明治12)年10月 メイガの被害町村連合会(三潴、八女、山門やまとの三郡)で益田素平・中島忠蔵(上妻郡島田村)・原口茂七(下妻郡常用村)ら螟虫研究老農たちが説明を行いますが、「稲株掘取」は時期尚早と採用されませんでした。代わりに18か所の螟虫試験所が設置されました。

     

    『福岡県における螟蟲(めいちゅう)駆除豫防の沿革 病害虫駆除豫防資料第15号』(1-1-0007432)附益田素平翁遺稿螟虫実験説

    1880(明治13)年10月、反対意見も多い中、益田素平・佐野貞三(三潴郡八丁牟田村、現大木町)らの啓発や渡辺県令の説示もあり、上妻下妻、三潴、山門の4郡聯合会れんごうかいで当年度の「稲株掘取焼却」による駆除予防の実施が採用されます。被害の大小にかかわらず収穫後の稲株を掘取焼却等処分をすることとされ、罰則もありました。しかし、県から強制される形で非常に労力の要る「稲株掘取」を行うことは、すぐには理解を得られず、同月反発する農民らによって「不掘取」を請願する「筑後稲株騒動」が起き、益田や佐野、郡長や議長が襲撃の対象となりました。三潴郡27カ村、上妻郡45カ村、800名に及ぶ逮捕者を出したこの騒動ののち、次第に農作物の〈害虫〉と駆除予防の必要性が理解されていきます。明治29年には、明治政府によって害虫駆除予防法が制定され、県の害虫駆除予防規則のもと行政主導の組織的な防除が行われるようになり、農業試験場での応用昆虫学や農法、薬剤の研究とともに農業の近代化がすすんでいきます。

     

    『二川村会決議録 八女郡二川村役場』(1-2-0005938)、『筑後市史 第二巻』(2-4-0005776)

    明治22年、益田素平は二川村の村長に就任しています。明治政府による「害虫駆除予防法」が公布された明治29年、福岡県令に基づき、二川村会は「苗代田並植田螟虫駆除規定」を制定しました。行政区ごとに取締人を選び、村の直営事業として苗代田なわしろでんの採卵と捕蛾とその買上、枯茎採取の夫役雇入れが行われました。また益田は、反発を招く原因となった稲株掘取の労力を減らし、稲株処理を普及させるための稲株切断器(株切鍬)も考案しています。

    螟虫駆除のために、益田らが提唱し各地の試験研究機関で研究されるようになった、遁作法、採卵、採蛾、稲株処理、誘蛾灯、虫害稲藁の処理など総合的な駆除対策は、現代の農業におけるIPM(Integrated Pest Management 総合的病害虫・雑草管理)の考え方とも通じるものがありますね。

    いかがでしたか?次回は福津市をご紹介します。お楽しみに。

    福岡共同公文書館では常設展の一部を入替、秋の特集「公文書と〈害虫〉」がご覧いただけます。Web展示で一部資料をご紹介しておりますので、そちらもどうぞ。

    ※地名等 ふりがな対照表 (参考:日本歴史地名大系41「福岡県の地名」平凡社、2004年)

    1. 坊津街道(ぼうのつかいどう)
    2. 羽犬塚(はいぬづか)
    3. 西海道(さいかいどう)
    4. 葛野駅(かどののえき):「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる筑後国の駅で、大宰府から筑後国を経て肥後・薩摩国府へ向かう薩摩路(小路)に設置された
    5. 上妻郡(かみつまぐん)
    6. 下妻郡(しもつまぐん)
    7. 生葉郡(いくはぐん)
    8. 三潴郡(みづまぐん)
    9. 山門郡(やまとぐん)
    2020年10月20日

    ミニ特集「公文書と〈害虫〉」より ①虫損をうけた公文書

    食欲の秋ですね、皆さまいかがお過ごしでしょうか。今回は、常設展秋のミニ特集「公文書と〈害虫〉」より、虫たちの旺盛な食欲で食べられてしまった資料のお話です。虫の写真が出てきますので、苦手な方はご注意ください。

    公文書館に移管される以前に、長い年月保管されている中で、劣化や災害、虫害などにあってしまった資料もあります。和紙に墨で書かれた資料は、水や湿気には弱いですが、正しく保存すれば1000年以上の寿命を持ちます。文化財害虫による食害を受けた状態で入ってきた資料も、大切な情報を持っています。また、そのままの姿の原本(一次史料)を保管しているからこそ、記録されている情報が証拠としての価値をもつ証明の一助にもなります。

    歴史公文書として受け入れる際には、目視点検によって、虫の死骸(生きた虫は出てしまった後のことが多いです)や蛹、卵、糞、カビなどを取り除き、ガス燻蒸による殺菌・殺虫・殺卵処理を行います。燻蒸後は、残った汚れを可能な限り取り除き、保存庫に収蔵します。保存庫に入れた後も、利用の際や定期点検の度に、状態を確認し、必要な手当てを過不足なく行い、環境管理を行うことが、資料保存業務の原則です。

    秋の特集展示、公文書と〈害虫〉では、通常は資料への負担をなるべく減らすために、保存庫からほとんど出すことがない、虫損(ちゅうそん)をうけた公文書をご紹介しています。

    (さらに…)

    2020年10月6日

    常設展一部入替のお知らせ 10月6日より

    10月になりました。秋の衣替えはおすみでしょうか。

    福岡共同公文書館では、今年度は新型コロナウィルス感染症の影響で、企画展は実施いたしません。

    その代わりに、常設展「公文書にみる福岡のあゆみ~福岡県の誕生と市町村合併~」の中の、ミニ特集「行政資料の世界」を入替え、秋のミニ特集「公文書と〈害虫〉」を10月6日より展示しております。ご来館の際には、ぜひ展示室にもお立ち寄りください。

    このミニ特集では『国際植物防疫年2020』にちなんで、近現代の福岡県内の病虫害防除・防疫に関連した資料をご紹介しております。
    展示ケース
    また、『文化財IPM』(文化財分野での虫やカビの害の予防対策の取組み)に関連して、通常は資料への負担をなるべく減らすために、保存庫からほとんど出すことがない、虫損(ちゅうそん)をうけた公文書もご覧いただけます。

    ご来館がむずかしい方にもご覧いただけるよう、Web展示にて一部資料のご紹介をしておりますので、そちらもどうぞ。

    粘着マット

    緑の粘着マットがお出迎えします。

    2020年9月16日

    公文書でめぐる ふるさと福岡~直方市~

    公文書館発の県内市町村のご紹介、今回は直方市です。

     

    さっそくですが、問題です。

    直方市の正しい読みを答えましょう。

    「直方」市→「〇〇〇〇」市

     

    福岡県内の方には簡単な問題ですが、県外の方には意外と難読地名だったりします。

     

     

    答えは「のおがた」市です。

    もしかしたら、「のうがた」と間違えて覚えている人もいるのでは…。

    発音してみると、「」なのか「」なのか迷ってしまうことってありますよね。

    そんな迷える人々のために、直方市ではこんなキャッチコピーをご用意されています。

    (直方市HPより)

     

     

    楽しいキャッチコピー!

    これでしっかり覚えました!

     

    直方市は、福岡県の北部に位置し、飯塚市、田川市と並んで筑豊三都と称されています。

           福岡県内の直方市の位置図
     形と言い位置と言い、まるで福岡県の心臓のようです。

     

    古くは福岡藩の支藩でしたが、享保5年(1720)年に廃藩となった後は、

    長崎街道の木屋瀬宿と飯塚宿の間に置かれた中継地「立場(たてば)」として、

    人馬の継立や飲食物の提供を行いました。

    明治時代になると、筑豊で産出した石炭の集積地となり、問屋的な役割を担います。

    直方駅には操車場や機関区が置かれるなど鉄道輸送の基地として、

    また乗合自動車の路線もおびただしく、交通の要衝として栄えました。

    炭鉱機械工業や商業の町として石炭産業の盛衰とともに歩んできた町でもあります。

    エネルギー革命が起こった昭和30年代以降は、脱石炭への努力を続け、

    工業都市、生活都市への発展を遂げました。

    (参考『福岡県百科事典』)

    昭和6年ごろの直方駅構内(1-1-0024547)

    直方町交通図(部分)下方部の丸がすべて乗合自動車の会社です。直方駅を起点に様々な乗合自動車が路線をめぐらせていることがわかります。(1-1-0024547)

     

    直方市の沿革としては、まず大正15年11月に、直方町・新入村・福地村・頓野村

    下境村が合体して直方町となり、その後、昭和6年(1931)に市制施行して直方市となりました。

    福岡県では9番目の市ということになります。

    この時の市制施行申請書は、福岡県公文書のなかに残されています

    (1-1-0024547「市制町制施行」)。

    添付資料の交通図や写真などは、市制施行時の直方の繁栄を物語る貴重な資料といえます。

    昭和の大合併が行われていた昭和30年、植木町を編入して現在と同じ市域が確立しました。

     

    直方市から当館に移管された特定歴史公文書は、2020年9月現在で838点に及びます。

    公文書の内容を見ると、〈歳入歳出簿〉が最も多く、教育委員会や農業振興課などの文書も

    多く移管されています。

    そのなかで注目されるのが、昭和27年に戸畑市、直方市、飯塚市、田川市、柳川市の5市による

    一部事務組合として設立された「福岡県五市競輪組合」に関する公文書です。

    昭和23年に公布された自転車競技法のもと、小倉を発祥として始まった「競輪」ですが、

    昭和27年にこの「競輪」事業の共同運営を行う目的で設置されたのが「五市競輪組合」です。

    組合に関する当館所蔵公文書102冊の内92冊が直方市から移管されたものです。

    現在でこそオリンピック競技として注目されている自転車競技ですが、

    「競輪」の歴史は様々なトラブルや社会的な反発など、

    決して順風満帆ではありませんでした。

    しかし一方で、自治体財政への功績が大きかったことも事実です。

    小倉や久留米の競輪場を借りて、五市競輪組合主催のレースが行われ、

    その収益は組合自治体に分配されました。

    この「五市競輪組合」文書は、昭和27年の第1回議会事蹟から存し、

    平成にいたるまでの組合の活動をたどることができます。

    昭和27年時の「競輪」競技のルールブックなどは、自転車競技の歴史を知る上でも

    好資料といえるでしょう。

    その他東京オリンピックの聖火リレー写真や、昭和50年前後の九州縦貫自動車道や

    山陽新幹線延伸に関する文書といった、

    高度成長期の社会の様子を示す資料などもあり、バラエティに富んだ公文書群になっています。

     

     

     

     

     

     

    第1回議会事績を含む五市競輪組合文書(1-2-0004273)

     

     

    五市競輪組合競輪実施規則(昭和27年)より。当時の選手の服装(シャツ)は「布又は毛製半袖の見苦しくない色彩のもの」と定められていた。(1-2-0004445)

     

        

     

    東京オリンピック(1964)の聖火リレー隊員委嘱状(1-2-0004363)

     

    直方市聖火リレー団の集合写真(同上)

     

    写真出典:

    1-1-0024547「市制町制施行」(福岡県公文書、昭和6年度)

    1-2-0004273「議会事績」(直方市公文書、昭和29年度)

    1-2-0004445「組合条例規則綴」(直方市公文書、昭和28年度)

    1-2-0004363「オリンピック東京大会聖火リレー写真集」(直方市公文書、昭和39年度)

     

    次は、筑後市です。

    2020年8月18日

    公文書でめぐる ふるさと福岡

     福岡共同公文書館は「福岡県立公文書館」と「福岡県市町村公文書館」という二つの施設の総称で、福岡県と県内全市町村(北九州市と福岡市を除く)が共同で設置・運営する公文書館です。

     福岡共同公文書館には明治以降に作成または取得された公文書の中で行政事務上必要とされる保存期間を満了した文書が各自治体から移管されており、これらの文書は当館のHPで目録を公開しています。

     

     これからこのブログで、福岡共同公文書館所蔵資料の移管元である福岡県及び県内市町村それぞれの紹介とともに、移管元に関連する所蔵資料の紹介をしていきたいと思います。

     初回は、「福岡県」です。

     福岡は、古代、遠の朝廷(とおのみかど)と呼ばれた大宰府政庁や、外国使節の迎賓館である鴻臚館がおかれ、中国大陸や朝鮮半島と我が国との交流の窓口でした。いち早く大陸文化に触れ、日本のどの地方よりも早く米作りを始めました。また、大陸から新しい文化や学問、外国の品々を受入れてきました。

     江戸時代になると、福岡藩・久留米藩・柳河藩・小倉藩などがおかれ、明治になると廃藩置県により藩の地域が県となりました。そしてその後、小倉、福岡、三潴の3県の時期を経て1876年(明治9年)に現在の福岡県ができました。

     また、県内の製鉄や石炭産業が日本の近代化を支え、その後、商工業や農林水産業が発展し、空港・道路・鉄道等の交通も整備されていきました。

     現在は、アジアをはじめ、世界との交流を促進する交通基盤や文化機能は着実に向上しています。九州の経済や文化、行政の中枢機能の集積が進む中、アジア諸国・世界各地との交流をさらに拡大し、九州、西日本、アジアにおける広域交流都市圏としての一大拠点になっています。

     明治以降の福岡県のあゆみについては、当館展示室の「公文書にみる福岡140年のあゆみ~福岡県の誕生と市町村合併~」(常設展)をご覧ください。

     

     福岡県には、北九州市と福岡市の2つの政令指定都市を含めて60市町村(29市29町2村)があります。これら60市町村は、地理的、歴史的、経済的特性などから、「北九州」「福岡」「筑後」「筑豊」の4地域に分けられています。

    このような、福岡県のすがたや施策・事業などは

     「県政のしおり」(一般向け)

     「わたしたちの福岡県」(小学生向け)

    というパンフレットを県で作成し、紹介しています。

    当館にも過去10年分(それ以前のものも多少あり)を所蔵しています。

         (福岡県行政資料:2-4-0013571)

     

     

     

     

     

     

     

           (福岡県行政資料:2-4-0013570)

     福岡県から移管された公文書は令和2年7月現在で約45,200冊です。また公文書のほか県が作成した行政刊行物も所蔵しています。

     福岡共同公文書館の公文書や行政刊行物は、誰でも閲覧することができます。

     ぜひ、福岡共同公文書館をご利用ください。

                          次回は「直方市」の紹介です。

    2020年5月15日

    緊急事態宣言解除に伴い公文書館を開館します

    新型コロナウイルス感染症の感染とその拡大防止のため、令和2年2月28日(金)より臨時休館としていましたが、5月15日(金)から開館します。(展示室は準備中のため閉鎖しています)
    なお、今後も新型コロナウイルス感染症拡大を防止のため、下記の対応を行いますのでご理解とご協力をお願いします。

    発熱等、体調がすぐれない方のご利用はお控えください
    ・来館時には健康チェックシートの記入・検温・消毒をお願いします

    ・館内への滞在は120分以内でお願いします
    ・館内ではマスクの着用をお願いします

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    席数を減らし、座席間隔を広げます
    ・定期的に換気を行います

    手洗いや咳エチケットを心がけ、「三密」を避けましょう

     

     

     

     

     

    利用者の皆さまにはご迷惑をおかけしますが、新型コロナウイルス感染症拡大防止のために、また一日も早く日常に戻れるようになるためにご理解とご協力をお願いします。

     

    2020年4月3日

    令和2年度のはじまりです(※臨時休館中)

    なんて日だっっ!!
    が、続いている今日この頃です。
    福岡共同公文書館も、他の類縁施設と同様、臨時休館のまま、新年度に突入しました。
    令和2年度です。

    普段から、お客さまでごった返すこともない、静かな公文書館ですが
    やはり無観客業務は、寂しい。。。
    公文書を閲覧に来てくださる方、展示室をのぞきにきてくださる方、
    会議室を利用してくださる方、
    新聞を読みに来てくださる方、道に迷って訊ねて来られる方、
    トイレを借りに来られる方、
    すべてのお客様によって、公文書館は盛り立てられているのだなあ、
    と改めてしみじみと思います。
    一日も早く、この厳しい状況が収まって、再開館できる日を待ちながら、
    もうしばらく、無観客業務をがんばります。

    【三密の回避】を厳守する「しょこら」(右)、そのために画面から消えようとしている「しし君」の一部(左)

    2019年12月25日

    クリスマス

    昨日のクリスマスイブ。

    みなさま、いかがお過ごしになったでしょうか。

     

    形ばかりのクリスマスディナーを…と思い、

    仕事終わりに近くのショッピングモールをのぞいてみたら、

    ケーキ屋さんには長蛇の列。

    食品売り場では、日常のお惣菜は姿を消し、あふれるばかりのチキンレッグ!

    サラダもパーティ用に盛りつけられ、お値段もパーティ用になっておりました。

    これじゃあ、うちは仏教徒なのでクリスマスは関係ない、と言っていても、

    気がついたら、食卓はなんだかクリスマス…ってことになりかねません。

     

    さて、このクリスマス。はたまたクリスマス商戦。

    日本ではいつから始まったのでしょうか?

    日本で初めてクリスマス行事が行われたのは16世紀のことだそうです。

    現在の山口県で宣教師によって行われた降誕祭が、日本初のクリスマス。

    その後、禁教令によって長いこと途絶えますが、

    明治時代になると、再びクリスマス文化が戻ってきます。

    特に、明治期には店先にクリスマスツリーが飾られ、

    いわゆるクリスマス商戦というものが始まりました。

    一般の家庭にクリスマスが定着するのは明治の終わりごろだそうです。

    昭和に入り、12月25日が、先帝祭(大正天皇が崩御した日)として

    国民の休日になると(昭和23年廃止)、

    子どもだけでなく大人もクリスマスを楽しむようになります。

    昭和9年12月17日の大阪朝日新聞には、「大量注文殺到で品不足の悲鳴」というタイトルで、

    豪勢なクリスマス景気の記事が掲載されています。

    記事は、

    クリスマスが近づき、街のショーウインドウにはクリスマスのデコレーションが施され、

    サンタクロースが商店やデパートの売り出しに引っ張りだこ、新商品の提灯式マネキンサンタや、

    仮装マスクなどが大いに売れ、家庭用のクリスマスツリーや

    デコレーションケーキも色々取りそろえられている様子。

    クリスマスプレゼントとしては、フランス人形や絵本などが人気だ

    と伝えています。(*神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫参照)

    戦前の日本でも、まさに現在と同じようなにぎやかなクリスマスの風景があったんですね。

    その後の日中戦争のぼっ発でクリスマスは禁止されますが、

    戦後の昭和23年にはにぎやかなクリスマスが復活してきます。

     

    ここで、当館の資料から戦後まもないクリスマスの様子を見てみたいと思います。

    昭和21年12月に戦争孤児、浮浪児などを養育する施設として発足した「百道松風園」は、

    昭和22年12月に2度目のクリスマスを迎えます。

    当時の職員による業務記録である『日誌』(福岡県公文書、1-1-0021115)の

    昭和22年12月25日のページには、次のような記録が残されています。

    12月25日(木) 晴 暖

    〇福岡高女生徒によりクリスマス飾付をなす。

    〇朝礼時、クリスマスのお話をする

    〇冬休に入る
      午前――垣根作業完了
      夜 ――クリスマス演芸会 九時迄

    〇来、福岡高女生――クリスマス飾付

    〇クリスマス演芸会を子供の主催で行ふ。福高女の生徒さんのお飾りで、

     クリスマス気分を十分味ひつつ愉快に行ふ。やはり流行歌が一番多い。

     この唄が自然に明朗な児童歌に代る様、われわれの努力が必要である。

     演芸会の品性、たまには此の様な品のある会も催し、

     丹念な情操教育が必要であろう。演芸会中、各寝室を見廻るも、

     各室とも電灯は豆で暗くし、日頃の節電を実行してゐる様が見えた。

    百道松風園の『日誌』(1-1-0021115)、昭和22年12月25日のページ

     

    12月25日には、福岡県立福岡高等女学校(翌年、福岡女子高等学校と改称。現在の福岡中央高等学校)

    の生徒がクリスマスの飾りつけに来園し、夜にはクリスマス演芸会が開催されたようです。

    子どもたちの出し物は、流行歌(の歌唱)が多かったようで、

    職員は子供向けの歌が増えるようにしないといけない、と考えつつ、

    部屋の節電につとめる子どもたちの姿に、日常生活のルールが身についてきた、

    と喜んでいる様子です。

    戦争のために親や住むところを失ったり、貧困などのために家を飛び出した子どもたちは、

    松風園で迎えるクリスマス会にどんな思いをいだいたのでしょうか。

    いずれにしても、クリスマス文化が当時の日本にしっかり根づいていたことが、

    こうした資料からも窺えます。

     

    クリスマスが終わると、もうすぐお正月です。

     

    2019年10月18日

    パネル展~昭和の主基斎田(すきさいでん)~

    先週末は、台風19号の影響で、福岡でも強い風が吹きました。

    遠く離れた福岡でも、これほどの影響を受けるのだから、

    台風に近い場所はどれほどか…と思ってはいたのですが、

    次第に明らかになった被害の大きさに、愕然としました。

    本当に自然災害は恐ろしいです。

    被災地の皆様には、心からお見舞いを申し上げますとともに、

    一日も早い復興をお祈りいたします。

    また、なにか協力できることを探して実践していきたいと思っています。

     

     

    当館では、9月末に企画展「学校給食ヒストリー」が終了しました。

    企画展にご協力くださったみなさま、ご来場くださったみなさま、

    本当にありがとうございました。

     

    現在、当館展示室では、常設展「公文書に見る福岡のあゆみ」を、

    エントランスでは、パネル展「昭和の主基斎田~福岡県の記録から~」を行っています。

    このパネル展は、平成27年度の冬に行った同タイトルの企画展のリバイバル展示です。

    なぜ、いまさら3年半も前のパネルを展示するのか…といいますと、

    11月に大嘗祭(だいじょうさい)が行われるからです!

     

    大嘗祭は、新天皇が即位後初めて行う新嘗祭(にいなめさい)のことです。

    近代以降では、明治、大正、昭和、平成、そして令和と5度目の大嘗祭になります。

    この大嘗祭にコメを作って献上するのが、

    「悠紀(ゆき)」「主基(すき)」という二つの地域であり、

    その地域は、亀卜(きぼく)という亀の甲羅を使った占いで選ばれます(斎田点定の儀)。

    令和の大嘗祭では、悠紀が栃木県、主基が京都府に決定し、

    この二つの地域の田(斎田)で作られたコメは、先日大嘗宮に供納されました(新穀供納)。

     

    今をさること91年前、大正天皇崩御の後1年間の服喪を終え、

    昭和天皇の即位の礼と大嘗祭が行われたのが、昭和3年(1928)でした。

    その大嘗祭の主基地方に選ばれたのが福岡県です。

    この時の資料(公文書、写真)が、福岡共同公文書館に多数移管されており、

    主基斎田の詳細を知ることができます。

    平成27年度の企画展「昭和の主基斎田~福岡県の記録から~」では、

    公文書、写真、絵葉書、お田植衣裳など、関連資料の展示を行い、

    昭和3年の福岡県を大いににぎわせた、主基斎田という一大事業についてご紹介しました。

    この企画展を行ったときは、まさか次の大嘗祭がこんなに早く行われるとは思ってもいなかったのですが、

    せっかくよい機会なので、過去の企画展のリバイバル展示を行うことにしました。

    展示パネルは、斎田での農作業、お田植祭、抜穂式(ぬきほしき)などの祭祀、

    京都の御所に供納する様子などを記録した写真が中心です。

    当時の福岡県は、この一大事業の顛末を文書だけでなく、膨大な記録写真としても残しています。

    大変画質の良い写真で、91年前の雰囲気を今に伝えてくれています。

    令和の大嘗祭のニュースを見て、大嘗祭や主基斎田にご興味を持たれた方は、

    ぜひこの機会に、福岡共同公文書館に来ていただいて、

    昭和の大嘗祭と福岡県との関わりについても知っていただきたいな、と思います。

    パネルだけでなく、もっと関連資料を見てみたい、という場合は、

    利用申請をすればどなたでも資料の閲覧ができますので、どうぞご利用ください。

     

    ※平成27年度第2回企画展「昭和の主基斎田~福岡県の記録から~」の

     概要や展示資料につきましては、

    当館ホームページ>展示・講座案内>過去のイベント情報>企画展>昭和の主基斎田

    「福岡共同公文書館だより」第9号当館ホームページ>刊行物等>福岡共同公文書館だより

    に掲載しておりますので、あわせてご覧ください。

     

    2019年8月27日

    企画展「学校給食ヒストリー」エントランスより

    あっという間にお盆も過ぎて、8月も残りわずかになりました。

    7月23日から始まった企画展も、折り返し地点を過ぎたところです。

    今回の企画展は、展示室の外(エントランス)にもいろいろと見どころがあります。

    給食年表や福岡県の郷土料理を紹介するパネルの展示、

    アルマイトの食器に触ってみるコーナー、

    石盤・石筆を体験するコーナー、

    明治と平成の小学生の身長を比較するコーナー

    などなど。

     

    そして、今回ご紹介するのは、

    ご来場のお客さまに、小学校や学校給食の思い出をカードに書いて掲示してもらうコーナーです。

    こうしてお客様自身の手で掲示をしていただく試みは、

    以前、5周年記念展示「公文書でめぐる鉄道の旅」でもやりました

    (この時は鉄道に関する写真を掲示していただきました)が、

    展示を見ていただくだけでなく、お客様にも展示に参加していただきたい、

    という趣旨で始めた取り組みです。

    エントランスの片隅にあるので、気がつかずに帰られるお客さまもいらっしゃるのですが、

    今回は、備え付けのカードに

    ・出身小学校

    ・年齢

    ・好きな教科

    ・好きな給食

    ・小学校の思い出(授業、給食、休み時間、運動会、遠足、修学旅行/楽しかったこと、いやだったこと)

    を書いていただいています。

    8月22日現在、87枚のカードが掲示されています。

    今回の企画展は、ご家族連れで来場されるお客様が多く、未就学児さんから70代まで、

    幅広い年齢層のお客様に書いていただいています。

    読んでいると、くすっと笑ってしまったり、わかるわかると共感したり、へえ~と驚かされたり。

    結局、企画者が一番楽しませていただいているようです。

    その中から、給食に関するコメントをいくつかご紹介しようと思います。

     

    給食に関する思い出で多かったのが、次のようなものでした。

    「小学校1年生の時苦手なメニューがあって食べてしまうまで残って食べていました。給食センターのトラックに食器が間に合わず悲しい気持ちになった思い出があります」(40代、福岡県)

     

    「いつも昼休みを過ぎ、5時間目が終わるまで机の上には給食セットが残っていた。帰りの会の時、口の中に無理やり押し込んで「食べました」と言って、学校外に出てすぐ吐き出すのが日々の給食でした」(60代、福岡県)

     

    給食時間内に食べ終わることができず、休み時間や掃除時間、5時間目までぽつんと残されることは、

    子どもにとってはかなりのトラウマですよね。

    私の小学生時代にも、食べ終わることができないまま掃除時間に突入し、

    机ごと教室の後ろに下げられてしまった友達がいて、見る方もツライ気持ちになったものです。

    同じようなご意見が、他にも多数寄せられていました。

    ・嫌いな給食を残したら、後日校長室に呼ばれて、校長先生と一緒に給食を食べさせられました(50代、熊本県)

    ・給食で食べるのがすごく遅く、それが嫌で、早く食べる練習をした事もあった(50代、福岡県)

    ・給食を食べるのが遅かったので、昼休みに教室に残されて、完食させられたのがつらかったです(50代、福岡県)

    ・食べるのが遅かったため掃除時間まで食べたり、牛乳が苦手で手洗い場に流したこともありました(10代、福岡県)

     

    読むだけで切なくなります…。

    また、こんなコメントもありました。

    「じゃがいものオレンジ煮が口に合わなくて、ほとんどの児童が残していた。いつもは注意する先生も、その日だけは何もおっしゃらなかった」(40代、福岡県)

     

    先生をも黙らせる「ジャガイモのオレンジ煮」。ちょっと味見してみたいような…。

     

    いきなりつらい思い出からご紹介しましたが、一方で、こんなコメントもありました。

    「牛乳があまったとき、毎回牛乳ジャンケンに参加して、1日2本牛乳を飲んでいました」(20代、福岡県)

     

    「給食の時間、当日欠席だった人の分をじゃんけんで勝つと食べる事ができた!「残してはいけない」きまりだったので、クラス中で協力し合いながら皆で完食していた」(40代、福岡県)

     

    残ったおかずやデザートの争奪じゃんけん、ありましたありました!

    みんなで協力して「完食」というのは、いいですね。

     

    ところで、みなさんに書いていただいた、「好きな給食のメニュー」では、ダントツ人気が

    カレー

    でした。

    なんと、87名中32名がカレーを挙げておられました。

    なかには、

    「学校給食のカレーが人生で一番おいしいカレーでした」(30代、福岡県)

     

    こんなコメントもありました(笑)。

    「人生で一番」というのは小学校生活の楽しい思い出込みの評価でしょうか。

    でも確かに、給食のカレーってすごくおいしかったです。

    私も小学生の時、母に「給食と同じカレーを作ってくれ」とごねて、困らせたことがあります。

     

    一方で不人気№1は、これまたダントツで、

    脱脂粉乳

    でした。

    これは経験された世代、知らない世代に分かれますが、

    経験された方たちは口をそろえて「まずい!」とおっしゃっています。

    「1年生の時は脱脂粉乳。この世のものとは思えないほどまずかった」(50代、福岡県)

     

    「脱脂粉乳まずかった~!」(60代、福岡県)

     

    直接お話をうかがうことができたお客様から、

    「味も匂いもいやだったけど、冷めた時の表面に張る膜が本当にいやだった」

    という具体的なご意見もいただきました。

    このようにすこぶる評判が悪い「脱脂粉乳」は、

    終戦後、子どもたちに必要なたんぱく源として、GHQの公衆衛生福祉局長サムスが導入を強く主張し、

    日本の官僚も積極的に給食に取り入れたものです。

    しかし、子どもたちにとっては随分悩ましい存在であったようです。

     

    ここまで、人気・不人気のメニューを見てきましたが、他にこんな変わったメニューを挙げてくれた方がいます。

    「もなかに納豆が入っている『なっぴー』なるものが出たことがあります。つめたかったのでアイスかと思ったら納豆で、びっくりしたのを覚えています」(40代、佐賀県)

     

    「なっぴー」というかわいらしい名前の割に、かなり攻めた食べ物のようです。

    北海道の食べ物らしい、ということで、早速インターネットで検索してみました。

    すると「Now Pea」(ナゥピー)という北海道の食品がヒットしました。

    学校給食で提供されていたものが、現在では店頭でも販売されているそうです。

    (昔はナッピーという名称だったそうです)

    果たして、もなかの皮に冷凍納豆が入っているおやつ?でした。

    このコメントをくださった方は、味について書かれてていなかったものの、

    確かに「アイスもなか」と思ってかぶりついて、中身が納豆だったら、

    その衝撃はいかほどか、想像にかたくありません。

    ただ納豆好きとしては、ちょっと試してみたい一品です。

     

    このほか、北海道出身の方が好きな献立として挙げてくださった「味噌ラーメン」、

    長崎県出身の方の「ちゃんぽん」、熊本県出身の方の「太平燕」などから、

    その地域の郷土料理が給食に取り入れられていることがわかりました。

    地域や学校によって、さまざまに異なる給食のメニュー。本当に興味深いです。

     

    また、調理士をされていたお母さまの思い出や、

    離島の小学校の給食事情について書いてくださった方もいて、

    非常に読み応えのあるバラエティに富んだコーナーになっています。

    展示室の中も楽しいですが、ご来場の際には、

    ぜひこの小学校の思い出コーナーもご覧になってください。

    そしてあなたの思い出を残して帰ってください!

     

     

     

     

     

    2019年8月9日

    公文書の綴じ方

    去る8月3日(土)に当館の公開講座、「親子和綴じ講座」を開催しました。

    講師として倉本優子先生をお招きし、26名の親子の方たちが頑張って和綴じのメモ帳を作成されました。

    普段は、なかなかお子さまに来ていただけない公文書館ですが、

    今夏は、企画展「学校給食ヒストリー」や今回の「親子和綴じ講座」などの開催により、

    館内に子供たちの元気な声がひびき、楽しそうな笑顔を見ることができ、

    スタッフ一同大いにいやされております。

     

    さて。

    今回は「和綴じ」から話を始めましたので、公文書の綴じ方について書いてみたいと思います。

    みなさんは、公文書というと、どのような姿を想像されるでしょうか?

    福岡共同公文書館は、明治から平成までの、福岡県および県内58の市町村の公文書を保存しているので、いろんな時代の、いろんな自治体の公文書を一覧することができます。

    そうやって見てみると、「公文書」と一口に言っても、本当に様々な姿をしていることに改めて気づかされます。作成された時代や、作成・使用・保存されていた場所(自治体)によって、その姿は異なるのです。

     

    たとえば、明治時代のある村の公文書。

    明治9年の上山田村(現・嘉麻市)の地租取調帳(村控)です。

    地租改正に伴って作成された文書で、地租の区分(地目)、等級、地租金一覧などが記載されています。

    この文書は、表紙に表題を直書きした(打付書)、四つ目綴じの装丁となっており、

    こうしてきちんと製本されているところを見ると、地租に関する重要な文書として

    長く保存されることを予定して作成されたことが想像されます。

    このような体裁は、いまだ近世の気配が色濃く残る明治初期という時代性を強く感じさせるものです。

     

    これは、明治24年に作成された赤村の「村会議件及雑書留」という公文書です。

    村会の開設告知や議決報告などを綴ったものです。

    共表紙にこより綴じという体裁は、近世の文書でもよく見かけますが、

    明治期の公文書でも多く見られるものです。

    先の地租取調帳と異なるのは、地租取調帳が完結文書として製本されているのに対し、

    こちらは、こよりによる仮綴じの体裁であるということです。

    こうした年ごとの議会文書(仮綴じ)を数年分まとめて製本している例をよく見かけます。

     

     

    こちらは、時代が少しくだって、明治終りごろの福岡県の公文書です。

    表題が打付書きされ四つ目綴じの、和本の体裁ですが、

    先の明治9年のものとは異なり、背の部分を表紙と同じ用紙でくるんであります。

    包背装の一種と考えられるこの体裁では、小口の部分に何も記されない代わりに、

    背の部分に表題が記載されており、和本は平置きが基本ですが、

    こちらは縦置きに保管されていたのではないか、と想像されます。

    文書の保管の仕方も徐々に近代化されていく様子が、こうしたささいな変化からうかがえるのです。

     

    こちらは昭和初期ごろ、横山村(現・八女市)役場が作成した道路台帳です。

    表紙は厚紙で、上下二ヶ所をこよりで綴じています。

     

    こちらは津屋崎町(現・福津市)の町条例という公文書です。

    昭和3年に作成され、昭和26年まで使用されていたものです。

    黒表紙に、上下二ヶ所の紐綴じで、背は表紙とは別の紙が付されています。

    (この背表紙は後補のようです)

    長期間使用するために、中身を加除しやすい様式になっており、

    縦置きで整理しやすいよう、表紙は厚手で、背にもしっかりした用紙を用いています。

     

    昭和も終わりごろになると、紐綴じに代わって、

    金属などの留め具がついたファイルが登場してきます。

    こちらは昭和57年の福岡県公文書です。

    レバーファイルが用いられています。

    レバーファイルは、穴をあけずに文書を綴じておくことができ便利ですが、

    留め具をはずすと文書が散乱してしまう恐れがあるので注意が必要です。

    また、大量の文書を綴じるのには向きません。

     

     

    こちらは、平成4年の福間町(現・福津市)の公文書です。

    パイプ式ファイルが用いられています。

    穴をあけて綴じるタイプのファイルで、大量の文書にも対応可能です。

    仕切りやインデックスを使って、文書を整理することができます。

    しかし、容量に合っていないファイルを用いると、

    無駄に場所をとってしまうという難点があります。

     

     

    こちらは平成21年の岡垣町の公文書です。フォルダで整理されています。

    フォルダは、1枚の厚紙を2つに折った紙挟みです。

    フォルダのタブにタイトルを書いて、文書を挟んで立てて並べて使います。

    検索性、利便性の良いファイリング方法で、文書の見直しがしやすい、

    廃棄しやすいといった特長があります。

    フォルダは、ボックスファイルで保存したり、引き出し式の什器に並べて保存したりします。

     

     

    以上、見てきたように、公文書の綴じ方は年々変化してきました。

    それは、道具の進化ということだけでなく、

    書棚、机などの什器を含む執務室内の環境の変化からの要求によるものと考えられます。

    執務室の環境は、自治体それぞれで異なりますし、

    文書管理の方針もまた自治体ごとに差異があることから、

    公文書も年代ごと自治体ごとに様々な姿をしているのだと思います。

     

    内容ばかりに目が行きがちですが、公文書を外側から見てみるのも、案外楽しいものです。

     

    2019年7月25日

    講演会を開催します

    企画展「学校給食ヒストリー」の関連イベントとして、講演会を開催いたします。

     

    講師は、日本経済大学の竹川克幸先生。

    竹川先生は、福岡県内の食文化や、筑前地方の鶏肉・鶏卵の食文化史研究の第一人者で、

    テレビやラジオでのコメントされることもあり、今回も楽しいお話を聞かせてくださると思います。

    (今朝のNHKアサイチ(福岡の鶏料理特集)でも、パネルでご出演されていましたよ!!)

    タイトルは、

    「記録・文献史料にみる福岡県の食文化誌

    ~福岡の鶏肉・鶏卵の食文化を中心に~」

     

    です。

     

     

    食文化といえば、

    わたしの祖母の家は長崎県の「東彼杵(ひがしそのぎ)」という町にありまして、

    この町は古くから鯨肉の流通拠点として栄えた町です。

    くじらはスーパーで普通に販売されていて、お正月やお盆などで親戚が集まると、

    鉢盛には、赤身やおばいけ、百尋(ひゃくひろ)など、さまざまな部位が並び、皆で舌鼓をうったものです。

    普段も、肉じゃがのお肉のかわりにくじらを入れたり、湯かけくじらなどは、よく食卓に並びました。

    子どものころは、全国の家庭で普通にくじらを食べていると思っていたので、

    そうではない、と知った時は結構ショックでした。

     

    地域の歴史が独自の食文化を生み、郷土料理として定着していくわけですが、

    その流れを逆にたどることはとても興味深いと思います。

     

    福岡県も、各地域で独自の食文化が残っています。

    自分たちが当たり前だと思って食べている料理のルーツはなんなのか、

    地域の歴史との関わりを知ることで、その料理に対する見方が変わるかもしれません。

    今回の講演会は、そうしたことを考えるきっかけになると思います。

     

    「記録・文献史料にみる福岡県の食文化誌

    ~福岡の鶏肉・鶏卵の食文化を中心に~」

    とき:7月27日(土)午後2時~4時(受付 午後1時30分~)

    ところ:福岡共同公文書館 2階研修室

    定員:80名(事前申し込み・先着順)

    申込先・お問い合わせ:福岡共同公文書館(092-919-6166)

    ぜひ、ふるってご参加ください。

    2019年7月24日

    夏の企画展はじめました

     「冷やし中華はじめました」風タイトルですけれども。

     

    令和元年度第1回企画展として、「学校給食ヒストリー」

    7月23日(火)から始まりました。

     

    今回は、学校給食の歴史がテーマです。

    また、給食の舞台であった小学校の歴史もあわせて見ていただける展示になっています。

    当館の、気は優しいけど見た目がイカツイ公文書さんたちを盛り上げるために、

     福岡県学校給食会さま

     筑紫野市歴史博物館さま

     久留米市教育委員会さま

    から、強力な助っ人(資料)に来ていただいております。

    文書とモノ資料とレプリカ、色とりどり、形さまざま、内容もおもしろく、

    目にも楽しい展示になっていると思います。

    公文書、写真、モノ資料で、草創期の小学校の歴史をご紹介しています

    こちらは、昭和20年代の資料。夏休みの宿題の定番「夏休みの友」です。昭和23年から、すでに小学生のお友達だったんですね

    各年代の給食の献立のレプリカを展示したコーナーもあります。おいしそう…

    福岡県の県産品を使った給食の食品の数々

     

    おじいちゃんが子供のころって、小学校あったと?

    お母さんの好きやった給食ってなに?

     

    子どもたちからそんな質問を受けてしまったおじいさま、そしてお母さま。

    どうぞ「学校給食ヒストリー」へお越しください。

    展示を見て、お話に花が咲くと思います。

     

    エントランスでも、パネル展示のほか、

    石盤・石筆体験コーナーやアルマイト食器にさわれるコーナー、

    小学校の思い出を書いて壁に展示してみるコーナーなど、

    色々なコーナーを準備しておりますので、

    夏休み中のお子さまをさそって、帰省中のお友達をさそって、

    ぜひぜひ遊びにきてください!

     

    エントランスでも、給食の歴史年表パネルや、福岡県内の郷土料理のパネルなどを展示しています

    なつかしのアルマイト食器にさわってみるコーナー。なにやら使い方をまちがっているひとがいますが‥

    小学校の思い出を記入するコーナー。小学校の机に向かって、当時の思い出をカードに書いて、壁面に貼りつけてください。壁のカードは、今後このブログのなかでもご紹介していく予定です

     

    しょこらも書いてます

     

    おまちしています!

    2019年5月8日

    令和元年

    改元から1週間過ぎました。

    公文書館も、連休が終わり、いよいよ新元号のもと始動しました。

     

    当館の閲覧室の中央に並べている、福岡県内60市町村の広報紙も

    新しい元号を載せた最新号がやってきました。

    「令和元年5月号」と号数表記の部分に掲載している市町村もあれば、

    左から「広報おおむた」「広報ちくじょう」「広報おおとう」「広報そえだ」「市報かすが」

    左から「広報あさくら」「八女 広報YAME」「広報かすや」

     

    表紙のテーマや巻頭ページに新元号を掲載している市町村もあり、

    上段左「広報たちあらい」同右「広報豊前」、下段左「広報くらて」同右「広報だざいふ」

     

    はたまた元号なしの西暦のみを表記している市町村もあり、

    それぞれに個性があって面白いです。

     

    今回は、昭和から平成への改元と異なり、1か月前に新元号の発表があったので、

    広報紙への掲載もスムーズにいったのではないでしょうか?

     

    ちなみに、平成改元の時は、

    昭和64年1月7日に昭和天皇が崩御され、皇太子殿下が天皇に即位されました。

    同日、臨時閣議において新元号が「平成」と決定し、

    官房長官から記者発表がありました。あの有名なシーンです。

    そして翌1月8日に改元され、平成が始まったのです。

     

    当時の広報紙(1989年1月号)を見てみると、

    1月8日以前に発行された広報紙の発行年は「昭和64年」、

    それ以降に発行された広報紙の発行年は「平成元年」と表記されています。

    (1989年1月号の「広報かすや」(左)と「広報みわ」(右))

     

     

     

     

     

     

     

    (1月1日発行の「広報かすや」の発行年は「昭和64年」(上)、

    1月10日発行の「広報みわ」の発行年は「平成元年」(下)と表記されている)

     

    当時の県内の広報紙すべてに目を通したわけではありませんが、

    今回確認した広報紙では、「昭和」から「平成」への改元をはっきりと示しているのは、

    発行年の元号部分のみで、改元にまつわる写真や特別な記事は見当たりませんでした。

    昭和天皇の崩御ということもあり、社会全体が自粛ムードだったことにもよると思いますが、

    突然「昭和」が終わり、いきなり「平成」になった、という感じでした。

    今回は、静かに「平成」を見送り、にぎやかに「令和」を迎えた、というところでしょうか。

     

    新緑の美しい季節を迎えました。

    令和元年、公文書館も新たな気持ちで頑張っていきます!

     

    ※今回ご紹介した広報紙はすべて当館閲覧室、展示室にて見ることができます。

     ぜひ、ご来館ください。

     

    2019年4月3日

    平成最後の桜…?

    ごぶさたしております。

    年の初めには張りきっていたのに、その後公文書館ブログ休眠しておりました。

     

    先日、新元号の発表がありましたね。

    「令和」れいわ

    出典となった万葉集の詞書の梅花の宴は大宰府の大伴旅人の邸で行われたそうで、

    そう思うと、福岡県民としては親近感が湧いてくるような・・。・・。

    何はともあれ、新元号も決まり、ふわふわとしていた気持ちが落ち着いたような気がします。

     

    「平成」も残り1ヶ月。

    前回の改元の時は、「昭和」の終わりと「平成」の始まりの間には1日しかなかったのですが、

    今回はゆっくりと「平成」を惜しむことができます。

    最近では、何かにつけて「平成最後の」という枕詞がつくのですが、

    九州・四国・本州では「平成最後の桜」も、

    北海道で咲くころには「令和最初の桜」となるかもしれませんね。

    福岡は桜満開です!

    しょこらも昼休みにこっそりお花見

     

    公文書館では、常設展を再開しました!

    今回は、特集「さようなら平成」展もやっています。

    ぜひ見に来てください。

    2019年1月25日

    寒い朝

    こちら、九州は福岡県筑紫野市。

    日中暖かい日が続いています。

    暖冬ですね。

    例年なら、この時期は、朝出勤しようと思うと、車のフロントガラスが凍りついていて、

    「遅刻する~」と自分も凍りつく…ということが、頻繁にあるのですが、

    今冬はフロントガラスガッチガチ体験、それほど味わわずにすんでいます。

    それでも、筑紫野市は内陸部に位置し、朝はぐんと冷え込みます。

    今朝も、公文書館の植込みに霜が降りていました。

    今日はお天気なので、昼間はまた暖かくなりそうです。

     

    2月5日から、冬の企画展が始まります!

    お楽しみに!

    イベント好きなしょこらは、ちょっとうかれてます‥。

    2019年1月5日

    2019年 ブログ初め。

    あけましておめでとうございます。

    残すところ、平成もあと4ヶ月となりました。

    本年もよろしくお願いいたします。

     

     

     

     

    2018年12月28日

    県から文書がやってきました!

    県公文書(長期分)が搬入されてきました。

    当館では毎年、保存期間が満了した県及び市町村公文書のうち、

    歴史資料として重要なもの、いわゆる「歴史公文書」を収集し、永久保存しています。

     

    県公文書については、「有期分(保存期間1年・3年・5年・10年・20年)」と

    長期分(保存期間永年長期、30年)」の2回に分けて引渡しを受けています。

     

    今回(12月6日)は、長期分の県公文書の搬入がありました。

    102箱、800冊以上の文書です。

    年末には、その倍以上の量の有期分の搬入を予定しています。

    当館では、長期保存に耐えられる処理(傷んだ文書の製本補修や虫害防止のための燻蒸)を行い、

    整理保存します。

     

    2018年12月7日

    主基斎田記念館のゆくえ 4

    続きです。

     

    「主基斎田記念館のゆくえ 2」にも書きましたが、

    開館当時の〈主基斎田記念館〉には、

    主基斎田事業で使用された農機具や道具、衣裳などが陳列されていました。

    そのころの記念館内部の様子は、「主基斎田記念館開館記念絵はがき」によって、

    わずかながら知ることができます。

    記念館全景(開館記念絵はがきより)

    陳列室その1(開館記念絵はがきより)

    陳列室その2(開館記念絵はがきより)

     

    絵はがきの写真があまり鮮明ではないのですが、

    衣裳を着たマネキンや、斎田地の模型、様々な標本らしきものが並んでいることがわかります。

    陳列品の詳細については、

    昭和6年に福岡県が発行した『昭和主基斎田記録』に、

    昭和5年6月1日現在の「主基斎田記念館陳列品目録」が掲載されているので、

    それで確認することができます。

    この目録から、いくつか挙げてみますと、

    ・戸畑石油発動機(4馬力)

    ・半田式渦巻ポンプ

    ・ミノル親玉号脱穀機

    ・ナショナル精米機(昇降器共)

    ・荷車

    ・深見犂(すき)

    ・塩水選桶

    ・耕牛装身具 1揃

    ・麻製磨袋

    ・捕虫網

    ・唐櫃(からびつ)

    ・八乙女舞服装(付属品共)

    ・絵はがき(抜穂式記念品)

    ・主基斎田収納米製菓子(昭代)

    ・主基斎田稲株標本

    ・大礼使事務官衣冠束帯 1揃

    ・太田主作業服(冠付)

    ・奉耕者式服・作業服

    などなど、

    主基斎田事業に関するあらゆる資料が収蔵・陳列されていたことがわかります。

    しかし現在、主基斎田事業に関するモノ資料として残っているのは、

    斎田地である早良郡脇山村(現・福岡市早良区脇山)に残された米や箸などの記念品や衣裳、

    当館が所蔵する写真帳や、そのほかフィルムなど、ごくわずかです。

    記念館に収蔵されていた品々は、どうなったのでしょうか?

     

    『福岡県立農業試験場百年史』(昭和54年3月発行)によれば、

    「第2次世界大戦の結果、陳列品のごとくは遺憾ながら逸散し、辛じて建物のおもかげを残すのみである」

    と記され、記念館の建物は残ったものの、

    中の陳列品は、戦後の混乱のなかで散逸してしまったとのことです。

     

    平成27年度に当館が開催した企画展「昭和の主基斎田~福岡県の記録から~」の事前調査で、

    筑紫野市在住のある男性からお話をうかがう機会がありました。

    この方は、戦中から戦後にかけて、上古賀の農事試験場で働いておられた経験をお持ちです。

    その方の話では、

    ・〈主基斎田記念館〉はとても立派な建物だったが、中では展示などはされていなかった。

    ・戦時中、記念館は物資倉庫として利用されており、軍から航空用燃料などを預かっていて、

    見張りも立っていた。

    ・戦後すぐは、記念館にはいろんな人が出入りしていたので、収蔵品もその時に持ち出されたのではないか。

    ということでした。

     

    昭和17年3月ごろに二日市に移築された〈主基斎田記念館〉は、

    戦時中ということもあり、資料の陳列などは行わず、

    戦後の混乱に乗じて収蔵物を散逸してしまった、ということで間違いはなさそうです。

     

    中身を失った〈主基斎田記念館〉は、その後も35年あまり二日市は上古賀の地に建っていましたが、

    昭和56年の農業試験場の再移転の際に取り壊されてしまいました。

     

     

    長くなりましたが、最後です。

    企画展「昭和の主基斎田~福岡県の記録から~」を企画した当初、

    まさか当館と主基斎田とが記念館を通して結びつくなど、まったく想像もしていませんでした。

    しかし、準備段階から、いろいろな人や場所との出会いに恵まれ、

    「ご縁」を感じる場面がたくさんありました。

    今から考えると、当館の場所にかつて建っていた〈主基斎田記念館〉の、

    「展示をして、昭和の主基斎田のことをみんなに伝えてくれ~」という声なき声に導かれて、

    展示を〈させられた〉のではないか、

    と、季節外れのオカルトチックな妄想がわいてくるのです…。

    2018年12月6日

    主基斎田記念館のゆくえ 3

    続きです。

     

    福岡市住吉から筑紫郡二日市町の福岡県立農事試験場に移築された〈主基斎田記念館〉。

    いったい、試験場内のどこに建っていたのでしょうか?

    農業試験場本場配置図(『福岡県立農業試験場百年史』(昭和54年3月刊)より)

     

    上記図面は、二日市時代の農業試験場(農事試験場)の配置図です。

    赤丸で示した部分の建物が「記念館」と説明されています。

    〈主基斎田記念館〉のことです。

    「記念館」から、真下に伸びた直線の先に、黒点二つで示されているのが、試験場の正門です。

    つまり、試験場正門の真正面の位置に建っていたことになります。

    二日市時代の主基斎田記念館(『福岡県立農業試験場百年史』より)

     

    二日市時代の〈主基斎田記念館〉を撮影した写真では、

    手前に写る正門との位置関係がよくわかります。

     

    さて、試験場内の〈主基斎田記念館〉の位置を確認したところで、

    本題です。

    〈主基斎田記念館〉が建っていた場所は、現在のどの辺に当たるのでしょうか?

    現在の筑紫野市上古賀付近。青い四角が公文書館(googleマップより)

     

    は、「主基斎田記念館のゆくえ2」にも載せた現在の筑紫野市上古賀付近の航空写真。

    試験場の跡地に当たる部分です。

    中央を縦に走っている直線が、県道137号線。

    青い四角で囲んでいる部分が、福岡共同公文書館です。

    そしては、農業試験場の平面図(部分)。

    航空写真に合わせて回転させ、注釈をつけています。

    ちなみに赤で縁取りしているのが〈主基斎田記念館〉です。

     

    道路の位置や、溝の形状などに注意しながら、現在の航空写真に平面図を重ねてみます。

    おわかりいただけますでしょうか。

    なんと〈主基斎田記念館〉は、隣のグランドにまがたるかたちで、

    福岡共同公文書館の真裏に建っていたのです。

    それとなく、当館と主基斎田記念館との浅からぬ因縁をこじつけたところで、

    最後の疑問。

    〈主基斎田記念館〉に収蔵されていた、資料の数々はどうなってしまったのか、です。

    またまた続きます。

    2018年12月5日

    主基斎田記念館のゆくえ 2

    続きです。

     

    昭和3年2月に福岡県が大嘗祭の主基地方に決定してから、

    実際に米作りを行う〈斎田〉の選定、栽培する米の選定、農作業を行う奉耕者の選定、

    そして実際の米作り作業、各神事の準備・実施、最後の京都大宮御所への奉納に至るまで、

    延べ9か月間にわたる斎田事業が行われました。

     

    すべての斎田事業が終了した後、「大嘗祭主基斎田奉仕を永遠に記念し、農業の振興を図る」目的で、

    〈主基斎田記念館〉の建設が県会で可決され、

    福岡市住吉にあった福岡県立農事試験場

    (※昭和24年に福岡県立農業試験場と改称。現・農林業総合試験場)内に、

    建坪202坪、純日本式社殿建造りの立派な記念館が完成しました。

    記念館建設にあたっては、大嘗祭で使用された建物の一部を下賜され、

    京都御所から移築して使用しました。

    記念館内部には、斎田事業で使用された農機具、道具、衣裳などが展示されました。

    落成記念の絵はがきからは、真新しい記念館の外観や、陳列品の充実ぶりなどが見て取れます。

    「主基斎田記念館落成記念絵はがき」より、記念館全景

     

    「主基斎田記念館落成記念絵はがき」より、陳列室内部の様子

     

     

    昭和14年になると、農事試験場は福岡市住吉から、筑紫郡二日市町(現・筑紫野市)に移転します。

    それにつれて、主基斎田記念館も昭和17年3月、同地に移築されました。

     

    福岡県立農事試験場が移転したのは、現在の筑紫野市上古賀です。

    昭和14年の移転から約40年間上古賀の地にあった試験場ですが、

    昭和56年に筑紫野市吉木へ再度移転しました。

    福岡共同公文書館は、この試験場跡地に建っています。

    福岡共同公文書館のみならず、南は筑紫野市文化会館から北は筑紫野警察署、

    道路をはさんでJT九州工場が建つこの一帯には、かつて広い広い農事試験場が広がっていたのです。

    昭和23年撮影の筑紫野市上古賀付近の航空写真(国土地理院HPより)

    昭和23年の航空写真で、オレンジ色の線で囲んでいる部分が、農事試験場です。

    写真中央を縦に走る白い直線は県道137号線で、

    この道路をはさんで、右側に圃場が広がり、左側に建物が並んでいます。

     

    そして、この試験場跡地の現在の姿がこちら↓。ずいぶん変わりました。

    現在の筑紫野市上古賀付近。青い四角が公文書館(googleマップより)

     

    さて、上古賀時代、試験場内のどこに、主基斎田記念館は建っていたのでしょうか?

    またまた、次に続きます。

     

     

    2018年12月4日

    主基斎田記念館のゆくえ 1

    12月ですね。

    いつもの年なら、何かと気ぜわしくなる時期ですが、

    今年は暖かいせいか、「師走」に入っても、なんとなく気持ちがのんびりしてしまいます。

    さて。

    もう、2週間ほどたちますが、

    11月23日は「勤労感謝の日」の祝日でした。

    3連休だったという方も、多かったのではないでしょうか?

     

    「勤労感謝の日」が制定されたのは、昭和23年のことです。

    それまで11月23日は、「新嘗祭(にいなめさい、しんじょうさい)」の休日でした。

    「新嘗祭」は天皇がその年の収穫に感謝する宮中祭祀であり、

    各地の神社でも神事が行われています。

    その新嘗祭のなかでも、

    新天皇が、即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を「大嘗祭(だいじょうさい)」といいます。

    天皇が即位後ただ一度だけ行う儀式なので、明治以降はまだ4度しか行われていません。

    今上天皇が即位された1990年に行われた大嘗祭が、直近のものになります。

     

    「大嘗祭」の儀式で使用する新穀を、栽培・収穫し、奉納する役割を担うのが、

    「悠紀(ゆき)地方」と「主基(すき)地方」です。

    この二つの地方(近代以降は都道府県単位)は、亀卜(きぼく)つまり亀の甲羅を用いた占いで選ばれます。

    来年5月1日に、新天皇が即位されますが、その後この亀卜を行う「斎田点定の儀」が行われ、11月に大嘗祭が行われる予定だそうです。

     

    さて、今から90年前の昭和3年。

    昭和天皇の即位の礼と大嘗祭が行われました。

    この時、亀卜によって福岡県が「主基地方」に選ばれました。

    そこで福岡県では、斎田の選定から、米作りなどの主基斎田事業に奔走することになります。

    福岡共同公文書館では、平成28年2月~3月に企画展「昭和の主基斎田~福岡県の記録から~」を開催し、福岡県での主基斎田事業をご紹介しました。

    この展示については、

    当館ホームページ>「展示・講座案内」>「過去のイベント情報」

    に詳細を掲載しておりますので、そちらをご覧ください。

     

    もともとこの展示は、当館にこの主基斎田に関する公文書や写真などの資料が多数移管されており、これらの資料をご紹介する目的で、企画しました。

    しかし、展示準備のためにいろいろ調べていくうちに、

    「やや、これはなにかしら、運命というものに導かれて、この企画が降りてきたのではないか・・・」

    と、思うようなことがわかったのでした。

    それは、なにか?

    次回に続きます。

    2018年11月7日

    11月のバースデー

    10月1日に、那珂川町が市制施行して那珂川市となりましたが、

    福岡県には、11月にお誕生日を迎える市が、二市あります。

    (この場合のお誕生日は、市制施行、つまり「市となった日」を指しています)

     

    市制施行の年代順にご紹介しますと、

    まず、田川市。

    昭和18年(1943)11月3日 伊田町と後藤寺町が合併して、市制施行し、

    田川市となりました。

    両町の合併は、以前から議論されていたところでしたが、

    大きく合併・市制施行へと動き出したのは、

    昭和17年9月に起こった

    田川区裁判所の廃止問題がきっかけでした。

    もともと取扱い件数が多い同裁判所が廃止となったのは、

    この地区が市制施行していないことが原因となっていることがわかったのです。

    両町は、合併そして市制施行についての協議へと進んでいくことになります。

        

        (左)伊田町が作成した市制施行に関する公文書 (右)後藤寺町が作成した市制施行に関する公文書

     伊田町、後藤寺町とも、それぞれ慎重に調査検討を行った上で、両町協議に入っていった。

     二つの公文書を読み比べると、合併に対する両町それぞれの思惑が垣間見えて、とても興味深い。

     

    昭和18年5月に正式な合併協議を始め、

    わずか5ヶ月後には内務大臣から市制施行の正式な認可を得ることができました。(以上「田川市史」参照)

       

    (左)「大田川市建設に関する後藤寺・伊田両町会議員懇談会」議事録(『両町合併市制施行ニ関スル経過事蹟(後藤寺町)』より)

    (右)「市制施行の儀に付上申」(『市制施行調査書綴』(田川市)より)後藤寺、伊田両町長から内務大臣に提出した上申書の写し

     

    「町を廃し田川市設置の件」(『合併市制施行上申書』(田川市)より)

    福岡県知事から内務大臣に提出した稟請書の控え。

    市制施行の日を「明治節」(明治天皇の誕生日、現在の文化の日)に合わせて、11月3日と決めたことがわかる。

     

    そして11月3日、田川市が誕生したのです。

    田川市は、今年75回目のお誕生日を迎えました。

     

    *************************************

     

    次に、中間市。

    昭和33年(1958)11月1日 中間町が市制施行して中間市となりました。

    戦後、行政事務処理の効率化と住民福祉の向上をはかるために、

    市町村の規模を見直そうということになりました。

    町村合併促進法や新市町村建設促進法が公布・施行され、

    町村合併や市制施行が進みました。

    いわゆる昭和の大合併です。

    福岡県でも、町村合併促進審議会条例を制定して合併を進めました。

    昭和29年までに、柳川市、山田市、甘木市、八女市、筑後市、大川市、行橋市

    が市となりました。

    中間町を含む遠賀郡では、昭和25年に、遠賀郡6町村が合併して遠賀市を

    誕生させる計画が浮上しましたが、実現にはいたりませんでした。

    さらに、地方自治法が定める市制施行の基準が「人口5万以上」であり、

    中間町の人口はこれに達していないために、単独での市制施行は難しい状況でした。

    しかし昭和33年4月、地方自治法の一部を改正する法律が公布され、

    昭和33年9月30日までに申請を行った自治体は、

    人口3万以上をもって市になることができることになりました。

    これを受けて、中間町議会は市制調査特別委員会を設置し、

    市制施行に関する調査検討を行い、9月17日の町議会で、市制施行が可決されました。

    まさに、タイムリミット寸前の決定でした。(以上「中間市史」参照)

     

    (左)『市制施行事績 中間市』(福岡県公文書) 

    (右)中間町が福岡県に提出した「市制申請書」の表紙(上記『市制施行事績』より)

     

    ↑ 市制申請書の日付は昭和33年9月17日(上記『市制施行事績』より)

     

    ↑ 市名を「中間市」とすること、市制施行日を「11月1日」とすることが記載されている。(上記『市制施行事績』より)

     

    そして中間市は、今年、60回目のお誕生日を迎えました。

     

    人に歴史あり、と言いますが、

    市町村にも歴史あり、です。

    自分の住んでいる市町村のお誕生日、調べてみませんか?

     

     

     

    2018年10月10日

    那珂川市誕生!

     

    皆さまご存じの通り、10月1日に那珂川町が市制施行し、

    那珂川市が誕生しました。

     

    これで福岡県内の市町村の内訳は、29の市と29の町と2の村となりました。

    と同時に、筑紫郡が無くなりました。

     

    筑紫郡は、明治29年(1896)の郡制施行時に、御笠郡、那珂郡、席田郡の区域をもって発足しました。

    発足当初は、2町20村が属していました。

    大正15年(1926)に郡役所が廃止され、郡は単なる地域区分の名称となりました。

    昭和47年(1972)に筑紫郡に属していた5町のうち、筑紫野町、春日町、大野町が市制施行し、

    昭和58年(1983)に太宰府町が市制施行して、筑紫郡に属する町は那珂川町だけになっていました。

    そして今回、那珂川町が市制施行したため、筑紫郡に属する町が無くなり、筑紫郡が消滅した、

    というわけです。単なる地域区分なので、無くなるからどうということもないのですが、

    市の誕生の陰でそっと姿を消す、というのがちょっぴり切なくもあります。

     

    当館でも、那珂川市の誕生に合わせて、掲示物や見出しの変更をしました。

    エントランスのパネルや…

     

    閲覧室の棚の表示も…
    「那珂川町」から「那珂川市」へ変更しました。

     

    そして、当館にやって来た那珂川市作成の資料第1号は、「広報なかがわ」でした。

     

    「広報なかがわ」10月号の裏には「発行・那珂川市」の表記が!

     

     

    「広報なかがわ」を含む、県内自治体の広報紙は、当館閲覧室に置いています!

     

     

     

    2018年10月4日

    10月になりました

    早いもので10月です。

    暑さがようやく一段落した、とほっとしていたら

    ここ数日の朝晩の冷え込みで、あっという間に風邪を引いてしまいました・・・。

    まったく油断できない季節の変わり目です。

     

    ここ数日といえば、

    ノーベル生理学・医学賞の受賞が決まった、本庶佑先生の会見を見て、

    心洗われる思いがしています。

    研究には、好奇心とあきらめない気持ちが大切とのこと。

    どちらも、年を重ねるうちに、失いがちですが、

    研究のみならず、日頃のお仕事にも生活にも大切なことだと改めて思いました。

    よし!

    好奇心を満タンにして、ブログのネタを探そうっと。

     

    さて。

    当館の夏の企画展は、無事に終了いたしました。

    ご観覧くださった皆さま、ありがとうございました。

    ご協力いただいた皆さま、ありがとうございました。

    展示替え風景。展示資料を片付けて、がらんとした展示ケース。嗚呼、祭りの後の寂しさよ!

     

    企画展開催期間中、ケース内に展示していた特大錦絵は、

    しばらくエントランスに掲示しておりますので、

    「見逃した」という方、「もっと近くで見たかった」という方、ぜひ御覧ください。

    展示室では、9月29日(土)から常設展を行っております。

    こちらもぜひどうぞ!

    久しぶりの常設展です。

     

    なお次の企画展は、来年2月からを予定しております。

    そのうち、詳しい情報をお届けしたいと思います。

     

     

    みなさん、くれぐれも、風邪には気をつけてくださいね!

     

    2018年9月19日

    明治初期の人相書―企画展展示資料より―

    企画展も残り日数がわずかとなってきました。

    大変だった準備作業の日々を、

    「あの頃はワクワクして楽しかったよな~」と懐かしく思い出す今日この頃です・・。

     

    さて、今回の企画展、錦絵もさることながら、福岡県立図書館からお借りした、

    「福岡県史稿」という資料が、これまたすごくおもしろいものでした。

    佐賀の乱や秋月の乱、西南戦争に関する電報綴り、事件に関する県と関係地域の戸長とのやり取り、

    事件の捜査の探偵書、取調書などなど、読めば読むほど興味がつきません。

    ただ、展示する上で、「文書」はなかなか悩ましい存在です。

    中身を読んでもらわないと意味も面白さもわからない。

    でも、古い文書は、くずし字で書かれていたり、文語体で書かれていたりして、

    なかなか読みづらい。

    すっきりと、わかりやすく、それでいて「文書」の持つ面白さを十分に伝える・・・

    これは、公文書館における展示の大きな課題ではありますが、

    せっかくブログなぞやっていますので、この場を借りまして、

    展示中の文書資料をご紹介してみよう、と思います。

     

    今回展示している県立図書館所蔵「福岡県史稿」のなかで、比較的読みやすく、

    内容がわかりやすいのが、逃亡者捜索のための「人相書」です。

    現代でも、指名手配犯のモンタージュ写真や似顔絵が、交番や公共の建物などに掲示されているのを

    目にします。時代劇でも、高札に下手人の似顔絵を掲示している場面を見かけますが、江戸時代以来、

    人相書といえば、姿かたちの特徴を箇条書きで示すのが一般的でした。

     

    ご紹介するのは、西南戦争のさなか、明治10年3月に発生した「福岡の変」の首謀者の一人、

    武部(建部)小四郎の人相書です。

     

    西南戦争が始まると、福岡でも西郷軍に呼応して挙兵をもくろむ、越智彦四郎、武部小四郎ら

    士族たちの動きが活発化し、ついに明治10年3月末、決起して福岡城を襲撃します(「福岡の変」)

    が、あえなく失敗に終わります。越智彦四郎らの敗走を知った、別動隊の武部小四郎は、

    逃走して身を隠します。この武部小四郎捜索・捕縛のために、福岡県は人相書を作成しました。

    「福岡県史稿 福岡県暴動ニ付達書留他」の建部(武部)小四郎の人相書

     

    人相書

    士族 建部小四郎

    三十四、五歳位

    一、丈  高く痩たる方  (身長:高く痩せている)

    一、顔  長き方     (顔:面長)

    一、色  白き方     (色:色白)

    一、髪  斬切      (頭髪:ザンギリ頭)

    一、眼  大なる方    (眼:大きい)

    一、眉  常体      (眉:普通)

    一、鼻  高き方     (鼻:高い)

    一、唇  常体      (唇:普通)

    一、歯  掽       (歯:掽※並んでいるほどの意か)

    一、音声 穏なる方    (声:穏やか)

    一、宗旨

     

    当時の人相書はだいたいこんな感じですが、逃亡時の服装や持ち物の特徴などを

    記したものもあります。

    それにしても。

    むむ。

    年の頃は三十四、五。痩せて背が高く、色白、面長、鼻が高く、短髪で、穏やかな声…。

    正直、こんな人、どこにでもいそう…。

     

    しかし、福岡上土居町に潜伏中だった武部小四郎は一ヶ月後に捕縛され、斬罪に処せられます。

    現代と比較して地域コミュニティの力が強かった時代ですし、

    意外と今よりは身を隠しにくかったのかもしれません。

     

    この人相書が綴られている、「福岡県史稿 福岡県暴動ニ付達書留他」には、

    他にも「福岡の変」に関する興味深い資料が多く、丁寧に読んでいくと、

    当時福岡を騒がせた事件の詳細が浮かび上がってきます。

    「福岡県史稿 諸方電報綴」では、当時この事件に関して、中央政府や近県知事たちと通信した

    電報が残っており、そのスピード感に満ちたやり取りからは、ニュースを見ているような臨場感を

    味わうこともできます。

    また、福岡県公文書「辞令原簿」には、この福岡の変の鎮圧に参加した巡査たちの

    負傷の様子が記載され、通史では「決起したものの失敗に終わった」と

    簡単に描かれる福岡の変の断片が、被害者を通して垣間見えますし、

    また地元紙「筑紫新聞」も多くの紙面をさいて、「福岡の変」について報じています。

    人相書も含め、事件と同時代のこうした文書資料を丹念に読み解くことで、

    通史では数行で片付けられる事件の骨組みに肉付けをすることができます。

    文書資料は、一見とっつきにくいけれど、

    仲良くなれば、いろんなことを教えてくれる、魅力的なツンデレさんなのです。

     

    あ。

    人相書は、秋月の乱に関しても展示していますので、展示が終了する前に見に来てくださいね!

     

    2018年9月4日

    企画展も後半戦!

    「暑い、暑い」と言っているうちに8月が過ぎ去り、

    いつの間にか、9月がやってきていました。

    しかし、まだ暑い。。。

     

    さて。

    7月18日(水)から開催している、企画展「西南戦争―かけめぐる情報―」も、

    折返し地点を過ぎました。

    酷暑であったにも関わらず、7月8月と、来館されるお客様の数も順調でした。

    足を運んでくださった皆様、ありがとうございました。

    8月21日(火)からは、展示資料の一部を入れ替えまして、装いも新たに、

    絶賛開催中!

    でございます。

     

    今回の展示替えでは、19点の錦絵資料を入れ替えています。

    限られた開催期間中、なるべく多くの錦絵を見ていただきたい、ということで、

    大幅に入れ替えております。

    入れ替え資料の一部
    「〔極征〕勝陣揚」(梅堂国政画、明治10年3月24日届)

     

    先日来館されたお客様から、

    「くずし字が読めたらもっと面白いのになあ…」というご意見を聞き、

    錦絵中の詞書(ことばがき)を活字化したパネルや、

    作品解説のパネルを増やしております。

    (スペースの関係で、すべての資料に対応することができませんでしたが・・)

     

    今後とも、展示や展示資料に関して、ご意見やご質問がありましたら、

    どんどん当館へお寄せください。

    お客様の声を参考にして、今後とも楽しい展示を企画していきたい、と思っています。

     

    「西南戦争―かけめぐる情報―」も、残り3週間です。

    久留米と北九州からやってきた、錦絵の数々。

    県立図書館からやってきた、電報資料の数々。

    貴重な原資料をこのように一覧できる機会は滅多にありません。

    この機会を逃さず、ぜひぜひ福岡共同公文書館へ足をお運びください!

    しょこらも待ってます

     

    2018年8月7日

    福岡共同公文書館のおしごと(文書班編)

     

    以前、「福岡共同公文書館のおしごと」で概要をお話ししましたが、

    今回は文書班のお仕事を少し詳しく紹介します。

     

    文書班は

    公文書の移管(自治体から公文書館に移す)

    公文書の選別(公文書館で保存するかどうかを判断する)

    公文書の整理・保存に関すること

    を担当しています。

    今回は公文書が移管されるまでをお話しします。

     

    県や各市町村で作成された文書にはそれぞれに

    1年・3年・5年・10年・30年といった保存年限が設けられています。

    そして保存年限を過ぎると、文書を廃棄するか重要な文書として

    保存するかという判断をする必要があります。

     

    まずは、

    各自治体がリスト作成(今年度であれば主に平成28年度・平成25年度・平成23年度・

    平成18年度・昭和61年度に作成された文書が対象となります)

    次に、

    リストを基に県や各市町村が廃棄するか、保存する文書として公文書館に移管するかを決定します。

    (これを1次選別をいいます)

     

    1次選別は基本的には県や各市町村で行うのですが、時には公文書館が

    「目録選別」や「現地選別」という形でお手伝いします。

    「目録選別」とは、県や各市町村が作成したリストを見て

    公文書館の職員が廃棄か保存かの判断をします。

    ある市からこのようなリストが送られてきました

     

    この市の今年度保存年限満了するリストです(この分厚さ!)

     

    「現地選別」とは、公文書館の職員が市町村の役場に行き直接文書を見て

    廃棄か保存かの判断をします。

    廃棄か保存かの判断は行政の推移・内容・仕組み等が明らかとなるものや、

    住民生活、社会情勢を反映した重要な文書を保存するという観点から定めた

    選別基準を基に行います。

     

    このような1次選別の後に保存の必要ありと判断された文書が

    公文書館へと移管されます。

    (文書搬入の様子は2018年5月30日に紹介しました)

     

    2018年8月3日

    企画展開催中!

    毎日、暑いですね~。少し外に出ただけで、溶けそうです。

    こんな時は、ぜひ公文書館へお越しください!

    冷房が効いていますし、休憩コーナーもございます。

    そして何より。

    現在、企画展を開催中でございます!

     

    今年度第一回企画展は、「西南戦争―かけめぐる情報―」です。

     

    今年2018年は、明治維新から数えて150年です。明治10年に起こった西南戦争からは、ちょうど140年の節目。

    大河ドラマでも「西郷どん」が放送されていますね。

     

    西南戦争中、電報によってほぼリアルタイムで情報が伝達され、

    新聞や錦絵によって戦況が全国に報道されたことをご存知でしょうか?

    幕府が倒れ、日本の近代化が始まってから、わずか10年後の話です。

     

    今回の展示のテーマは、西南戦争をめぐる「通信」「報道」です。

    電報がいかに戦況を伝え、新聞と錦絵がいかに戦況を報道したか、ということを、当時の資料を用いてご紹介しています。

    展示風景。錦絵の拡大パネルでは、細部までしっかりと見ていただけます。

     

    何と言っても、見どころの一つは、豊富な錦絵資料です。

    今回は、北九州市立大学の生住先生、久留米大学の大庭先生のご協力を賜り、

    両大学および先生個人が所蔵されている貴重な錦絵を多数展示しております。

    なかには、明治7年頃から14年頃にかけてのきわめて短期間しか発行されなかった、珍しい錦絵新聞や、

    判じ絵になっていて絵解きするとさらに面白い風刺画などもあり、

    どれもこれもじっくりと見ていただきたいものばかりです。

    西南戦争もの錦絵ということで、明治10年に発行されたものが多いのですが、

    つい最近刷られたか、と見紛うほど色鮮やかで美しい状態です。ぜひ、来館して実際の資料をご覧ください。

     

    展示資料「西郷隆盛戦死ノ図」(大判三枚続錦絵、細木年一画、明治10年10月6日届、個人蔵)
    ※記事「賊魁(ぞくくわゐ)城山の岩崎谷に於て 官軍の重囲(ぢうい)に陥落(おちいり) 進退窮迫(きうはく)する処 許多(あまた)の官兵進み来り 終に西郷隆盛を生捕(いけどり)にせんと 組打に相なる処 別府新介駈(かけ)来り 隆盛の首(くび)を打落し 城山岩崎(いわさき)の土中に埋(うめ)し由 絵入新聞に見ゑたり」 
    ★この資料の展示は8/19まで

     

    また、もう一つの見どころが電報です。福岡県立図書館所蔵の資料を多数展示しております。

    明治10年当時、実際に福岡県と各府県や政府との間でやりとりされた電報の記録は、

    臨場感にあふれ、読めば読むほど興味が尽きません。

    電報資料はカタカナ表記なので、くずし字が苦手だわ、という方にも、容易に読んでいただけると思います。

     ▲明治10年3月7日午後9時25分に久留米支庁から福岡本庁へ送信された、田原坂の戦況を伝える電報資料。

     「サクジツ タハラサカ ノリトリタル ヲモムキ ゴホウチセシトコロ ゴゴハチジマデ ゲキセン ダイバ ニカシヨ セメトリタレドモ ノコリイツカシヨノダイバヲ ゾクカタクマモリ・・・」(「福岡県史稿 諸方電報綴 第3号」(福岡県立図書館蔵))

     

    また、エントランスでは、西日本新聞社から借用した福岡の新聞の歴史についてのパネルや、

    電報でたどる西南戦争として、電報資料をわかりやすくパネル化した展示も行っておりますので、

    こちらもあわせてご覧ください。

    多種多様な錦絵の数々

     

    エントランスに展示した西日本新聞社作成のパネル。福岡の新聞黎明期から現在の西日本新聞にいたるまでの流れがよくわかります。

     

    「電報でたどる西南戦争」コーナー。福岡県立図書館所蔵の電報資料のなかから、西南戦争の主要な戦況部分を抜き出しています。電報の簡潔な文章から、時々刻々と動いていく西南戦争の様子がよくわかります。

     

    8月20日(*休館日)に資料の入れ替えを行います。

    8月19日()までしか見られない錦絵もありますので、ぜひお早めにお越しください!

     

    2018年8月2日

    専門員さんインタビュー!!!

    今年の5月、当館文書班に新しいメンバーが仲間入りしました。

    平均年齢高めの当館において、貴重な20代。

    爽やかな笑顔が印象的なK君ですが、そろそろ公文書館にも馴れたかな?

    公文書館勤務4ヶ月目を迎えるK君に、突撃インタビューをします!

     

    ――まずは、K君のことについて教えてください。

    九州大学大学院博士後期課程で、日本近代史を専攻する学生です。

    主に大正期における理工系の人材(技術者など)育成についての研究をしています。

     

    ――現役の大学院生なんですね。公文書館の職員募集に応募したきっかけは?

    これまで、歴史資料館などで資料整理などの業務を経験してきました。

    そこで培った技能を活かせる職場だと考えて、応募しました。

     

    ――資料整理には馴れているK君です。公文書館、公文書館業務の第一印象は?

    公文書館については、パンフレットや年報などで、ある程度のイメージは持っていたつもりです。

    でも、実際に現場に入ってみると、若干、戸惑いを感じました。

    これまで僕が研究者として資料を見てきた視点と、行政経験者が公文書を見る視点とには、

    少し隔たりがあるような気がしたからです。

     

    ――公文書と歴史資料との違いを感じたんですね。3ヶ月勤務してみて、業務に対する印象は変わりましたか?

    まずは、公文書の形式に馴れてきました(笑)。

    そして、実際に行政の現場におじゃまする機会があり、公文書が作成される現場や、

    作成に携わる行政職員の話を聞いて、改めて公文書を見ると、

    書かれている内容についての興味が湧き、面白さを感じました。

     

    ――文書班専門員のお仕事のなかで、いちばん難しいことはなんですか?

    選別です。選別基準に従って、公文書館で永久保存する文書を決めていくのですが、

    行政経験者に聞かないと、判断に困ることがまだまだあります。

    ただ、公文書を一冊一冊精査して、選別基準に当てはめ、保存か否かを判断していく、

    という作業を繰り返すことは、資料の重要な部分を見出す能力を鍛えることにつながります。

    これが、自分の研究にも良い効果をもたらしてくれています。

     

    ――K君は一番の若手になりますが、他の専門員さんたちは優しくしてくれますか(笑)?

    はい。色々(笑)教えてもらっています。

     

    ――最後に、これからの意気込みをお願いします!

    僕ら専門員は、お客様に接することはほとんどありません。

    ですが、お客様の利用に供するため、バックヤードで、日々多くの文書と向き合っています。

    作業のなかで興味深い公文書に出会うことも多々あります。

    皆さまもぜひ、公文書館へ足を運んでいただきたいと思います!

     

    K君、ありがとうございました。これから、若い力で公文書館を引っ張っていってほしいと思います。

     

    公文書を精査し、選別シートを作成しています

    2018年5月31日

    梅雨入り

    新緑の季節は足早に去り、九州北部地方は先日梅雨入りしました。

    平年より8日、梅雨入りの遅かった昨年より23日も早い梅雨入りです。

    5月に梅雨入りするのは、5年ぶりだそうです。

     

    昨年7月、梅雨明け間近の福岡県に大きな災害が起こりました。

    九州北部豪雨です。この災害は、朝倉市、東峰村を中心として、

    各地に大きな爪痕を残しました。

    もうすぐ一年が経とうとしていますが、

    現在も復旧に向けて頑張っている方々がいらっしゃいます。

     

    福岡共同公文書館が開館した平成24年にも、筑後地域を中心とした豪雨災害がありました。

    被災地域では記録誌を作成して、この災害の記録を残しました。

    「災害は忘れたころにやってくる」といいますが、だとすれば、

    あの日あの時の記録を残して、いつまでも忘れないようにしておくことは、

    大切なことではないでしょうか。

     

    梅雨に突入したいま、平成24年豪雨災害記録誌、

    平成29年の災害を記録した広報紙を読み返し、

    防災への意識を新たにしたいと思います。

    平成24年7月に発生した豪雨災害の経緯、被害についての記録誌。
    左から、
    「平成24年7月うきは市の災害記録 九州北部豪雨Document」(H26.3、うきは市)、
    「平成24年7月九州北部豪雨災害記録誌」(H26.3、うきは市)、
    「平成24年九州北部豪雨による7.14災害の記録」(H25.3、柳川市)、
    「7.14笠原 写真記録集」(H25.7 夢かさはら自治運営協議会) 
    *いずれも、当館閲覧室にてご覧いただけます。

    2018年5月30日

    飯塚市から文書がやってきました!

     こちらの写真は、飯塚市からの文書搬入の様子です。

     全部で27個の段ボールです。文書の数は181冊です。

    さて、中身をのぞいてみましょう・・・

    段ボールの中には、貴重な文書が・・・

     

    古い公文書があるようです。

    昭和8年に作成された市会協議録の文書があります。(市会とは、現在の市議会のことです。)

    紙も少し変色しています。

    飯塚市は毎年、廃棄年度になった公文書の中から歴史公文書と思われるものを公文書館に搬入されています。

     

    当館では、これを二次選別し、歴史公文書として保存しています。

     

     

    2018年5月15日

    閲覧室へおいでませ

    福岡共同公文書館は、いかつい外観のせいなのか、

    謙虚な看板のせいなのか、

    お客さまがわんさか押し寄せる、という日は滅多にありません。

     

    そのために、内部は、常に静かで落ち着いた、オトナの空間となっております。

     

    本日は、そんな当館の閲覧室をご紹介します。

     

    正面玄関を入ってまっすぐ進んでいただくと、透明ガラスの奥に、

    何やら書棚の並んだお部屋が見ていただけると思います。

    閲覧室です。

    ↑閲覧室。明るくて気持ちの良い空間です。

     

    カウンターを挟んで、職員が仕事をする事務室と同じ空間にあります。

    時々、自動ドア越しに、閲覧室をのぞき込むお客さまと目が合ったりすると、

    恥ずかしそうに目をそらして帰って行かれることがあります。

    その背中に「ご自由に入れますよ~!」とお声がけしたくなるのですが、

    今後は、さりげなく、なにげなく、お客さまの入りやすい雰囲気づくりに

    つとめていかなければなりません。

    ↑資料検索用端末

     

    さて。

    閲覧室は、どなたでもご利用できます。

    明るくて、静かで、きれいです。

    置いているのは、福岡県および県内の市町村が作成した刊行物です。

    いわゆる「行政資料」です。

     

    ↑うちの行政資料たち。 …。…ば、映(ば)えない。
    でも行政活動の大切な記録なんです。

     

    ↑全国の公文書館の紀要なども集めています。勉強になります!

     

    ↑自治体史コーナー(一部)。鋭意収集中!

     

    身近な行政資料は、「広報紙」、「自治体史」、「年報」などがあります。

    当館の特徴(=共同公文書館)として、県内すべての自治体の資料が集まっていますので、

    それぞれを比較検討することが可能です。

    広報紙は、そうした特徴をよく表しています。

    ↑広報紙コーナー。裏側にも並べています。全61紙完備。

     

    そもそも、よそのまちの広報紙を手にとり、じっくり見る機会などあまり無いと思います。

    当館では県内の広報紙がいっぺんに見られます。

    昨年の夏の企画展でもとりあげましたが、

    広報紙は一紙一紙が個性的で、表紙だけ並べて見ても、本当に面白いです。

    おしゃれなタウン誌的なものから、質実剛健的なものまで、実にさまざまです。

    また、紙面のつくりも、自治体ごとのカラーがあって、読みごたえがあります。

    ・・・あ。今週、あのまちで面白そうなイベントがあるぞ!

    ・・・へえ、このまちにはこんな歴史があるのかあ。

    有名タウン誌より、ディープで細かい情報が満載なのが広報紙です。

    そのまちのことを知るには、まず広報紙から。

     

    ぜひ、見に来てください!待っとるけんね!

    ↑受付カウンターです。利用に関する申請、ご相談をお受けしています。
    資料を見つけるお手伝いもいたします。お気軽におたずねください!(^^)!

    2018年4月25日

    福岡共同公文書館のおしごと

    福岡共同公文書館では、二つの班が分担して仕事をしています。

     

    公文書の移管・選別・整理・保存に関することを担当する、文書班

    公文書の審査・閲覧、展示、視察見学、講座・講演会の運営などを担当する、総務企画班

     

    当館へやってきた公文書は、まず文書班が受け取ります。

    内容の確認をおこない、それをリストにしたうえで、選別会議にかけます。

    選別会議は、当館で永久保存とする公文書かどうかを決める会議です。

    選別会議で、「保存」と決まった文書については、保存に向けての作業に移ります。

    検索システムに書誌情報を入力し、検索ができるようにします。

    公文書には、1冊1冊に、ID番号・バーコードが印字されたラベルを貼り、

    燻蒸を行います。

    燻蒸が終わった公文書は、中性紙の保存箱に入れ、保存庫に入れます。

    ここまでが文書班のおしごとです。

     

    文書班による手続きが終わった公文書は、誰もが検索システムでその情報を見ることができます。

    また、実際に閲覧・利用したい、という申請も可能となります。

    お客様からの「この公文書が見たい」という利用申請は、総務企画班が受けます。

    申請が出された公文書1冊1冊につき、再度内容を確認し、当館の利用審査基準にしたがって、

    全てをみていただく(全部利用)か、

    個人情報などがあるためにマスキング(黒塗り)して見ていただく(一部利用)か、

    という審査会議を行います。

    もし、文書の広範囲にわたってマスキング部分がある場合には、

    全ページを複写して、マスキング作業を行う必要があります。

    ここまで準備ができると、実際にお客様にきてみていただけるようになります。

     

    その他、公文書館のことや業務について、または所蔵している公文書について、

    より多くの人に知っていただきたいということで、

    年に2回の企画展講演会講座なども開催しております。

     

    ここでは、ざっくりと概要をお話ししましたが、公文書館のおしごとについては、

    今後も時々お伝えしていくので、楽しみにしてくださいね。

    2018年4月14日

    福岡共同公文書館のひとびと

    福岡共同公文書館の職員は、現在14名です。

    館長以下6名の正職員と、8名の非常勤嘱託職員がはたらいています。

    福岡共同公文書館は、

     

    福岡県の公文書館

    福岡県の市町村公文書館

     

    という二つの顔をもっています。

    要するに、福岡県と市町村が一緒に運営している公文書館ということです。

    この共同方式は全国の公文書館のなかでも、今のところ当館だけです。

     

    そんなわけで、当館では、福岡県職員と市町村職員が一緒に働いています。

    一方、非常勤嘱託は、行政職OBから現役大学院生まで、年齢・経歴ともに、

    バラエティに富んでいます。

    公文書の選別、目録の作成、配架、利用、普及活動・・・。

    お仕事の詳細は、また別の機会にゆずるとしまして。

    とにかくみんな、公文書のことばっかり考えています(多分)。

     

    3月4月は、出会いと別れの季節。

    当館でも、先日、職員の入れ替わりがありました。

    毎日顔を合わせていた人たちとお別れするのは寂しいけれど、

    新たに赴任してきた人たちが、公文書館にフレッシュな空気をもたらしてくれています。

    新しいメンバーで、開館6年目の今年度もがんばっていきます。

    公文書館の植え込み。草のまにまにいろんな花が咲いていました。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    2018年4月13日

    ブログはじめました

    福岡共同公文書館のことをたくさんの方に知っていただきたくて、

    ブログを開設しました。

     

    公文書館ってどんなところなの?

    どこにあるの?

    なにがあるの?

    どんなことしてるの?

     

    そんな疑問にお答えしながら、福岡共同公文書館の日々をお伝えしていきます。

    もし、これを読んで公文書館にちょっとでも興味をもっていただけたら、

    どうぞ 現地へお越しください。

     

    「え、勝手に入っていいんですか?」

    「ちょっと入りにくいんですけど」

     

    と、よく言われます。

    安心してください、入れますよ!

    ・・・・・。

    もちろん、入館は無料です。

     

    職員一同、笑顔でお待ちしております!                よく見ると意外にかわいい。(公文書館外観)

     

     

     

    福岡共同公文書館
    所在地 〒818-0041 福岡県筑紫野市上古賀1-3-1 アクセスマップはこちら 電話 092-919-6166 FAX 092-919-6168 E-Mail kobunsyokan@pref.fukuoka.lg.jp
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