2022年1月13日(木)から2月1日(火)までの間、当館の出張展示を、柳川市(やながわし)の柳川市民文化会館ロビーで行っていました。そこで、今回お世話になった柳川市の紹介を「公文書でめぐる ふるさと福岡」でしたいと思います。
柳川市は、福岡県南部、筑後平野の西南端に位置しています。東西11km、南北12kmとなっており、北は大川(おおかわ)市、大木(おおき)町、筑後(ちくご)市、東はみやま市に接し、南は有明海(ありあけかい)に面しています。
県庁所在地の福岡(ふくおか)市まで約50km、久留米(くるめ)市まで約20km、大牟田(おおむた)市まで約15kmの距離にあり、西鉄天神大牟田線などを利用した通勤・通学圏となっています。
総面積は77.15平方kmで、地目別に見ると宅地が18.0%、農地が50.7%、その他の地目が31.3%となっています。
また、市の大部分は、古くから開拓・干拓された大小規模の干拓地が魚鱗状に広がる海面干拓地帯です。標高は0~約6mの平坦な低地となっており、0°から3°の緩やかな傾斜で有明海に向かって広がっています。
柳川地方に人が住み始めたのは、およそ2千年前と推定されています。そのころから人々は、有明海の湿地の溝を掘り、その土を盛り上げて開拓し、灌漑と排水を担うクリーク網を形成していきました。市内外に残る条里の遺構や地名はその営みの古さを物語っており、この縦横に走るクリークは柳川地方の景観の特徴です。1601(慶長6)年から田中吉政が、1620(元和6)年から立花宗茂がこの地を治め、治水・干拓事業により2000町に及ぶ干拓地の造成など、今日に伝えられている地域の社会的、物的環境の基礎が整えられました。
1871(明治4)年の廃藩置県により旧柳川藩は柳河県となり、1889(明治22)年の明治の大合併で、現在の柳川市域は山門(やまと)郡内に1町12村、三潴(みずま)郡内に3村が誕生しました。1907(明治40)年に3村が合併して大和(やまと)村に、4村が合併して三橋(みつはし)村が誕生しました。また、昭和になると1937(昭和12)年には2村が合併して昭代(しょうだい)村が誕生します。そして、昭和の大合併で1951(昭和26)年4月に1町5村が合併して柳川町となり、翌年4月に市制を施行しました。また、同年6月には三橋村が、9月には大和村が町制を施行しました。さらに1955(昭和30)年1月に、柳川市が三潴郡の昭代村、蒲池(かまち)村を編入合併しています。平成17年3月21日に柳川市、大和町、三橋町の1市2町が合併し、現在に至っています。
柳川百選
柳川市は「水郷柳川」としても知られ、市内には網目のように掘割が張り巡らされ柳川ならではの風土を作り上げています。船頭さんの歌を聞きながら、ゆったりと流れる時間をたのしむ川下りはもちろん、掘割沿いを歩くだけでも四季を通して非日常を感じることが出来るところです。そんな、柳川市は2006(平成18)年に市内の「大切にしたいもの」「誇れるもの」100点を選んだ「柳川百選」を完成しました。
2006(平成18)年の8~9月に募集し、449人から述べ628点の応募があり、その中から学識経験者などで構成する選考委員会で選定しました。
有明沿岸サミット
「有明沿岸サミット」とは福岡県の大牟田市・高田(たかた)町(現在みやま市)・大和町(現在柳川市)・柳川市・大川市と熊本県の玉名(たまな)市・岱明(たいめい)町(現在玉名市)・長洲(ながす)町・荒尾(あらお)市の有明海を囲む市・町で運営協議会を構成しています。「県境を越え、協調と連帯」を基本理念に1987(昭和62)年から毎年1回開催されています。この「有明沿岸サミット」は当館の文書で第15回(2002(平成14)年)の開催までは確認できましたが、それ以降の開催が確認できませんでした。開催等の確認ができる文書をお持ちの自治体の方、共同公文書館への移管をお待ちしております。
柳川市からは891冊の公文書が移管されています(2021年12月末現在)。また、行政資料も所蔵しています。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!