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今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は、嘉麻市(かまし)です。
◆嘉麻市の地理
嘉麻市は、面積135.11平方キロメートル、福岡県のほぼ中央に位置し、北は飯塚市(いいづかし)に、東は田川市(たがわし)、川崎町(かわさきまち)、添田町(そえだまち)に、西は桂川町(けいせんまち)に、南は朝倉市(あさくらし)、東峰村(とうほうむら)にそれぞれ接しています。
市の南部は古処(こしょ)・屏(へい)・馬見(うまみ)連峰、南東部は戸谷ヶ岳(とやがたけ)、熊ヶ畑山(くまがはたやま)などの山林で、そこを源とする遠賀川(おんががわ)をはじめとする河川が南から北に流れ、市の北部及び北西部に流域平野を形成しています。
また、市全体の約72%が森林と耕作地で、多様な生態系を保護する山林や河川流域に広がる生産緑地などの、水と緑が豊富な地域です。
◆嘉麻市の誕生
平成18(2006)年3月27日、嘉穂南部の1市3町、山田市(やまだし)・碓井町(うすいまち)・稲築町(いなつきまち)・嘉穂町(かほまち)が合併して、嘉麻市(かまし)が誕生しました。合併前の各市・町の歴史については、市・町誌(史)に詳しく記載されています。
『山田市誌』昭和60年度 嘉麻市(旧山田市)行政資料(2-4-0015179)
『碓井町誌』昭和57年度 嘉麻市(旧碓井町)行政資料(2-4-0015181)
『稲築町史 上・下巻』平成15年度 嘉麻市(旧稲築町)行政資料(2-4-0015183、2-4-0015184)
『嘉穂町誌』昭和58年度 嘉麻市(旧嘉穂町)行政資料(2-4-0015182)
◆合併以前の市町村公文書
公文書館には合併前の市町村の公文書も保存されています。当館が所蔵する最も古い嘉麻市の公文書は、『明治9年 地租取調帳 村控』(上山田村)となっています。また、『戦災者名簿』、『引揚者台帳』など、戦争に関連する資料も残されています。
『明治9年 地租取調帳 村控』明治9年度 嘉麻市(旧上山田村)公文書(1-2-0003898)
『昭和21年起 戦災者名簿 山田町』昭和21年度 嘉麻市(旧山田町)公文書(1-2-0003880)
『昭和30年度 引揚者台帳』昭和30年度 嘉麻市(旧大隈町)公文書(1-2-0003807)
◆石炭産業の記録
嘉麻市の石炭産業の歴史は古く、旧市町史(誌)等に詳細に記録されており、当時の写真も多く残されています。また、石炭産業と切り離せない鉄道に関する記録も残されています。
『きらり!やまだ”ありがとう山田市”人と、自然とITと。山田市閉市記念誌』平成17年度 嘉麻市(旧碓井町)公文書(1-2-0038391)
『碓井町誌』昭和57年度 嘉麻市(旧碓井町)行政資料(2-4-0015181)
『稲築町史 下巻』平成15年度 嘉麻市(旧稲築町)行政資料(2-4-0015184)
『昭和27年 國鉄油須原線陳情書綴 市長室企画係』昭和27~33年度 嘉麻市(旧山田市)公文書(1-2-0003868)
◆平成の合併の記録
平成16(2004)年11月5日、嘉穂南部1市3町による「嘉穂南部1市3町合併協議会」が設置され、平成17年1月には、新市建設計画が作成されました。
新市名は公募され、1市3町が属していた郡名でもあった「嘉麻」と決定されました。令和2(2020)年3月には新庁舎が開庁しました。
『嘉穂南部1市3町 合併協議会だより 山田市・稲築町・碓井町・嘉穂町 創刊号』平成16年度 嘉麻市(旧碓井町)公文書(1-2-0038389)
『嘉穂南部1市3町 新市建設計画』平成17年度 嘉麻市(旧碓井町)公文書(1-2-0038388)
『山田市・稲築町・碓井町・嘉穂町 合併のあゆみ -新「嘉麻市」誕生までの記録-』平成18年度 嘉麻市(碓井町)公文書(1-2-0038396)
『広報嘉麻 2020年度』令和2年度 嘉麻市行政資料(2-4-0014031)
◆義務教育学校の新設
令和5(2023)年4月、嘉麻市に3つの義務教育学校が開校しました。子どもたちは新しい学び舎で学校生活をスタートさせました。
『広報嘉麻 2023年度』令和5年度 嘉麻市行政資料(2-4-0021395)
◆カマデジ
嘉麻市のホームページを開くと、「カマデジ」という文字が目を引きます。「カマデジ」こと「嘉麻市デジタル推進計画」は、「デジタル・人・自然が融合するまち、嘉麻」をビジョンとして、令和6(2024)年2月に策定されました。
広報紙の表紙を飾るのは嘉麻市のマスコットキャラクター、ゆるキャラ係長の「かまししちゃん」です。
『広報嘉麻 2024年度』令和6年度 嘉麻市行政資料(2-4-0024308)
◆嘉穂アルプス
馬見山(うまみやま)(978m)・江川岳(えがわだけ)(861m)・屏山(へいざん)(927m)・古処山(こしょさん)(860m)からなる通称「嘉穂アルプス」は、平成28(2016)年度には九州で2例目となる日本山岳遺産に認定されました。嘉穂アルプスは、見所も豊富で、特別天然記念物にも指定されているツゲの原始林の他にオオキツネノカミソリ、ニシキキンカメムシなどの貴重な生態系が保全されている自然豊かな山域です。
嘉麻市の土地の約6割を占める森林。森林を守り、森林を活かすために、様々な取り組みが行われています。
『福岡県嘉麻市市勢要覧 2019』平成30年度 嘉麻市行政資料(2-4-0012005)
『広報嘉麻 2024年度』令和6年度 嘉麻市行政資料(2-4-0024308)
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今回は粕屋町(かすやまち)の紹介です。
◆粕屋町の位置◆
◆粕屋町の地理◆
粕屋町は福岡県の北西部に位置しており、西側が福岡市(ふくおかし)、北側が久山町(ひさやままち)、東側が篠栗町(ささぐりまち)と須恵町(すえまち)、そして南側が志免町(しめまち)、というように1市4町に隣接しています。
粕屋町の面積は、14.13平方キロメートルで、町内には駕与丁池(かよいちょういけ)をはじめとする大小のため池が点在し、多々良川(たたらがわ)と須恵川(すえがわ)が町内を東西に流れています。
◆ワンポイント粕屋町◆
①一般国道201号、福岡都市高速道路4号線、九州自動車道が通り、JRの篠栗線(福北ゆたか線)と香椎線(かしいせん)が長者原駅(ちょうじゃばるえき)を交点に十文字に交差して走っています。また福岡空港にも近いなど、交通の利便性の高い町です。
『第5次粕屋町総合計画』平成27年度 粕屋町行政資料(2-4-0005518)
➁住民人口が着実に増え続けており、市制施行条件の5万人に達するのも間近と言われています。
③福岡県のホームページで紹介されていますが、県内で最も高齢化率の「低い」自治体です。(https://www.pref.fukuoka.lg.jp/contents/koreisyajinko20240401.html)
④かねてから、京都の妙心寺(みょうしんじ)に伝来する国宝の梵鐘に、古代7世紀末ごろの糟屋政庁の長官・舂米連廣國(つきしねのむらじひろくに)という名前が刻まれていることが知られていました。2013(平成25)年から発掘が開始された阿恵官衙遺跡(あえかんがいせき)が、まさにその時代の政庁跡であることが明らかになり、古代の役所の位置とその長官の氏名が判明するという、全国的にも極めて珍しい事例となりました。
『粕屋評衙 阿恵遺跡』平成27年度 粕屋町行政資料(2-4-0005633) ※「郡(こおり)」という行政区画が用いられる以前の、「評(こおり)」という表記が使われていた時代の遺跡です。
◆粕屋町の歴史◆
(1)「優美なる歴史を閉じ」て合併
明治以降、粕屋町は以下のような2度の合併を経て現在の姿になりました。
1889(明治22)年 近隣の村々が合併し、大川村(おおかわむら)と仲原村(なかばるむら)が誕生
1957(昭和32)年 大川村と仲原村が合併して粕屋町が誕生
『市町村の配置分合』昭和30年度 福岡県公文書(1-1-0024670)
ただ合併協定書を見る限り「優美なる歴史を閉じ」「時代の趨勢と国策に従い」などの表現があり、自発的な合併というより国や県からの勧奨に従った、ある種の諦めムードが漂っているようにも感じられるのは深読みでしょうか。
『市町村の配置分合』昭和30年度 福岡県公文書(1-1-0024670) ※ 協定書の部分です。
(2)粕屋町の広報誌
粕屋町が発行している広報誌は、粕屋町誕生の1957(昭和32)年から1973(昭和48)年12月までが『粕屋町だより』というタイトルで、それ以降1974(昭和49)年1月から現在までは『広報かすや』となっています。
タイトルが変わっても号数は継承しており、途中若干の欠号はあるものの、第1号から今月(令和6年9月)の第765号まで、そのほとんどが当館に保存されています。
『粕屋町だより其の一 第一号(昭和三二年八月) 第二六号(昭和三八年一月)』昭和37年度 第1号 粕屋町公文書(1-2-0007546) ※ 傷みが激しいですが貴重な1枚です。公務員以外の一般個人の氏名等が記載された部分はマスキング(非表示処理)しています。
『広報かすや 昭和46年5月1日発行~昭和53年12月1日発行』昭和49年1月1日 第157号 粕屋町公文書(1-2-0007548) ※ タイトル変更のご挨拶が掲載されています。公務員以外の一般個人の氏名等が記載された部分はマスキング(非表示処理)しています。
(3)粕屋町の町制施行記念誌
粕屋町では5~10年ごとに合併・町制施行の記念誌を発行しています。実際に並べてみると、それぞれのキャッチフレーズがその時々の「町づくり」の方向性を表し、しかもそれが単なる場当たり的な美辞麗句ではなく、次の10年、次の次の10年へと着実につながる自治行政の一貫性を示していることが分かります。
①10周年
『合併10周年記念 町勢要覧』昭和41年度 粕屋町公文書(1-2-0007559)
➁15周年:のびゆく粕屋町
『のびゆく粕屋町 合併15周年記念誌』昭和46年度 粕屋町公文書(1-2-0007560)
③20周年:輝く光と田園の町かすや
『輝く光と田園の町かすや 町制施行20周年記念誌』昭和51年度 粕屋町公文書(1-2-0007561)
④30周年:語らいとふれあいのある町かすや
『語らいとふれあいのある町かすや 町制施行30周年記念誌』昭和61年度 粕屋町公文書(1-2-0007565) ※
⑤35周年:会いたい人・・歩きたい風景・・大切な想い・・心のふるさと、粕屋町
『KASUYA 町制施行35周年記念誌』平成4年度 粕屋町公文書(1-2-0007566)
⑥40周年:明日咲く、まち
『明日咲く、まち 町制施行40周年記念粕屋町町勢要覧』平成9年度 粕屋町公文書(1-2-0007567)
⑦50周年:未来へつなぐまち
『未来へつなぐまち 粕屋町制施行50周年記念誌』平成19年度 粕屋町公文書(1-2-0007568)
⑧60周年:ともに未来へ
『広報かすや 2016年度』平成28年度 10月号 粕屋町公文書(2-4-0002189)
(4)よみがえった「優美」遺伝子
1985(昭和60)年、粕屋町は町花を制定しますが、そこで選ばれたのは優美・華麗なバラと清楚・可憐なコスモスの2種でした。かつて2村の「優美なる歴史を閉じ」て誕生した粕屋町ですが、30年近くを経てその優美なる遺伝子は不死鳥のようによみがえったようです。
それにちなんで粕屋町は全国29自治体(2024年5月現在)で構成される「ばらサミット(ばら制定都市会議)」に加盟し、2005(平成17)年には第14回サミットを主催しました。またこれを機に駕与丁公園(かよいちょうこうえん)内にバラ園を整備し、毎年5月に「バラまつり」を開催しています。コロナ禍で中止となった時期もありましたが、今年2024(令和6)年には第20回を数え、その優美なる歴史を刻み続けています。
『第14回 ばら制定都市会議(ばらサミット)』平成17年度 粕屋町行政資料(2-2-0000475)
① ➁
①『広報かすや綴 2004(H16).4月号~2009(H21).3月号』平成17年度 5月号 粕屋町公文書(1-2-0007557)
➁『広報かすや 2024年度』令和6年度 5月号 粕屋町行政資料(2-4-0024318)
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は、遠賀町(おんがちょう)です。
◆遠賀町の地理
遠賀町は、一級河川遠賀川(おんががわ)の河口近くの西岸に位置し、東西に4キロメートル、南北に6キロメートルの水と緑に囲まれた自然豊かな町です。北は芦屋町(あしやまち)、東は遠賀川を境に水巻町(みずまきまち)、南東は中間市(なかまし)、南は鞍手町(くらてまち)、南西は宗像市(むなかたし)、西は岡垣町(おかがきまち)に接しています。
◆町制施行60周年
遠賀町は、令和6(2024)年4月1日に町制施行60周年を迎えました。
『広報おんが 令和6年4月号』令和6年度 遠賀町行政資料(2-4-0024322)
◆遠賀町の誕生
昭和4(1929)年4月1日、浅木村(あさぎむら)と島門村(しまとむら)が合併し遠賀村(おんがむら)が誕生しました。
『議事録(昭和3年~昭和4年)』昭和4年度 遠賀町公文書(1-2-0005519)
『市町村の廃置分合』昭和4年度 福岡県公文書(1-1-0024538)
その後、昭和10年代の石炭景気によって、遠賀村の人口は合併時の2倍近くまで増えて、昭和39(1964)年4月1日に町制を施行、遠賀村(おんがむら)から遠賀町(おんがちょう)になりました。
『議決書』昭和39年度 遠賀町公文書(1-2-0005332)
◆町章の選定
遠賀町の町章は、遠賀町の頭文字である「オ」をデザイン化したもので、昭和47(1972)年に公募によって選ばれました。
『町章制定事蹟』昭和47年度 遠賀町公文書(1-2-0005374)
◆昭和28年 遠賀大水害
昭和28(1953)年6月、九州北部を中心に梅雨前線を原因とする集中豪雨による水害が発生しました。当時の遠賀村でも記録的な豪雨により大きな被害が出ました。紙芝居を作り子どもたちにわかりやすく伝えるなど、令和の今も遠賀大水害は語り継がれています。
『昭和28年.6月大水害に関する事蹟』昭和28年度 遠賀町公文書(1-2-0005382)
『広報おんが 令和2年8月10日号 語り継ぐ遠賀大水害』令和2年度 遠賀町行政資料(2-4-0014053)
◆平成の合併
遠賀郡4町の合併については、平成15年7月に「芦屋町・水巻町・岡垣町・遠賀町合併協議会」が設置され全26回の協議会が開催されましたが、平成16年10月に協議会は解散、合併は白紙となりました。
『新市建設計画・遠賀郡将来構想等』平成16年度 遠賀町公文書(1-2-0042368)
『合併協議経過(芦屋町・水巻町・岡垣町・遠賀町合併協議会①)』平成16年度 福岡県公文書(1-1-0041468)
『合併協議経過(芦屋町・水巻町・岡垣町・遠賀町合併協議会②)』平成16年度 福岡県公文書(1-1-0041469)
◆おんがのおと
令和3(2021)年5月にリニューアルされた「広報おんが」の表紙タイトルは「おんがのおと」。ちょっと気になるタイトルの由来を探してみました。
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遠賀町の記録であり、見ている人への手紙であり、皆さんの心に留めてほしい、遠賀町を知ってほしいという思いを込めたタイトルにしました。「遠賀ノート」という意味だけでなく、「遠賀の音」という意味も込めています。「うれしい」「たのしい」「ここちよい」、そんな「まちの音」が聴こえてくるような広報紙をお届けします。(『広報おんが 令和3年5月号』より引用)
『広報おんが 令和3年5月号』令和3年度 遠賀町行政資料(2-4-0016619)
※福岡共同公文書館の閲覧室では、県内60市町村の広報紙を見ることができます。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今回は大牟田市(おおむたし)の紹介です。
♦ 大牟田市の位置 ♦
大牟田市は福岡県の最南端に位置しています。西に有明海を望み、北はみやま市、東は熊本県南関町(なんかんまち)、南は熊本県荒尾市(あらおし)と隣接しており、これらの自治体と熊本県長洲町(ながすまち)を含めて『大牟田都市圏』という呼び方もされています。現在はここに柳川市(やながわし)も加わって、大牟田市を中心とした『有明圏域定住自立圏構想』を推進しているところです。
『広報おおむた』2021年6月1日号 大牟田市行政資料(2-4-0016195)
♥ 大牟田市の歴史 ♥
大牟田市は、現在の市域になるまでに以下のような変遷をたどりました。
1889(明治22)年 町村制施行により大牟田町が発足
1917(大正6)年 市制施行により大牟田町から大牟田市へ
1929(昭和4)年 三川町(みかわまち)を編入
1941(昭和16)年 玉川村(たまがわむら)、駛馬町(はやめまち)、三池町(みいけまち)、
銀水村(ぎんすいむら)を編入。
その後、昭和の大合併、平成の大合併ともに異同はなく、2017(平成29)年に市制施行100周年を迎えています。
まだ大牟田市に編入前の玉川村の文書の中に、三池炭鉱の経営に尽力した団琢磨に関連する文書がありました。亡くなった後に、本人の「遺志」として遺族から奨学金寄附の申出があったようです。
『昭和十年以降願伺指令綴 三池郡玉川村役場』昭和16年度 大牟田市公文書(1-2-0012549)
1941(昭和16)年の町村合併の際には詳細な事務引継書が作成されています。画像は銀水村の部分ですが、備品目録には「火鉢」「キリ」など、時代を感じさせる用具が並んでいます。
そして「ホチッキス」とは…? 現在ホッチキスと呼ばれている物の単純な誤記なのでしょうか、あるいは当時はそう呼ばれていたのでしょうか、はたまた全く違う現在に継承されていない謎の事務機器なのでしょうか…。
『昭和16年4月町村合併事務引継書』昭和16年度 大牟田市公文書(1-2-0011894)
『年表と写真で見る大牟田市の100年(『新大牟田市史』別冊)』平成29年度 大牟田市行政資料(2-4-0007415)
♣ 大牟田市と石炭産業 ♣
大牟田と言えばやはり石炭と三池炭鉱を抜きにしては語れません。大牟田における採炭の歴史は古く、江戸時代中期にまで遡ります。そして明治初期に富国強兵政策を推し進める政府のもと、一旦は官営の三池炭鉱となりますが、その後大牟田町が発足する1889(明治22)年には官営から三井に払い下げられています。
以後大牟田は石炭資源を基盤に重化学工業都市として発展し、1957(昭和32)年には市制施行40周年の記念事業として『大牟田産業科学大博覧会(石炭博)』を開催するまでに至りました。
『市政だより』31号(昭和32年9月25日) 大牟田市行政資料(2-2-0001018)
しかし同時にこの頃から石炭にも陰りが見え始め、やがて高度経済成長期を迎えると共にエネルギーの主役は石炭から石油へと移り、石炭採掘や石炭を基盤とする産業は衰退へと向かいます。
そして1997(平成 9)年、奇しくも大牟田市市制施行80周年の年に三池炭鉱は閉山し、日本の近代化や戦後復興を支え続けたその歴史に幕を下ろすこととなりました。
『広報おおむた』772号(平成9年4月15日号) 大牟田市行政資料(2-2-0001020)
『グラフふくおか』484号(平成9年4月号) 福岡県行政資料(2-1-0006035)
♠ 石炭産業からの脱却 ♠
基幹産業であった石炭産業の衰退に合わせ、大牟田市では石炭依存からの脱却を企図し、財政再建計画の策定や有明海沿岸部の福岡県内・熊本県内の自治体との県境を越えた連携(有明沿岸サミット)等を模索しました。
『有明海地域総合開発協議会』昭和62年度 福岡県公文書(1-1-0002699)
平成時代には構造改革特区制度を活用した、石炭産業から「環境・リサイクル産業」という新たな基幹産業へと産業構造の転換を試みる「エコタウン事業」を推進、さらには、高速道路、鉄道、空港、港湾というあらゆる輸送手段へのアクセスが60分以内という地理的優位性を活かした工場団地「大牟田テクノパーク」を造成し、企業誘致に力を入れるなど地域経済の再浮揚を目指しています。
『構造改革特別区域(大牟田)3』平成15年度 福岡県公文書(1-1-0009451)
『大牟田テクノパーク』平成8年度 福岡県公文書(1-1-0038450)
また、市制施行100周年を目前に控えた2015(平成27)年には、三池炭鉱の残存施設である「宮原坑(みやのはらこう)」「三池炭鉱専用鉄道敷跡(みいけたんこうせんようてつどうじきあと)」「三池港(みいけこう)」の3施設が「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界文化遺産に登録されました。かつての基幹産業の歴史と栄光に再びスポットライトが当たり、新しい観光資源としての魅力に期待が集まっています。
『大牟田市勢要覧』平成29年度 大牟田市行政資料(2-4-0012188)
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は、大任町(おおとうまち)です。
◆大任町の地理
大任町は福岡県の北東部に位置し、田川郡のほぼ中央にあります。町の中央を南北に彦山川(ひこさんがわ)が貫流する低地帯で、周囲は丘陵地域となっています。広さは、東西3.6km、南北7.2km、総面積14.26k㎡です。
東は赤村(あかむら)、北は香春町(かわらまち)、西は田川市(たがわし)・川崎町(かわさきまち)、南は添田町(そえだまち)と接しています。
西日本最大級の規模を誇る道の駅「おおとう桜街道」のほか、季節ごとに咲く美しい花が魅力のまちです。
『広報おおとう 2023年度』2023年5月号(2-4-0021391) 花のまち おおとう フォトリポート
◆大任町の誕生
明治22(1889)年の町村制施行に伴い、今任原村(いまとうばるむら)と大行事村(だいぎょうじむら)が合併して大任村(おおとうむら)が成立しました。昭和35(1960)年、大任村が町制施行して大任町となりました。
公文書館が所蔵する最も古い大任村の資料は明治34(1901)年度の大任村の村會議事録で、会議録や明治34年度の予算書などが綴られています。
『明治三十四年度 村會議事録 大任村役場』大任町公文書(1-2-0033523)
◆石炭産業遺跡群(鉄道関係)
旧国鉄油須原(ゆすばる)線(仮称)は漆生(うるしお)駅と油須原駅を結び、石炭を苅田(かんだ)港へ輸送する目的で大正年間に計画されました。
昭和32年に着工、炭鉱閉山に伴い生活路線に変更し、昭和41年漆生駅から豊前川崎(ぶぜんかわさき)駅まで部分開業しました。
しかしながら採算が見込まれないことなどから、昭和45年に工事中止、昭和60年代に全線廃止となりました。大任町区間では開業に至らないまま、路床等の撤去後、旧添田線跡地と併せて町道等公共用地として利用されています。古河炭鉱跡地、福田(ふくた)トンネル、野原越(のばらごし)トンネル、彦山川橋梁等が石炭産業の遺跡として残っています。
大任町にはかつて数多くの炭鉱が存在し、町の基幹産業でしたが、その多くは残されておらず、この鉄道遺跡は大任町の経済産業の貴重な遺跡となっています。
『篠栗線・油須原線鉄道建設促進についての陳情書(昭和36年11月22日)』福岡県公文書(1-1-0006709)
◆花としじみの里
「しじみ」が自生する大任町では、しじみを環境保護とまちおこしのシンボルと位置づけています。平成7年には「しじみ育成保護条例」が制定され、彦山川流域でのしじみの保護が行われています。水辺公園では、昭和62年から毎年10月に「しじみ祭り」が開催されています。町のイメージキャラクターは、しじみの大ちゃんです。
『第4次大任町総合計画』大任町行政資料(2-2-0001334)
左『花としじみの里大任町 新庁舎・コミュニティセンター』大任町行政資料(2-2-0001333)
右『広報おおとう 2023年度』2023年12月号(2-4-0021391) 第37回しじみ祭り
◆神幸祭
神幸祭は五穀豊穣や家内安全などを祈願する初夏の祭りです。4月下旬から5月上旬にかけて、各地域ごとに色とりどりのバレンで飾りつけられた山車やみこしが舞い、町中がにぎわいます。『大任町誌』に祭事に関する詳しい記述があります。
左『大任町誌 ふるさと大任 【下巻】』大任町行政資料(2-4-0010154)
右『広報おおとう 2019年度』2019年6月号(2-4-0011996) 神幸祭
◆災害の記録
昭和28年6月、九州地方北部を中心に梅雨前線を原因とする集中豪雨による水害が発生しました。当時の大任村の水害対策本部の日誌や、土木工事に関する事跡が公文書として残されています。
『昭和廿八年七月 日誌(大任町水害対策本部)』大任町公文書(1-2-0033551)
『昭和二十八年災害單独事業の綴 田川郡大任村役場』大任町公文書(1-2-0033526)
『昭和二十八年六月 大任中学校災害復旧の綴 大任村役場』大任町公文書(1-2-0033502)
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
「公文書でめぐる ふるさと福岡」、今回は大川(おおかわ)市の紹介です。
◆◆ 大川市の位置 ◆◆
◆◆ 大川市の地勢 ◆◆
大川市は福岡県の南西部に位置し、北は久留米(くるめ)市、東は大木(おおき)町、南は柳川(やながわ)市、そして西側は筑後川(ちくごがわ)を隔てて佐賀県と隣接しています。
市域の大部分は筑後川下流左岸の三角州地帯で、そこに用水路、排水路、貯水池など様々な機能を有するクリーク(堀)が網の目のように広がっているのが特徴です。
下記の絵図は、現在の大川市一木(ひとつき)の明治17(1884)年当時のクリーク(堀)の様子を示したものです。
●『川口村官有地一件綴(明治9~17年)』明治17年度(1-2-0002795)
現在大川市役所には「クリーク課」という部署が存在し、用排水路の整備・管理、土地改良事業などの業務を行っています。
◆◆ 大川市の沿革 ◆◆
昭和29(1954)年4月1日、大川町・大野島(おおのじま)村・川口(かわぐち)村・木室(きむろ)村・田口(たぐち)村・三又(みつまた)村の6町村が合併して大川市が誕生しました。
以下は合併以前の各々の町村の公文書です。
① ➁ ③
④ ⑤ ⑥
①『大正4~5年 大川町議会会議録』大正5年度(1-2-0002635)
➁『村会決議録(明治29年以降)』明治31年度(1-2-0002710)
③『明治44年 川口村議会議事録』明治44年度(1-2-0002804)
④『大正14年 木室村議会議事録』大正14年度(1-2-0002614)
⑤『明治34年~明治37年 田口村議会議事録』明治37年度(1-2-0002583)
⑥『遺族年金弔慰金請求書受付発送簿(三又村)』昭和28年度(1-2-0002923)
平成の大合併の時期には大木町との合併協議会も設けられましたが、実現には至りませんでした。
●『新市建設計画ダイジェスト版 5部』平成16年度(1-2-0002218)
◆◆ 大川市あれこれ ◆◆
💚家具・木工
大川と言えばやはり何と言っても家具・木工産業が有名です。毎年「大川木工まつり」が開催され、令和5年にはに72回目を迎えました。
●『市報おおかわ 2023年10月』令和5年度(2-4-0021389)
こちらは昭和30年代当時の大川木工指導所(現在の福岡県工業技術センターインテリア研究所)の家具設計図集です。
●『設計図集』昭和36年度(1-1-0004659) レトロな雰囲気が魅力的です。
💚筑後川昇開橋(ちくごがわしょうかいきょう)
国の重要文化財に指定されている「昇開橋」は、もともとは国鉄佐賀線の鉄道橋梁「筑後川橋梁(ちくごがわきょうりょう)」として建設されたものでした。
●『大川市市勢要覧2020』令和元年度(2-4-0015029)
国鉄佐賀線関連の文書、柳河(柳川)・大川間の工事に関する事績です。
●『佐賀線鉄道関係書類』昭和6年度(1-2-0002829)
平成21(2009)年には文化庁指導のもと、保存修理工事が行われました。
●『筑後川昇開橋保存修理委員会事務局会議』平成21年度(1-2-0043767)
💚古賀政男(こが まさお)
一般的に考えて、芸術・芸能に関することはなかなか公文書として残りにくいものですが、大川が生んだ昭和期を代表する作曲家古賀政男氏に関するものが残されています。古賀氏による時計塔の寄贈を紹介する『市報おおかわ』です。
●『市報おおかわ 1977年3月』昭和51年度(2-4-0008799)
💚甘味 vs 辛味
美しく愛らしい見た目と、甘味と酸味の絶妙なバランスが人気のイチゴ「あまおう」。大川市はその「あまおう」の主要な生産地のひとつです。また、その正反対のどっ辛調味料の開発にも挑戦し、「大川ペッパー」の創出に成功しています。
① ➁
①『市報おおかわ 2016年1月』平成27年度(2-4-0000015)
➁『市報おおかわ 2021年10月』令和3年度(2-4-0000015)
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は、うきは市です。
◆うきは市の地理
うきは市は福岡県の南東部に位置し、朝倉市、久留米市、八女市、大分県日田市と接しています。南に耳納連山(みのうれんざん)を抱き、北に「筑紫次郎」と称される筑後川(ちくごがわ)が流れる自然に恵まれた地域です。
耳納連山を源流とする巨瀬川(こせがわ)、小塩川(こじおがわ)、隈上川(くまのうえがわ)が市内を流れ、筑後川に注ぎ込んでいます。市域は、筑後川の南に広がる平坦部、平坦部と山間部との間にある山麓部、耳納連山に属する山間部に区分されます。平坦部には肥沃な水田地帯、山麓部には果樹地帯が形成され、山間部は棚田などを含む森林となっています。
◆うきは市誕生
昭和26(1951)年、御幸町が山春村、大石村及び姫治村を編入するとともに浮羽町へと町名を変更しました。昭和30(1955)年には吉井町、江南村、福富村、千年村及び船越村の一部が合併して吉井町が生まれました。
平成17(2005)年3月20日、浮羽町と吉井町が合併して「うきは市」が誕生します。福岡県内26番目の市で、平成の大合併としては県内4番目の合併となりました。平成15年4月に、2町によって設置された法定協議会の記録が残っています。
『広報うきは』平成17(2005)年度 うきは市行政資料 (2-2-0000492)
『合併協議会関連事蹟』平成15(2003)年度 うきは市公文書 (1-2-0009703)
公文書館には、現在のうきは市の公文書だけではなく、合併前の吉井町・浮羽町の公文書、さらにさかのぼって明治・大正・昭和の各村の公文書が保存されています。
『古文書M20~26(自明治二十年至同廿六年役場事務引継書)』明治26(1893)年 うきは市公文書 (1-2-0045260)
◆伝統的建造物群保存地区
うきは市には、文化庁が選定した伝統的建造物群保存地区が2地区あります。景観行政団体として「うきは市景観計画」(平成23年3月)を作成、伝統的建造物の保存だけではなく活用を進めながら、歴史の伝承や文化の向上、地域活性につなげています。
『景観計画策定事業』平成23(2011)年度 うきは市公文書 (1-2-0049519)
【筑後吉井(ちくごよしい)】平成8(1996)年12月10日選定
江戸時代、有馬藩の城下町久留米と天領日田を結ぶ豊後街道の宿場町として栄えたうきは市吉井町。町屋や土蔵が連続する町並みと、豊かな緑に包まれた屋敷や社寺建築、さらに吉井の経済基盤を支えてきた河川や水路などが一体となって歴史的風致を形成しており、筑後地方の商業都市として、特色ある歴史的景観を伝えています。平成8(1996)年に県内で初めて、文化庁の「伝統的建造物群保存地区」に選定されました。その町並みを背景に、平成5年から「筑後吉井おひなさまめぐり」が行われています。第32回の今年は、令和6(2024)年2月11日(日)~3月20日(水)に開催が予定されています。
『浮羽地域振興計画推進1』平成11(1999)年度 福岡県公文書 (1-1-0003835)
『筑後吉井おひなさまめぐり』平成27(2015)年度 うきは市公文書 (1-2-0046844)
【新川田篭(にいかわたごもり)】平成24(2012)年7月9日選定
新川地区及び田篭地区には、湧水や豊かな水系によって発達した棚田が集落と渾然一体となって残っています。国の重要文化財に指定されているくど造り民家「平川家住宅」をはじめとして、伝統的な茅葺民家が残り、棚田や山林に取り囲まれた、昔ながらの山村集落の景観を見せています。平成10(1998)年には棚田を守る大切さを都市住民に実感してもらいながら保全を図る取り組みとして、「棚田オーナー制度」がスタートしました。平成11(1999)年には新川地区の葛篭(つづら)の棚田が農林水産省の「日本棚田百選」に選定され、平成12(2000)年には、「全国棚田サミット」を星野村と共同開催するなど、棚田を中心とした地域振興が行われています。
『景観計画策定事業(新川・田篭地区文化的景観調査中間報告書)』平成21(2009)年度 うきは市公文書 (1-2-0045290)
『中山間ふるさと・水と土保全対策事業』平成12(2000)年度 福岡県公文書 (1-1-0004314)
◆森林セラピー
「森林セラピー」とは、ストレスホルモンの減少や血圧の低下など、心身への健康維持・増進等の効果が科学的な証拠に裏付けされた森林浴のことです。この森林セラピーに適しているとして特定非営利活動法人森林セラピーソサエティが認定した場所を「森林セラピー基地」といいます。福岡県内では、うきは市、八女市、篠栗町、豊前市の4市町が、森林セラピー基地として認定されています。
うきは市は市内の森林が持つリラックス効果が実証され、平成20(2008)年4月に北部九州で初めて森林セラピー基地として認定されました。市内には、石積みされた棚田の景観が美しい「つづら棚田の散歩道コース」と、水辺の空気が心地よい「巨瀬の源流の散歩道コース」の2つの認定セラピーロードがあります。
『福岡県観光推進協議会(観光地づくり)(うきは市)』平成22(2010)年度 福岡県公文書 (1-1-0034667)
◆とびうめ国体
「とびうめ国体」(第45回国民体育大会)は、平成2(1990)年に福岡県で開催されました。浮羽町ではカヌー競技、吉井町では銃剣道競技が行われました。うきは市から移管された資料には、ビデオテープ、写真のネガ、レコード、国体の旗、ステッカー、ワッペンなどがあり、様々な形で町の歴史が残されています。
『第45回国民体育大会レコード(とびうめ国体音頭・とびうめ国体の歌)』平成2(1990)年度 うきは市行政資料 (2-4-0019411)
◆豪雨災害の記録
平成24(2012)年7月の九州北部豪雨により、うきは市は甚大な被害を受けました。災害の経験・記憶を風化させないため、また、今後の教訓として後世に伝えるため、『平成24年7月九州北部豪雨災害記録誌(冊子版・簡易版)』が発行されました。簡易版は、うきは市防災サイト(平成24年7月九州北部豪雨の災害記録誌を発行しました / 防災サイト / うきは市 (city.ukiha.fukuoka.jp)でも見ることができます。
『平成24年7月九州北部豪雨災害記録誌』平成26(2014)年度 うきは市行政資料 (2-4-0000071) ※冊子版
『平成24年7月うきは市の災害記録 九州北部豪雨DOCUMENT』平成26(2014)年度 うきは市行政資料 (2-4-0000070) ※簡易版
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福岡共同公文書館では、福岡県と県内58市町村(政令市である北九州市、福岡市を除く)の歴史公文書(歴史資料として重要な公文書)や行政資料を、収集、整理、保存し、皆様に提供しています。
常設展示では、戦後から今日までの「福岡県」を当館の公文書や行政資料で振り返るとともに、所蔵する歴史公文書や行政資料をもとに県内の市町村を順番に紹介しています。現在(令和5年11月10日~令和6年3月24日予定)紹介している市町村は、うきは市・宇美町・大川市・大木町・大任町・大野城市です。
お近くにお越しの際は、ぜひ福岡共同公文書館にお立ち寄りください。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
春日市は東西4キロメートル、南北5.34キロメートル、面積が14.15平方キロメートルと非常にコンパクトで、福岡都市圏のほぼ中央部に位置しています。福岡市の中心部まで約10キロメートルという便利なロケーションで、そのため昭和40年代以降、福岡都市圏の住宅都市としての魅力を発揮してきました。
春日市は一昨年(令和4年)市制施行50周年を迎えました。今回は、前身である「春日町」の誕生から現在までの歴史の中で注目しておきたい文書を少し紹介します。
明治22(1889)年、春日、上白水、下白水、小倉、須玖の5村が合併し、春日市の前身である「春日村」が誕生しました。
その後、昭和28(1953)年に町制施行により「春日町」となります。
『町制施行関係書』昭和27年度(1-2-0006857)
「春日町」としての第1号の告示、町議会招集を告げる内容です。
『告示原本(S25~35年度)』昭和35年度(1-2-0006871)
昭和38(1963)年には、町政施行10周年を記念して「町章」が制定されました。広く町民に案を募り、入選作品をもとにデザインが決定されました。この「町章」は市制施行後も引き継がれ、現在は「市章」となっています。
『昭和38年 町章関係事績綴』昭和38年度(1-2-0006858)
昭和47(1972)年には、市制施行により「春日市」が誕生しました。
『市制施行関係書』昭和46年度(1-2-0006860)
市制施行5周年を記念して、昭和52(1977)年に「市の木」「市の花」が選定されました。それを報告する広報紙『市報かすが』の記事ですが、これは通常の紙で保存されたものではなく、マイクロフィルム撮影された資料をプリントアウトしたものです。
公文書というとどうしても「紙」の文書を想像してしまいますが、こうしたマイクロフィルムという形態で保存されたものも存在します。
『昭和39年~昭和56年 広報誌(マイクロフィルム№2)』昭和56年度(2-2-0001064)
昭和59(1984)年、春日市は全国で初めてとなる『個人情報保護条例』を制定、施行しました。この画期的な条例の実現は、情報公開条例と個人情報保護条例の制定を要望する市民からの請願を契機としたものでした。
この事実は40年近くを過ぎた今もなお、一般財団法人地方自治研究機構のホームページで紹介され、著名な法学者・堀部政男氏の「我が国におけるプライバシー保護策の歴史の中で、画期的なものであると評価できる」という文章が添えられています。 (http://www.rilg.or.jp/htdocs/img/reiki/017_privacyprotection.htm)
『議会請願書』昭和56年度(1-2-0006908)
『昭和57年~平成4年 広報誌(マイクロフィルム№3)』平成4年度(2-2-0001065)
平成13(2001)年、『出前トーク「市長と語る」』がスタートしました。「地方の時代」「協働のまちづくり」というスローガンを眼に見える形にした施策で、22年を経た現在も700回を超えて継続しています。
『市報かすが 平成13年版』平成13年度(2-2-0001045)
そして市制施行50周年を迎えた今、この協働の取組みを未来へつなぐため、これまでの成果と、それを支えた各自治会の着実な活動を紹介する冊子が発行されました。
『未来へつなぐ 春日市の協働のまちづくり―春日市制50周年を記念して―』令和4年度(2-4-0021463)
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八女市は福岡県の南部、福岡市から南へ約50キロメートルに位置し、北は久留米市、広川町、西は筑後市、南は熊本県、東は大分県に接しています。面積は482.44平方キロメートルで、総面積県内2位です。中南部は平野、北東部は森林で占められている中核都市で、市の中央部を国道3号線が南北に、国道442号が東西に走り、西端には九州縦貫自動車道が通じ、八女インターチェンジがあります。
『日本書紀』にある、「この地方に女神あり、その名を八女津媛といい、常に山中にある」という一節が、八女という地名の由来と言われています。岩戸山古墳をはじめ多くの古墳が広がり、はるか昔から人々は豊かに暮らしていました。江戸時代には八女地方の物産集積地として、政治・文化などの中心地として栄え、現在も手すき和紙・仏壇・提灯などの伝統工芸品や茶・電照菊・椎茸などの農産物も豊富です。
【沿革】
1871(明治4)年、廃藩置県により、久留米県を経て三潴県となり、その後、1876(明治9)年、福岡県になりました。1896(明治29)年、福島町を中心に八女郡が形成され、1951(昭和26)年、地域住民の強い要望により、福島町・長峰村・三河村・八幡村・上妻村が合併して、福島町の町域は拡大し、さらに1954(昭和29)年、周辺の川崎村・忠見村・岡山村(一部を除く)が編入し、八女市が誕生しました。
【市名が「八女市」に決まるまで】
1954(昭和29)年4月、八女郡福島町に川崎村・忠見村・岡山村(一部)が編入し、市制施行を行い「八女市」が誕生しました。
合併及び市制施行にあたり「市名」をどうするか問題となり、1954(昭和29)年3月12日付の書類には市名を「福島市」として県に提出しました。しかし、福島県の福島市と同じになるため、「筑後福島市」と改めて新市建設計画書は作成されていますが、隣接する八女郡羽犬塚町が八女郡水田村・古川村と合併し「筑後市」が発足することになること、市名として字画が多すぎるなどの意見がでたため再検討した結果、旧福島町住民から反対意見が出ましたが、合併協議会執行部や有識者の説得により「八女市」として発足することになりました。
【平成の合併で編入した町・村】
平成の合併により、2006(平成18)年10月1日に上陽町、2010(平成22)年2月1日に黒木町、立花町、星野村、矢部村が編入し、現在の八女市となりました。
【八女と水害】
1953(昭和28)年6月、福岡県南部の豪雨により矢部川は大洪水が起き、各地で橋の流出やダムの決壊、道路の寸断などが起こりました。旧八女郡の被害は死者27名、全壊・流出家屋154戸にもおよび、社会生活に大きな痛手を与えました。
2012(平成24)年7月、北部九州を中心に発生した集中豪雨は、観測史上最大の降雨量を記録しました。八女市でも急激記録的豪雨となり、黒木町、上陽町、立花町、星野村を中心に大きな被害をもたらしました。
そして、今年(2023年)も、7月に大雨により、上陽町を中心に各地で災害が発生しました。
現在も、一刻も早い復旧・復興に取り組んでいるそうです。
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は大野城(おおのじょう)市の紹介です。
◆大野城市の位置
大野城市は福岡市の南に隣接し、古くから博多と大宰府を結ぶ交通の要衝として栄えて来ました。 現在も国道3号や九州縦貫自動車道、福岡都市高速道路といった自動車交通の大動脈が走り、公共交通ではJR鹿児島本線と西鉄天神大牟田線が通っています。 さらに福岡空港にも近く、いにしえと同様交通の便に恵まれた環境と言えます。
◆大野城市の地勢
位置図で明らかなように、大野城市は中心部の幅が非常に細く、ひょうたん型をしています。 東北部に四王寺(しおうじ)山や乙金(おとがな)山、南部には牛頸(うしくび)山があり、緑にも恵まれています。 また市内には御笠(みかさ)川と牛頸(うしくび)川が流れ、この二つの川は瓦田(かわらだ)付近で合流してそのまま御笠川として博多湾へ注いでます。
◆大野城市の変遷
市名の「大野城」は、遠く飛鳥時代、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)の戦いで日本軍が敗れ、唐・新羅連合軍の反撃に備えるため、大野(おおの)山(現在の四王寺(しおうじ)山)に築かれた山城「大野城」に由来しています。 近代以降の大野城市は自治体として次のような変遷をたどりました。 明治22(1889)年、村制の施行により大野村が誕生 昭和25(1950)年、町制の施行により大野町が誕生 昭和47(1972)年、市制の施行により大野市が誕生 しかし既に「福井県大野市」が存在するため、施行と同時に「大野城市」へ市名変更となりました。
◆大野城市と公文書
当館で保存している大野城市に関連する公文書・行政資料を少し紹介しましょう。
『一瀬井堰変更事績』明治44年(1-2-0026847) 明治44(1911)年、大野村長から県知事に提出された一瀬井堰改築願の事跡です。大野城市(当時は大野村)が作成した文書で当館が保存している最古のものになります。
『部落有財産統一事績』大正4年(1-2-0026848) 町村制施行後20年を経過し、一層の地方行政振興を図るために村の基本財産を精査した資料です。
『ルース住宅覚書協定書』昭和27年(1-2-0026843) 昭和26(1951)年の台風第15号(ルース台風)は各地に甚大な被害をもたらしました。そのルース台風による住宅被害者への救済措置の事跡です。
『青年学級研究集会資料 昭和28年度』(2-4-0006091) 昭和28(1953)年に「青年学級振興法」が制定され、勤労青年を対象に、一般教養や職業、家事などについて学ぶ「青年学級」がスタートしました。ご覧のように、履修内容もお遊び程度ではなく本格的なものとなっています。
ところで、表紙からも明らかなようにこの資料は大野町(現大野城市)の青年学級に関する資料ですが、しかし大野城市に残されていた訳ではありません。実は、糟屋郡志免町が保存していたものを当館に移管したものなのです。
当該自治体では散佚してしまった資料でも、何らかの事情により他自治体に残されている場合があり、それが共同公文書館に移管されることで、当該自治体もその資料の存在に改めて気付いたりすることがあります。同時に「当該自治体に資料が残ってなければ仕方がない」と諦めていた利用者も、他自治体のおかげでその資料を閲覧することが可能となります。 こういうところにも共同公文書館の存在意義を垣間見ることができます。
『大野城市市勢要覧 ~市制施行50周年記念~』令和4年(2-4-0022146)
昨年(令和4年)大野城市は市制施行50周年をむかえ、様々な記念イベントが挙行されました。
現在開催中の企画展「福岡県 市町村の変遷」でも、大野町が市に移行した事蹟や「大野城市」への市名変更理由を紹介しています。是非お立ち寄りください。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
中間市は、福岡県の北部に位置し、北九州市と遠賀郡、鞍手郡に接しています。市の中央をちょうど南北に一級河川の遠賀川が流れていることから、市域は通称「川東」と「川西」に分かれています。北九州市側となる川東には、なだらかな丘陵を背景に閑静な住宅地と商業地などを形成し、市の人口の9割が集中しています。川西の広々とした平野部には、美しくのどかな田園風景が広がり、市の振興方針による工場団地が立地しています。明治末期から昭和初期に、この地で発見された石炭が国の重要なエネルギー源となり、炭坑のまちとして筑豊炭田の一翼を担います。人口も増え続け、明治末の4,800人から昭和34年(1959)には46,000人にまでなりました。
◆中間市の変遷
1889(明治22)年4月、市制・町村制が施行され遠賀郡岩瀬村・中間村が合併し遠賀郡長津村が誕生しました。この「長津」の村名は斉明天皇が「磐瀬」にあった磐瀬行宮(行幸の際の仮の御殿)を「長津宮」と改称したということに由来しているといわれていましたが、「磐瀬」は別の場所であるということが郷土史家たちにより明らかになりました。また、「長津」の名称は住民にもあまり浸透しておらず、「中間」の通称が広く用いられていました。
そのため、1922(大正11)年11月、遠賀郡長津村は町制施行を行い「遠賀郡長津町」となりましたが、1924(大正13)年3月、長津町を中間町と改称する認可申請が町会において満場一致で可決され、同年9月1日、35年使用していた「長津」の名を「中間」町と称することになりました。
その後、1932(昭和7)年3月1日、遠賀郡底井野村が編入し、1958(昭和33)年11月1日市制施行を行い、中間市になりました。
これらの資料はただいま開催中の企画展「福岡県 市町村の変遷」で展示中です。
◆堀川
江戸時代初めの遠賀川は、大雨の度に洪水を起こし、周囲の村々に大きな被害をもたらしました。 このような状況下、1620年初代筑前藩主黒田長政は、遠賀川筋の中間から洞海湾へ人工の運河(堀川)を通すことで、洪水防止・かんがい用水の確保・物資の輸送が可能になるという理由から遠賀川の築堤とともに堀川の開削を計画しました。工事は1621年着工しましたが、1623年長政の死去や藩財政の悪化等により中断することになりました。それから130年後に工事は再開され、1762年、6代藩主・継高の時代に、遠賀川からの取水口「堀川の中間唐戸」の完成をもって、堀川はついに全面開通しました。その後、1804年楠橋寿命に新たな水門を設置、洞海湾まで全長12kmの堀川運河が開通しました。1891(明治24)年、鉄道(筑豊興業鉄道、現:筑豊本線)が開通後も、筑豊炭田から若松港への石炭輸送に鉄道と共に堀川の川艜輸送が重要な役割を果たしました。しかし、鉄道の方が輸送時間が短いことや運賃が安いこと、さらに筑豊の炭鉱地帯に細かく鉄道が張り巡らされたことなどがあり、1938(昭和13)年を最後に石炭輸送運河としての役目を終えました。その後はかんがい用水路や生活用水路として役目を果たしていましたが、地盤沈下で土砂が堆積し流れが悪くなり水質汚染が問題となっていました。このため、浄化施策が様々な形で行われるようになり、少しずつ昔の姿を取り戻しています。
当館では現在、2023年企画展「福岡県 市町村の変遷」を開催中です。中間市資料以外の各市町村の合併の経緯や市制施行のための書類等も展示しています。ぜひお近くにお越しの際にはお立ち寄りください。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は、糸田町(いとだまち)です。
◆糸田町の地理
糸田町は、福岡県のほぼ中央、田川盆地(たがわぼんち)の北西に位置する面積約8km²、人口1万人弱の町です。遠賀川(おんががわ)水系の中元寺川(ちゅうがんじがわ)と泌川(たぎりがわ)が町を貫いて北流し、町域を三分しています。
中元寺川より東、町の東部地域は標高40mほどの丘陵で、かつて筑豊炭田(ちくほうたんでん)の繁栄を担った地域は、今日では住宅団地として整備されています。また、中元寺川と泌川に囲まれた中部地域は、標高およそ30mの台地と流域平野からなり、台地上は古くから拓かれ、現在も町の中心部を形成しています。泌川の西、西部地域は関の山山地(せきのやまさんち)の東に位置し、豊かな自然と水資源を抱え、稲作、イチゴ、ミニトマト、花卉(かき)栽培などが盛んです。
◆糸田町の歴史
1887年(明治20年)、糸田(いとだ)村・大熊(おおくま)村・鼠ヶ池(ねずがいけ)村が合併して糸田村となりました。1889年(明治22年)の町村制施行によって田川郡糸田村となり、1905年(明治38年)には弓削田村川宮(ゆげたむらかわみや)の宮床(みやとこ)地区を編入、1939年(昭和14年)町制施行により糸田町となりました。1890年(明治23年)に豊国炭鉱(ほうこくたんこう)が本格的に操業を開始し、炭鉱町として発展を遂げます。第2次世界大戦後、国策による石炭増産体制がとられた中で活況を呈し、地域は石炭産業で繁栄しました。
しかし、昭和30年代後半から昭和40年代のはじめにかけて起きたエネルギー革命により、石炭から石油へと移行する中で石炭産業は崩壊し、地域社会は壊滅的な打撃を受けました。この石炭産業の崩壊は、若い労働力の激減や鉱害、失業などをもたらし、地域経済に大きな影響を及ぼしました。
そのような中、石炭六法などの国の財政措置と町独自の取組により、鉱害復旧事業による基盤整備、旧炭鉱住宅の改良、企業誘致、工場用地や分譲団地の造成、役場や住民センターの建替えなど、町の整備が進められてきました。
2019(平成31年)には町制施行80周年を迎え、「たくさんの人に愛される みんなのふるさと糸田町」(「第5次糸田町総合計画後期基本計画」より)を目指して、さらなる町の活性化に向けた取組が進められています。
町の歴史や民俗、文化等については、『糸田町史』(2-2-0000594)に詳しく書かれています。
◆平成の大合併の記録
田川市および田川郡では10 市町村による合併を模索しましたが、金田町、赤池町、方城町が離脱、のちに3町は合併し、福智町となりました。3町を除く7市町村(田川市、川崎町、香春町、添田町、糸田町、大任町、赤村)は、2003(平成15年)9月に「たがわ7市町村任意合併協議会」を設置し協議を重ねましたが、法定協議会設置には至りませんでした。
当時の記録が、歴史公文書として公文書館に保存されています。
『たがわ7市町村任意合併協議会事績綴』(1-2-0036047)
『平成15年度市町村合併に関する住民説明会』(1-2-0036043)
◆種田山頭火と木村緑平
柳川市出身で糸田町に住んでいた医者・木村緑平(きむら りょくへい)は、漂泊の俳人・種田山頭火(たねだ さんとうか)を経済的かつ精神的に援助していた友人で、山頭火はたびたび糸田町を訪れていました。2人の文芸活動を記念した句碑が町内に点在しています。
『糸田町町勢要覧2009』(2-2-0000655)
◆糸田祇園山笠
糸田祇園山笠(いとだぎおんやまかさ)は、町指定文化財8号(無形民俗文化財)に指定されている300年以上続く町の伝統行事です。最大で高さ9メートル、重さ2トン以上の飾り山笠を担ぐ勇壮な祭りです。毎年5月の第2土・日曜日に行われ、今年は4年ぶりの開催となりました。
『糸田町広報 いとだ 2023年度(2023年6月号)』(2-4-0021386)
『糸田町史』(2-2-0000594)
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福岡共同公文書館では、福岡県と県内58市町村(政令市である北九州市、福岡市を除く)の歴史公文書(歴史資料として重要な公文書)や行政資料を、収集、整理、保存し、皆様に提供しています。
常設展示では、戦後から今日までの「福岡県」を当館の公文書や行政資料で振り返るとともに、県内の各市町村を紹介するコーナーを設け、県内の政令指定都市(北九州市・福岡市)を除く58市町村を順次紹介しています。現在(令和5年2月7日~7月2日)紹介しているのは、赤村・朝倉市・芦屋町・飯塚市・糸島市・糸田町です。
お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は、芦屋町(あしやまち)です。
◆芦屋町の地理
福岡県の北部に位置する芦屋町は、東を北九州市に隣接し、響灘(ひびきなだ)を望む遠賀川(おんががわ)の河口に広がる町です。町の中央部を流れる遠賀川を挟んで両極端な海岸線は、東側は奇岩景勝の磯を形成し、西側は白砂青松のなだらかな海岸となっています。
美しく豊かな自然と地域の特性を活かした、「あしや砂像展」や「花火大会」、航空自衛隊芦屋基地の「航空祭」などのイベント、そして茶の湯の名器「芦屋釜」といった魅力的な資源が数多くあります。
◆芦屋町の誕生~町制施行130周年ロゴマーク
明治22(1889)年の町村制施行により芦屋村(あしやむら)と山鹿村(やまがむら)が誕生し、明治24(1891)年に芦屋村が芦屋町となり、明治38(1905)年に芦屋町と山鹿村が合併して現在の芦屋町が誕生、令和3年に130周年を迎えました。
公募作品から選ばれた町制施行130周年のロゴマークは、130周年の「130th」を基調に、”ashiya”の頭文字「a」、芦屋町を表す特徴的な要素である町花、町木、芦屋釜や芦屋町民、太陽を組み合わせてデザインし、芦屋町が永遠(無限=∞)に発展することを表しています。隣にいるのは、芦屋町イメージキャラクター「アッシー」です。
◆芦屋海浜公園の開発
響灘に隣接した芦屋海浜公園は、海水浴場、レジャープール「アクアシアン」、広大な芝生広場「わんぱーく」などがある総合公園です。その開発に関わる資料が、公文書館に保存されています。2019年からは芦屋港の活性化も進められています。
◆「海と大河の町芦屋展~芦屋釜とまちめぐり」(福岡よかもん広場)
芦屋釜(あしやがま)は、南北朝時代頃(14世紀半ば頃)から筑前国芦屋津金屋(ちくぜんのくにあしやつかなや)(現在の福岡県遠賀郡芦屋町中ノ浜付近)で造られた茶の湯釜です。芦屋釜の里は、江戸時代初期頃に途絶えた芦屋釜の復興に取り組む施設です。
現在、福岡県庁11階のよかもん広場では、「海と大河の町芦屋展」が開催されています。会場では芦屋釜の里で製作された現代の芦屋釜を見ることができます。(2023年7月14日まで)
福岡共同公文書館では、福岡県と県内58市町村(政令市である北九州市、福岡市を除く)の歴史公文書(歴史資料として重要な公文書)や行政資料を、収集、整理、保存し、皆様に提供しています。
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次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は、朝倉市(あさくらし)です。
◆朝倉市の地理
朝倉市は福岡県のほぼ中央部に位置し、九州一の大河筑後川(ちくごがわ)とその支流の水に恵まれた、緑豊かな田園都市です。市内を北西から南東に貫く国道386号線から南側に平野が広がり、北側には古処山(こしょさん)、屏山(へいざん)、馬見山(うまみやま)などの山々がそびえています。
◆朝倉市の誕生
朝倉市は平成18年3月20日、甘木市(あまぎし)・朝倉町(あさくらまち)・杷木町(はきまち)の1市2町の合併によって誕生しました。当初は、旧朝倉郡全体(1市4町2村)で構成する「甘木・朝倉市町村合併任意協議会」において合併協議が進められてきました。その後「甘木・朝倉市町村合併協議会」(1市2町2村)、「甘木市・朝倉町・杷木町合併協議会」(1市2町)と変遷、様々な議論を経て現在の朝倉市が誕生するまでの様子が、合併協議会だよりにまとめられています。
◆4つの「近い」~ここは豊かさに近いまち
「暮らし」をテーマにつくられた『朝倉市市勢要覧』(平成29年3月発行)では、「水に近い」・「食に近い」・「感動に近い」・「人に近い」という4つの視点で、朝倉市の魅力を伝えています。
◆水害の記録
朝倉市では、平成29年7月九州北部豪雨の教訓から、7月5日を「市民防災の日」と定めています。過去にも水害は繰り返されており、公文書館には昭和28年6月の大水害に関する事跡(旧大福村)等が保存されています。
福岡共同公文書館では、福岡県と県内58市町村(政令市である北九州市、福岡市を除く)の歴史公文書(歴史資料として重要な公文書)や行政資料を、収集、整理、保存し、皆様に提供しています。
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次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は、赤村(あかむら)です。
◆赤村の地理
赤村は福岡県筑豊地域の東部にあり、英彦山(ひこさん)から扇状に走った山麓に挟まれた細長い盆地で、英彦山を源流とした今川(いまがわ)が流れています。土地は肥沃で昔から良質米が生産されており、山間部一帯では、緑と清流がつくりだした素晴らしい景観に恵まれています。
◆赤村の歴史
全国の自治体で市町村名に色を単独で用いて表記するところは、唯一赤村のみと言われます。この珍しい赤村、ここではその名に秘められたストーリーをご紹介します。その昔、赤村には「吾勝山(あがつのやま)」と呼ばれた霊峰がありました。それは今、「岩石山(がんじゃくさん)」と呼ばれ、隣の添田町との境界にあります。吾勝山の東側にあたる南北に細長い平野部を「吾勝野(あがつの)」と呼んだと言い伝わりますが、時の天皇が「この南北にのびる平野は長すぎる。北と南に別けて呼ぶように」と言われ、それから「あが」と「つの」と別けて呼ばれるようになったということです。「あが」という地名は、わが国最古の歴史書「日本書紀」に登場します。同書安閑天皇二(535)年、福岡県各地に屯倉(みやけ、ヤマト王権の直轄地)を設けたとあります。この中に「我鹿(あが)屯倉」という記述があり、その推定地が赤村ではないかとされています。(赤村ホームページ「赤村の由来」より引用)
明治20年に上赤村、下赤村、山浦村が合併し旧赤村となり、小内田村、大内田村が合併し内田村となって、明治22年に旧赤村と内田村が合併して今日の赤村となりました。以降合併は行われていませんが、昭和の大合併の際に行われた協議等の事蹟が歴史公文書として残されています。
赤村の歴史や文化財については、『赤村史』及び『郷土 我鹿(あか)』に詳しく記載されています。
◆DO YOU 農?
「DO YOU 農?」は、農村体験を中心にした村民と都市住民との交流事業です。春には田植え、秋には稲刈りを中心に、年2回行われています。今年は5月20日に『第37回 DO YOU農? どろんこフェスティバル ザ・田植え』が開催予定です。昨年の様子が、『広報あか』に報告されています。
◆油須原線とトロッコ列車
油須原線(ゆすばるせん)は、戦後間もない頃、急激な発展を続ける日本を支えた筑豊の炭坑のために開発された鉄路でした。ところが、完成間近にして筑豊の炭坑は衰退期を迎え、この鉄路は実際に使用されることなくその役目を終える事となりました。
昭和30年代から40年代にかけての油須原線建設に関する事蹟が、歴史公文書として残されています。
現在は、その幻の鉄路に「赤村トロッコ油須原線」のトロッコ列車が走っており、炭坑時代の面影や赤村に残る大自然を感じる事ができます。
福岡共同公文書館では、福岡県と県内58市町村(政令市である北九州市、福岡市を除く)の歴史公文書(歴史資料として重要な公文書)や行政資料を、収集、整理、保存し、皆様に提供しています。
常設展示では、戦後から今日までの「福岡県」を当館の公文書や行政資料で振り返るとともに、県内の各市町村を紹介するコーナーを設け、県内の政令指定都市(北九州市・福岡市)を除く58市町村を順次紹介しています。現在 常設展示では、戦後から今日までの「福岡県」を当館の公文書や行政資料で振り返るとともに、県内の各市町村を紹介するコーナーを設け、県内の政令指定都市(北九州市・福岡市)を除く58市町村を順次紹介しています。現在(令和5年2月7日~7月2日)紹介しているのは、赤村・朝倉市・芦屋町・飯塚市・糸島市・糸田町です。 紹介しているのは、赤村・朝倉市・芦屋町・飯塚市・糸島市・糸田町です。
お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
3月も残りわずかとなりました。福岡県と県内全市町村(政令市である北九州市、福岡市を除く)が共同で設置・運営する福岡共同公文書館は、福岡県の職員と市町村職員そして会計年度任用職員という職員の構成になっています。
そこで、今回「公文書でめぐる ふるさと福岡」は当館の職員さんにご自身の市町村の紹介をしていただこうと思います。
では、ここからは当館の「しょこら」がお話を聞きます。
どちらの市町村からの派遣ですか?
川崎(かさわき)町から派遣された國澤です。令和4年度に福岡共同公文書館で勤務していました。
川崎町はどんなところですか?
川崎町は福岡県の中央部にあり、福岡共同公文書館がある筑紫野市からは少し遠い場所にあります。
1937(昭和12)年に南部の安眞木(あまぎ)村と北部の川崎村が合併し、翌(1938(昭和13)年、町制施行により川崎町となりました。
昭和30年代は石炭産業で栄え、その後、産業、自然を生かした観光やすべての人にやさしい福祉のまちづくりを進めています。
「福岡共同公文書館」の印象は?
研修で以前に来たことはありますが、漠然と古い文書を保存しているといったイメージしかありませんでした。
当館に派遣が決った時はどう思いましたか?
業務内容のイメージがつかず、図書館のようなことをするのかなと思っていました。また、専門的な知識はいらないのかなと勝手に思い込んでいました。
当館ではどのような仕事をしていましたか?
総務企画班に所属していました。
主な業務は、保存されている公文書を利用されたい住民や行政職員のお手伝いをする利用業務と、公文書のことをより多くの方に知っていただくための普及啓発業務に携わり、毎月県内の市町村でパネル展を実施していました。
國澤さんは1年間の勤務でしたが、この1年で印象に残った出来事は?
昨年の11月19日に開館10周年の式典がありました。
担当業務としては、当日に配布する「福岡共同公文書館年報」の作成が大変でしたが、10周年という節目の年に働けたことは今後も忘れないと思います。
実際に働いての感想は?
4月当初は何もわからずとりあえず必死でした(笑)。
上司や他の職員の方々に助けていただく場面も多く、なんとか1年間を過ごせました。
公文書館は一般の方にはなじみがなく、どういった場所なのかわからない方がほとんどだと思いますが、後世に残す残すべき資料が保存されている貴重な施設だと1年間働いてみて感じました。
ご自身市町村のご紹介と今後の抱負をお願いします
川崎町には、川崎町リンゴ園で栽培されているリンゴや県内の有名店も出店する「かわさきパン博」などがあります。
現在、道の駅を構想中で町外からも多くの方に来ていただけるよう町の活性化に力を入れています。ほかにも、町民誰もが心も体も健康で、元気に幸せに暮らせる町「スマート・ウェルネス・シティかわさき」を掲げ、様々な事業に取り組んでおり、町民の健幸づくり及び健康寿命の延伸を推進しています
公文書館で様々なことを学ばせていただきました。ここでの経験を今後の糧として川崎町に戻っても頑張りたいと思います。
現在、当館で開催している特別展「ふくおか あの日あのとき1972年 ~50年前、「町」が「市」になりました~」で展示している筑紫野市の紹介です。前回紹介した小郡市と同じく、筑紫野市も今年市制施行50周年を迎えました。
さまざまな記念イベントにくわえ、11月には市制施行50周年記念誌も発行されました。
筑紫野市は福岡県の中央部やや西に位置し、東西約16キロメートル、南北約14キロメートルで、総面積は87.73平方キロメートルあります。
市域は中央部が細くくびれたような形状をしており、市のホームページでは“蝶が羽を広げた姿”にたとえられています。
そして市の中央部には平坦な土地にはめずらしい分水嶺があります。これによって市内を流れる河川のうち御笠川水系は博多湾へ、そして宝満川水系は有明海へとそれぞれ注いでいます。
筑紫野市の歴史を眺めると、古くは三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)を出土した原口(はらぐち)古墳や、貴重な装飾古墳である国指定史跡・五郎山(ごろうやま)古墳が注目されます。
中世から戦国期にかけては、武将同士の戦の拠点となる山城(やまじろ)が各地に設けられました。現在、筑紫野市には博多見城(はかたみじょう)や柴田城(しばたじょう)など、13ケ所の山城跡が確認されています。
そして江戸期になると、日田街道(ひたかいどう)の二日市宿(ふつかいちしゅく)、長崎街道(ながさきかいどう)の山家宿(やまえしゅく)や原田宿(はるだしゅく)が宿場町として栄え、この頃から現在につながる町の原型がかたちづくられて行きました。
筑紫野市から当館に移管された資料は、令和4年12月10日現在、公文書1,431冊、行政資料143冊となっています。ここでいう行政資料とは、行政の事績を広報・普及するため、公文書を分かりやすく加工し刊行した資料のことです。
これらの中からいくつかご紹介します。 最も古いものがこちら、明治21(1888)年の『野取図 立明寺(のとりず りゅうみょうじ)』という資料です。野取図は、土地の地番、所有者、面積等を記載した地籍簿に当るもので、これは立明寺地区の土地についての記録です。
次に大正期の公文書から『武蔵財産区(区会)事績(むさしざいさんくくかいじせき)』を紹介します。
筑紫野市と言えば二日市温泉が有名ですが、こちらはその二日市温泉を保有する武蔵財産区の大正3年度の決算および大正4年度の予算資料です。
財産区というのは、自治体内の一部地域が山林、沼地、温泉、漁業権などの財産を有している場合、その財産の保全・利用・処分等を行うために置かれる法人格の団体で、管理者は自治体の首長になります。現在では、財産区は特別地方公共団体に分類され、総務省の調査によると全国に3900余りが存在しています。
資料の最後に報告として、「温泉貸附金」のことばが見え、貸付けた相手が「渡邊與三郎(わたなべよさぶろう)」氏となっています。この方は、明治期に福岡市への帝国大学誘致や市内電車運行に尽力し、今も福岡市天神のメインストリート「渡辺通(わたなべどおり)」にその名を残す「渡邊與八郎(わたなべよはちろう)」氏の御子息にあたる方と考えられます。
他に、軍事演習で疲れた兵隊さんたちに対しては「入浴料半額」という措置が取られ、大盤振る舞いの気風の良さも見て取れます。
行政資料から1点、『西鉄筑紫駅列車銃撃事件の記録』を紹介します。これは昭和20(1945)年8月8日、終戦間近の西鉄大牟田線筑紫駅付近で起こった、米軍機による西鉄電車銃撃事件についての記録です。
この事件に関しては、これまでにも西鉄関係者によって残された記録や、銃撃で被弾した駅の待合所を保存する取組み、そしていくつかの出版物、等々を通じて何度か注目を集めてきました。
今回は、アメリカ合衆国国立公文書館に残されていた、ガンカメラによって撮影された銃撃の瞬間を記録したフィルムが発見されたことから、これまでの記録・情報・証言の整理・再検証を行い、「筑紫野市文化財調査報告書」の1冊として刊行されたものです。
戦後70年を経て、当時の瞬間を切り取った映像が発見されたことも衝撃的ですが、それとともに、記録が残ること、記録が残されることの重要性を改めて考えさせられる資料ではないでしょうか。
◆はじめに
今回は小郡市の紹介です。小郡市は、今年市制施行50周年を迎えました。
様々な記念行事が実施されていますが、「公文書」をテーマにした企画も実施されています。
それがこちら、市の広報紙『広報おごおり』です」。
今年の4月号の表紙で『50周年』を大きくアピールしていますが、
以後毎号『広報タイムスリップ』というコーナーを設けて、
過去の懐かしい『広報おごおり』の記事をピックアップして掲載しています。
◆小郡市の地勢
小郡市は福岡県の中央よりやや南に位置し、北は筑紫野市、東は筑前町と大刀洗町、南は久留米市、
そして西は佐賀県(鳥栖市、基山町)と境を接しています。
東西6キロメートル、南北12キロメートルで、総面積は45.51平方キロメートルあります。
市の北東部、筑前町との境には標高130.6メートルの花立山(はなたてやま)があり、
また市の中央部を南北に貫いて宝満川(ほうまんがわ)が流れています。
画像は、1975(昭和50)年、花立山一帯を「銃猟禁止区」に設定する際、
当時の佐々木保市長から提出された意見書です。
◆小郡市の歴史
近代の小郡は、1889(明治22)年の市制町村制による「小郡村」から出発します。
次いで1953(昭和28)年、町制施行により「小郡町」となり、
1972(昭和47)年の市制施行で「小郡市」というように歩みを進めて来ました。
画像(1)は、1953(昭和28)年小郡を村から町にすることについて、杉本勝次福岡県知事から
時の内閣総理大臣吉田茂宛てに送られた報告の控です。
また画像(2)は、1971(昭和46)年12月、当時の佐々木敏雄小郡町長から
亀井光福岡県知事宛てに提出された市制施行の申請書類の鑑、続く画像(3)は、
小郡町を市とする処分に関する記事を掲載した、1972(昭和47)年2月1日付の官報です。
こうした小郡市ですが、「小郡」という名称そのものは古く、『日本書紀』持統天皇3年の6月条に
「乙巳於筑紫小郡設新羅弔使金道那等」とあるのが最も古い記録とされています。
大意は、「6月24日に、筑紫の小郡で、新羅からの弔使である金道那(こんどうな)達を接待した」
ということになります。
その後、奈良時代には地方官衙(役所)も置かれ、その区域は現在「小郡官衙遺跡(おごおり
かんがいせき)」として国指定史跡となっています。
◆小郡市のイチオシ・七夕プロジェクト
小郡市では平成元年から、「七夕」をテーマとした町づくりに取り組んでいます。
市内を流れる宝満川をはさんで、織女神をまつる媛社神社(ひめこそじんじゃ=別名・七夕神社)と、
犬飼神(いぬかいしん=彦星)を合祀する稲吉老松神社(いなよしおいまつじんじゃ)があり、
それがまるで天の川を挟んだ織姫と彦星の物語のようであることに着想を得た施策です。
ランドマークやモニュメントの設置、イベントの開催、商品開発など、「七夕のさとづくり」を
推進し、併せてテーマソング『小郡 七夕サンバ』のCDを作成するという力の入れようです。
平成30年からは「七夕」を地域ブランドとして確立し、地域活性化につなげるプロジェクトも
立ち上げられました。
今後も小郡の七夕から目が離せそうにありません。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!!
福岡県の最東端に位置し、東は山国(やまくに)川を境に大分県中津(なかつ)市、西は海岸沿いに豊前(ぶぜん)市、南は上毛(こうげ)町に接し、北は波静かな周防灘(すおうなだ)に面している清流と澄んだ空気にはぐくまれ自然環境に恵まれた、北九州から50km圏内に位置する肥よくな土地の田園町です。総面積は5.68㎢で「九州で一番小さな町」です。
町名は、室町時代から呼称されてきた「吉富(よしとみ)郷」に由来して、吉富町と名付けられました。
吉富町は、江戸時代から1871(明治4)年まで中津藩にあり、廃藩置県よって中津県となりましたが、120日後に小倉県に編入されました。さらに、1876(明治9)年には小倉県も廃止され、福岡県に併合されました。1888(明治21)年の市町村制施行によって翌年に東吉富村と高浜(高浜)村が誕生しました。1895(明治29)年築上(ちくじょう)郡設置の際、当時の高浜村の山国川を境として西側の小祝(こいわい)・小犬丸(こいぬまる)を東吉富村に編入し、現在の町の姿となりました。
1940(昭和15)年吉富製薬K.K.工場創立に伴い、1942(昭和17)年5月19日町制を施行しました。
1952(昭和27)年5月3日、日本国憲法発布5周年、平和条約発効、吉富町町制施行10周年記念の式典挙行の際に、当時の町長が読んだ式辞です。
1942(昭和17)年5月19日に東吉富村が吉富町と改名し町制を施行したが、直前に勃発した大東亜戦争、そして敗戦と全国的に虚脱状態に陥っていたが、次第に復興してきたということが式辞の中で述べられています。
今年、吉富町は町制80周年です。2022(令和4)年5月19日に町勢施行80周年記念式典が開催されました。
【神様が相撲をとる町】
吉富町は「神様が相撲をとる町」として有名です。
八幡古表神社(はちまんこひょうじんしゃ)に伝わっている傀儡子(くぐつ)とそれを操っての傀儡子の舞(細男舞(くわしおのまい))と神相撲は、古表神社の長い歴史と共に特色ある民俗文化として今日まで伝承してきています。
鎌倉時代から始まり、その後、継続的に行われましたが、昭和の初期に本格的に復元され現在は、この貴重な文化財を途切れることなく後世に伝えるため細男舞・神相撲保存会により伝承活動が行われています。
奈良時代に始まる宇佐神社(うさじんじゃ)の放生会に古表船を出し、傀儡子(木彫りの操り人形)を操って細男の伎楽(ぎがく)を奏したのが起源とされ、東西10体ずつの神々によって逐次、勝ち抜き相撲、次いで東・5体の神々と西・住吉神の飛び掛り相撲、次いで東・11体と西・住吉神の押し合い相撲、最後に、東西4体ずつの女神による八乙女舞が奏されて終わります。
現在は4年に1度の放生会(ほうじょうえ)で奉納され、昼間は沖合に繰り出した船上で一部が披露され、夜は八幡古表神社境内の神舞殿で、およそ1時間半にわたって披露されます。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!!
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は宮若市(みやわかし)です。
福岡共同公文書館では県民の皆さんに広く公文書館のことを知っていただくため、各市町村の公共施設等をお借りして出張展示『キャラバン隊』を実施しています。
7月の『キャラバン隊』は宮若市です。令和4年7月12日(火)から26日(火)まで、宮若リコリス(生涯学習センター)でパネル展示を行います。
◆地理
宮若市は、福岡市と北九州市のほぼ中間に位置しています。市の面積は139.99平方キロメートル。市の西部から南部にかけては、西山(にしやま)、犬鳴山(いぬなきやま)、鉾立山(ほこたてやま)、笠置山(かさぎやま)などの太宰府県立自然公園に指定されている三郡(さんぐん)山系が連なり、平地や小丘陵が広く分布した盆地となっています。 また、市の中央を東へ貫流する犬鳴川(いぬなきがわ)と八木山川(やきやまがわ)に流れ込む支流があり、その流域に農地や市街地が形成され、水と緑に恵まれた地域となっています。
◆歴史
宮若市は、平成18年2月11日に、宮田町(みやたまち)と若宮町(わかみやまち)が合併して発足しました。
宮田町は、明治17年に石炭採掘が開始されて以来、ほぼ1世紀にわたり大規模なエネルギー供給地として栄え、炭鉱の閉山後は自動車関連企業が立地し、工業のまちとして発展してきました。
一方、若宮町は、美しい山々に囲まれた自然豊かな農村地域であり、農業を主な産業として、脇田温泉(わきたおんせん)や国指定史跡である竹原古墳(たけはらこふん)など文化・観光にも力を入れてきました。
◆「宮若生活」(みやわか せいかつ)
「宮若生活」は宮若市の広報紙です。生活に欠かせない「情報」に加え、毎号まちの「話題」を取り上げています。令和4年4月号では、「ありがとう母校」と題し、閉校となった小学校、そして新たに開校する小学校を8ページにわたり特集しています。
◆宮若追い出し猫(みやわか おいだしねこ)
宮若市と言えば「追い出し猫」を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
市のイメージキャラクター「宮若追い出し猫」は、地元に古くから語り継がれている伝説に由来しており、市内の至る所で追い出し猫のモチーフを目にすることができます。追い出し猫のデザインが使用された福丸(ふくまる)交流スペースは、平成29年に福岡県の屋外広告景観賞を受賞しました。
ここでは、観光によるまちづくりの軌跡をたどる資料を紹介します。
どうぞ、宮若市(宮若リコリス)での出張展示『キャラバン隊』へおでかけください。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今回は那珂川市の紹介です。
ご存じのように、福岡共同公文書館では県民の皆さんに公文書館をアピールするため、各市町村のパブリックスペースをお借りして『出張展示』を行っています。今年5月17日(火)~31日(火)には、那珂川市(なかがわし)のお世話になり、ミリカローデン那珂川で展示を行いました。という訳で、今回は公文書をもとに那珂川市の魅力の一端をお伝えします。
◆地理
那珂川市は、地理的には福岡県の西部に位置します。
東側は春日市、大野城市、筑紫野市と隣接
南側は佐賀県に隣接、
北・西側は福岡市に隣接し、福岡市の都心部から約13Km
という状況で、『福岡都市圏』の一角を占めています。
◆歴史
明治22(1889)年4月30日 町村制の施行によって
南畑村
岩戸村
安徳村 の三村が誕生
昭和31(1956)年4月1日 市町村合併促進法に基づいて三村が合併し、筑紫郡那珂川町が誕生
平成30(2018)年10月1日 筑紫郡那珂川町から『那珂川市』へ
◆ずうーっと住みたい那珂川市
那珂川市の広報紙『広報なかがわ』には「ずうーっと住みたい那珂川市」というキャッチフレーズが添えられています。このキャッチフレーズ、実はかなりの歴史があります。公文書館に保存されている『広報なかがわ』をさかのぼると、まだ「那珂川町」だった時代の平成23(2011)年4月から広報紙のキャッチフレーズとして登場したことがわかります。かれこれ11年、福岡共同公文書館よりも年長です。良いものは長持ちしますね。
◆裂田溝
「読めたらスゴイ漢字」と言っても通用しそうですが、『さくたのうなで』と読みます。那珂川市に古くからある農業用水路で、日本書紀の神功皇后紀で築造のいきさつが語られています。令和2(2020)年には、文化庁による『日本遺産』にも認定されました。
◆ヤーコン
これも「知ってたらスゴイ」の類です。日本でのヤーコンの認知度はまだまだ低いですが、外観がサツマイモに似て、フラクトオリゴ糖・食物繊維・カリウム・ポリフェノールなどを多く含む健康野菜です。那珂川市ではこれを特産品と位置付け、栽培に力を入れています。
このほかにも、那珂川市は大川市と連携して、那珂川産の木材を使い大川の家具技術で製品を作る、という持続可能な森林サイクルを構築しようと取り組んでいます。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!!
福岡共同公文書館は、福岡県と県内全市町村(政令市である北九州市、福岡市を除く)が共同で設置・運営する公文書館です。そのため、ここで働く職員は福岡県の職員3名と市町村の職員3名に会計年度任用職員9名という構成になっています。
そこで、今回「公文書でめぐる ふるさと福岡」は当館の職員さんにご自身の市町村の紹介をしていただこうと思います。
では、ここからは当館の「しょこら」がお話を聞きます。
どちらの市町村からの派遣ですか?
大川(おおかわ)市から派遣されていた野田です。私は、令和3年度に福岡共同公文書館で勤務していました。
大川市ってどんなところですか?
大川市は筑後南部にあり、派遣先の福岡共同公文書館がある筑紫野市からは少し遠いところです。
昭和29年4月1日に大川町を中心とした三又(みつまた)・木室(きむろ)・田口(たぐち)・川口(かわぐち)・大野島(おおのしま)村の6か町村が「町村合併促進法」に基づいて合併し、大川市が誕生しました。
福岡県南部の主要都市である久留米市、大牟田市や佐賀県佐賀市を結ぶトライアングルのほぼ中心に位置しています。筑後平野の中央に位置し、筑後川が市の西部を流れ、有明海に注いでいます。また、市内を延べ300キロメートルにもわたるクリークが縦横に走り、独特の景観を有しています。
当館に来る前の「福岡共同公文書館」の印象は?
「自分たち公務員が市役所で作成している公文書の中でも特に重要なものを保存している場所」、というようなぼんやりとしたイメージです。
実は公務員になったばかりの頃、新採研修で一度訪れたことがあったのですが、4年ほど前のことだったので記憶はおぼろげでした。
当館に派遣が決った時はどう思いましたか?
「自宅から場所が遠いけど通勤は大丈夫だろうか」、「公文書館で保存するような重要なものを自分が選ぶのだろうか」、「そもそも自分で仕事は務まるのだろうか」と心配事がいろいろと思い浮かびました。
ただ、今回の派遣が公務員になって初めての異動だったこともあり、決まった当初は実感が湧かない感じもありました。
当館ではどのような仕事をしていましたか?
公文書を収集・選別して保存する「文書班」に所属していました。
県内の様々な市町村から大量の公文書を運ぶために運搬業者に依頼します。一度に複数の市町村を回れるように、移管市町村の日程調整などが必要になってきます。
保存する公文書を決める「選別会議」を行ったり、保存が決まった公文書に「燻蒸」という殺虫処理を燻蒸業者に依頼したり、文書保存庫の湿度管理をしていたりと、「歴史公文書保存」のために様々な仕事をしています。
ここでは紹介しきれない小さな仕事から大きな仕事まで、まだまだたくさんあります。
野田さんは1年間の勤務でしたが、この1年で印象に残った出来事は?
宮若市で行った「歴史公文書研修会」になります。
自分が講師となって福岡共同公文書館がどういったところかや公文書移管の重要性を説明するのですが、緊張してちゃんと説明できたか不安でした。
でもその後、宮若市から公文書を移管してもらうことができて嬉しい結果となりました。
実際に働いてみた「共同公文書館」はいかがでしたか?
働きはじめた頃は仕事を覚えるのに必死で「通勤が遠い」なんてことはどうでもよくなりました(笑)。
この1年間福岡共同公文書館で仕事をするうえでわからないことばかりで、職場の皆さん、文書事務担当者の方、仕事を依頼する業者の方と、様々な人たちに本当にいろんなことを教えてもらい、そして助けてもらいました。
1年前の福岡共同公文書館に対するぼんやりとしたイメージが、実際に働くことで全く違ったイメージに変わっていることを自分の中で感じています。
ご自身市町村のご紹介と今後の抱負をお願いします
大川市は「家具」が有名なところで、木工まつりや家具展示会をやっています。「家具」といえば「大川市」をイメージする人たちも多いのではないでしょうか。
他にも「あまおう」の主要な生産地だったり、筑後川の「えつ」が有名だったりもします。
実は、「子育て」にも力を入れていて、保育料が安いといったこともあります。私がこちらに派遣されている間に子育て支援施設「モッカランド」もオープンしているんです。
今回福岡共同公文書館で働くことで、多くの人たちと出会い、知り合うことができました。
この「経験」、「繋がり」を忘れず、大川市でのこれからの仕事に活かして、自分自身と大川市どちらも成長できるよう頑張りたいと思います!
2022年1月13日(木)から2月1日(火)までの間、当館の出張展示を、柳川市(やながわし)の柳川市民文化会館ロビーで行っていました。そこで、今回お世話になった柳川市の紹介を「公文書でめぐる ふるさと福岡」でしたいと思います。
柳川市は、福岡県南部、筑後平野の西南端に位置しています。東西11km、南北12kmとなっており、北は大川(おおかわ)市、大木(おおき)町、筑後(ちくご)市、東はみやま市に接し、南は有明海(ありあけかい)に面しています。
県庁所在地の福岡(ふくおか)市まで約50km、久留米(くるめ)市まで約20km、大牟田(おおむた)市まで約15kmの距離にあり、西鉄天神大牟田線などを利用した通勤・通学圏となっています。
総面積は77.15平方kmで、地目別に見ると宅地が18.0%、農地が50.7%、その他の地目が31.3%となっています。
また、市の大部分は、古くから開拓・干拓された大小規模の干拓地が魚鱗状に広がる海面干拓地帯です。標高は0~約6mの平坦な低地となっており、0°から3°の緩やかな傾斜で有明海に向かって広がっています。
柳川地方に人が住み始めたのは、およそ2千年前と推定されています。そのころから人々は、有明海の湿地の溝を掘り、その土を盛り上げて開拓し、灌漑と排水を担うクリーク網を形成していきました。市内外に残る条里の遺構や地名はその営みの古さを物語っており、この縦横に走るクリークは柳川地方の景観の特徴です。1601(慶長6)年から田中吉政が、1620(元和6)年から立花宗茂がこの地を治め、治水・干拓事業により2000町に及ぶ干拓地の造成など、今日に伝えられている地域の社会的、物的環境の基礎が整えられました。
1871(明治4)年の廃藩置県により旧柳川藩は柳河県となり、1889(明治22)年の明治の大合併で、現在の柳川市域は山門(やまと)郡内に1町12村、三潴(みずま)郡内に3村が誕生しました。1907(明治40)年に3村が合併して大和(やまと)村に、4村が合併して三橋(みつはし)村が誕生しました。また、昭和になると1937(昭和12)年には2村が合併して昭代(しょうだい)村が誕生します。そして、昭和の大合併で1951(昭和26)年4月に1町5村が合併して柳川町となり、翌年4月に市制を施行しました。また、同年6月には三橋村が、9月には大和村が町制を施行しました。さらに1955(昭和30)年1月に、柳川市が三潴郡の昭代村、蒲池(かまち)村を編入合併しています。平成17年3月21日に柳川市、大和町、三橋町の1市2町が合併し、現在に至っています。
柳川百選
柳川市は「水郷柳川」としても知られ、市内には網目のように掘割が張り巡らされ柳川ならではの風土を作り上げています。船頭さんの歌を聞きながら、ゆったりと流れる時間をたのしむ川下りはもちろん、掘割沿いを歩くだけでも四季を通して非日常を感じることが出来るところです。そんな、柳川市は2006(平成18)年に市内の「大切にしたいもの」「誇れるもの」100点を選んだ「柳川百選」を完成しました。
2006(平成18)年の8~9月に募集し、449人から述べ628点の応募があり、その中から学識経験者などで構成する選考委員会で選定しました。
有明沿岸サミット
「有明沿岸サミット」とは福岡県の大牟田市・高田(たかた)町(現在みやま市)・大和町(現在柳川市)・柳川市・大川市と熊本県の玉名(たまな)市・岱明(たいめい)町(現在玉名市)・長洲(ながす)町・荒尾(あらお)市の有明海を囲む市・町で運営協議会を構成しています。「県境を越え、協調と連帯」を基本理念に1987(昭和62)年から毎年1回開催されています。この「有明沿岸サミット」は当館の文書で第15回(2002(平成14)年)の開催までは確認できましたが、それ以降の開催が確認できませんでした。開催等の確認ができる文書をお持ちの自治体の方、共同公文書館への移管をお待ちしております。
柳川市からは891冊の公文書が移管されています(2021年12月末現在)。また、行政資料も所蔵しています。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今年も残りわずかとなりました。今年も新型コロナウイルスに振り回された1年でした。
さて、今回は「公文書でめぐる ふるさと福岡」で、「添田町(そえだまち)」を紹介します。
添田町は、福岡県の東南部に位置し、南部は北部九州の最高峰英彦山(ひこさん)(1,199m)や鷹巣山(たかのすやま)(979m)を境に大分県日田市(ひたし)、中津市(なかつし)と接しています。西部は釈迦ヶ岳(しゃかがだけ)(844m)、大日ヶ岳(だいにちがだけ)(829m)、戸谷ヶ岳(とやがだけ)(702m)などの山系をもって、朝倉郡東峰村(あさくらぐんとうほうむら)および嘉麻市(かまし)、田川郡川崎町(たがわぐんかわさきまち)と接しています。
東西13㎞、南北16㎞で総面積132.20平方㎞と県下でも屈指の広大な面積を有しています。地勢は、南部を中心とした山間地帯、中部の山麓地帯によって占められ、北部の平坦地に、町の経済、文化、行政、交通等の中心となり人口の70%が集中しています。
年間の平均気温は12~14度と低く、平均雨量は2,200~2,600mmと県下最高の降雨量です。しかし、この自然条件が豊かな森林資源を育て、雄大な景観を持つ県下唯一の休養型観光地としての適地を作るとともに、山間地より流下する清流となって周辺市町村の農作物や飲料水を潤す貴重な水資源を生み出しています。 (HPより)
それでは、町制施行100周年記念誌「添田百科」を見ながら、もう少し詳しく添田町の紹介をしたいと思います。
添田町が町制施行100周年を迎えたのは2011(平成23)年です。ということは添田町が町制施行したのは1911(明治44)年です。1889(明治22)年の市制・町制施行前に添田町域に16あった村は財政基盤を固めるために合併を進め、8つの村に統合されました。1907(明治40)年に添田村と中元寺村(ちゅうがんじむら)が合併し、新たな添田村が誕生しました。その4年後の1911(明治44)年に添田村は町制施行して添田町になりました。1942(昭和17)年、添田町は彦山村(ひこさんむら)と合併しました。また、その後町村合併法の施行を機に1955(昭和30)年津野村(つのむら)と合併し現在の町域となりました。
添田警察署
1896(明治9)年行事(ぎょうじ)警察所添田屯所として設立し、翌年には屯所を廃止し添田分署となりました。その後管轄の変更等を経て1926(大正15)年に添田警察署として独立しました。1948(昭和23)年、警察制度の改正によって自治体の添田警察署となります。1954(昭和29)年に警察制度が改正され自治体警察が廃止となり、県警察が発足し、福岡県添田警察署となりました。その際に、添田町の商工会や消防団等から添田町の警察署をそのまま残してほしいという旨の陳情書が提出されています。田川郡の中でも一番面積の広い添田町は炭鉱地帯であるとともに国定公園英彦山があり近年犯罪が増加しているため、添田町に警察署を置いてほしいということでした。結果としては、警察署の位置はそのままとなりました。添田警察署は2010(平成22)年県下の警察再編成に伴い廃止され、田川警察署添田警部交番となりましたが、位置は現在も昔のままです。
英彦山
旧豊前(ぶぜん)国である添田町と大分県中津市山国町(やまくにまち)にまたがる標高1,199メートルの山です。日本三大修験道霊山のひとつとして多くの信仰を集めてきました。その昔、英彦山へ降臨し、山の神とあがめられた日胤尊(ひこのみこと)の名にちなんで、日子の山「日子山」と名付けられたとされています。それが変化して、「英彦山」と呼ばれるようになりました。
英彦山は、1925(昭和25)年に国定公園指定を受けています。それ以降は参詣者だけでなく登山やレジャー目的の観光客が増えました。
添田町からは170冊の公文書が移管されています(2021年11月末現在)。また、行政資料も所蔵しています。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
早いもので今年度も残り半分になりました。
緊急事態宣言は解除になりましたが、福岡共同公文書では引き続き感染対策をおこないながら、開館していきます。
さて、今回は「公文書でめぐる ふるさと福岡」で、「筑前(ちくぜん)町」を紹介します。
筑前町は、平成17年3月22日に旧夜須(やす)町と旧三輪(みわ)町が合併して誕生した町です。福岡県の中南部、福岡市の南東約25km、久留米市の北東約20kmの場所に位置しており、面積は約67平方キロメートル、町の西南部は筑後(ちくご)平野の北端部にあたり比較的平坦な地形であり、この平地に主要集落が発達しています。人口は約2万9千人(令和3年4月現在)で、近年は福岡都市圏や久留米広域圏に近接しているという恵まれた立地条件を背景に、現在も人口増加を続けています。
米・麦・大豆の普通作を中心とした農業地帯で、黒大豆(クロダマル)、大豆(フクユタカ)、大豆加工品、いちご、米、麦、ナシ、しいたけ、木酢、なす、きゅうりなどが特産品です。
「閉町式・開町式」 (1-2-0006744) 三輪町の閉町式 「夜須町閉町式」 (1-2-0024604) 夜須町の閉町式
「閉町式・開町式」 (1-2-0006744) 筑前町の開町式(のぼり・立看板・懸垂幕の図案)
筑前町の町章は、「ち」の文字を基調に、未来に躍動する人を象徴的に表現し、赤は太陽、青は大空、緑は大地で自然豊かな筑前町をイメージしています。
また、筑前町には歴史から大自然まで沢山の見所があります。日本最古の神社といわれる「大己貴神社(おおなむちじんじゃ)」などの観光名所や、町一番の祭り「ど~んとかがし祭」や700~ 800年前から続いていると言われている「おくんち(秋季大祭)」などが開催されています。
大己貴神社とは
大己貴神社の歴史は古く、西暦200年頃(仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)9年)神功皇后(じんぐうこうごう)が、現在の朝倉(朝倉)市(秋月野鳥(あきづきやちょう))のあたりで勢力を持っていた豪族羽白熊鷲(はじろくまわし)を征伐後、新羅(しらぎ)征討を起こすにあたり兵を募ったが集まらず困っていたところ、大神社(または大三輪社(おおみわのやしろ)と記載)を建て、太刀や矛を奉納したところ、兵が集まったと『日本書紀』に記載されています。また、延喜式によると日本最古の神社の一つとと数えられ、地元では「おんがさま」と呼ばれて崇敬されています。
「栗田八幡宮 大己貴歳入歳出決議書類」 「1-2-0006363」
羽白熊鷲についてはこちらに説明があります。
「夜須町の民話と伝説」 (2-1-0020709)
筑前町からは535冊の公文書が移管されています(2021年9月末現在)。また、約50冊の行政資料を所蔵しています。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
昭和の大合併が進んでいた昭和29年、東郷(とうごう)町、赤間(あかま)町、吉武(よしたけ)村、河東(かとう)村、南郷(なんごう)村の5町村と神興(じんごう)村の一部が合併し、旧宗像(むなかた)町が誕生しました。翌年には、神湊(こうのみなと)町、田島(たしま)村、池野(いけの)村、岬(みさき)村の4町村が合併し、旧玄海(げんかい)町が誕生しました。
昭和52年に、旧宗像町の人口が5万人を突破し、昭和56年に旧宗像市が誕生しました。
その後、地方分権や少子高齢化の進展への対応などの社会全体の流れや、それぞれの市町村の特徴と資源を生かしたまちづくりを進めるため、平成15年に旧宗像市と旧玄海町が合併し、新しい宗像市が誕生しました。平成17年には旧大島(おおしま)村と合併し、現在の宗像市となっています。
北九州市と福岡市の両政令指定都市の中間に位置し、北を除く3方向を山に囲まれ、玄界灘(げんかいなだ)に大島、地島(じのしま)、沖ノ島(おきのしま)、勝島(かつしま)を有しています。また、市の中心部には、水源でもある釣川(つりかわ)が流れ、玄界灘に注いでいます。
市内を東西に横断するJR鹿児島本線や国道3号および国道495号により福岡市・北九州市への交通アクセスが充実し、住宅団地や大学、大型商業施設などが相次いで進出しました。これに伴い、急激な都市化が進み、生活環境や都市基盤が整備され、教育や文化、子育て支援などが充実し、人口減少時代に突入している現在においても、人口を維持し続けています。
宗像市には
世界遺産「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」があります。
日本列島と朝鮮半島を結ぶ海域に位置する沖ノ島では、古来、航海安全の祈りが捧げられ、崇拝されてきました。祭祀跡からは、約8万点もの奉献品が出土しています。立ち入りを許さない厳格な禁忌は、500年間にも及ぶ古代祭祀の跡をその後1000年以上、手つかずの状態で守り伝えてきました。
「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」は、沖ノ島に宿る神への信仰を起源とする宗像三女神をお祭りする宗像大社三宮(沖津宮(おきつぐう)、中津宮(なかつぐう)、辺津宮(へつぐう))、遥か彼方に沖ノ島を望む大島の沖津宮遙拝所(おきつみやようはいじょ)、信仰の伝統を築いた人々が眠る新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群で形成されています。古代東アジアで行われた活発な対外交流の時期に遡る航海安全のための信仰は、日本固有の自然崇拝思想の原初的な形態を残し、その後の祭祀行為や信仰の意味が変容するものの、現代まで一貫して宗像地域の人々によって継承されてきました。このことが世界に例のない物証として顕著な普遍的な価値を持つと評価され、平成29年7月にユネスコ世界文化遺産に登録されました。
世界遺産登録までには10年以上の年月を要しています。平成の合併により、現在の宗像市となる平成15~17年頃から「沖ノ島を世界遺産に!」という運気が盛り上がってきたようです。平成18年から文化庁への提案書の提出をはじめ、平成21年にユネスコの暫定リストに記載されました。そしてそこからスケジュールを組み、世界遺産の登録へ向けて様々な取り組みを行った結果、平成29年に世界文化遺産に登録されました。
「世界遺産庁内組織 世界遺産登録推進専門部会」 (1-2-002526)
福岡地区で初めての県立の中高一貫校となる宗像中学校の開校
2015年に宗像高校の併設校として福岡県立宗像中学校が開校しました。近くに私立の中高一貫校がなく、進学校である宗像高校に併設されることから、宗像中学校の人気は高く、志願倍率は8倍を超える狭き門でした。
また、「安心して子どもを育てることができるまち宗像」を教育行政の柱とし、この「安心」を生み出す具体策の一つに、平成18年度から「小中一貫教育」の調査研究を進めています。
「小中一貫教育(推進協議会)」 (1-2-0020204)
宗像市からは317冊の公文書が移管されています。また、約150冊の行政資料を所蔵しています。
(令和3年8月現在)
また、当館ではただいまエントランスにおいて、県と県内市町村の役場や町の風景の「いま」と「昔」をふり返る写真展「なつかしの写真展~あの日のふくおか~」を開催しています。ここでは、宗像市の旧庁舎(昭和40年代後半)と現在の庁舎の写真を展示しています。
しかし、緊急事態宣言の発出に伴い当館は休館中(~令和3年9月12日(日)まで)です。再開した際には、ぜひ見に来てください。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
毎日暑い日が続いて、季節はすっかり夏ですね。学校は夏休みに入り、ただいま、オリンピックが開催中です。
さて、今回は「公文書でめぐる ふるさと福岡」で、「篠栗(ささぐり)町」を紹介します。
篠栗町は、1955(昭和30)年4月1日 に 篠栗町と勢門(せと)村が対等合併し、新町制による篠栗町が発足しました。
「新町建設計画書 粕屋郡篠栗町」(1-1-0039366)
福岡市内から東に約12キロメートルのところに位置しており、車は都市高速道路を使用すれば福岡市内まで20分、町の東西を走るJR篠栗線(福北ゆたか線)の快速を利用すれば博多駅まで15分の距離にあり、バスなどの公共交通機関もあります。
町の面積は38.93平方キロメートルです。東西約8キロメートル、南北約7キロメートルで、鉾立(ほこたて)山・八木(やき)山・若杉(わかすぎ)山の峰々に囲まれた緑豊かな町で、中央には多々良(たたら)川が東西に流れ、その周囲に平地が開けています。
町の総面積の約7割に山林が広がり、ウォーキングコースやキャンプ場などのレクリエーション施設や、180年の歴史を持つ篠栗四国八十八箇所霊場に結びつきのある歴史的な遺産や施設などが数多く点在しています。
篠栗四国八十八箇所霊場(ささぐりしこくはちじゅうはちかしょれいじょう)
空海(弘法大師)を拝する88か所の霊場の総称で、篠栗八十八箇所または単に篠栗霊場とも呼ばれています。小豆島(しょうどしま)八十八箇所、知多(ちた)四国霊場と共に、「日本三大新四国霊場」に数えられることもあります。町内各地に寺があり、中でも1番札所の南蔵院(なんぞういん)は青銅製のものとしては世界最大の釈迦涅槃像(しゃかねはんぞう)で知られており、多くの観光客が訪れています。
篠栗町の町章
篠栗町の「さ」を図案化して、明るく住みよい調和のある町をシンボライズしたもので、中心から四方に広がりゆく発展の意味を含んでいます。三つの三角頂点は若杉山を中心として鉾立山、米の山を表しています。
公文書の電子的管理
篠栗町では、平成27年度から公文書の本格的な電子的管理を県内自治体のなかで最初に導入しています。
現在ほとんどの自治体ではパソコンで作成した公文書の多くが紙に印刷され、それを原本として保存されていきますが、パソコンで作成した文書そのものを原本として、紙を使わずに保存などを行うことを原則とすることを「公文書の電子的管理」といいます。
篠栗町では、電子的管理を導入したことで、ペーパーレス化による経費の節減は元より、文書事務効率の向上、特に100%の電子決裁により事務処理のスピードが格段に上がり効率化が図られています。
議会においてもタブレット端末により議会運営の効率化とペーパーレス化が図られています。また、住民サービスが様々な申請等において今年の4月から印鑑の押印が不要となったことで電子申請ができる環境を整え、篠栗町全体のデジタル化が進んでいます。
他の自治体からの視察も数多くあるようで、先進的なシステムとして注目されています。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
九州北部は、5月中旬に統計開始以来2番目に早い梅雨入りをしました。これから文書には好ましくない雨の季節になります。
さて、今回は(久しぶりの)「公文書でめぐる ふるさと福岡」で、「糸島(いとしま)市」を紹介します。
「前原市(まえばるし)」・「志摩町(しままち)」・「二丈町(にじょうまち)」が合併して2010年1月に月に糸島市が誕生しました。糸島市は、中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記されている「伊都国(いとこく)」があった地です。大陸との玄関口として古くから文化が栄え、さまざまな史跡や遺跡などが各所に残されています。中でも、平原遺跡(ひらばるいせき)で出土した日本最大の銅鏡「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」をはじめとする出土品群は、国宝に指定されています。
福岡県西部の糸島半島に位置し、東は 福岡市、西は佐賀県唐津市(からつし)、南は佐賀市と接しています。市北側には玄界灘(げんかいなだ)に面した美しい海岸線が広がり、市南側には脊振(せふり)山系の山々が連なっています。そして、それらの中間部には「糸島平野」と呼ばれる、なだらかな田園地帯が広がり、JR筑肥線(ちくひせん)と国道202号沿線を中心に市街地が形成されています。福岡市の中心部天神からJR筑肥線筑前前原駅(ちくぜんまえばるえき)まで30分ほど、また高速道路を利用してもおよそ30分の時間距離にあり、博多駅や福岡空港にも直通でアクセスでき、交通の利便性が高い地域です。
都市近郊型の農業や畜産業が盛んで、休日には市内各所にある農畜産物や海産物直売所に多くの人が訪れます。 また市内には、万葉の歌にも詠まれ「糸島富士」と呼ばれる可也山(かやさん)、神秘的な景観の芥屋の大門(けやのおおと)や桜井二見ヶ浦(さくらいふたみがうら)、美しい海岸線を有した幣の浜(にぎのはま)や鳴き砂で知られる姉子の浜(あねごのはま)、脊振山系の山々からの清らかな水が流れる白糸の滝や千寿院の滝(せんじゅいんのたき)などの名勝があります。
このほかにも、サーフィンや海水浴、登山、各種芸術家の工房、ゴルフ場、眺めのよいカフェやレストラン、カキ小屋、遺跡をめぐる歴史探訪など、さまざまな方法で糸島の魅力を楽しむことができます。
「糸島の山歩き」(左より 2-4-0012072 2-4-0012071 2-4-0012070 2-4-0012069)
九州大学との連携協力協定
市北東部には九州大学伊都キャンパスがあり、およそ18,700人の学生と教職員がキャンパスとその周辺で活動しています。
糸島市は、福岡県や福岡市、経済界と連携し、九州大学を核とした知の拠点づくりの一翼を担っています。 住環境や情報インフラなどの都市基盤の整備や知的資源を生かした企業や研究所の誘致、地域の国際化など、あらゆる分野で九州大学との連携や交流を図りながら、学術研究都市づくりを積極的に推進しています。
九州大学学術研究都市構想実現のための長期計画(案)
「九州大学学術研究都市推進協議会 九州大学学術研究都市推進機構」(1-2-0025058)
九州大学学術研究都市機能イメージ
「九州大学学術研究都市推進機構」(1-2-0025059)
怡土(いと)・志摩(しま)→「糸島」
1878(明治11)年に行政区画として発足した怡土郡と志摩郡は前原村に設置された「怡土志摩郡役所」の管轄でした。1896(明治29)年4月1日 、郡制の施行において「怡土志摩郡役所」の管轄区域の怡土郡と志摩郡を合併させて糸島郡になりました。市名の由来となっている「糸島」郡の名称は合併前の「怡土(いと)」と「志摩(しま)」の名前をつなげて「糸島」という別の字をあてたものです。
「明治二十九年五月以降 村長会決議録」(1-2-0028811) 第1回糸島村長会合議録
「怡土志摩の合併のお祝いを兼ねて親睦会を開く」ということが書かれている
糸島市からは約300冊の公文書が移管されています。また、約150冊の行政資料を所蔵しています。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
『公文書でめぐる ふるさと福岡』今回は、大木町をご紹介します。(大木町HP)
三潴郡大木町は、福岡県の南西部、筑後平野のほぼ中央にあって、山ノ井川、花宗川の沖積で形成された肥沃な土地、豊富な水に恵まれた穀倉地帯です。
筑後川下流左岸地域にあるこの地方は、古代「水沼の縣」とよばれる沼地で、鎌倉時代末期ごろ「水沼」が転じて「三潴」荘になったといわれています。立花氏の柳河藩時代、有馬氏の久留米藩時代を経て、明治4年の廃藩置県により、久留米・柳河・三池の三県が合併して三潴県となり、明治9年(1876)三潴県を廃して福岡県となりました。
明治22年(1889)町村制が施行され、旧来の村々が合併して大溝村、木佐木村、大莞村となり、昭和30年(1955)市町村合併促進法に基づき、この3村が合併して大木町になりました。町名は村民から募集し、協議で絞られた「大木」「木佐木」「花井」から全村民投票で決定したそうです。
平成17年(2005)に三潴町と城島町が久留米市に編入したので、現在の三潴郡は大木町のみです。
標高4~5mのほぼ平坦で水田の多い町内を、「堀」と呼ばれるクリーク(溝渠)が縦横に走る景観が特徴的で、堀の面積は町全体の14%を占めています。県内で同じように堀を持つ市町村(筑後市、柳川市、大川市など)の中でも特に堀の密度が高く、全国でも有数の溝渠地帯です。
堀(溝渠)は灌漑・排水・貯水の役割を兼ねています。平坦な沼地に水路を作り、掘削した土を盛り上げた部分を住居とし、洪水時に水を逃がす排水路や干ばつに備えた用水源にもなっており、この地域の農耕文化やくらしを古くから支えてきた構造物です。秋の菱の実とり(掘割に自生する菱の実を「半切り」と言われる大きなタライに乗って収穫する)や、冬の堀干し作業なども、かつてはどの堀でも見られていたそうです。近年は、生活雑排水による堀の汚濁などの問題も発生し、住民とともに堀再生の取組が行われています。
米麦を中心とした農業が主産業で、特産物としてイ草、イチゴ、アスパラガスやキノコ類の栽培、畜産業、イ草加工品である畳表、花筵や久留米絣などの伝統工芸品も生産されています。(参考:福岡百科事典、大木町誌)
中学生の歌声にのせて大木町を紹介するPR動画 この町が好きだよ (大木町公式Youtubeチャンネル)より
大木町から福岡共同公文書館に移管された歴史公文書は451点(令和3年2月現在)で、循環のまちづくりに関する文書や、堀の再生や保全に関する文書などがあるのが特徴です。また、大木町が大川市との合併を協議検討した際の文書もあります。合併はしないことになりましたが、この時の文書は大川市からも移管されており、当時の意思決定の過程を将来の検証にたえうる形でのこす公文書館の使命と、当館が「共同」公文書館だからこそできることを考えていくうえでも重要な資料といえます。
平成17年(2005)大木町は九州で一番先にバイオマスタウン構想を公表し、リサイクルやごみの減量といった循環のまちづくりに取り組んできた自治体です。
九州農政局のバイオマスタウンマップ(大木町が提出したバイオマスタウン構想を見ることができます。)
バイオマスというのは、「動植物から生まれた、再利用可能な有機性の資源(石油などの化石燃料を除く)」のことです。化石燃料ももとは有機物ですが非常に長い年月をかけて化石になった限りのある資源です。しかし、バイオマスは、太陽エネルギーを使って水と二酸化炭素から生物が生成するものなので、持続的に再生可能な資源で、さまざまな利用方法があります。木材、海草、生ゴミ、紙、動物の死骸・ふん尿、プランクトンなど様々なバイオマス資源を、原料やエネルギーとして利活用した場合、植物が育つ過程で吸収した大気中の二酸化炭素を、物体(炭素)として固定、また大気中に戻すだけで、増加させないので、気候変動の抑止に役立つとされています。
転機となったのは平成14年(2002)、ロンドン条約に基づいた廃棄物処理法施行令の一部改定で、し尿・浄化槽汚泥等の海洋投入処分の全面禁止(適用猶予期間5年)が決まったことです。それまでのし尿等の海洋投棄処分を速やかに停止し、陸上処理に切り替えることになり、大木町は平成18年(2006)から、家庭の生ごみ、し尿、浄化槽汚泥を循環施設「くるるん」で資源化する事業をはじめました。バケツコンテナ式の生ごみ分別を確立し、その後、プラスチックや紙おむつなども資源化したので焼却ゴミの量は半分以下に減り、施設でのエネルギー(メタンガス)創出と消化液(メタン発酵液肥)の農業還元に成功した事例として、多くの視察も受け入れてきました。
平成20年(2008)3月には全国で2番目の「もったいない宣言(ゼロ・ウェイスト宣言)」を公表し、その年の可燃ごみ組成調査で焼却ゴミの重量比の中で大きな割合(約1割)を占めていた紙おむつをリサイクルする仕組みづくりに着手します。紙おむつの処分(リサイクル)は現在、超高齢社会の日本の廃棄物行政において、大きな課題となっていますが、大木町は福岡県のリサイクル総合研究センターや大牟田エコタウンのリサイクル施設、企業、紙おむつメーカーとも連携して、平成23年(2011)10月に家庭から出る紙おむつ分別回収をいち早くはじめました。年間100tを超える紙おむつが回収され、再資源化されています。(参考:『ごみを資源にまちづくり』中村修,2017年8月,農文協、『月刊廃棄物』日報ビジネス,2019年4月号ほか)
大木町公文書「平成23年度紙おむつリサイクル事業」(1-2-0023751)
大木町公文書「平成23年度ゼロウェイスト関係文書」(1-2-0023750)
大木町公文書「EPR・デポジット(協議会)」(1-2-0030051)
平成22年(2010)、大木町・筑後市・大川市が共同開催した『第18回環境自治体会議「ちっご会議」』では、「拡大生産者責任(Extended Producer Responsibilities:EPR)」と「デポジット制度」の導入で循環型社会の再構築をめざす ちっご会議決議が採択され、EPRとデポジットの法制化を求める署名活動を行っています。環境保全や温暖化防止は、廃棄物処理等の行政活動だけでは実現できません。自治体内で住民とともに目標を持って根気強く取組むこと、県や近隣市町村とも連携し、全国に向けて発信していくことなど、大木町の取組みから学べることは多いですが、環境や廃棄物の問題は多くの自治体がよりよいあり方を模索し、つながりをつくりながら取り組んでいることがわかる資料です。
大木町のように堀のある地域では、農閑期である冬に、堀に沈殿した堆積物(泥土)をくみ上げる、堀干し・ごみ揚げという作業を行います。ここで【ごみ】というのはこの有機物の栄養をたっぷり含んだ泥土のことを指していて、水田や藺田(イ草を作る田)に客土として入れて土壌改善をおこなったり、肥しに使ったりしていたそうです。堀の貯水量を維持して町内に水をめぐらせ、土も循環させてきた大木町の風土が、循環型のまちづくりの基層にあるのですね。
福岡県立公文書館であり、福岡県市町村公文書館でもある当館では、大木町職員もはたらいています。せっかくなのでコメントをもらいました。
この度は、福岡共同公文書館のブログをご覧いただき、どうもありがとうございます。今回のブログでお伝えしきれなかった、大木町・福岡共同公文書館の魅力がたくさんありますので、ご来町・ご来館を心よりお待ちしております。(文書班・堤)
1月は「いく」、2月は「にげる」、3月は「さる」といわれているように、気が付けば2月も半ばを過ぎていましました。
さて、「公文書でめぐる ふるさと福岡」今回は岡垣町です。
岡垣町(おかがきまち)は)、福岡市と北九州市の間に位置し、町の東部は芦屋町(あしやまち)と遠賀町(おんがちょう)、西南部は孔大寺(こだいし)山系を隔てて宗像市(むなかたし)に接し、北部は響灘(ひびきなだ)に面し、三里松原(さんりまつばら)が美しい海岸を形成しています。町の総面積は48.51平方キロメートルで、遠賀郡(岡垣町・芦屋町・水巻町(みずまきまち)・遠賀町)の総面積のはぼ半分を占めています。
「おかがき」という町名の由来
1907(明治40)年に岡県村(おかがたむら)と矢矧村(やはぎむら)の二つの村が合併して岡垣村が誕生しました。明治維新後、廃藩置県の影響で誕生した二つの村は、基本的な風俗や性格に共通する部分が多く、加えて日本国有鉄道(現在のJR)の停車駅の誘致運動なども影響して次第に合併の機運が高まってきました。しかし、そこで問題となったのが新しい村名でした。岡県村は「矢矧村も古くは岡の県だったから岡県村とすべきだ」という声がありました。一方の矢矧村は「神功皇后(じんぐうこうごう)の時代に、当時武器である弓矢を作った故事から名付けられた矢矧川が村名の由来なので、こちらも由緒正しい名前だ」と意見がまとまりませんでした。そこで、当時の遠賀郡の郡長(郡の行政をつかさどる長官)が、「岡県の岡と古くからこの地を垣崎(かきさき)と呼んでいたことから垣をとり、『岡垣』とする」という決定を下したのです。こうして、村名を残せなかった矢矧村の名前は、矢矧川にその名を残し、また1910(明治43)年に開業した日本国有鉄道の駅に、矢矧村の中心地であった「海老津(えびつ)」の名を残し今日に至っています。そして、55年後の1962(昭和37)年10月1日に岡垣村から岡垣町になりました。
「(昭和37年十月)町制施行に関する事績」 (1-2-0033643)
遠賀郡の合併
遠賀郡ではで1998(平成10)年から合併に関する動きが始まりました。1999(平成11)年)に「遠賀郡4町合併任意協議会」が発足しました。この協議会は2001(平成13)年に解散しましたが、2003(平成15)年に「遠賀郡4町合併協議会」(法定協議会)が設置されました。その後、合併に向けての協議が進められましたが、2004(平成16)年9月5日(日)に岡垣町では合併に関する住民投票が行われ、そこで反対が賛成を上回ったため、岡垣町は合併協議会から離脱を表明しました。その結果、4町での合併は断念することになり「遠賀郡4町合併協議会」は同年10月31日の解散することになりました。
「遠賀郡4町合併に関する住民投票(③)」(1-2-0033634)
岡垣町の周年行事
1962(昭和37)年10月1日に町制施行した岡垣町では、1977(昭和52)年町制15周年、1982(昭和57)年町制20周年、その後10年度とに周年記念事業を行っています。
町制20周年記念事業において「岡垣音頭」(レコード)を制作し、40周年記念事業において「変わらない岡垣(ふるさと)」というイメージソングを制作しています。また今回、参考にした「岡垣町総合学習副読本 おかがきナビ おかがきの、いいとこ探そう!」(小学生向け)は町制50周年を迎え、ふるさと岡垣町のことをもっと知ってもらい、ふるさとを誇りに思い、愛する心を育ててもらいたいという気持ちをこめて作成されたそうです。
「(昭和57年度)町制20周年事業(事績綴)」(1-2-0033648)
「岡垣町イメージソング 変わらない岡垣(ふるさと)」(2-4-0012647)
「岡垣町総合学習副読本 おかがきナビ おかがきの、いいとこ探そう!」(2-2-0000881)
現在、当館で開催中の「常設展 冬」「特集 公文書のいろいろ」において30周年をアピールするために作成されたのぼり旗を展示しています。
2012(平成24)年に町制施行50周年を迎えた岡垣町は交通網の整備や団地の開発が進められ、自然環境にも恵まれた住みよい街として発展しています。
岡垣町から移管された公文書は令和2年1月現在455冊です。また公文書のほか岡垣町が作成した行政刊行物も所蔵しています。
それではまた、次回「公文書でめぐる ふるさと福岡」をお楽しみに!
今回は、飯塚(いいづか)市です。
福岡共同公文書館が所在する筑紫野市と、飯塚市とは隣接するおとなりさんです。
当館の専門員さんにも、飯塚市から出勤している方がいますが、この二つの都市は、
そもそも江戸時代から、同じ街道沿いの宿場町としてのつながりがありました。
江戸時代、長崎と小倉を結び、参勤交代をはじめ多くの旅人の通行があった長崎街道。
長崎街道の筑前国内の六つの宿場を「筑前六宿(ちくぜんむしゅく)」と呼びました。
その西の端の原田(はるだ)宿と次の山家(やまえ)宿は現在の筑紫野市、
その次の内野宿と飯塚宿は現在の飯塚市です。
しかし隣り合う山家宿と内野宿の間には、長崎街道一の難所ともいわれた
冷水峠(ひやみずとうげ)が立ちはだかり、旅人を苦しめました。
その冷水峠にも、1985年に全長2,891mの冷水トンネルが開通し、
飯塚市と筑紫野市を結ぶ道路ルートはぐっと快適になりました。
鉄道の方も、筑豊本線(若松駅(北九州市)-原田駅)が飯塚市と筑紫野市を結んでいます。
福岡市・北九州市の両政令市と飯塚市とを考えてみても、
道路は八木山(やきやま)バイパスや直方(のおがた)バイパスなどが整備され、
鉄道は福北ゆたか線(黒崎駅(北九州市)-博多)が通っており、通勤・通学圏内となっています。
交通の要衝でもあり、人口は福岡市、北九州市、久留米市についで、県内4番目の規模で、
まさに筑豊地域の中心都市といえます。
飯塚といえば、やはり「炭鉱」をイメージする方も多いのではないでしょうか。
福岡の近代化と発展に大きく寄与したのが、明治期に始まる石炭産業です。
そして、飯塚は良質な産炭地として、大手資本が注目し、多くの炭鉱が開坑しました。
筑豊御三家の一として有名な麻生太吉(あそうたきち)や、
朝の連続テレビ小説にも取り上げられた炭鉱王伊藤伝右衛門(いとうでんえもん)も飯塚出身の人物で、
明治期に石炭の採掘から身を起こし、一財を為して、政界や実業界で活躍をした、
まさに石炭ドリームを実現した男たちです。
彼らは、町にも大きな貢献を果たしており、公文書にも、高額納税者や寄附者として、
たびたびその名が登場します。さらに朝ドラ「あさが来た!」の主人公のモデルとなった
広岡浅子(ひろおかあさこ)(日本女子大学の設立や大同生命の創始で著名)が再開発に成功した
潤野炭鉱(うるのたんこう)も飯塚にあり、ドラマでもその再開発の様子は克明に描かれていました。
明治期の筑豊地方は、石炭産業の隆興により、いち早く鉄道が走り、道路も整備されていきました。
福岡県で最初の鉄道といえば、明治22年(1889)に博多~久留米間を開通させた九州鉄道ですが、
2番目の鉄道は、筑豊興業鉄道(ちくほうこうぎょうてつどう)でした。
産炭量が増加するにつれ、川ひらた舟を使った水上輸送を鉄道による大量輸送に切り替えるために、
筑豊五郡によって明治22年7月に設立された鉄道会社です。
会社設立からわずか8年後の明治30年(1897)に九州鉄道と合併した
筑豊興業鉄道についての資料は数が少なく、当館でもほんのわずかしか所蔵していませんが、
飯塚市から移管されてきた公文書のなかに、鉄道建設に関する貴重な資料があります。
「鉄道係スル事蹟」(1-2-0013000、明治25年度、飯塚市公文書)です。
これは、筑豊興業鉄道が路線を延長する際に、
関係町村とどのような協議をおこなったのかがわかる資料で、
そのころ筑豊興業鉄道会社の監査役であった安川敬一郎(やすかわけいいちろう)が折衝のために、
飯塚を訪れた事蹟や、新路線開業時の試乗会に飯塚町長を招待した事蹟などを確認することができます。
石炭産業の隆盛によって人口が増え、インフラの整備も進む飯塚は、
昭和7年(1932)1月、市制施行を行います。福岡県では10番目の市ということになります。
市制施行の詳しい事蹟は、県の公文書に残されています。
飯塚市から当館へ移管された公文書は、現在約4,000件。
飯塚市公文書について特筆すべきは、明治期から継続して残された文書群が非常に多いということです。
例えば、議会文書は市制町村制施行前の明治18年から約100年にわたって保存され移管されています。
しかも、合併により現飯塚市の一部になった、旧町村の文書を並列して見ることが可能です。
これは、飯塚市をめぐる様々な出来事を検証するだけでなく、議会史、地方行政史を考える上でも、
大変貴重な一次資料となります。
また、学校教育課が保存していた「学齢簿」「学籍簿」も
明治27年のものから約60年にわたり残されています。この膨大な資料群も、
先祖探しに役立つということだけでなく、時代や社会に応じて変遷していく教育制度をたどる
重要な一次資料といえるのです。
このように非常に見どころの多い飯塚市の公文書ですが、とにかく数が多いので、
今後も折に触れご紹介していこうと思います。
新しい年を迎えました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。福岡共同公文書館は1月5日(火)より「三密」に気を配りながら開館しています。
昨年は大変な年でしたが、今年は少しでも良い兆しが見えるとよいですね。
さて、「公文書でめぐる ふるさと福岡」は今回「大木町」の予定でしたが、予定を変更して今回は宇美町を紹介します。
宇美町(うみまち)は、福岡都市圏に属する糟屋(かすや)郡の町で、西は大野城(おおのじょう)市と福岡市、北西は志免(しめ)町、北は須恵(すえ)町、東は飯塚(いいづか)市、南は太宰府(だざいふ)市と筑紫野(ちくしの)市にそれぞれ隣接しています。
宇美町(うみまち)は、福岡都市圏に属する糟屋(かすや)郡の町で、西は大野城(おおのじょう)市と福岡市、北西は志免(しめ)町、北は須恵(すえ)町、東は飯塚(いいづか)市、南は太宰府(だざいふ)市と筑紫野(ちくしの)市にそれぞれ隣接しています。
東部は砥石山(といしやま)(828m)、三郡山(さんぐんざん)(936m)、頭巾山(とっきんざん)(901m)、仏頂山(ぶっちょうざん)(868m)などの三郡山系と、南部は四王寺(しおうじ)山塊の大城山(おおきやま)(410m)に囲まれており、町の面積のおよそ6割を豊かな森林が占めています。
宇美町の歴史は古く、西暦665年に築城された日本最古の古代山城「国指定特別史跡 大野城跡」をはじめ、近年、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に記載がある「不彌(ふみ)国」として本町が注目される根拠となった「国指定史跡 光正寺(こうしょうじ)古墳」などの史跡が多くあります。また、古事記や日本書紀に、神功(じんぐう)皇后が応神天皇を出産された地を「宇美(産み)」と呼ぶようになったという記述があるように、安産の神様として全国的に有名な宇美八幡宮があります。 (宇美町 HPより)
なお、宇美町から移管された文書は、令和3年1月現在で約140冊です。
大正9年(1920年)10月に糟屋郡で最初に町制を施行して誕生した宇美町は、令和2年(2020年)に町制100周年を迎えました。
「広報うみ町制施行100周年特別号」(2-4-0015161)
今回、宇美町をご紹介したのは、当館で1月8日(金)より「常設展 冬」の
「特集 公文書のいろいろ」
と題してさまざまな記録媒体を紹介しており、その中で、宇美町からの移管文書も展示しているからです。
展示で紹介しているのは、宇美町の「町勢要覧」です。「宇美町文庫」と題して表紙も本の写真が掲載されています。「町勢要覧」とは、町の概要や魅力を紹介するために写真や文章で分かりやすくまとめたものです。「〇〇年 △△町勢要覧」という表紙が多い中、パッと見たら「町勢要覧」とはわからないけれども、非常に目を引く表紙だと思いました。よく見ると表紙に掲載されている本の背は、「宇美物語」(歴史)、「宇美町散歩ガイド」(町の紹介)、「【近未来エッセイ】いま、明日のために」(総合計画の概要)、「Quiz-U」(クイズで楽しむ宇美町のアレコレ)と目次になっていて、とても遊び心のある表紙だと思いました。また、映像編も制作されています。
「宇美町文庫 DVD(映像編)」(2-4-0010253)
「宇美町町勢要覧2005(宇美町文庫)」 (2-4-0006679)
展示にちなんでもう一つ。展示の中で「市町村のオリジナルソング」を紹介しています。当館に所蔵がないので展示では紹介できませんでしたが、宇美町にも「宇美町町制施行70周年を記念して制作された「宇美町賛歌」という「町歌」があります。この歌は宇美町のHPからダウンロードできます。
かつては炭鉱の町として栄えた宇美町は、町制100周年を迎えた現在、福岡市のベッドタウンとしてとして成長を続けています。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
東部は砥石山(といしやま)(828m)、三郡山(さんぐんざん)(936m)、頭巾山(とっきんざん)(901m)、仏頂山(ぶっちょうざん)(868m)などの三郡山系と、南部は四王寺(しおうじ)山塊の大城山(おおきやま)(410m)に囲まれており、町の面積のおよそ6割を豊かな森林が占めています。
宇美町の歴史は古く、西暦665年に築城された日本最古の古代山城「国指定特別史跡 大野城跡」をはじめ、近年、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に記載がある「不彌(ふみ)国」として本町が注目される根拠となった「国指定史跡 光正寺(こうしょうじ)古墳」などの史跡が多くあります。また、古事記や日本書紀に、神功(じんぐう)皇后が応神天皇を出産された地を「宇美(産み)」と呼ぶようになったという記述があるように、安産の神様として全国的に有名な宇美八幡宮があります。 (宇美町 HPより)
なお、宇美町から移管された文書は、令和3年1月現在で約140冊です。
大正9年(1920年)10月に糟屋郡で最初に町制を施行して誕生した宇美町は、令和2年(2020年)に町制100周年を迎えました。
「広報うみ町制施行100周年特別号」(2-4-0015161)
今回、宇美町をご紹介したのは、当館で1月8日(金)より「常設展 冬」の
「特集 公文書のいろいろ」
と題してさまざまな記録媒体を紹介しており、その中で、宇美町からの移管文書も展示しているからです。
展示で紹介しているのは、宇美町の「町勢要覧」です。「宇美町文庫」と題して表紙も本の写真が掲載されています。「町勢要覧」とは、町の概要や魅力を紹介するために写真や文章で分かりやすくまとめたものです。「〇〇年 △△町勢要覧」という表紙が多い中、パッと見たら「町勢要覧」とはわからないけれども、非常に目を引く表紙だと思いました。よく見ると表紙に掲載されている本の背は、「宇美物語」(歴史)、「宇美町散歩ガイド」(町の紹介)、「【近未来エッセイ】いま、明日のために」(総合計画の概要)、「Quiz-U」(クイズで楽しむ宇美町のアレコレ)と目次になっていて、とても遊び心のある表紙だと思いました。また、映像編も制作されています。
「宇美町文庫 DVD(映像編)」(2-4-0010253)
「宇美町町勢要覧2005(宇美町文庫)」 (2-4-0006679)
展示にちなんでもう一つ。展示の中で「市町村のオリジナルソング」を紹介しています。当館に所蔵がないので展示では紹介できませんでしたが、宇美町にも「宇美町町制施行70周年を記念して制作された「宇美町賛歌」という「町歌」があります。この歌は宇美町のHPからダウンロードできます。
かつては炭鉱の町として栄えた宇美町は、町制100周年を迎えた現在、福岡市のベッドタウンとしてとして成長を続けています。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今年も残り1ヶ月をきってしまいました。
さて、今回は「公文書でめぐる ふるさと福岡」で福津市を紹介します。
平成17年1月24日、旧福間(ふくま)町と旧津屋崎(つやざき)町が合併し、「福津市(ふくつし)」が誕生しました。
福岡県の北部で福岡市と北九州市の近隣に位置し、北東側は宗像(むなかた)市、南東側は宮若(みやわか)市、南側は古賀(こが)市に隣接しており、西側は玄界灘(げんかいなだ)に面しています。
また、東部を山、西部を海に囲まれ、特に海岸一帯と宮地嶽(みやじだけ)神社周辺の山林は、昭和31年に玄海(げんかい)国定公園に指定され、風光明媚な自然景観を形成しています。
東西にJR鹿児島本線、国道3号が延び、海岸線と併行して国道495号が走っており、九州自動車道若宮(わかみや)インター、古賀インターも近く、広域的な交通利便性にも富んでいます。このため、福津市は宮地嶽神社や津屋崎・福間海岸などを中心とした観光レクリエーションの場として、また、福岡・北九州両政令市への通勤・通学の利便性を背景とした住宅地域として、さらには、新鮮な食料品の生産供給地域としての広域的な役割をもっています。
「福津市」という名称
「福津市」という名称には、幸福や多くの人が集まる津(港、場所)という意味が込められています。市の名称を決めるにあたり、全国に公募したところ3,064通の応募があり、合併協議会において協議され、最終選考で残った「福津市」と「北筑前市」で決選投票を実施した結果、過半数の票を獲得した「福津市」に決定しました。
次に、福津市が行ってきた事業を紹介します。
国民健康保険制度のルーツ
福津市は、国民健康保険制度の参考にされた定礼(じょうれい)(常礼)制度が、かつておこなわれていた地域です。1930(昭和5)年ごろ、世界中をおそった不景気により、農村では経済状況も衛生状況も悪化し、都市部に比べ平均寿命も短く、多くの病気が蔓延しました。特に、結核は栄養状態の悪い農村の人々の間で広まり不治の病と言われていました。農村のこのような状況を救うため国(当時の内務省社会局)は全国の医療の状況を調査しました。すると、福岡県の19地区(宗像郡11地区・鞍手(くらて)郡8地区)と熊本県の1地区ですでに「医療互助組合」が運営されていました。
当時宗像郡では医療互助組合のことを「定礼」または「常礼」と言っていました。この言葉は村人たちが作り出した言葉で、「医者にかかってもかからなくても、その人の収入に応じて、定まった額をお礼するので。常日ごろ、お世話になっている医者へのお礼を欠かしてはいけないということから常礼」と言っていたそうです。定礼(常礼)には、ほとんどの家が加入しており、各家から玄米を集め、それを診療所の医者に差し出せば、1年間無料で治療が受けられる仕組みになっていました。1938(昭和13)年7月に世界でも初めてといわれる国民健康保険制度がスタートしました。この手本となったのが宗像の定礼(常礼)で国民健康保険制度のルーツといわれています。
(「やさしい福間町の歴史」 2-2-0001942)より)
「うみがめ課」という課がある
福津市には、福津市の環境保全活動の象徴として「うみがめ課」という名の「課」があります。この課は他自治体でいう「環境課」「環境整備課」などに当てはまり、ウミガメの保護活動だけではなく、地域のゴミ問題や動物全般の保護など多岐に渡った業務をしています。
課名の由来は、福津の海岸にアカウミガメが産卵に来ることからきています。福津市は、昔からウミガメが産卵に来ることは知られていました。しかし都市化が進み、ゴミの不法投棄や、浜辺に車で乗り付けて夜遅くまで遊ぶ人が増えるなど、ウミガメにとって環境は悪くなるばかりでした。そこで、平成9年に地元住民の方々が自発的にウミガメを守る会を作り、保護活動を始められました。その後、当時の津屋崎町役場にウミガメの保護活動について相談がなされ、町長の「官民一体でウミガメが来てくれるような環境保全をしていかないか」という呼びかけのもと、平成14年に「環境整備課」から「うみがめ課」と課名の変更を行い、住民と行政が一体となり、ウミガメ保護に取り組んでいくことになりました。
そしてこの活動は、平成17年の合併後も福津市の環境保全活動の象徴となり、課名もそのまま継続されています。また、うみがめ保護条例なども策定され、「うみがめ」現在でも福津市の環境保護の象徴のような特別な生き物となっています。
「ウミガメ保護条例関係資料」 1-2-0034598)
また、「広報ふくつ」(お知らせ版 2020年11月15日号)に、「遠くて近い ウミガメのこと」(「環境掲示板」)として、ウミガメの孵化(ふか)に関する記事が掲載されています。
(「広報ふくつ」 2-4-0015042)
*福津市のHPでも見ることができます fukutsu20201115_page16.pdf
福津市から移管された公文書は令和2年12月現在で約1500冊です。また公文書のほか福津市が作成した行政刊行物も所蔵しています。
次回は大木町です。
収穫の秋ですね、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
『公文書でめぐる ふるさと福岡』今回は、筑後市をご紹介します。(筑後市HP)
筑後市は福岡県の南西部、筑後平野(九州最大の筑紫平野の福岡側)の中央に位置する田園都市です。市の南を流れる矢部川の流域は、縄文・弥生時代の集落跡である裏山遺跡があり、古くから人が住んでいた地域です。
(地名がたくさん出て来ますので、末尾に地名等のよみがな対照表をつけています。)
市内を南北に通る坊津街道(薩摩街道)は江戸時代の参勤交代の通り道で、羽犬塚はその宿場町でした。ややルートの変遷はあるものの、平安時代に編纂された『延喜式』(10世紀前半)の中にも「西海道」(古代飛鳥・奈良時代の幹線道路)の駅名として「葛野駅」(現在の羽犬塚付近と想定される)が登場しており、九州縦断の交通の要衝であったことがうかがえます。(参考『福岡県百科事典』)
筑後市から当館に移管された資料は9月末現在で789点です。年代が古いものは、明治時代の字図・一筆限竿入帳などの土地の台帳です。また、教育委員会作成の埋蔵文化財報告書では遺跡や西海道に関連する場所について調査したものも多いです。
温暖な気候と、土壌や水にも恵まれた農業が盛んな土地で、米・麦・イグサ・ナシ・ブドウ・八女茶などが生産されています。炭酸泉の船小屋温泉郷や恋の木神社などの観光スポットがあり、「恋のくに筑後」と題して市をあげての婚活イベントなども盛んです。
筑後市を紹介しながら、恋も応援するPR動画 恋のファーム♡Chiku−Go! ちくご恋するチャンネル(広報ちくご・筑後市公式Youtubeチャンネル)より
藩政時代には久留米藩に属していた地域で、明治22年(1889)町村制施行により、上妻郡の羽犬塚村、二川村、下妻郡の水田村、下妻村、古川村の五ヵ村が成立します。明治29年(1896)上妻郡、下妻郡は生葉郡の一部とともに八女郡となります。水田村(明治41年(1908)合体合併;水田村、下妻村、二川村)と、羽犬塚町(大正14年(1925);町制施行)と、古川村、岡山村(一部)が合併して、昭和29年(1954)4月に筑後市が誕生しました。その後、三潴郡西牟田町と八女郡下広川村の一部を編入して、現在に至ります。
実は、筑後市は、常設展秋の特集「公文書と〈害虫〉」の中でご紹介している、明治の螟虫駆除とも深いかかわりがあります。今回は『筑後市史』2巻「益田素平と螟虫駆除法」に登場する、益田素平(八女郡江口村の老農、のち二川村長)と螟虫駆除に関連する資料をご紹介します。
近世、農作物の〈害虫〉は、「虫」または、稲につく虫「蝗」と呼ばれ、天災のひとつとされていました。民俗行事で今も残る虫送りや虫追いは、呪術的な害虫駆除による豊作祈願であり、虫供養は農作業の過程で駆除した虫への鎮魂でした。
明治の福岡県では、品種改良や施肥の改善によって、茎が太く収量の多い稲がつくられるようになりましたが、この稲の茎を中から食す螟虫(螟蛾の幼虫)による甚大な被害が発生します。
(ニカメイチュウ写真提供:福岡県農林業総合試験場 病害虫部)
螟虫というのは通称で、方言でスムシ、ズイムシ、ナカザシ、シンキリ、イネノドウムシ、カラクダシなどと呼ばれていました。稲の茎の中で幼虫が成長し、年2回(2世代)発生するので二化螟虫(二化螟蛾の幼虫)と名づけられました。現在はあまり見られなくなりましたが、ウンカと並び稲作に大きな被害をもたらした〈害虫〉で、とくに筑後地方では、年3回発生する三化螟虫(三化螟蛾の幼虫、イッテンオオメイガ)による深刻な被害を受けていました。
福岡で、県や明治政府に掛け合いながら螟虫駆除予防に尽力したのは益田素平をはじめとする筑後地方の老農たちでした。老農というのは、西洋農学を学ばずに在来の農業技術の改良をおこなってきたひとたちのことです。益田は自身の試験田での研究と新しく知られるようになった西洋昆虫学の情報を照らし合わせ、稲の茎を中から食して穂枯れをおこすメイガの幼虫(特に、三化螟虫)の存在を確信します。1877(明治10)年、当時副戸長でもあった益田は「螟虫駆除予防稟申書」を福岡県に提出し、県の対応を求めます。県からも国へ上申し、内務省勧農局員の鳴門義民(青森のニカメイガと九州で発生していたサンカメイガについて、虫害の調査、駆除の方法の指導に当たっている)が派遣されます。鳴門との協議の結果、益田が提案した様々な防除方法の中から、稲刈りを終えた稲株をすべて掘り起こして寒気にさらし焼却する「稲株掘り起し法」が有効とされ、導入への働きかけが行われます。
1879(明治12)年10月 メイガの被害町村連合会(三潴、八女、山門の三郡)で益田素平・中島忠蔵(上妻郡島田村)・原口茂七(下妻郡常用村)ら螟虫研究老農たちが説明を行いますが、「稲株掘取」は時期尚早と採用されませんでした。代わりに18か所の螟虫試験所が設置されました。
『福岡県における螟蟲(めいちゅう)駆除豫防の沿革 病害虫駆除豫防資料第15号』(1-1-0007432)附益田素平翁遺稿螟虫実験説
1880(明治13)年10月、反対意見も多い中、益田素平・佐野貞三(三潴郡八丁牟田村、現大木町)らの啓発や渡辺県令の説示もあり、上妻下妻、三潴、山門の4郡聯合会で当年度の「稲株掘取焼却」による駆除予防の実施が採用されます。被害の大小にかかわらず収穫後の稲株を掘取焼却等処分をすることとされ、罰則もありました。しかし、県から強制される形で非常に労力の要る「稲株掘取」を行うことは、すぐには理解を得られず、同月反発する農民らによって「不掘取」を請願する「筑後稲株騒動」が起き、益田や佐野、郡長や議長が襲撃の対象となりました。三潴郡27カ村、上妻郡45カ村、800名に及ぶ逮捕者を出したこの騒動ののち、次第に農作物の〈害虫〉と駆除予防の必要性が理解されていきます。明治29年には、明治政府によって害虫駆除予防法が制定され、県の害虫駆除予防規則のもと行政主導の組織的な防除が行われるようになり、農業試験場での応用昆虫学や農法、薬剤の研究とともに農業の近代化がすすんでいきます。
『二川村会決議録 八女郡二川村役場』(1-2-0005938)、『筑後市史 第二巻』(2-4-0005776)
明治22年、益田素平は二川村の村長に就任しています。明治政府による「害虫駆除予防法」が公布された明治29年、福岡県令に基づき、二川村会は「苗代田並植田螟虫駆除規定」を制定しました。行政区ごとに取締人を選び、村の直営事業として苗代田の採卵と捕蛾とその買上、枯茎採取の夫役雇入れが行われました。また益田は、反発を招く原因となった稲株掘取の労力を減らし、稲株処理を普及させるための稲株切断器(株切鍬)も考案しています。
螟虫駆除のために、益田らが提唱し各地の試験研究機関で研究されるようになった、遁作法、採卵、採蛾、稲株処理、誘蛾灯、虫害稲藁の処理など総合的な駆除対策は、現代の農業におけるIPM(Integrated Pest Management 総合的病害虫・雑草管理)の考え方とも通じるものがありますね。
いかがでしたか?次回は福津市をご紹介します。お楽しみに。
福岡共同公文書館では常設展の一部を入替、秋の特集「公文書と〈害虫〉」がご覧いただけます。Web展示で一部資料をご紹介しておりますので、そちらもどうぞ。
※地名等 ふりがな対照表 (参考:日本歴史地名大系41「福岡県の地名」平凡社、2004年)
公文書館発の県内市町村のご紹介、今回は直方市です。
さっそくですが、問題です。
直方市の正しい読みを答えましょう。
「直方」市→「〇〇〇〇」市
福岡県内の方には簡単な問題ですが、県外の方には意外と難読地名だったりします。
答えは「のおがた」市です。
もしかしたら、「のうがた」と間違えて覚えている人もいるのでは…。
発音してみると、「お」なのか「う」なのか迷ってしまうことってありますよね。
そんな迷える人々のために、直方市ではこんなキャッチコピーをご用意されています。
(直方市HPより) |
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楽しいキャッチコピー!
これでしっかり覚えました!
直方市は、福岡県の北部に位置し、飯塚市、田川市と並んで筑豊三都と称されています。
古くは福岡藩の支藩でしたが、享保5年(1720)年に廃藩となった後は、
長崎街道の木屋瀬宿と飯塚宿の間に置かれた中継地「立場(たてば)」として、
人馬の継立や飲食物の提供を行いました。
明治時代になると、筑豊で産出した石炭の集積地となり、問屋的な役割を担います。
直方駅には操車場や機関区が置かれるなど鉄道輸送の基地として、
また乗合自動車の路線もおびただしく、交通の要衝として栄えました。
炭鉱機械工業や商業の町として石炭産業の盛衰とともに歩んできた町でもあります。
エネルギー革命が起こった昭和30年代以降は、脱石炭への努力を続け、
工業都市、生活都市への発展を遂げました。
(参考『福岡県百科事典』)
昭和6年ごろの直方駅構内(1-1-0024547) |
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直方町交通図(部分)下方部の丸がすべて乗合自動車の会社です。直方駅を起点に様々な乗合自動車が路線をめぐらせていることがわかります。(1-1-0024547) |
直方市の沿革としては、まず大正15年11月に、直方町・新入村・福地村・頓野村
下境村が合体して直方町となり、その後、昭和6年(1931)に市制施行して直方市となりました。
福岡県では9番目の市ということになります。
この時の市制施行申請書は、福岡県公文書のなかに残されています
(1-1-0024547「市制町制施行」)。
添付資料の交通図や写真などは、市制施行時の直方の繁栄を物語る貴重な資料といえます。
昭和の大合併が行われていた昭和30年、植木町を編入して現在と同じ市域が確立しました。
直方市から当館に移管された特定歴史公文書は、2020年9月現在で838点に及びます。
公文書の内容を見ると、〈歳入歳出簿〉が最も多く、教育委員会や農業振興課などの文書も
多く移管されています。
そのなかで注目されるのが、昭和27年に戸畑市、直方市、飯塚市、田川市、柳川市の5市による
一部事務組合として設立された「福岡県五市競輪組合」に関する公文書です。
昭和23年に公布された自転車競技法のもと、小倉を発祥として始まった「競輪」ですが、
昭和27年にこの「競輪」事業の共同運営を行う目的で設置されたのが「五市競輪組合」です。
組合に関する当館所蔵公文書102冊の内92冊が直方市から移管されたものです。
現在でこそオリンピック競技として注目されている自転車競技ですが、
「競輪」の歴史は様々なトラブルや社会的な反発など、
決して順風満帆ではありませんでした。
しかし一方で、自治体財政への功績が大きかったことも事実です。
小倉や久留米の競輪場を借りて、五市競輪組合主催のレースが行われ、
その収益は組合自治体に分配されました。
この「五市競輪組合」文書は、昭和27年の第1回議会事蹟から存し、
平成にいたるまでの組合の活動をたどることができます。
昭和27年時の「競輪」競技のルールブックなどは、自転車競技の歴史を知る上でも
好資料といえるでしょう。
その他東京オリンピックの聖火リレー写真や、昭和50年前後の九州縦貫自動車道や
山陽新幹線延伸に関する文書といった、
高度成長期の社会の様子を示す資料などもあり、バラエティに富んだ公文書群になっています。
第1回議会事績を含む五市競輪組合文書(1-2-0004273) |
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五市競輪組合競輪実施規則(昭和27年)より。当時の選手の服装(シャツ)は「布又は毛製半袖の見苦しくない色彩のもの」と定められていた。(1-2-0004445) |
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東京オリンピック(1964)の聖火リレー隊員委嘱状(1-2-0004363) |
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直方市聖火リレー団の集合写真(同上) |
写真出典:
1-1-0024547「市制町制施行」(福岡県公文書、昭和6年度)
1-2-0004273「議会事績」(直方市公文書、昭和29年度)
1-2-0004445「組合条例規則綴」(直方市公文書、昭和28年度)
1-2-0004363「オリンピック東京大会聖火リレー写真集」(直方市公文書、昭和39年度)
次は、筑後市です。
福岡共同公文書館は「福岡県立公文書館」と「福岡県市町村公文書館」という二つの施設の総称で、福岡県と県内全市町村(北九州市と福岡市を除く)が共同で設置・運営する公文書館です。
福岡共同公文書館には明治以降に作成または取得された公文書の中で行政事務上必要とされる保存期間を満了した文書が各自治体から移管されており、これらの文書は当館のHPで目録を公開しています。
これからこのブログで、福岡共同公文書館所蔵資料の移管元である福岡県及び県内市町村それぞれの紹介とともに、移管元に関連する所蔵資料の紹介をしていきたいと思います。
初回は、「福岡県」です。
福岡は、古代、遠の朝廷(とおのみかど)と呼ばれた大宰府政庁や、外国使節の迎賓館である鴻臚館がおかれ、中国大陸や朝鮮半島と我が国との交流の窓口でした。いち早く大陸文化に触れ、日本のどの地方よりも早く米作りを始めました。また、大陸から新しい文化や学問、外国の品々を受入れてきました。
江戸時代になると、福岡藩・久留米藩・柳河藩・小倉藩などがおかれ、明治になると廃藩置県により藩の地域が県となりました。そしてその後、小倉、福岡、三潴の3県の時期を経て1876年(明治9年)に現在の福岡県ができました。
また、県内の製鉄や石炭産業が日本の近代化を支え、その後、商工業や農林水産業が発展し、空港・道路・鉄道等の交通も整備されていきました。
現在は、アジアをはじめ、世界との交流を促進する交通基盤や文化機能は着実に向上しています。九州の経済や文化、行政の中枢機能の集積が進む中、アジア諸国・世界各地との交流をさらに拡大し、九州、西日本、アジアにおける広域交流都市圏としての一大拠点になっています。
明治以降の福岡県のあゆみについては、当館展示室の「公文書にみる福岡140年のあゆみ~福岡県の誕生と市町村合併~」(常設展)をご覧ください。
福岡県には、北九州市と福岡市の2つの政令指定都市を含めて60市町村(29市29町2村)があります。これら60市町村は、地理的、歴史的、経済的特性などから、「北九州」「福岡」「筑後」「筑豊」の4地域に分けられています。
このような、福岡県のすがたや施策・事業などは
「県政のしおり」(一般向け)
「わたしたちの福岡県」(小学生向け)
というパンフレットを県で作成し、紹介しています。
当館にも過去10年分(それ以前のものも多少あり)を所蔵しています。
(福岡県行政資料:2-4-0013571)
(福岡県行政資料:2-4-0013570)
福岡県から移管された公文書は令和2年7月現在で約45,200冊です。また公文書のほか県が作成した行政刊行物も所蔵しています。
福岡共同公文書館の公文書や行政刊行物は、誰でも閲覧することができます。
ぜひ、福岡共同公文書館をご利用ください。
次回は「直方市」の紹介です。
所在地 | 〒818-0041 福岡県筑紫野市上古賀1-3-1 アクセスマップはこちら | 電話 | 092-919-6166 | FAX | 092-919-6168 | kobunsyokan@pref.fukuoka.lg.jp |
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