福岡公文書館ブログ

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  • カテゴリー: 公文書でめぐる ふるさと福岡

    2021年8月24日

    公文書でめぐる ふるさと福岡 ~宗像市~

    昭和の大合併が進んでいた昭和29年、東郷(とうごう)町、赤間(あかま)町、吉武(よしたけ)村、河東(かとう)村、南郷(なんごう)村の5町村と神興(じんごう)村の一部が合併し、旧宗像(むなかた)町が誕生しました。翌年には、神湊(こうのみなと)町、田島(たしま)村、池野(いけの)村、岬(みさき)村の4町村が合併し、旧玄海(げんかい)町が誕生しました。

    昭和52年に、旧宗像町の人口が5万人を突破し、昭和56年に旧宗像市が誕生しました。

    その後、地方分権や少子高齢化の進展への対応などの社会全体の流れや、それぞれの市町村の特徴と資源を生かしたまちづくりを進めるため、平成15年に旧宗像市と旧玄海町が合併し、新しい宗像市が誕生しました。平成17年には旧大島(おおしま)村と合併し、現在の宗像市となっています。

    北九州市と福岡市の両政令指定都市の中間に位置し、北を除く3方向を山に囲まれ、玄界灘(げんかいなだ)に大島、地島(じのしま)、沖ノ島(おきのしま)、勝島(かつしま)を有しています。また、市の中心部には、水源でもある釣川(つりかわ)が流れ、玄界灘に注いでいます。

    市内を東西に横断するJR鹿児島本線や国道3号および国道495号により福岡市・北九州市への交通アクセスが充実し、住宅団地や大学、大型商業施設などが相次いで進出しました。これに伴い、急激な都市化が進み、生活環境や都市基盤が整備され、教育や文化、子育て支援などが充実し、人口減少時代に突入している現在においても、人口を維持し続けています。

    宗像市には

    世界遺産「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」があります。

    日本列島と朝鮮半島を結ぶ海域に位置する沖ノ島では、古来、航海安全の祈りが捧げられ、崇拝されてきました。祭祀跡からは、約8万点もの奉献品が出土しています。立ち入りを許さない厳格な禁忌は、500年間にも及ぶ古代祭祀の跡をその後1000年以上、手つかずの状態で守り伝えてきました。

    「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」は、沖ノ島に宿る神への信仰を起源とする宗像三女神をお祭りする宗像大社三宮(沖津宮(おきつぐう)、中津宮(なかつぐう)、辺津宮(へつぐう))、遥か彼方に沖ノ島を望む大島の沖津宮遙拝所(おきつみやようはいじょ)、信仰の伝統を築いた人々が眠る新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群で形成されています。古代東アジアで行われた活発な対外交流の時期に遡る航海安全のための信仰は、日本固有の自然崇拝思想の原初的な形態を残し、その後の祭祀行為や信仰の意味が変容するものの、現代まで一貫して宗像地域の人々によって継承されてきました。このことが世界に例のない物証として顕著な普遍的な価値を持つと評価され、平成29年7月にユネスコ世界文化遺産に登録されました。

    世界遺産登録までには10年以上の年月を要しています。平成の合併により、現在の宗像市となる平成15~17年頃から「沖ノ島を世界遺産に!」という運気が盛り上がってきたようです。平成18年から文化庁への提案書の提出をはじめ、平成21年にユネスコの暫定リストに記載されました。そしてそこからスケジュールを組み、世界遺産の登録へ向けて様々な取り組みを行った結果、平成29年に世界文化遺産に登録されました。

       「世界遺産庁内組織 世界遺産登録推進専門部会」 (1-2-002526)

     

    福岡地区で初めての県立の中高一貫校となる宗像中学校の開校

    2015年に宗像高校の併設校として福岡県立宗像中学校が開校しました。近くに私立の中高一貫校がなく、進学校である宗像高校に併設されることから、宗像中学校の人気は高く、志願倍率は8倍を超える狭き門でした。

    また、「安心して子どもを育てることができるまち宗像」を教育行政の柱とし、この「安心」を生み出す具体策の一つに、平成18年度から「小中一貫教育」の調査研究を進めています。

     「小中一貫教育(推進協議会)」 (1-2-0020204)

     

    宗像市からは317冊の公文書が移管されています。また、約150冊の行政資料を所蔵しています。

    (令和3年8月現在)

    また、当館ではただいまエントランスにおいて、県と県内市町村の役場や町の風景の「いま」と「昔」をふり返る写真展「なつかしの写真展~あの日のふくおか~」を開催しています。ここでは、宗像市の旧庁舎(昭和40年代後半)と現在の庁舎の写真を展示しています。

    しかし、緊急事態宣言の発出に伴い当館は休館中(~令和3年9月12日(日)まで)です。再開した際には、ぜひ見に来てください。

    次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!

    2021年7月27日

    公文書でめぐる ふるさと福岡 ~篠栗町~

    毎日暑い日が続いて、季節はすっかり夏ですね。学校は夏休みに入り、ただいま、オリンピックが開催中です。

    さて、今回は「公文書でめぐる ふるさと福岡」で、「篠栗(ささぐり)町」を紹介します。

    篠栗町は、1955(昭和30)年4月1日 に 篠栗町と勢門(せと)村が対等合併し、新町制による篠栗町が発足しました。

    「新町建設計画書 粕屋郡篠栗町」(1-1-0039366)

    福岡市内から東に約12キロメートルのところに位置しており、車は都市高速道路を使用すれば福岡市内まで20分、町の東西を走るJR篠栗線(福北ゆたか線)の快速を利用すれば博多駅まで15分の距離にあり、バスなどの公共交通機関もあります。

    町の面積は38.93平方キロメートルです。東西約8キロメートル、南北約7キロメートルで、鉾立(ほこたて)山・八木(やき)山・若杉(わかすぎ)山の峰々に囲まれた緑豊かな町で、中央には多々良(たたら)川が東西に流れ、その周囲に平地が開けています。

    町の総面積の約7割に山林が広がり、ウォーキングコースやキャンプ場などのレクリエーション施設や、180年の歴史を持つ篠栗四国八十八箇所霊場に結びつきのある歴史的な遺産や施設などが数多く点在しています。

     

    篠栗四国八十八箇所霊場(ささぐりしこくはちじゅうはちかしょれいじょう)

    空海(弘法大師)を拝する88か所の霊場の総称で、篠栗八十八箇所または単に篠栗霊場とも呼ばれています。小豆島(しょうどしま)八十八箇所、知多(ちた)四国霊場と共に、「日本三大新四国霊場」に数えられることもあります。町内各地に寺があり、中でも1番札所の南蔵院(なんぞういん)は青銅製のものとしては世界最大の釈迦涅槃像(しゃかねはんぞう)で知られており、多くの観光客が訪れています。

    篠栗町の町章

    篠栗町の「さ」を図案化して、明るく住みよい調和のある町をシンボライズしたもので、中心から四方に広がりゆく発展の意味を含んでいます。三つの三角頂点は若杉山を中心として鉾立山、米の山を表しています。

     

    公文書の電子的管理
    篠栗町では、平成27年度から公文書の本格的な電子的管理を県内自治体のなかで最初に導入しています。
    現在ほとんどの自治体ではパソコンで作成した公文書の多くが紙に印刷され、それを原本として保存されていきますが、パソコンで作成した文書そのものを原本として、紙を使わずに保存などを行うことを原則とすることを「公文書の電子的管理」といいます。
    篠栗町では、電子的管理を導入したことで、ペーパーレス化による経費の節減は元より、文書事務効率の向上、特に100%の電子決裁により事務処理のスピードが格段に上がり効率化が図られています。
    議会においてもタブレット端末により議会運営の効率化とペーパーレス化が図られています。また、住民サービスが様々な申請等において今年の4月から印鑑の押印が不要となったことで電子申請ができる環境を整え、篠栗町全体のデジタル化が進んでいます。
    他の自治体からの視察も数多くあるようで、先進的なシステムとして注目されています。

    次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!

    2021年5月27日

    公文書でめぐる ふるさと福岡 ~糸島市~

    九州北部は、5月中旬に統計開始以来2番目に早い梅雨入りをしました。これから文書には好ましくない雨の季節になります。

     

    さて、今回は(久しぶりの)「公文書でめぐる ふるさと福岡」で、「糸島(いとしま)市」を紹介します。

     

    「前原市(まえばるし)」・「志摩町(しままち)」・「二丈町(にじょうまち)」が合併して2010年1月に月に糸島市が誕生しました。糸島市は、中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記されている「伊都国(いとこく)」があった地です。大陸との玄関口として古くから文化が栄え、さまざまな史跡や遺跡などが各所に残されています。中でも、平原遺跡(ひらばるいせき)で出土した日本最大の銅鏡「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」をはじめとする出土品群は、国宝に指定されています。

     福岡県西部の糸島半島に位置し、東は 福岡市、西は佐賀県唐津市(からつし)、南は佐賀市と接しています。市北側には玄界灘(げんかいなだ)に面した美しい海岸線が広がり、市南側には脊振(せふり)山系の山々が連なっています。そして、それらの中間部には「糸島平野」と呼ばれる、なだらかな田園地帯が広がり、JR筑肥線(ちくひせん)と国道202号沿線を中心に市街地が形成されています。福岡市の中心部天神からJR筑肥線筑前前原駅(ちくぜんまえばるえき)まで30分ほど、また高速道路を利用してもおよそ30分の時間距離にあり、博多駅や福岡空港にも直通でアクセスでき、交通の利便性が高い地域です。

    都市近郊型の農業や畜産業が盛んで、休日には市内各所にある農畜産物や海産物直売所に多くの人が訪れます。 また市内には、万葉の歌にも詠まれ「糸島富士」と呼ばれる可也山(かやさん)、神秘的な景観の芥屋の大門(けやのおおと)や桜井二見ヶ浦(さくらいふたみがうら)、美しい海岸線を有した幣の浜(にぎのはま)や鳴き砂で知られる姉子の浜(あねごのはま)、脊振山系の山々からの清らかな水が流れる白糸の滝や千寿院の滝(せんじゅいんのたき)などの名勝があります。

    このほかにも、サーフィンや海水浴、登山、各種芸術家の工房、ゴルフ場、眺めのよいカフェやレストラン、カキ小屋、遺跡をめぐる歴史探訪など、さまざまな方法で糸島の魅力を楽しむことができます。

    「糸島の山歩き」(左より 2-4-0012072 2-4-0012071 2-4-0012070 2-4-0012069)

     

    九州大学との連携協力協定

     

    市北東部には九州大学伊都キャンパスがあり、およそ18,700人の学生と教職員がキャンパスとその周辺で活動しています。

    糸島市は、福岡県や福岡市、経済界と連携し、九州大学を核とした知の拠点づくりの一翼を担っています。 住環境や情報インフラなどの都市基盤の整備や知的資源を生かした企業や研究所の誘致、地域の国際化など、あらゆる分野で九州大学との連携や交流を図りながら、学術研究都市づくりを積極的に推進しています。

    九州大学学術研究都市構想実現のための長期計画(案)

      「九州大学学術研究都市推進協議会 九州大学学術研究都市推進機構」(1-2-0025058)

     

     

     

     

     

    九州大学学術研究都市機能イメージ

     

    「九州大学学術研究都市推進機構」(1-2-0025059)

     

    怡土(いと)・志摩(しま)「糸島」

    1878(明治11)年に行政区画として発足した怡土郡と志摩郡は前原村に設置された「怡土志摩郡役所」の管轄でした。1896(明治29)年4月1日 、郡制の施行において「怡土志摩郡役所」の管轄区域の怡土郡と志摩郡を合併させて糸島郡になりました。市名の由来となっている「糸島」郡の名称は合併前の「怡土(いと)」と「志摩(しま)」の名前をつなげて「糸島」という別の字をあてたものです。

     

     

     

    「明治二十九年五月以降 村長会決議録」(1-2-0028811)  第1回糸島村長会合議録

    「怡土志摩の合併のお祝いを兼ねて親睦会を開く」ということが書かれている

    糸島市からは約300冊の公文書が移管されています。また、約150冊の行政資料を所蔵しています。

    次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!

    2021年3月12日

    公文書でめぐる ふるさと福岡~大木町~

    『公文書でめぐる ふるさと福岡』今回は、大木町をご紹介します。(大木町HP

    三潴みづま郡大木町は、福岡県の南西部、筑後平野のほぼ中央にあって、山ノ井川、花宗川はなむねがわの沖積で形成された肥沃な土地、豊富な水に恵まれた穀倉地帯です。

    筑後川下流左岸地域にあるこの地方は、古代「水沼のあがたとよばれる沼地で、鎌倉時代末期ごろ水沼みぬまが転じて三潴みづま荘になったといわれています。立花氏の柳河藩時代、有馬氏の久留米藩時代を経て、明治4年の廃藩置県により、久留米・柳河・三池の三県が合併して三潴県となり、明治9年(1876)三潴県を廃して福岡県となりました。

    明治22年(1889)町村制が施行され、旧来の村々が合併して大溝おおみぞ木佐木きさき大莞おおいとなり、昭和30年(1955)市町村合併促進法に基づき、この3村が合併して大木町になりました。町名は村民から募集し、協議で絞られた「大木」「木佐木」「花井」から全村民投票で決定したそうです。

    平成17年(2005)に三潴みづま町と城島じょうじま町が久留米市に編入したので、現在の三潴郡は大木町のみです。

    標高4~5mのほぼ平坦で水田の多い町内を、ほりと呼ばれるクリーク溝渠こうきょ)が縦横に走る景観が特徴的で、堀の面積は町全体の14%を占めています。県内で同じように堀を持つ市町村(筑後市、柳川市、大川市など)の中でも特に堀の密度が高く、全国でも有数の溝渠地帯です。

    堀(溝渠)灌漑・排水・貯水の役割を兼ねています。平坦な沼地に水路を作り、掘削した土を盛り上げた部分を住居とし、洪水時に水を逃がす排水路や干ばつに備えた用水源にもなっており、この地域の農耕文化やくらしを古くから支えてきた構造物です。秋の菱の実とり(掘割に自生する菱の実「半切り」と言われる大きなタライに乗って収穫する)や、冬の堀干し作業なども、かつてはどの堀でも見られていたそうです。近年は、生活雑排水による堀の汚濁などの問題も発生し、住民とともに堀再生の取組が行われています。

    米麦を中心とした農業が主産業で、特産物としてイ草、イチゴ、アスパラガスやキノコ類の栽培、畜産業、イ草加工品である畳表、花筵はなござや久留米絣などの伝統工芸品も生産されています。(参考:福岡百科事典、大木町誌)

    中学生の歌声にのせて大木町を紹介するPR動画 この町が好きだよ (大木町公式Youtubeチャンネル)より

    大木町から福岡共同公文書館に移管された歴史公文書は451点(令和3年2月現在)で、循環のまちづくりに関する文書や、堀の再生や保全に関する文書などがあるのが特徴です。また、大木町が大川市との合併を協議検討した際の文書もあります。合併はしないことになりましたが、この時の文書は大川市からも移管されており、当時の意思決定の過程を将来の検証にたえうる形でのこす公文書館の使命と、当館が「共同」公文書館だからこそできることを考えていくうえでも重要な資料といえます。

    平成17年(2005)大木町は九州で一番先にバイオマスタウン構想を公表し、リサイクルやごみの減量といった循環のまちづくりに取り組んできた自治体です。

    九州農政局のバイオマスタウンマップ(大木町が提出したバイオマスタウン構想を見ることができます。)

    バイオマスというのは、「動植物から生まれた、再利用可能な有機性の資源(石油などの化石燃料を除く)」のことです。化石燃料ももとは有機物ですが非常に長い年月をかけて化石になった限りのある資源です。しかし、バイオマスは、太陽エネルギーを使って水と二酸化炭素から生物が生成するものなので、持続的に再生可能な資源で、さまざまな利用方法があります。木材、海草、生ゴミ、紙、動物の死骸・ふん尿、プランクトンなど様々なバイオマス資源を、原料やエネルギーとして利活用した場合、植物が育つ過程で吸収した大気中の二酸化炭素を、物体(炭素)として固定、また大気中に戻すだけで、増加させないので、気候変動の抑止に役立つとされています。

     転機となったのは平成14年(2002)、ロンドン条約に基づいた廃棄物処理法施行令の一部改定で、し尿・浄化槽汚泥等の海洋投入処分の全面禁止(適用猶予期間5年)が決まったことです。それまでのし尿等の海洋投棄処分を速やかに停止し、陸上処理に切り替えることになり、大木町は平成18年(2006)から、家庭の生ごみ、し尿、浄化槽汚泥を循環施設「くるるん」で資源化する事業をはじめました。バケツコンテナ式の生ごみ分別を確立し、その後、プラスチック紙おむつなども資源化したので焼却ゴミの量は半分以下に減り、施設でのエネルギー(メタンガス)創出と消化液(メタン発酵液肥)の農業還元に成功した事例として、多くの視察も受け入れてきました。

    平成20年(2008)3月には全国で2番目のもったいない宣言(ゼロ・ウェイスト宣言)を公表し、その年の可燃ごみ組成調査で焼却ゴミの重量比の中で大きな割合(約1割)を占めていた紙おむつをリサイクルする仕組みづくりに着手します。紙おむつの処分(リサイクル)は現在、超高齢社会の日本の廃棄物行政において、大きな課題となっていますが、大木町は福岡県のリサイクル総合研究センター大牟田エコタウンのリサイクル施設企業紙おむつメーカーとも連携して、平成23年(2011)10月に家庭から出る紙おむつ分別回収をいち早くはじめました。年間100tを超える紙おむつが回収され、再資源化されています。(参考:『ごみを資源にまちづくり』中村修,2017年8月,農文協、『月刊廃棄物』日報ビジネス,2019年4月号ほか)

    大木町公文書「平成23年度紙おむつリサイクル事業」(1-2-0023751)

    大木町公文書「平成23年度ゼロウェイスト関係文書」(1-2-0023750)

    大木町公文書「EPR・デポジット(協議会)」(1-2-0030051)

    平成22年(2010)、大木町・筑後市・大川市が共同開催した『第18回環境自治体会議「ちっご会議」』では、「拡大生産者責任(Extended Producer Responsibilities:EPR)」「デポジット制度」の導入で循環型社会の再構築をめざす ちっご会議決議が採択され、EPRデポジットの法制化を求める署名活動を行っています。環境保全や温暖化防止は、廃棄物処理等の行政活動だけでは実現できません。自治体内で住民とともに目標を持って根気強く取組むこと、県や近隣市町村とも連携し、全国に向けて発信していくことなど、大木町の取組みから学べることは多いですが、環境や廃棄物の問題は多くの自治体がよりよいあり方を模索し、つながりをつくりながら取り組んでいることがわかる資料です。

    おまけ
    堀の写真が表紙の『広報おおき』を探して、閲覧室の10年分の広報を確認してみたところ、3月号表紙は、圧倒的な確率で堀干し(体験)の写真です!

    大木町のように堀のある地域では、農閑期である冬に、堀に沈殿した堆積物(泥土)をくみ上げる、堀干し・ごみ揚げという作業を行います。ここで【ごみ】というのはこの有機物の栄養をたっぷり含んだ泥土のことを指していて、水田や藺田いだ(イ草を作る田)に客土かくどとして入れて土壌改善をおこなったり、肥しに使ったりしていたそうです。堀の貯水量を維持して町内に水をめぐらせ、土も循環させてきた大木町の風土が、循環型のまちづくりの基層にあるのですね。

    もちろん、3月以外でも堀は表紙を飾っています。

     

     

     

    福岡県立公文書館であり、福岡県市町村公文書館でもある当館では、大木町職員もはたらいています。せっかくなのでコメントをもらいました。

    この度は、福岡共同公文書館のブログをご覧いただき、どうもありがとうございます。今回のブログでお伝えしきれなかった、大木町・福岡共同公文書館の魅力がたくさんありますので、ご来町・ご来館を心よりお待ちしております。(文書班・堤)

    2021年2月18日

    公文書でめぐる ふるさと福岡 ~岡垣町~

    1月は「いく」、2月は「にげる」、3月は「さる」といわれているように、気が付けば2月も半ばを過ぎていましました。

    さて、「公文書でめぐる ふるさと福岡」今回は岡垣町です。

    岡垣町(おかがきまち)は)、福岡市と北九州市の間に位置し、町の東部は芦屋町(あしやまち)と遠賀町(おんがちょう)、西南部は孔大寺(こだいし)山系を隔てて宗像市(むなかたし)に接し、北部は響灘(ひびきなだ)に面し、三里松原(さんりまつばら)が美しい海岸を形成しています。町の総面積は48.51平方キロメートルで、遠賀郡(岡垣町・芦屋町・水巻町(みずまきまち)・遠賀町)の総面積のはぼ半分を占めています。

     

    「おかがき」という町名の由来

    1907(明治40)年に岡県村(おかがたむら)と矢矧村(やはぎむら)の二つの村が合併して岡垣村が誕生しました。明治維新後、廃藩置県の影響で誕生した二つの村は、基本的な風俗や性格に共通する部分が多く、加えて日本国有鉄道(現在のJR)の停車駅の誘致運動なども影響して次第に合併の機運が高まってきました。しかし、そこで問題となったのが新しい村名でした。岡県村は「矢矧村も古くは岡の県だったから岡県村とすべきだ」という声がありました。一方の矢矧村は「神功皇后(じんぐうこうごう)の時代に、当時武器である弓矢を作った故事から名付けられた矢矧川が村名の由来なので、こちらも由緒正しい名前だ」と意見がまとまりませんでした。そこで、当時の遠賀郡の郡長(郡の行政をつかさどる長官)が、「岡県の岡と古くからこの地を垣崎(かきさき)と呼んでいたことから垣をとり、『岡垣』とする」という決定を下したのです。こうして、村名を残せなかった矢矧村の名前は、矢矧川にその名を残し、また1910(明治43)年に開業した日本国有鉄道の駅に、矢矧村の中心地であった「海老津(えびつ)」の名を残し今日に至っています。そして、55年後の1962(昭和37)年10月1日に岡垣村から岡垣町になりました。

    「(昭和37年十月)町制施行に関する事績」 (1-2-0033643)

    遠賀郡の合併

    遠賀郡ではで1998(平成10)年から合併に関する動きが始まりました。1999(平成11)年)に「遠賀郡4町合併任意協議会」が発足しました。この協議会は2001(平成13)年に解散しましたが、2003(平成15)年に「遠賀郡4町合併協議会」(法定協議会)が設置されました。その後、合併に向けての協議が進められましたが、2004(平成16)年9月5日(日)に岡垣町では合併に関する住民投票が行われ、そこで反対が賛成を上回ったため、岡垣町は合併協議会から離脱を表明しました。その結果、4町での合併は断念することになり「遠賀郡4町合併協議会」は同年10月31日の解散することになりました。

    「遠賀郡4町合併に関する住民投票(③)」(1-2-0033634)

     

    岡垣町の周年行事

    1962(昭和37)年10月1日に町制施行した岡垣町では、1977(昭和52)年町制15周年、1982(昭和57)年町制20周年、その後10年度とに周年記念事業を行っています。

    町制20周年記念事業において「岡垣音頭」(レコード)を制作し、40周年記念事業において「変わらない岡垣(ふるさと)」というイメージソングを制作しています。また今回、参考にした「岡垣町総合学習副読本 おかがきナビ おかがきの、いいとこ探そう!」(小学生向け)は町制50周年を迎え、ふるさと岡垣町のことをもっと知ってもらい、ふるさとを誇りに思い、愛する心を育ててもらいたいという気持ちをこめて作成されたそうです。

     

    「(昭和57年度)町制20周年事業(事績綴)」(1-2-0033648)

             「岡垣町イメージソング 変わらない岡垣(ふるさと)」(2-4-0012647)

    「岡垣町総合学習副読本 おかがきナビ おかがきの、いいとこ探そう!」(2-2-0000881)

     

    現在、当館で開催中の「常設展 冬」「特集 公文書のいろいろ」において30周年をアピールするために作成されたのぼり旗を展示しています。

     

    2012(平成24)年に町制施行50周年を迎えた岡垣町は交通網の整備や団地の開発が進められ、自然環境にも恵まれた住みよい街として発展しています。

    岡垣町から移管された公文書は令和2年1月現在455冊です。また公文書のほか岡垣町が作成した行政刊行物も所蔵しています。

    それではまた、次回「公文書でめぐる ふるさと福岡」をお楽しみに!

    2021年1月27日

    公文書でめぐる ふるさと福岡 ~飯塚市~

    今回は、飯塚(いいづか)です。

    飯塚市の位置

     

    【飯塚市と筑紫野市】

     

    福岡共同公文書館が所在する筑紫野市と、飯塚市とは隣接するおとなりさんです。

    当館の専門員さんにも、飯塚市から出勤している方がいますが、この二つの都市は、

    そもそも江戸時代から、同じ街道沿いの宿場町としてのつながりがありました。

    江戸時代、長崎と小倉を結び、参勤交代をはじめ多くの旅人の通行があった長崎街道。

    長崎街道の筑前国内の六つの宿場を「筑前六宿(ちくぜんむしゅく)と呼びました。

    その西の端の原田(はるだ)宿と次の山家(やまえ)宿は現在の筑紫野市、

    その次の内野宿飯塚宿は現在の飯塚市です。

    しかし隣り合う山家宿と内野宿の間には、長崎街道一の難所ともいわれた

    冷水峠(ひやみずとうげ)が立ちはだかり、旅人を苦しめました。

    その冷水峠にも、1985年に全長2,891mの冷水トンネルが開通し、

    飯塚市と筑紫野市を結ぶ道路ルートはぐっと快適になりました。

    鉄道の方も、筑豊本線(若松駅(北九州市)-原田駅)が飯塚市と筑紫野市を結んでいます。

     

    【交通の要衝・飯塚】

     

    福岡市・北九州市の両政令市と飯塚市とを考えてみても、

    道路は八木山(やきやま)バイパスや直方(のおがた)バイパスなどが整備され、

    鉄道は福北ゆたか線(黒崎駅(北九州市)-博多)が通っており、通勤・通学圏内となっています。

    交通の要衝でもあり、人口は福岡市、北九州市、久留米市についで、県内4番目の規模で、

    まさに筑豊地域の中心都市といえます。

     

    【炭都・飯塚】

     

    飯塚といえば、やはり「炭鉱」をイメージする方も多いのではないでしょうか。

    福岡の近代化と発展に大きく寄与したのが、明治期に始まる石炭産業です。

    そして、飯塚は良質な産炭地として、大手資本が注目し、多くの炭鉱が開坑しました。

    筑豊御三家の一として有名な麻生太吉(あそうたきち)や、

    朝の連続テレビ小説にも取り上げられた炭鉱王伊藤伝右衛門(いとうでんえもん)も飯塚出身の人物で、

    明治期に石炭の採掘から身を起こし、一財を為して、政界や実業界で活躍をした、

    まさに石炭ドリームを実現した男たちです。

    彼らは、町にも大きな貢献を果たしており、公文書にも、高額納税者や寄附者として、

    たびたびその名が登場します。さらに朝ドラ「あさが来た!」の主人公のモデルとなった

    広岡浅子(ひろおかあさこ)(日本女子大学の設立や大同生命の創始で著名)が再開発に成功した

    潤野炭鉱(うるのたんこう)も飯塚にあり、ドラマでもその再開発の様子は克明に描かれていました。

     

    【鉄道】

    明治期の筑豊地方は、石炭産業の隆興により、いち早く鉄道が走り、道路も整備されていきました。

    福岡県で最初の鉄道といえば、明治22年(1889)に博多~久留米間を開通させた九州鉄道ですが、

    2番目の鉄道は、筑豊興業鉄道(ちくほうこうぎょうてつどう)でした。

    産炭量が増加するにつれ、川ひらた舟を使った水上輸送を鉄道による大量輸送に切り替えるために、

    筑豊五郡によって明治22年7月に設立された鉄道会社です。

    会社設立からわずか8年後の明治30年(1897)に九州鉄道と合併した

    筑豊興業鉄道についての資料は数が少なく、当館でもほんのわずかしか所蔵していませんが、

    飯塚市から移管されてきた公文書のなかに、鉄道建設に関する貴重な資料があります。

    「鉄道係スル事蹟」(1-2-0013000、明治25年度、飯塚市公文書)です。

    これは、筑豊興業鉄道が路線を延長する際に、

    関係町村とどのような協議をおこなったのかがわかる資料で、

    そのころ筑豊興業鉄道会社の監査役であった安川敬一郎(やすかわけいいちろう)が折衝のために、

    飯塚を訪れた事蹟や、新路線開業時の試乗会に飯塚町長を招待した事蹟などを確認することができます。

    明治25年8月12日に作成された飯塚町役場から同町鉄道委員へ向けた文書。内容は、筑豊(興業)鉄道の岩鼻鉄橋建設について関係町村との協議のために、同鉄道監査役の安川敬一郎が飯塚へ来ているので、鉄道委員は速やかに集まること、とあります。
    筑豊興業鉄道は、福岡県で2番目に設立された鉄道会社であり、開業後わずか6年で九州鉄道と合併した。市町村文書に残るこうした鉄道建設に係る事蹟は、筑豊興業鉄道の社史を調べる上でも貴重です。

     

    【市制施行】

     

    石炭産業の隆盛によって人口が増え、インフラの整備も進む飯塚は、

    昭和7年(1932)1月、市制施行を行います。福岡県では10番目の市ということになります。

    市制施行の詳しい事蹟は、県の公文書に残されています。

    (『市制施行』(昭和7年、1-1-0024554))
    市制施行申請書の一部。昭和6年6月の飯塚町議会において、満場一致で市制施行申請が可決されたことがわかります。

     

    【飯塚市公文書について】

     

    飯塚市から当館へ移管された公文書は、現在約4,000件

    飯塚市公文書について特筆すべきは、明治期から継続して残された文書群が非常に多いということです。

    例えば、議会文書は市制町村制施行前の明治18年から約100年にわたって保存され移管されています。

    しかも、合併により現飯塚市の一部になった、旧町村の文書を並列して見ることが可能です。

    これは、飯塚市をめぐる様々な出来事を検証するだけでなく、議会史、地方行政史を考える上でも、

    大変貴重な一次資料となります。

    また、学校教育課が保存していた「学齢簿」「学籍簿」

    明治27年のものから約60年にわたり残されています。この膨大な資料群も、

    先祖探しに役立つということだけでなく、時代や社会に応じて変遷していく教育制度をたどる

    重要な一次資料といえるのです。

     

    このように非常に見どころの多い飯塚市の公文書ですが、とにかく数が多いので、

    今後も折に触れご紹介していこうと思います。

    「明治十八年度 村費決議録報告留 飯塚村外五ヶ村戸長役場」(1-2-0014506)

    村費の内の「一時買入費」(紙や筆墨のように毎月購入しなければならない物品以外の物についての購入費用)に計上された物品の内訳(火鉢、そろばん、七輪、提灯…)を見ると、当時の役場内の様子が目に見えるようです。

     

     

     

    2021年1月6日

    公文書でめぐる ふるさと福岡 ~宇美町~

    新しい年を迎えました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。福岡共同公文書館は1月5日(火)より「三密」に気を配りながら開館しています。

    昨年は大変な年でしたが、今年は少しでも良い兆しが見えるとよいですね。

     

    さて、「公文書でめぐる ふるさと福岡」は今回「大木町」の予定でしたが、予定を変更して今回は宇美町を紹介します。

     

    宇美町(うみまち)は、福岡都市圏に属する糟屋(かすや)郡の町で、西は大野城(おおのじょう)市と福岡市、北西は志免(しめ)町、北は須恵(すえ)町、東は飯塚(いいづか)市、南は太宰府(だざいふ)市と筑紫野(ちくしの)市にそれぞれ隣接しています。

    東部は砥石山(といしやま)(828m)、三郡山(さんぐんざん)(936m)、頭巾山(とっきんざん)(901m)、仏頂山(ぶっちょうざん)(868m)などの三郡山系と、南部は四王寺(しおうじ)山塊の大城山(おおきやま)(410m)に囲まれており、町の面積のおよそ6割を豊かな森林が占めています。

     

     宇美町の歴史は古く、西暦665年に築城された日本最古の古代山城「国指定特別史跡 大野城跡」をはじめ、近年、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に記載がある「不彌(ふみ)国」として本町が注目される根拠となった「国指定史跡 光正寺(こうしょうじ)古墳」などの史跡が多くあります。また、古事記や日本書紀に、神功(じんぐう)皇后が応神天皇を出産された地を「宇美(産み)」と呼ぶようになったという記述があるように、安産の神様として全国的に有名な宇美八幡宮があります。                                  (宇美町 HPより)

     なお、宇美町から移管された文書は、令和3年1月現在で約140冊です。

    大正9年(1920年)10月に糟屋郡で最初に町制を施行して誕生した宇美町は、令和2年(2020年)に町制100周年を迎えました。

     

     

     

     

     

     

    「広報うみ町制施行100周年特別号」(2-4-0015161)

     

    今回、宇美町をご紹介したのは、当館で1月8日(金)より「常設展 冬」の

    「特集 公文書のいろいろ」

    と題してさまざまな記録媒体を紹介しており、その中で、宇美町からの移管文書も展示しているからです。

    展示で紹介しているのは、宇美町の「町勢要覧」です。「宇美町文庫」と題して表紙も本の写真が掲載されています。「町勢要覧」とは、町の概要や魅力を紹介するために写真や文章で分かりやすくまとめたものです。「〇〇年 △△町勢要覧」という表紙が多い中、パッと見たら「町勢要覧」とはわからないけれども、非常に目を引く表紙だと思いました。よく見ると表紙に掲載されている本の背は、「宇美物語」(歴史)、「宇美町散歩ガイド」(町の紹介)、「【近未来エッセイ】いま、明日のために」(総合計画の概要)、「Quiz-U」(クイズで楽しむ宇美町のアレコレ)と目次になっていて、とても遊び心のある表紙だと思いました。また、映像編も制作されています。

                           「宇美町文庫 DVD(映像編)」(2-4-0010253)

      「宇美町町勢要覧2005(宇美町文庫)」 (2-4-0006679)

     

    展示にちなんでもう一つ。展示の中で「市町村のオリジナルソング」を紹介しています。当館に所蔵がないので展示では紹介できませんでしたが、宇美町にも「宇美町町制施行70周年を記念して制作された「宇美町賛歌」という「町歌」があります。この歌は宇美町のHPからダウンロードできます。

    宇美町賛歌ダウンロード [MP3/2.69MB]

    かつては炭鉱の町として栄えた宇美町は、町制100周年を迎えた現在、福岡市のベッドタウンとしてとして成長を続けています。

    次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!

    2020年12月9日

    公文書でめぐる ふるさと福岡 ~福津市~

    今年も残り1ヶ月をきってしまいました。

    さて、今回は「公文書でめぐる ふるさと福岡」で福津市を紹介します。

    平成17年1月24日、旧福間(ふくま)町と旧津屋崎(つやざき)町が合併し、「福津市(ふくつし)」が誕生しました。

    福岡県の北部で福岡市と北九州市の近隣に位置し、北東側は宗像(むなかた)市、南東側は宮若(みやわか)市、南側は古賀(こが)市に隣接しており、西側は玄界灘(げんかいなだ)に面しています。

    また、東部を山、西部を海に囲まれ、特に海岸一帯と宮地嶽(みやじだけ)神社周辺の山林は、昭和31年に玄海(げんかい)国定公園に指定され、風光明媚な自然景観を形成しています。

    東西にJR鹿児島本線、国道3号が延び、海岸線と併行して国道495号が走っており、九州自動車道若宮(わかみや)インター、古賀インターも近く、広域的な交通利便性にも富んでいます。このため、福津市は宮地嶽神社や津屋崎・福間海岸などを中心とした観光レクリエーションの場として、また、福岡・北九州両政令市への通勤・通学の利便性を背景とした住宅地域として、さらには、新鮮な食料品の生産供給地域としての広域的な役割をもっています。

     

    「福津市」という名称

    「福津市」という名称には、幸福や多くの人が集まる津(港、場所)という意味が込められています。市の名称を決めるにあたり、全国に公募したところ3,064通の応募があり、合併協議会において協議され、最終選考で残った「福津市」と「北筑前市」で決選投票を実施した結果、過半数の票を獲得した「福津市」に決定しました。

    次に、福津市が行ってきた事業を紹介します。

    国民健康保険制度のルーツ

    福津市は、国民健康保険制度の参考にされた定礼(じょうれい)(常礼)制度が、かつておこなわれていた地域です。1930(昭和5)年ごろ、世界中をおそった不景気により、農村では経済状況も衛生状況も悪化し、都市部に比べ平均寿命も短く、多くの病気が蔓延しました。特に、結核は栄養状態の悪い農村の人々の間で広まり不治の病と言われていました。農村のこのような状況を救うため国(当時の内務省社会局)は全国の医療の状況を調査しました。すると、福岡県の19地区(宗像郡11地区・鞍手(くらて)郡8地区)と熊本県の1地区ですでに「医療互助組合」が運営されていました。

    当時宗像郡では医療互助組合のことを「定礼」または「常礼」と言っていました。この言葉は村人たちが作り出した言葉で、「医者にかかってもかからなくても、その人の収入に応じて、まった額をおするので。日ごろ、お世話になっている医者へのおを欠かしてはいけないということから常礼」と言っていたそうです。定礼(常礼)には、ほとんどの家が加入しており、各家から玄米を集め、それを診療所の医者に差し出せば、1年間無料で治療が受けられる仕組みになっていました。1938(昭和13)年7月に世界でも初めてといわれる国民健康保険制度がスタートしました。この手本となったのが宗像の定礼(常礼)で国民健康保険制度のルーツといわれています。

     

    (「やさしい福間町の歴史」 2-2-0001942)より)

     

     

    「うみがめ課」という課がある

    福津市には、福津市の環境保全活動の象徴として「うみがめ課」という名の「課」があります。この課は他自治体でいう「環境課」「環境整備課」などに当てはまり、ウミガメの保護活動だけではなく、地域のゴミ問題や動物全般の保護など多岐に渡った業務をしています。

    課名の由来は、福津の海岸にアカウミガメが産卵に来ることからきています。福津市は、昔からウミガメが産卵に来ることは知られていました。しかし都市化が進み、ゴミの不法投棄や、浜辺に車で乗り付けて夜遅くまで遊ぶ人が増えるなど、ウミガメにとって環境は悪くなるばかりでした。そこで、平成9年に地元住民の方々が自発的にウミガメを守る会を作り、保護活動を始められました。その後、当時の津屋崎町役場にウミガメの保護活動について相談がなされ、町長の「官民一体でウミガメが来てくれるような環境保全をしていかないか」という呼びかけのもと、平成14年に「環境整備課」から「うみがめ課」と課名の変更を行い、住民と行政が一体となり、ウミガメ保護に取り組んでいくことになりました。

    そしてこの活動は、平成17年の合併後も福津市の環境保全活動の象徴となり、課名もそのまま継続されています。また、うみがめ保護条例なども策定され、「うみがめ」現在でも福津市の環境保護の象徴のような特別な生き物となっています。

    「ウミガメ保護条例関係資料」 1-2-0034598)

     

    また、「広報ふくつ」(お知らせ版 2020年11月15日号)に、「遠くて近い ウミガメのこと」(「環境掲示板」)として、ウミガメの孵化(ふか)に関する記事が掲載されています。

    (「広報ふくつ」 2-4-0015042)

    *福津市のHPでも見ることができます fukutsu20201115_page16.pdf

    福津市から移管された公文書は令和2年12月現在で約1500冊です。また公文書のほか福津市が作成した行政刊行物も所蔵しています。

    次回は大木町です。

    2020年10月29日

    公文書でめぐる ふるさと福岡~筑後市~

    収穫の秋ですね、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

    『公文書でめぐる ふるさと福岡』今回は、筑後市をご紹介します。(筑後市HP

    筑後市

    筑後市は福岡県の南西部、筑後平野(九州最大の筑紫平野の福岡側)の中央に位置する田園都市です。市の南を流れる矢部川の流域は、縄文・弥生時代の集落跡である裏山遺跡があり、古くから人が住んでいた地域です。

    (地名がたくさん出て来ますので、末尾に地名等のよみがな対照表をつけています。)

    市内を南北に通る坊津街道ぼうのつかいどう(薩摩街道)は江戸時代の参勤交代の通り道で、羽犬塚はいぬづかはその宿場町でした。ややルートの変遷はあるものの、平安時代に編纂された『延喜式えんぎしき』(10世紀前半)の中にも「西海道さいかいどう」(古代飛鳥・奈良時代の幹線道路)の駅名として「葛野駅かどののえき」(現在の羽犬塚付近と想定される)が登場しており、九州縦断の交通の要衝であったことがうかがえます。(参考『福岡県百科事典』)

    筑後市から当館に移管された資料は9月末現在で789点です。年代が古いものは、明治時代の字図・一筆限竿入帳などの土地の台帳です。また、教育委員会作成の埋蔵文化財報告書では遺跡や西海道に関連する場所について調査したものも多いです。

    温暖な気候と、土壌や水にも恵まれた農業が盛んな土地で、米・麦・イグサ・ナシ・ブドウ・八女茶などが生産されています。炭酸泉の船小屋温泉郷や恋の木神社などの観光スポットがあり、「恋のくに筑後」と題して市をあげての婚活イベントなども盛んです。

    筑後市を紹介しながら、恋も応援するPR動画 恋のファーム♡Chiku−Go! ちくご恋するチャンネル(広報ちくご・筑後市公式Youtubeチャンネル)より

    筑後市内遺跡群Ⅳ 筑後市文化財調査報告書 第45集 (2-1-0019164)

    藩政時代には久留米藩に属していた地域で、明治22年(1889)町村制施行により、上妻郡かみつまぐんの羽犬塚村、二川村ふたかわむら下妻郡しもつまぐんの水田村、下妻村、古川村の五ヵ村が成立します。明治29年(1896)上妻郡、下妻郡は生葉郡いくはぐんの一部とともに八女郡となります。水田村(明治41年(1908)合体合併;水田村、下妻村、二川村)と、羽犬塚町(大正14年(1925);町制施行)と、古川村、岡山村(一部)が合併して、昭和29年(1954)4月に筑後市が誕生しました。その後、三潴郡西牟田町と八女郡下広川村の一部を編入して、現在に至ります。

    実は、筑後市は、常設展秋の特集「公文書と〈害虫〉」の中でご紹介している、明治の螟虫めいちゅう駆除とも深いかかわりがあります。今回は『筑後市史』2巻「益田素平と螟虫駆除法」に登場する、益田素平(八女郡江口村の老農、のち二川村長)と螟虫駆除に関連する資料をご紹介します。

    近世、農作物の〈害虫〉は、「虫」または、稲につく虫「いなむし」と呼ばれ、天災のひとつとされていました。民俗行事で今も残る虫送りや虫追いは、呪術的な害虫駆除による豊作祈願であり、虫供養は農作業の過程で駆除した虫への鎮魂でした。

    明治の福岡県では、品種改良や施肥の改善によって、茎が太く収量の多い稲がつくられるようになりましたが、この稲の茎を中から食す螟虫メイチュウ(螟蛾めいがの幼虫)による甚大な被害が発生します。

    (ニカメイチュウ写真提供:福岡県農林業総合試験場 病害虫部)
    螟虫というのは通称で、方言でスムシズイムシナカザシシンキリイネノドウムシカラクダシなどと呼ばれていました。稲の茎の中で幼虫が成長し、年2回(2世代)発生するので二化螟虫ニカメイチュウ二化螟蛾にかめいがの幼虫)と名づけられました。現在はあまり見られなくなりましたが、ウンカと並び稲作に大きな被害をもたらした〈害虫〉で、とくに筑後地方では、年3回発生する三化螟虫サンカメイチュウ三化螟蛾さんかめいがの幼虫、イッテンオオメイガ)による深刻な被害を受けていました。

    福岡で、県や明治政府に掛け合いながら螟虫駆除予防に尽力したのは益田素平をはじめとする筑後地方の老農ろうのうたちでした。老農というのは、西洋農学を学ばずに在来の農業技術の改良をおこなってきたひとたちのことです。益田は自身の試験田での研究と新しく知られるようになった西洋昆虫学の情報を照らし合わせ、稲の茎を中から食して穂枯れをおこすメイガの幼虫(特に、三化螟虫)の存在を確信します。1877(明治10)年、当時副戸長でもあった益田は「螟虫駆除予防稟申書」を福岡県に提出し、県の対応を求めます。県からも国へ上申し、内務省勧農局員の鳴門義民(青森のニカメイガと九州で発生していたサンカメイガについて、虫害の調査、駆除の方法の指導に当たっている)が派遣されます。鳴門との協議の結果、益田が提案した様々な防除方法の中から、稲刈りを終えた稲株をすべて掘り起こして寒気にさらし焼却する「稲株掘り起し法」が有効とされ、導入への働きかけが行われます。

    1879(明治12)年10月 メイガの被害町村連合会(三潴、八女、山門やまとの三郡)で益田素平・中島忠蔵(上妻郡島田村)・原口茂七(下妻郡常用村)ら螟虫研究老農たちが説明を行いますが、「稲株掘取」は時期尚早と採用されませんでした。代わりに18か所の螟虫試験所が設置されました。

     

    『福岡県における螟蟲(めいちゅう)駆除豫防の沿革 病害虫駆除豫防資料第15号』(1-1-0007432)附益田素平翁遺稿螟虫実験説

    1880(明治13)年10月、反対意見も多い中、益田素平・佐野貞三(三潴郡八丁牟田村、現大木町)らの啓発や渡辺県令の説示もあり、上妻下妻、三潴、山門の4郡聯合会れんごうかいで当年度の「稲株掘取焼却」による駆除予防の実施が採用されます。被害の大小にかかわらず収穫後の稲株を掘取焼却等処分をすることとされ、罰則もありました。しかし、県から強制される形で非常に労力の要る「稲株掘取」を行うことは、すぐには理解を得られず、同月反発する農民らによって「不掘取」を請願する「筑後稲株騒動」が起き、益田や佐野、郡長や議長が襲撃の対象となりました。三潴郡27カ村、上妻郡45カ村、800名に及ぶ逮捕者を出したこの騒動ののち、次第に農作物の〈害虫〉と駆除予防の必要性が理解されていきます。明治29年には、明治政府によって害虫駆除予防法が制定され、県の害虫駆除予防規則のもと行政主導の組織的な防除が行われるようになり、農業試験場での応用昆虫学や農法、薬剤の研究とともに農業の近代化がすすんでいきます。

     

    『二川村会決議録 八女郡二川村役場』(1-2-0005938)、『筑後市史 第二巻』(2-4-0005776)

    明治22年、益田素平は二川村の村長に就任しています。明治政府による「害虫駆除予防法」が公布された明治29年、福岡県令に基づき、二川村会は「苗代田並植田螟虫駆除規定」を制定しました。行政区ごとに取締人を選び、村の直営事業として苗代田なわしろでんの採卵と捕蛾とその買上、枯茎採取の夫役雇入れが行われました。また益田は、反発を招く原因となった稲株掘取の労力を減らし、稲株処理を普及させるための稲株切断器(株切鍬)も考案しています。

    螟虫駆除のために、益田らが提唱し各地の試験研究機関で研究されるようになった、遁作法、採卵、採蛾、稲株処理、誘蛾灯、虫害稲藁の処理など総合的な駆除対策は、現代の農業におけるIPM(Integrated Pest Management 総合的病害虫・雑草管理)の考え方とも通じるものがありますね。

    いかがでしたか?次回は福津市をご紹介します。お楽しみに。

    福岡共同公文書館では常設展の一部を入替、秋の特集「公文書と〈害虫〉」がご覧いただけます。Web展示で一部資料をご紹介しておりますので、そちらもどうぞ。

    ※地名等 ふりがな対照表 (参考:日本歴史地名大系41「福岡県の地名」平凡社、2004年)

    1. 坊津街道(ぼうのつかいどう)
    2. 羽犬塚(はいぬづか)
    3. 西海道(さいかいどう)
    4. 葛野駅(かどののえき):「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる筑後国の駅で、大宰府から筑後国を経て肥後・薩摩国府へ向かう薩摩路(小路)に設置された
    5. 上妻郡(かみつまぐん)
    6. 下妻郡(しもつまぐん)
    7. 生葉郡(いくはぐん)
    8. 三潴郡(みづまぐん)
    9. 山門郡(やまとぐん)
    2020年9月16日

    公文書でめぐる ふるさと福岡~直方市~

    公文書館発の県内市町村のご紹介、今回は直方市です。

     

    さっそくですが、問題です。

    直方市の正しい読みを答えましょう。

    「直方」市→「〇〇〇〇」市

     

    福岡県内の方には簡単な問題ですが、県外の方には意外と難読地名だったりします。

     

     

    答えは「のおがた」市です。

    もしかしたら、「のうがた」と間違えて覚えている人もいるのでは…。

    発音してみると、「」なのか「」なのか迷ってしまうことってありますよね。

    そんな迷える人々のために、直方市ではこんなキャッチコピーをご用意されています。

    (直方市HPより)

     

     

    楽しいキャッチコピー!

    これでしっかり覚えました!

     

    直方市は、福岡県の北部に位置し、飯塚市、田川市と並んで筑豊三都と称されています。

           福岡県内の直方市の位置図
     形と言い位置と言い、まるで福岡県の心臓のようです。

     

    古くは福岡藩の支藩でしたが、享保5年(1720)年に廃藩となった後は、

    長崎街道の木屋瀬宿と飯塚宿の間に置かれた中継地「立場(たてば)」として、

    人馬の継立や飲食物の提供を行いました。

    明治時代になると、筑豊で産出した石炭の集積地となり、問屋的な役割を担います。

    直方駅には操車場や機関区が置かれるなど鉄道輸送の基地として、

    また乗合自動車の路線もおびただしく、交通の要衝として栄えました。

    炭鉱機械工業や商業の町として石炭産業の盛衰とともに歩んできた町でもあります。

    エネルギー革命が起こった昭和30年代以降は、脱石炭への努力を続け、

    工業都市、生活都市への発展を遂げました。

    (参考『福岡県百科事典』)

    昭和6年ごろの直方駅構内(1-1-0024547)

    直方町交通図(部分)下方部の丸がすべて乗合自動車の会社です。直方駅を起点に様々な乗合自動車が路線をめぐらせていることがわかります。(1-1-0024547)

     

    直方市の沿革としては、まず大正15年11月に、直方町・新入村・福地村・頓野村

    下境村が合体して直方町となり、その後、昭和6年(1931)に市制施行して直方市となりました。

    福岡県では9番目の市ということになります。

    この時の市制施行申請書は、福岡県公文書のなかに残されています

    (1-1-0024547「市制町制施行」)。

    添付資料の交通図や写真などは、市制施行時の直方の繁栄を物語る貴重な資料といえます。

    昭和の大合併が行われていた昭和30年、植木町を編入して現在と同じ市域が確立しました。

     

    直方市から当館に移管された特定歴史公文書は、2020年9月現在で838点に及びます。

    公文書の内容を見ると、〈歳入歳出簿〉が最も多く、教育委員会や農業振興課などの文書も

    多く移管されています。

    そのなかで注目されるのが、昭和27年に戸畑市、直方市、飯塚市、田川市、柳川市の5市による

    一部事務組合として設立された「福岡県五市競輪組合」に関する公文書です。

    昭和23年に公布された自転車競技法のもと、小倉を発祥として始まった「競輪」ですが、

    昭和27年にこの「競輪」事業の共同運営を行う目的で設置されたのが「五市競輪組合」です。

    組合に関する当館所蔵公文書102冊の内92冊が直方市から移管されたものです。

    現在でこそオリンピック競技として注目されている自転車競技ですが、

    「競輪」の歴史は様々なトラブルや社会的な反発など、

    決して順風満帆ではありませんでした。

    しかし一方で、自治体財政への功績が大きかったことも事実です。

    小倉や久留米の競輪場を借りて、五市競輪組合主催のレースが行われ、

    その収益は組合自治体に分配されました。

    この「五市競輪組合」文書は、昭和27年の第1回議会事蹟から存し、

    平成にいたるまでの組合の活動をたどることができます。

    昭和27年時の「競輪」競技のルールブックなどは、自転車競技の歴史を知る上でも

    好資料といえるでしょう。

    その他東京オリンピックの聖火リレー写真や、昭和50年前後の九州縦貫自動車道や

    山陽新幹線延伸に関する文書といった、

    高度成長期の社会の様子を示す資料などもあり、バラエティに富んだ公文書群になっています。

     

     

     

     

     

     

    第1回議会事績を含む五市競輪組合文書(1-2-0004273)

     

     

    五市競輪組合競輪実施規則(昭和27年)より。当時の選手の服装(シャツ)は「布又は毛製半袖の見苦しくない色彩のもの」と定められていた。(1-2-0004445)

     

        

     

    東京オリンピック(1964)の聖火リレー隊員委嘱状(1-2-0004363)

     

    直方市聖火リレー団の集合写真(同上)

     

    写真出典:

    1-1-0024547「市制町制施行」(福岡県公文書、昭和6年度)

    1-2-0004273「議会事績」(直方市公文書、昭和29年度)

    1-2-0004445「組合条例規則綴」(直方市公文書、昭和28年度)

    1-2-0004363「オリンピック東京大会聖火リレー写真集」(直方市公文書、昭和39年度)

     

    次は、筑後市です。

    2020年8月18日

    公文書でめぐる ふるさと福岡

     福岡共同公文書館は「福岡県立公文書館」と「福岡県市町村公文書館」という二つの施設の総称で、福岡県と県内全市町村(北九州市と福岡市を除く)が共同で設置・運営する公文書館です。

     福岡共同公文書館には明治以降に作成または取得された公文書の中で行政事務上必要とされる保存期間を満了した文書が各自治体から移管されており、これらの文書は当館のHPで目録を公開しています。

     

     これからこのブログで、福岡共同公文書館所蔵資料の移管元である福岡県及び県内市町村それぞれの紹介とともに、移管元に関連する所蔵資料の紹介をしていきたいと思います。

     初回は、「福岡県」です。

     福岡は、古代、遠の朝廷(とおのみかど)と呼ばれた大宰府政庁や、外国使節の迎賓館である鴻臚館がおかれ、中国大陸や朝鮮半島と我が国との交流の窓口でした。いち早く大陸文化に触れ、日本のどの地方よりも早く米作りを始めました。また、大陸から新しい文化や学問、外国の品々を受入れてきました。

     江戸時代になると、福岡藩・久留米藩・柳河藩・小倉藩などがおかれ、明治になると廃藩置県により藩の地域が県となりました。そしてその後、小倉、福岡、三潴の3県の時期を経て1876年(明治9年)に現在の福岡県ができました。

     また、県内の製鉄や石炭産業が日本の近代化を支え、その後、商工業や農林水産業が発展し、空港・道路・鉄道等の交通も整備されていきました。

     現在は、アジアをはじめ、世界との交流を促進する交通基盤や文化機能は着実に向上しています。九州の経済や文化、行政の中枢機能の集積が進む中、アジア諸国・世界各地との交流をさらに拡大し、九州、西日本、アジアにおける広域交流都市圏としての一大拠点になっています。

     明治以降の福岡県のあゆみについては、当館展示室の「公文書にみる福岡140年のあゆみ~福岡県の誕生と市町村合併~」(常設展)をご覧ください。

     

     福岡県には、北九州市と福岡市の2つの政令指定都市を含めて60市町村(29市29町2村)があります。これら60市町村は、地理的、歴史的、経済的特性などから、「北九州」「福岡」「筑後」「筑豊」の4地域に分けられています。

    このような、福岡県のすがたや施策・事業などは

     「県政のしおり」(一般向け)

     「わたしたちの福岡県」(小学生向け)

    というパンフレットを県で作成し、紹介しています。

    当館にも過去10年分(それ以前のものも多少あり)を所蔵しています。

         (福岡県行政資料:2-4-0013571)

     

     

     

     

     

     

     

           (福岡県行政資料:2-4-0013570)

     福岡県から移管された公文書は令和2年7月現在で約45,200冊です。また公文書のほか県が作成した行政刊行物も所蔵しています。

     福岡共同公文書館の公文書や行政刊行物は、誰でも閲覧することができます。

     ぜひ、福岡共同公文書館をご利用ください。

                          次回は「直方市」の紹介です。

    福岡共同公文書館
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