今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は大野城(おおのじょう)市の紹介です。
◆大野城市の位置
大野城市は福岡市の南に隣接し、古くから博多と大宰府を結ぶ交通の要衝として栄えて来ました。 現在も国道3号や九州縦貫自動車道、福岡都市高速道路といった自動車交通の大動脈が走り、公共交通ではJR鹿児島本線と西鉄天神大牟田線が通っています。 さらに福岡空港にも近く、いにしえと同様交通の便に恵まれた環境と言えます。
◆大野城市の地勢
位置図で明らかなように、大野城市は中心部の幅が非常に細く、ひょうたん型をしています。 東北部に四王寺(しおうじ)山や乙金(おとがな)山、南部には牛頸(うしくび)山があり、緑にも恵まれています。 また市内には御笠(みかさ)川と牛頸(うしくび)川が流れ、この二つの川は瓦田(かわらだ)付近で合流してそのまま御笠川として博多湾へ注いでます。
◆大野城市の変遷
市名の「大野城」は、遠く飛鳥時代、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)の戦いで日本軍が敗れ、唐・新羅連合軍の反撃に備えるため、大野(おおの)山(現在の四王寺(しおうじ)山)に築かれた山城「大野城」に由来しています。 近代以降の大野城市は自治体として次のような変遷をたどりました。 明治22(1889)年、村制の施行により大野村が誕生 昭和25(1950)年、町制の施行により大野町が誕生 昭和47(1972)年、市制の施行により大野市が誕生 しかし既に「福井県大野市」が存在するため、施行と同時に「大野城市」へ市名変更となりました。
◆大野城市と公文書
当館で保存している大野城市に関連する公文書・行政資料を少し紹介しましょう。
『一瀬井堰変更事績』明治44年(1-2-0026847) 明治44(1911)年、大野村長から県知事に提出された一瀬井堰改築願の事跡です。大野城市(当時は大野村)が作成した文書で当館が保存している最古のものになります。
『部落有財産統一事績』大正4年(1-2-0026848) 町村制施行後20年を経過し、一層の地方行政振興を図るために村の基本財産を精査した資料です。
『ルース住宅覚書協定書』昭和27年(1-2-0026843) 昭和26(1951)年の台風第15号(ルース台風)は各地に甚大な被害をもたらしました。そのルース台風による住宅被害者への救済措置の事跡です。
『青年学級研究集会資料 昭和28年度』(2-4-0006091) 昭和28(1953)年に「青年学級振興法」が制定され、勤労青年を対象に、一般教養や職業、家事などについて学ぶ「青年学級」がスタートしました。ご覧のように、履修内容もお遊び程度ではなく本格的なものとなっています。
ところで、表紙からも明らかなようにこの資料は大野町(現大野城市)の青年学級に関する資料ですが、しかし大野城市に残されていた訳ではありません。実は、糟屋郡志免町が保存していたものを当館に移管したものなのです。
当該自治体では散佚してしまった資料でも、何らかの事情により他自治体に残されている場合があり、それが共同公文書館に移管されることで、当該自治体もその資料の存在に改めて気付いたりすることがあります。同時に「当該自治体に資料が残ってなければ仕方がない」と諦めていた利用者も、他自治体のおかげでその資料を閲覧することが可能となります。 こういうところにも共同公文書館の存在意義を垣間見ることができます。
『大野城市市勢要覧 ~市制施行50周年記念~』令和4年(2-4-0022146)
昨年(令和4年)大野城市は市制施行50周年をむかえ、様々な記念イベントが挙行されました。
現在開催中の企画展「福岡県 市町村の変遷」でも、大野町が市に移行した事蹟や「大野城市」への市名変更理由を紹介しています。是非お立ち寄りください。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!