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8月30日(金)から2024年度福岡共同公文書館企画展「皇室と福岡県」を開催しています。
今回は、当館所蔵の文書の中で「皇室」と「福岡県」の関わりや行幸・行啓・お成りの記録を通して各時代の福岡県の様子を紹介します。
〈明治〉
・福岡県の初代県知事は「有栖川宮熾仁親王」でした。
『本県に於ける有栖川宮熾仁親王(福岡藩知事)御事蹟』1980(昭和55)年度
行政資料(2-1-0006684)
〈大正〉
・皇后陛下は天皇陛下快癒祈願のために香椎宮ほか福岡県内に行啓されました。
『行啓に関する事蹟(行啓に関する書類)』1921(大正10)年度 福岡県公文書(1-1-0021170)
〈昭和〉
・戦前は多くの皇族の方が福岡にお出ましになりました。
『高松宮妃殿下・梨本宮殿下・東伏見大妃殿下御成事蹟(高松宮妃殿下・梨本宮殿下御成事蹟)』
1933(昭和8)年度 福岡県公文書(1-1-0021200)
・戦後、天皇陛下は九州を巡幸されました。
『天皇陛下行幸録』1951(昭和26)年度 行政資料(2-4-0016734)
〈平成〉
・第45回国民体育大会(とびうめ国体)には、天皇・皇后両陛下をはじめ宮様方がお出ましになりました。
『第45回国民体育大会報告書』1990(平成2)年度 行政資料(2-1-0006724)
〈令和〉
・新元号「令和」の典拠は約1300年前に太宰府の地で行われた「梅花の宴」を記した『万葉集」の序文といわれています。
『太宰府市市制施行40周年記念誌』2022(令和4)年度 行政資料(2-4-0021527)
このように、各時代の「皇室」と「福岡県」の文書を展示いています。会期は2024年8月30日(金)~12月15日(日)で、観覧は無料です。皆様の公文書館へのご来館をお待ちしております。
また、Web展示も同時に開催しておりますので、HPをご確認ください。
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は、遠賀町(おんがちょう)です。
◆遠賀町の地理
遠賀町は、一級河川遠賀川(おんががわ)の河口近くの西岸に位置し、東西に4キロメートル、南北に6キロメートルの水と緑に囲まれた自然豊かな町です。北は芦屋町(あしやまち)、東は遠賀川を境に水巻町(みずまきまち)、南東は中間市(なかまし)、南は鞍手町(くらてまち)、南西は宗像市(むなかたし)、西は岡垣町(おかがきまち)に接しています。
◆町制施行60周年
遠賀町は、令和6(2024)年4月1日に町制施行60周年を迎えました。
『広報おんが 令和6年4月号』令和6年度 遠賀町行政資料(2-4-0024322)
◆遠賀町の誕生
昭和4(1929)年4月1日、浅木村(あさぎむら)と島門村(しまとむら)が合併し遠賀村(おんがむら)が誕生しました。
『議事録(昭和3年~昭和4年)』昭和4年度 遠賀町公文書(1-2-0005519)
『市町村の廃置分合』昭和4年度 福岡県公文書(1-1-0024538)
その後、昭和10年代の石炭景気によって、遠賀村の人口は合併時の2倍近くまで増えて、昭和39(1964)年4月1日に町制を施行、遠賀村(おんがむら)から遠賀町(おんがちょう)になりました。
『議決書』昭和39年度 遠賀町公文書(1-2-0005332)
◆町章の選定
遠賀町の町章は、遠賀町の頭文字である「オ」をデザイン化したもので、昭和47(1972)年に公募によって選ばれました。
『町章制定事蹟』昭和47年度 遠賀町公文書(1-2-0005374)
◆昭和28年 遠賀大水害
昭和28(1953)年6月、九州北部を中心に梅雨前線を原因とする集中豪雨による水害が発生しました。当時の遠賀村でも記録的な豪雨により大きな被害が出ました。紙芝居を作り子どもたちにわかりやすく伝えるなど、令和の今も遠賀大水害は語り継がれています。
『昭和28年.6月大水害に関する事蹟』昭和28年度 遠賀町公文書(1-2-0005382)
『広報おんが 令和2年8月10日号 語り継ぐ遠賀大水害』令和2年度 遠賀町行政資料(2-4-0014053)
◆平成の合併
遠賀郡4町の合併については、平成15年7月に「芦屋町・水巻町・岡垣町・遠賀町合併協議会」が設置され全26回の協議会が開催されましたが、平成16年10月に協議会は解散、合併は白紙となりました。
『新市建設計画・遠賀郡将来構想等』平成16年度 遠賀町公文書(1-2-0042368)
『合併協議経過(芦屋町・水巻町・岡垣町・遠賀町合併協議会①)』平成16年度 福岡県公文書(1-1-0041468)
『合併協議経過(芦屋町・水巻町・岡垣町・遠賀町合併協議会②)』平成16年度 福岡県公文書(1-1-0041469)
◆おんがのおと
令和3(2021)年5月にリニューアルされた「広報おんが」の表紙タイトルは「おんがのおと」。ちょっと気になるタイトルの由来を探してみました。
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遠賀町の記録であり、見ている人への手紙であり、皆さんの心に留めてほしい、遠賀町を知ってほしいという思いを込めたタイトルにしました。「遠賀ノート」という意味だけでなく、「遠賀の音」という意味も込めています。「うれしい」「たのしい」「ここちよい」、そんな「まちの音」が聴こえてくるような広報紙をお届けします。(『広報おんが 令和3年5月号』より引用)
『広報おんが 令和3年5月号』令和3年度 遠賀町行政資料(2-4-0016619)
※福岡共同公文書館の閲覧室では、県内60市町村の広報紙を見ることができます。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今回は大牟田市(おおむたし)の紹介です。
♦ 大牟田市の位置 ♦
大牟田市は福岡県の最南端に位置しています。西に有明海を望み、北はみやま市、東は熊本県南関町(なんかんまち)、南は熊本県荒尾市(あらおし)と隣接しており、これらの自治体と熊本県長洲町(ながすまち)を含めて『大牟田都市圏』という呼び方もされています。現在はここに柳川市(やながわし)も加わって、大牟田市を中心とした『有明圏域定住自立圏構想』を推進しているところです。
『広報おおむた』2021年6月1日号 大牟田市行政資料(2-4-0016195)
♥ 大牟田市の歴史 ♥
大牟田市は、現在の市域になるまでに以下のような変遷をたどりました。
1889(明治22)年 町村制施行により大牟田町が発足
1917(大正6)年 市制施行により大牟田町から大牟田市へ
1929(昭和4)年 三川町(みかわまち)を編入
1941(昭和16)年 玉川村(たまがわむら)、駛馬町(はやめまち)、三池町(みいけまち)、
銀水村(ぎんすいむら)を編入。
その後、昭和の大合併、平成の大合併ともに異同はなく、2017(平成29)年に市制施行100周年を迎えています。
まだ大牟田市に編入前の玉川村の文書の中に、三池炭鉱の経営に尽力した団琢磨に関連する文書がありました。亡くなった後に、本人の「遺志」として遺族から奨学金寄附の申出があったようです。
『昭和十年以降願伺指令綴 三池郡玉川村役場』昭和16年度 大牟田市公文書(1-2-0012549)
1941(昭和16)年の町村合併の際には詳細な事務引継書が作成されています。画像は銀水村の部分ですが、備品目録には「火鉢」「キリ」など、時代を感じさせる用具が並んでいます。
そして「ホチッキス」とは…? 現在ホッチキスと呼ばれている物の単純な誤記なのでしょうか、あるいは当時はそう呼ばれていたのでしょうか、はたまた全く違う現在に継承されていない謎の事務機器なのでしょうか…。
『昭和16年4月町村合併事務引継書』昭和16年度 大牟田市公文書(1-2-0011894)
『年表と写真で見る大牟田市の100年(『新大牟田市史』別冊)』平成29年度 大牟田市行政資料(2-4-0007415)
♣ 大牟田市と石炭産業 ♣
大牟田と言えばやはり石炭と三池炭鉱を抜きにしては語れません。大牟田における採炭の歴史は古く、江戸時代中期にまで遡ります。そして明治初期に富国強兵政策を推し進める政府のもと、一旦は官営の三池炭鉱となりますが、その後大牟田町が発足する1889(明治22)年には官営から三井に払い下げられています。
以後大牟田は石炭資源を基盤に重化学工業都市として発展し、1957(昭和32)年には市制施行40周年の記念事業として『大牟田産業科学大博覧会(石炭博)』を開催するまでに至りました。
『市政だより』31号(昭和32年9月25日) 大牟田市行政資料(2-2-0001018)
しかし同時にこの頃から石炭にも陰りが見え始め、やがて高度経済成長期を迎えると共にエネルギーの主役は石炭から石油へと移り、石炭採掘や石炭を基盤とする産業は衰退へと向かいます。
そして1997(平成 9)年、奇しくも大牟田市市制施行80周年の年に三池炭鉱は閉山し、日本の近代化や戦後復興を支え続けたその歴史に幕を下ろすこととなりました。
『広報おおむた』772号(平成9年4月15日号) 大牟田市行政資料(2-2-0001020)
『グラフふくおか』484号(平成9年4月号) 福岡県行政資料(2-1-0006035)
♠ 石炭産業からの脱却 ♠
基幹産業であった石炭産業の衰退に合わせ、大牟田市では石炭依存からの脱却を企図し、財政再建計画の策定や有明海沿岸部の福岡県内・熊本県内の自治体との県境を越えた連携(有明沿岸サミット)等を模索しました。
『有明海地域総合開発協議会』昭和62年度 福岡県公文書(1-1-0002699)
平成時代には構造改革特区制度を活用した、石炭産業から「環境・リサイクル産業」という新たな基幹産業へと産業構造の転換を試みる「エコタウン事業」を推進、さらには、高速道路、鉄道、空港、港湾というあらゆる輸送手段へのアクセスが60分以内という地理的優位性を活かした工場団地「大牟田テクノパーク」を造成し、企業誘致に力を入れるなど地域経済の再浮揚を目指しています。
『構造改革特別区域(大牟田)3』平成15年度 福岡県公文書(1-1-0009451)
『大牟田テクノパーク』平成8年度 福岡県公文書(1-1-0038450)
また、市制施行100周年を目前に控えた2015(平成27)年には、三池炭鉱の残存施設である「宮原坑(みやのはらこう)」「三池炭鉱専用鉄道敷跡(みいけたんこうせんようてつどうじきあと)」「三池港(みいけこう)」の3施設が「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界文化遺産に登録されました。かつての基幹産業の歴史と栄光に再びスポットライトが当たり、新しい観光資源としての魅力に期待が集まっています。
『大牟田市勢要覧』平成29年度 大牟田市行政資料(2-4-0012188)
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は、大任町(おおとうまち)です。
◆大任町の地理
大任町は福岡県の北東部に位置し、田川郡のほぼ中央にあります。町の中央を南北に彦山川(ひこさんがわ)が貫流する低地帯で、周囲は丘陵地域となっています。広さは、東西3.6km、南北7.2km、総面積14.26k㎡です。
東は赤村(あかむら)、北は香春町(かわらまち)、西は田川市(たがわし)・川崎町(かわさきまち)、南は添田町(そえだまち)と接しています。
西日本最大級の規模を誇る道の駅「おおとう桜街道」のほか、季節ごとに咲く美しい花が魅力のまちです。
『広報おおとう 2023年度』2023年5月号(2-4-0021391) 花のまち おおとう フォトリポート
◆大任町の誕生
明治22(1889)年の町村制施行に伴い、今任原村(いまとうばるむら)と大行事村(だいぎょうじむら)が合併して大任村(おおとうむら)が成立しました。昭和35(1960)年、大任村が町制施行して大任町となりました。
公文書館が所蔵する最も古い大任村の資料は明治34(1901)年度の大任村の村會議事録で、会議録や明治34年度の予算書などが綴られています。
『明治三十四年度 村會議事録 大任村役場』大任町公文書(1-2-0033523)
◆石炭産業遺跡群(鉄道関係)
旧国鉄油須原(ゆすばる)線(仮称)は漆生(うるしお)駅と油須原駅を結び、石炭を苅田(かんだ)港へ輸送する目的で大正年間に計画されました。
昭和32年に着工、炭鉱閉山に伴い生活路線に変更し、昭和41年漆生駅から豊前川崎(ぶぜんかわさき)駅まで部分開業しました。
しかしながら採算が見込まれないことなどから、昭和45年に工事中止、昭和60年代に全線廃止となりました。大任町区間では開業に至らないまま、路床等の撤去後、旧添田線跡地と併せて町道等公共用地として利用されています。古河炭鉱跡地、福田(ふくた)トンネル、野原越(のばらごし)トンネル、彦山川橋梁等が石炭産業の遺跡として残っています。
大任町にはかつて数多くの炭鉱が存在し、町の基幹産業でしたが、その多くは残されておらず、この鉄道遺跡は大任町の経済産業の貴重な遺跡となっています。
『篠栗線・油須原線鉄道建設促進についての陳情書(昭和36年11月22日)』福岡県公文書(1-1-0006709)
◆花としじみの里
「しじみ」が自生する大任町では、しじみを環境保護とまちおこしのシンボルと位置づけています。平成7年には「しじみ育成保護条例」が制定され、彦山川流域でのしじみの保護が行われています。水辺公園では、昭和62年から毎年10月に「しじみ祭り」が開催されています。町のイメージキャラクターは、しじみの大ちゃんです。
『第4次大任町総合計画』大任町行政資料(2-2-0001334)
左『花としじみの里大任町 新庁舎・コミュニティセンター』大任町行政資料(2-2-0001333)
右『広報おおとう 2023年度』2023年12月号(2-4-0021391) 第37回しじみ祭り
◆神幸祭
神幸祭は五穀豊穣や家内安全などを祈願する初夏の祭りです。4月下旬から5月上旬にかけて、各地域ごとに色とりどりのバレンで飾りつけられた山車やみこしが舞い、町中がにぎわいます。『大任町誌』に祭事に関する詳しい記述があります。
左『大任町誌 ふるさと大任 【下巻】』大任町行政資料(2-4-0010154)
右『広報おおとう 2019年度』2019年6月号(2-4-0011996) 神幸祭
◆災害の記録
昭和28年6月、九州地方北部を中心に梅雨前線を原因とする集中豪雨による水害が発生しました。当時の大任村の水害対策本部の日誌や、土木工事に関する事跡が公文書として残されています。
『昭和廿八年七月 日誌(大任町水害対策本部)』大任町公文書(1-2-0033551)
『昭和二十八年災害單独事業の綴 田川郡大任村役場』大任町公文書(1-2-0033526)
『昭和二十八年六月 大任中学校災害復旧の綴 大任村役場』大任町公文書(1-2-0033502)
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は、うきは市です。
◆うきは市の地理
うきは市は福岡県の南東部に位置し、朝倉市、久留米市、八女市、大分県日田市と接しています。南に耳納連山(みのうれんざん)を抱き、北に「筑紫次郎」と称される筑後川(ちくごがわ)が流れる自然に恵まれた地域です。
耳納連山を源流とする巨瀬川(こせがわ)、小塩川(こじおがわ)、隈上川(くまのうえがわ)が市内を流れ、筑後川に注ぎ込んでいます。市域は、筑後川の南に広がる平坦部、平坦部と山間部との間にある山麓部、耳納連山に属する山間部に区分されます。平坦部には肥沃な水田地帯、山麓部には果樹地帯が形成され、山間部は棚田などを含む森林となっています。
◆うきは市誕生
昭和26(1951)年、御幸町が山春村、大石村及び姫治村を編入するとともに浮羽町へと町名を変更しました。昭和30(1955)年には吉井町、江南村、福富村、千年村及び船越村の一部が合併して吉井町が生まれました。
平成17(2005)年3月20日、浮羽町と吉井町が合併して「うきは市」が誕生します。福岡県内26番目の市で、平成の大合併としては県内4番目の合併となりました。平成15年4月に、2町によって設置された法定協議会の記録が残っています。
『広報うきは』平成17(2005)年度 うきは市行政資料 (2-2-0000492)
『合併協議会関連事蹟』平成15(2003)年度 うきは市公文書 (1-2-0009703)
公文書館には、現在のうきは市の公文書だけではなく、合併前の吉井町・浮羽町の公文書、さらにさかのぼって明治・大正・昭和の各村の公文書が保存されています。
『古文書M20~26(自明治二十年至同廿六年役場事務引継書)』明治26(1893)年 うきは市公文書 (1-2-0045260)
◆伝統的建造物群保存地区
うきは市には、文化庁が選定した伝統的建造物群保存地区が2地区あります。景観行政団体として「うきは市景観計画」(平成23年3月)を作成、伝統的建造物の保存だけではなく活用を進めながら、歴史の伝承や文化の向上、地域活性につなげています。
『景観計画策定事業』平成23(2011)年度 うきは市公文書 (1-2-0049519)
【筑後吉井(ちくごよしい)】平成8(1996)年12月10日選定
江戸時代、有馬藩の城下町久留米と天領日田を結ぶ豊後街道の宿場町として栄えたうきは市吉井町。町屋や土蔵が連続する町並みと、豊かな緑に包まれた屋敷や社寺建築、さらに吉井の経済基盤を支えてきた河川や水路などが一体となって歴史的風致を形成しており、筑後地方の商業都市として、特色ある歴史的景観を伝えています。平成8(1996)年に県内で初めて、文化庁の「伝統的建造物群保存地区」に選定されました。その町並みを背景に、平成5年から「筑後吉井おひなさまめぐり」が行われています。第32回の今年は、令和6(2024)年2月11日(日)~3月20日(水)に開催が予定されています。
『浮羽地域振興計画推進1』平成11(1999)年度 福岡県公文書 (1-1-0003835)
『筑後吉井おひなさまめぐり』平成27(2015)年度 うきは市公文書 (1-2-0046844)
【新川田篭(にいかわたごもり)】平成24(2012)年7月9日選定
新川地区及び田篭地区には、湧水や豊かな水系によって発達した棚田が集落と渾然一体となって残っています。国の重要文化財に指定されているくど造り民家「平川家住宅」をはじめとして、伝統的な茅葺民家が残り、棚田や山林に取り囲まれた、昔ながらの山村集落の景観を見せています。平成10(1998)年には棚田を守る大切さを都市住民に実感してもらいながら保全を図る取り組みとして、「棚田オーナー制度」がスタートしました。平成11(1999)年には新川地区の葛篭(つづら)の棚田が農林水産省の「日本棚田百選」に選定され、平成12(2000)年には、「全国棚田サミット」を星野村と共同開催するなど、棚田を中心とした地域振興が行われています。
『景観計画策定事業(新川・田篭地区文化的景観調査中間報告書)』平成21(2009)年度 うきは市公文書 (1-2-0045290)
『中山間ふるさと・水と土保全対策事業』平成12(2000)年度 福岡県公文書 (1-1-0004314)
◆森林セラピー
「森林セラピー」とは、ストレスホルモンの減少や血圧の低下など、心身への健康維持・増進等の効果が科学的な証拠に裏付けされた森林浴のことです。この森林セラピーに適しているとして特定非営利活動法人森林セラピーソサエティが認定した場所を「森林セラピー基地」といいます。福岡県内では、うきは市、八女市、篠栗町、豊前市の4市町が、森林セラピー基地として認定されています。
うきは市は市内の森林が持つリラックス効果が実証され、平成20(2008)年4月に北部九州で初めて森林セラピー基地として認定されました。市内には、石積みされた棚田の景観が美しい「つづら棚田の散歩道コース」と、水辺の空気が心地よい「巨瀬の源流の散歩道コース」の2つの認定セラピーロードがあります。
『福岡県観光推進協議会(観光地づくり)(うきは市)』平成22(2010)年度 福岡県公文書 (1-1-0034667)
◆とびうめ国体
「とびうめ国体」(第45回国民体育大会)は、平成2(1990)年に福岡県で開催されました。浮羽町ではカヌー競技、吉井町では銃剣道競技が行われました。うきは市から移管された資料には、ビデオテープ、写真のネガ、レコード、国体の旗、ステッカー、ワッペンなどがあり、様々な形で町の歴史が残されています。
『第45回国民体育大会レコード(とびうめ国体音頭・とびうめ国体の歌)』平成2(1990)年度 うきは市行政資料 (2-4-0019411)
◆豪雨災害の記録
平成24(2012)年7月の九州北部豪雨により、うきは市は甚大な被害を受けました。災害の経験・記憶を風化させないため、また、今後の教訓として後世に伝えるため、『平成24年7月九州北部豪雨災害記録誌(冊子版・簡易版)』が発行されました。簡易版は、うきは市防災サイト(平成24年7月九州北部豪雨の災害記録誌を発行しました / 防災サイト / うきは市 (city.ukiha.fukuoka.jp)でも見ることができます。
『平成24年7月九州北部豪雨災害記録誌』平成26(2014)年度 うきは市行政資料 (2-4-0000071) ※冊子版
『平成24年7月うきは市の災害記録 九州北部豪雨DOCUMENT』平成26(2014)年度 うきは市行政資料 (2-4-0000070) ※簡易版
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福岡共同公文書館では、福岡県と県内58市町村(政令市である北九州市、福岡市を除く)の歴史公文書(歴史資料として重要な公文書)や行政資料を、収集、整理、保存し、皆様に提供しています。
常設展示では、戦後から今日までの「福岡県」を当館の公文書や行政資料で振り返るとともに、所蔵する歴史公文書や行政資料をもとに県内の市町村を順番に紹介しています。現在(令和5年11月10日~令和6年3月24日予定)紹介している市町村は、うきは市・宇美町・大川市・大木町・大任町・大野城市です。
お近くにお越しの際は、ぜひ福岡共同公文書館にお立ち寄りください。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は大野城(おおのじょう)市の紹介です。
◆大野城市の位置
大野城市は福岡市の南に隣接し、古くから博多と大宰府を結ぶ交通の要衝として栄えて来ました。 現在も国道3号や九州縦貫自動車道、福岡都市高速道路といった自動車交通の大動脈が走り、公共交通ではJR鹿児島本線と西鉄天神大牟田線が通っています。 さらに福岡空港にも近く、いにしえと同様交通の便に恵まれた環境と言えます。
◆大野城市の地勢
位置図で明らかなように、大野城市は中心部の幅が非常に細く、ひょうたん型をしています。 東北部に四王寺(しおうじ)山や乙金(おとがな)山、南部には牛頸(うしくび)山があり、緑にも恵まれています。 また市内には御笠(みかさ)川と牛頸(うしくび)川が流れ、この二つの川は瓦田(かわらだ)付近で合流してそのまま御笠川として博多湾へ注いでます。
◆大野城市の変遷
市名の「大野城」は、遠く飛鳥時代、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)の戦いで日本軍が敗れ、唐・新羅連合軍の反撃に備えるため、大野(おおの)山(現在の四王寺(しおうじ)山)に築かれた山城「大野城」に由来しています。 近代以降の大野城市は自治体として次のような変遷をたどりました。 明治22(1889)年、村制の施行により大野村が誕生 昭和25(1950)年、町制の施行により大野町が誕生 昭和47(1972)年、市制の施行により大野市が誕生 しかし既に「福井県大野市」が存在するため、施行と同時に「大野城市」へ市名変更となりました。
◆大野城市と公文書
当館で保存している大野城市に関連する公文書・行政資料を少し紹介しましょう。
『一瀬井堰変更事績』明治44年(1-2-0026847) 明治44(1911)年、大野村長から県知事に提出された一瀬井堰改築願の事跡です。大野城市(当時は大野村)が作成した文書で当館が保存している最古のものになります。
『部落有財産統一事績』大正4年(1-2-0026848) 町村制施行後20年を経過し、一層の地方行政振興を図るために村の基本財産を精査した資料です。
『ルース住宅覚書協定書』昭和27年(1-2-0026843) 昭和26(1951)年の台風第15号(ルース台風)は各地に甚大な被害をもたらしました。そのルース台風による住宅被害者への救済措置の事跡です。
『青年学級研究集会資料 昭和28年度』(2-4-0006091) 昭和28(1953)年に「青年学級振興法」が制定され、勤労青年を対象に、一般教養や職業、家事などについて学ぶ「青年学級」がスタートしました。ご覧のように、履修内容もお遊び程度ではなく本格的なものとなっています。
ところで、表紙からも明らかなようにこの資料は大野町(現大野城市)の青年学級に関する資料ですが、しかし大野城市に残されていた訳ではありません。実は、糟屋郡志免町が保存していたものを当館に移管したものなのです。
当該自治体では散佚してしまった資料でも、何らかの事情により他自治体に残されている場合があり、それが共同公文書館に移管されることで、当該自治体もその資料の存在に改めて気付いたりすることがあります。同時に「当該自治体に資料が残ってなければ仕方がない」と諦めていた利用者も、他自治体のおかげでその資料を閲覧することが可能となります。 こういうところにも共同公文書館の存在意義を垣間見ることができます。
『大野城市市勢要覧 ~市制施行50周年記念~』令和4年(2-4-0022146)
昨年(令和4年)大野城市は市制施行50周年をむかえ、様々な記念イベントが挙行されました。
現在開催中の企画展「福岡県 市町村の変遷」でも、大野町が市に移行した事蹟や「大野城市」への市名変更理由を紹介しています。是非お立ち寄りください。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
中間市は、福岡県の北部に位置し、北九州市と遠賀郡、鞍手郡に接しています。市の中央をちょうど南北に一級河川の遠賀川が流れていることから、市域は通称「川東」と「川西」に分かれています。北九州市側となる川東には、なだらかな丘陵を背景に閑静な住宅地と商業地などを形成し、市の人口の9割が集中しています。川西の広々とした平野部には、美しくのどかな田園風景が広がり、市の振興方針による工場団地が立地しています。明治末期から昭和初期に、この地で発見された石炭が国の重要なエネルギー源となり、炭坑のまちとして筑豊炭田の一翼を担います。人口も増え続け、明治末の4,800人から昭和34年(1959)には46,000人にまでなりました。
◆中間市の変遷
1889(明治22)年4月、市制・町村制が施行され遠賀郡岩瀬村・中間村が合併し遠賀郡長津村が誕生しました。この「長津」の村名は斉明天皇が「磐瀬」にあった磐瀬行宮(行幸の際の仮の御殿)を「長津宮」と改称したということに由来しているといわれていましたが、「磐瀬」は別の場所であるということが郷土史家たちにより明らかになりました。また、「長津」の名称は住民にもあまり浸透しておらず、「中間」の通称が広く用いられていました。
そのため、1922(大正11)年11月、遠賀郡長津村は町制施行を行い「遠賀郡長津町」となりましたが、1924(大正13)年3月、長津町を中間町と改称する認可申請が町会において満場一致で可決され、同年9月1日、35年使用していた「長津」の名を「中間」町と称することになりました。
その後、1932(昭和7)年3月1日、遠賀郡底井野村が編入し、1958(昭和33)年11月1日市制施行を行い、中間市になりました。
これらの資料はただいま開催中の企画展「福岡県 市町村の変遷」で展示中です。
◆堀川
江戸時代初めの遠賀川は、大雨の度に洪水を起こし、周囲の村々に大きな被害をもたらしました。 このような状況下、1620年初代筑前藩主黒田長政は、遠賀川筋の中間から洞海湾へ人工の運河(堀川)を通すことで、洪水防止・かんがい用水の確保・物資の輸送が可能になるという理由から遠賀川の築堤とともに堀川の開削を計画しました。工事は1621年着工しましたが、1623年長政の死去や藩財政の悪化等により中断することになりました。それから130年後に工事は再開され、1762年、6代藩主・継高の時代に、遠賀川からの取水口「堀川の中間唐戸」の完成をもって、堀川はついに全面開通しました。その後、1804年楠橋寿命に新たな水門を設置、洞海湾まで全長12kmの堀川運河が開通しました。1891(明治24)年、鉄道(筑豊興業鉄道、現:筑豊本線)が開通後も、筑豊炭田から若松港への石炭輸送に鉄道と共に堀川の川艜輸送が重要な役割を果たしました。しかし、鉄道の方が輸送時間が短いことや運賃が安いこと、さらに筑豊の炭鉱地帯に細かく鉄道が張り巡らされたことなどがあり、1938(昭和13)年を最後に石炭輸送運河としての役目を終えました。その後はかんがい用水路や生活用水路として役目を果たしていましたが、地盤沈下で土砂が堆積し流れが悪くなり水質汚染が問題となっていました。このため、浄化施策が様々な形で行われるようになり、少しずつ昔の姿を取り戻しています。
当館では現在、2023年企画展「福岡県 市町村の変遷」を開催中です。中間市資料以外の各市町村の合併の経緯や市制施行のための書類等も展示しています。ぜひお近くにお越しの際にはお立ち寄りください。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
7月21日(金)から2023年の企画展「福岡県 市町村の変遷」がはじまりました。
今回は、「福岡県」が誕生してから、明治・昭和・平成の合併を経て、現在の29市・29町・2村になるまでの県内市町村の変遷を公文書で紹介しています。
1871(明治4)年7月、廃藩置県の実施により全国諸藩の制度的廃止が布告され、福岡県域では当初、豊津・千束・中津・福岡・秋月・久留米・柳川・三池の8県が成立しました。その後の統廃合の結果、福岡県・小倉県・三潴県の3県になり、さらに、1876(明治9)年再び府県の大廃合が行われ、現在の「福岡県域」が確定しました。
1889(明治22)年「市制・町村制」により、明治の大合併が行われました。県内市町村は、1888(明治21)年に2市、273町、1685村だったのが、1889(明治22)年には2市、20町、364村になりました。
昭和の大合併は、1953(昭和28)年「町村合併促進法」の施行により行われました。1953(昭和28)年10月現在、福岡県内には12市、73町、177村があり、そのほとんどが明治の大合併期以来の状態でした。そこで、福岡県では「町村合併促進協議会」を設置し、当時の250町村を87町村とする計画を立案し、その結果1956(昭和31)年12月末には、19市、68町、33村になりました。
その後、合併や市制・町制の施行により、1997(平成9)年10月1日の時点で24市、65町、8村になりました。そして、平成の大合併によって、福岡県は、現在29市、29町、2村の60市町村になっています。
今回の企画展では、各市町村の合併の経緯や市制施行のための書類等を展示しています。
ほんの一部ではありますが、明治から現在までの各市町村の変遷が分かる資料を展示しています。「この駅の名前は昔の町の名前だった」、「この交差点の名前は昔の村の名前だった」という発見があるかもしれません。
皆様の公文書館へのご来館をお待ちしております。
つい最近、年が明けたと思っていたのに気が付くともう3月です。日ごと暖かくなり、当館の植え込みに生えている「つくし」たちがどんどん成長しています。予想では、来週には桜も咲きそうです。春はすぐそこに来ています。
さて、当館では「開館10周年記念特別展『ふくおか あの日あのとき1972年』」を1月22日まで開催しました。2月7日からは「常設展『戦後 福岡のあゆみ』」を開催しています。戦後から今日までの「福岡県」を当館の公文書や行政資料で振り返ります。また、今回の常設展から県内の各市町村の紹介するコーナーを設け、県内の政令指定都市(北九州市・福岡市)を除く58市町村を順次紹介していきます。今回紹介しているのは、赤村・朝倉市・芦屋町・飯塚市・糸島市・糸田町です。
また、当館の歴史公文書の活用事例を紹介する、ロビー展「福岡の『連接車(連節車)』誕生80周年」は、3月31日(金)までです。
お近くにお越しの際は、お立ち寄りください。
当館では、2022年11月19日(土)に開館10周年の記念式典を開催しました。
主催者挨拶に始まり、筑紫野市長より祝辞をいただきました。
その後、当館の利用者である「NPO法人 福岡鉄道史料保存会」の方の「歴史公文書活用事例紹介」がありました。「福岡の『連接車(連節車)』誕生80周年というテーマで、福岡県の高度経済成長を支えた連接車(連節車)の軌跡を当館の所蔵資料の紹介を絡めながら発表していただきました。
続いて「記念講演」として、西南学院大学国際文化学部教授の宮崎克則先生による「シーボルトと『お滝さん』の恋文」と題する講演が行われました。日本地図を持ち出そうとして国外追放となった「シーボルト」のもとに届いた日本人妻「お滝さん」からの恋文を読み解き、当時の出島や長崎の様子をお話しされました。
そして、講演後は希望者にはバックヤードツアーや、特別展「ふくおかあの日あのとき 1972年」の解説会やNPO法人福岡鉄道史料保存会によるロビー展示の解説等が行われました。
10年前の開館記念式典の日、式典開始時は雨が降っていましたが、式典終了時には雨が上がっていました。今回も天気予報が二転三転し、天候がどうなるかと思いましたが、式典前に雨が降り出し、式典途中から天候も回復するという同じような空模様になりました。式典および講演会には多くの方に参加いただきありがとございました。
特別展とロビー展示は開催中です(2023年1月22日(日)まで)。
皆様のご来館をお待ちしております。
開館10周年を迎えた福岡共同公文書館をこれからもよろしくお願いいたします。
5月29日(日)に開館10周年記念特別展 第1弾「お金で見る福岡の時代の流れ」が終了しました。
ご来館いただいた皆様、ありがとうございました。
6月14日(火)から展示室は常設展に戻ります。
公文書館の紹介とともに、各時代の公文書の書式の変遷、戦後福岡のあゆみを紹介しています。
また、特集展示として「福岡県の水害」についての展示も行っています。
特集展示「福岡県の水害」
福岡県は先日梅雨入りしました。福岡県では近年、6~9月に毎年のように大雨や台風によって水害が起こっています。
そこで、「福岡県の水害」中でもいまだに語り継がれている昭和28年6月の水害に関する展示を「特集展示」として行い、今後の水害への注意とその備えになればと思っています。
この文書は「昭和28年度 水害見舞芳名簿 大福村役場」(朝倉市公文書)です。大福村(現在朝倉市)に送られてきた支援のための寄贈リストです。食品、衣料品、新聞紙等が婦人会等から寄贈されていることがわかります。
このほかにも、被害状況の把握のための受付簿や県が国に提出した要望書等を展示しています。
どうぞ、お気軽にお立ち寄りください。
福岡共同公文書館では、昨年から市町村の施設の一部をお借りして、
「おいでよ!福岡共同公文書館へ」
という出張展示を行っています。「福岡共同公文書館」のことをいろいろな方に知ってもらうために、福岡共同公文書館はどのような施設なのか、どのような取組をしているのか、どのような歴史公文書を所蔵しているのかなどをパネルで紹介しています。
福岡共同公文書館は今年の11月で開館10周年となります。ということで、今年度は開館10周年の企画を予定しています。その第1弾として当館展示室では開館10周年特別展「お金で見る福岡の時代の流れ」を開催中です(5月29日(日)まで)。
また、出張展示「おいでよ!福岡共同公文書館へ」も開館10周年の企画の1つとして、これまで以上に多くの市町村で実施したいと考えています。
そこで、
2022年4月26日~5月10日まで 小郡市(小郡市生涯学習センターエントランスホール)
で出張展示を行いました。
そして、
2022年5月17日~31日 那珂川市(ミリカローデン那珂川)
で実施予定です。
その後も、各市町村を回る予定です。皆さんの市町村にお邪魔した際にはのぞいてみてください。
令和3年度第1回企画展「福岡県政150年 第2部アジアのなかの福岡へ」が
8月3日(火)から始まりました。
昨年度は、新型コロナウィルス感染症拡大防止のため、夏・冬の企画展を見送ったため、
夏季としては2年ぶりの企画展開催ということになります。
今回のテーマは、ずばり「福岡県政」です。
というのも、今年は明治の廃藩置県から数えて150年目に当たるので、
福岡県の150年をふり返ろう、というのが企画展のテーマです。
とはいっても、150年の間にはたくさんの出来事があり、
とてもとても当館の展示室にはおさめきれません。
そこで今回は、九州歴史資料館と共に、2部構成で開催することになりました。
明治から太平洋戦争終了直後(公選知事誕生まで)を九州歴史資料館が、
終戦後(公選知事誕生から)から現在までを福岡共同公文書館が、
それぞれ展示をいたします。
2館通してご覧いただくと、福岡県政150年の流れがよくわかると思いますので、
ぜひ合わせてご観覧ください。
さて。
福岡共同公文書館で開催する「福岡県政150年~第2部アジアのなかの福岡へ~」について
少しご紹介させてください。
「県政」と聞くと、ちょっとわかりにくそう、とか、
身近なテーマじゃないから、興味が持てない、
と思われる方もいらっしゃるのではないかな、と思います。
でも、私たちの暮らしの困ったことや、もう少しこうなるといいのにな、
ということを解決していくのが行政の役割なので、暮らしに密着したテーマがたくさんあります。
「災害」「雇用」「交通」「環境」「教育」などなど。
終戦後から今日までの75年、県内ではどのような問題が起こり、
福岡県や関係市町村はどのようにそれに対応していったのか、
未来にどのような目標をたてて進んできたのか、を知っていただくのが今回の企画展です。
「あのダムってどうして作られたの?」
「地下鉄っていつ開通したの?」
「福岡っていつごろから人口が増えたの?」
そうした「?」にちょっとでも答えが見つかったら、うれしいです。
また、エントランスでは、
県と県内市町村の役場や町の風景の「いま」と「昔」をふり返る写真展
「なつかしの写真展~あの日のふくおか~」を開催しています。
市町村へ呼びかけをして、寄せていただいた写真たちを、市町村ごとに展示しています。
現在住んでいる町、学生時代に住んでいた町、親せきやお友達が住んでいる町、
そんな町の懐かしい風景を見に来ませんか?
企画展、写真展は、8月3日(火)~9月26日(日)まで開催中です。
コロナ禍ではございますが、福岡共同公文書館では、感染防止対策に力を入れ、
皆様のご来館をお待ちしております!
福岡県は、緊急事態宣言が延長になりました。それに伴い当館も6月20日まで臨時休館を継続することになりました。
当館では5月11日より常設展の特集展示「ふくおか スポーツの軌跡(リバイバル)」 を行っていましたが、開始した次の日から休館になってしまいました。そこで、少しでも皆様にお楽しみいただけるよう、展示資料の一部をホームページ上で公開しています!
当時、直方市内で行われた聖火リレーの様子が記録されている『オリンピック東京大会聖火リレー写真集』(直方市公文書)や福岡で開催されたスポーツイベント(「とびうめ国体」「ねんりんぴっくふくおか」)等を「Web展示」として紹介しています。
詳しくはこちらからご覧ください!
また、広報誌『福岡共同公文書館だより第17号』を発行しました。こちらもホームページ上でご覧いただけます。 ▼第17号(PDF)
これからも、ホームページ上で情報を発信していきたいと思います。
福岡県が5月12日(水)から緊急事態宣言の対象地域に追加されることになり、当館も12日(水)~31日(月)まで臨時休館とさせていただきます。
福岡県では、東京オリンピックの聖火リレーが11日から2日間、公道でのリレーはすべて中止され県内の2か所に集約して点火セレモニーだけが行われました。当館においても聖火リレーに合わせて、常設展の特集展示「ふくおか スポーツの軌跡(リバイバル)」 を5月11日(火)より行っていましたが、開始した次の日から休館になってしまいました。
今回の特集展示は、令和2年2月4日(火)~3月22日(日)に開催した企画展を一部リニューアルしたものです。この企画展も開催期間中に、新型コロナウイルス感染症の感染とその拡大防止のため令和2年2月28日(金)より臨時休館となったため、今回「リバイバル」で展示を行うことにしました。またしても、休館になってしまいましたが、しばらくは、Web展示でお楽しみいただけたらと思います。
なお、休館中も、電話、ファクシミリ、メール等による収蔵資料等についての問い合わせや相談については対応いたしております。
1月は「いく」、2月は「にげる」、3月は「さる」といわれているように、気が付けば2月も半ばを過ぎていましました。
さて、「公文書でめぐる ふるさと福岡」今回は岡垣町です。
岡垣町(おかがきまち)は)、福岡市と北九州市の間に位置し、町の東部は芦屋町(あしやまち)と遠賀町(おんがちょう)、西南部は孔大寺(こだいし)山系を隔てて宗像市(むなかたし)に接し、北部は響灘(ひびきなだ)に面し、三里松原(さんりまつばら)が美しい海岸を形成しています。町の総面積は48.51平方キロメートルで、遠賀郡(岡垣町・芦屋町・水巻町(みずまきまち)・遠賀町)の総面積のはぼ半分を占めています。
「おかがき」という町名の由来
1907(明治40)年に岡県村(おかがたむら)と矢矧村(やはぎむら)の二つの村が合併して岡垣村が誕生しました。明治維新後、廃藩置県の影響で誕生した二つの村は、基本的な風俗や性格に共通する部分が多く、加えて日本国有鉄道(現在のJR)の停車駅の誘致運動なども影響して次第に合併の機運が高まってきました。しかし、そこで問題となったのが新しい村名でした。岡県村は「矢矧村も古くは岡の県だったから岡県村とすべきだ」という声がありました。一方の矢矧村は「神功皇后(じんぐうこうごう)の時代に、当時武器である弓矢を作った故事から名付けられた矢矧川が村名の由来なので、こちらも由緒正しい名前だ」と意見がまとまりませんでした。そこで、当時の遠賀郡の郡長(郡の行政をつかさどる長官)が、「岡県の岡と古くからこの地を垣崎(かきさき)と呼んでいたことから垣をとり、『岡垣』とする」という決定を下したのです。こうして、村名を残せなかった矢矧村の名前は、矢矧川にその名を残し、また1910(明治43)年に開業した日本国有鉄道の駅に、矢矧村の中心地であった「海老津(えびつ)」の名を残し今日に至っています。そして、55年後の1962(昭和37)年10月1日に岡垣村から岡垣町になりました。
「(昭和37年十月)町制施行に関する事績」 (1-2-0033643)
遠賀郡の合併
遠賀郡ではで1998(平成10)年から合併に関する動きが始まりました。1999(平成11)年)に「遠賀郡4町合併任意協議会」が発足しました。この協議会は2001(平成13)年に解散しましたが、2003(平成15)年に「遠賀郡4町合併協議会」(法定協議会)が設置されました。その後、合併に向けての協議が進められましたが、2004(平成16)年9月5日(日)に岡垣町では合併に関する住民投票が行われ、そこで反対が賛成を上回ったため、岡垣町は合併協議会から離脱を表明しました。その結果、4町での合併は断念することになり「遠賀郡4町合併協議会」は同年10月31日の解散することになりました。
「遠賀郡4町合併に関する住民投票(③)」(1-2-0033634)
岡垣町の周年行事
1962(昭和37)年10月1日に町制施行した岡垣町では、1977(昭和52)年町制15周年、1982(昭和57)年町制20周年、その後10年度とに周年記念事業を行っています。
町制20周年記念事業において「岡垣音頭」(レコード)を制作し、40周年記念事業において「変わらない岡垣(ふるさと)」というイメージソングを制作しています。また今回、参考にした「岡垣町総合学習副読本 おかがきナビ おかがきの、いいとこ探そう!」(小学生向け)は町制50周年を迎え、ふるさと岡垣町のことをもっと知ってもらい、ふるさとを誇りに思い、愛する心を育ててもらいたいという気持ちをこめて作成されたそうです。
「(昭和57年度)町制20周年事業(事績綴)」(1-2-0033648)
「岡垣町イメージソング 変わらない岡垣(ふるさと)」(2-4-0012647)
「岡垣町総合学習副読本 おかがきナビ おかがきの、いいとこ探そう!」(2-2-0000881)
現在、当館で開催中の「常設展 冬」「特集 公文書のいろいろ」において30周年をアピールするために作成されたのぼり旗を展示しています。
2012(平成24)年に町制施行50周年を迎えた岡垣町は交通網の整備や団地の開発が進められ、自然環境にも恵まれた住みよい街として発展しています。
岡垣町から移管された公文書は令和2年1月現在455冊です。また公文書のほか岡垣町が作成した行政刊行物も所蔵しています。
それではまた、次回「公文書でめぐる ふるさと福岡」をお楽しみに!
新しい年を迎えました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。福岡共同公文書館は1月5日(火)より「三密」に気を配りながら開館しています。
昨年は大変な年でしたが、今年は少しでも良い兆しが見えるとよいですね。
さて、「公文書でめぐる ふるさと福岡」は今回「大木町」の予定でしたが、予定を変更して今回は宇美町を紹介します。
宇美町(うみまち)は、福岡都市圏に属する糟屋(かすや)郡の町で、西は大野城(おおのじょう)市と福岡市、北西は志免(しめ)町、北は須恵(すえ)町、東は飯塚(いいづか)市、南は太宰府(だざいふ)市と筑紫野(ちくしの)市にそれぞれ隣接しています。
宇美町(うみまち)は、福岡都市圏に属する糟屋(かすや)郡の町で、西は大野城(おおのじょう)市と福岡市、北西は志免(しめ)町、北は須恵(すえ)町、東は飯塚(いいづか)市、南は太宰府(だざいふ)市と筑紫野(ちくしの)市にそれぞれ隣接しています。
東部は砥石山(といしやま)(828m)、三郡山(さんぐんざん)(936m)、頭巾山(とっきんざん)(901m)、仏頂山(ぶっちょうざん)(868m)などの三郡山系と、南部は四王寺(しおうじ)山塊の大城山(おおきやま)(410m)に囲まれており、町の面積のおよそ6割を豊かな森林が占めています。
宇美町の歴史は古く、西暦665年に築城された日本最古の古代山城「国指定特別史跡 大野城跡」をはじめ、近年、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に記載がある「不彌(ふみ)国」として本町が注目される根拠となった「国指定史跡 光正寺(こうしょうじ)古墳」などの史跡が多くあります。また、古事記や日本書紀に、神功(じんぐう)皇后が応神天皇を出産された地を「宇美(産み)」と呼ぶようになったという記述があるように、安産の神様として全国的に有名な宇美八幡宮があります。 (宇美町 HPより)
なお、宇美町から移管された文書は、令和3年1月現在で約140冊です。
大正9年(1920年)10月に糟屋郡で最初に町制を施行して誕生した宇美町は、令和2年(2020年)に町制100周年を迎えました。
「広報うみ町制施行100周年特別号」(2-4-0015161)
今回、宇美町をご紹介したのは、当館で1月8日(金)より「常設展 冬」の
「特集 公文書のいろいろ」
と題してさまざまな記録媒体を紹介しており、その中で、宇美町からの移管文書も展示しているからです。
展示で紹介しているのは、宇美町の「町勢要覧」です。「宇美町文庫」と題して表紙も本の写真が掲載されています。「町勢要覧」とは、町の概要や魅力を紹介するために写真や文章で分かりやすくまとめたものです。「〇〇年 △△町勢要覧」という表紙が多い中、パッと見たら「町勢要覧」とはわからないけれども、非常に目を引く表紙だと思いました。よく見ると表紙に掲載されている本の背は、「宇美物語」(歴史)、「宇美町散歩ガイド」(町の紹介)、「【近未来エッセイ】いま、明日のために」(総合計画の概要)、「Quiz-U」(クイズで楽しむ宇美町のアレコレ)と目次になっていて、とても遊び心のある表紙だと思いました。また、映像編も制作されています。
「宇美町文庫 DVD(映像編)」(2-4-0010253)
「宇美町町勢要覧2005(宇美町文庫)」 (2-4-0006679)
展示にちなんでもう一つ。展示の中で「市町村のオリジナルソング」を紹介しています。当館に所蔵がないので展示では紹介できませんでしたが、宇美町にも「宇美町町制施行70周年を記念して制作された「宇美町賛歌」という「町歌」があります。この歌は宇美町のHPからダウンロードできます。
かつては炭鉱の町として栄えた宇美町は、町制100周年を迎えた現在、福岡市のベッドタウンとしてとして成長を続けています。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
東部は砥石山(といしやま)(828m)、三郡山(さんぐんざん)(936m)、頭巾山(とっきんざん)(901m)、仏頂山(ぶっちょうざん)(868m)などの三郡山系と、南部は四王寺(しおうじ)山塊の大城山(おおきやま)(410m)に囲まれており、町の面積のおよそ6割を豊かな森林が占めています。
宇美町の歴史は古く、西暦665年に築城された日本最古の古代山城「国指定特別史跡 大野城跡」をはじめ、近年、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に記載がある「不彌(ふみ)国」として本町が注目される根拠となった「国指定史跡 光正寺(こうしょうじ)古墳」などの史跡が多くあります。また、古事記や日本書紀に、神功(じんぐう)皇后が応神天皇を出産された地を「宇美(産み)」と呼ぶようになったという記述があるように、安産の神様として全国的に有名な宇美八幡宮があります。 (宇美町 HPより)
なお、宇美町から移管された文書は、令和3年1月現在で約140冊です。
大正9年(1920年)10月に糟屋郡で最初に町制を施行して誕生した宇美町は、令和2年(2020年)に町制100周年を迎えました。
「広報うみ町制施行100周年特別号」(2-4-0015161)
今回、宇美町をご紹介したのは、当館で1月8日(金)より「常設展 冬」の
「特集 公文書のいろいろ」
と題してさまざまな記録媒体を紹介しており、その中で、宇美町からの移管文書も展示しているからです。
展示で紹介しているのは、宇美町の「町勢要覧」です。「宇美町文庫」と題して表紙も本の写真が掲載されています。「町勢要覧」とは、町の概要や魅力を紹介するために写真や文章で分かりやすくまとめたものです。「〇〇年 △△町勢要覧」という表紙が多い中、パッと見たら「町勢要覧」とはわからないけれども、非常に目を引く表紙だと思いました。よく見ると表紙に掲載されている本の背は、「宇美物語」(歴史)、「宇美町散歩ガイド」(町の紹介)、「【近未来エッセイ】いま、明日のために」(総合計画の概要)、「Quiz-U」(クイズで楽しむ宇美町のアレコレ)と目次になっていて、とても遊び心のある表紙だと思いました。また、映像編も制作されています。
「宇美町文庫 DVD(映像編)」(2-4-0010253)
「宇美町町勢要覧2005(宇美町文庫)」 (2-4-0006679)
展示にちなんでもう一つ。展示の中で「市町村のオリジナルソング」を紹介しています。当館に所蔵がないので展示では紹介できませんでしたが、宇美町にも「宇美町町制施行70周年を記念して制作された「宇美町賛歌」という「町歌」があります。この歌は宇美町のHPからダウンロードできます。
かつては炭鉱の町として栄えた宇美町は、町制100周年を迎えた現在、福岡市のベッドタウンとしてとして成長を続けています。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
朝晩冷え込んでまいりましたね。皆さま、秋の夜長の虫の声♪は耳にされましたか。
今回は、常設展秋のミニ特集「公文書と〈害虫〉」より、文化財IPMと当館の【館内IPM】のお話です。またしても、虫の写真が出てきますので、苦手な方はご注意ください。IPMってなんだ?という方は前回のブログ「ミニ特集「公文書と〈害虫〉」より ②IPMとおまけの展示」をどうぞ。
9月の館内IPM(トラップ調査など)の様子をご紹介します。(クリックすると各項目に移動します)
収穫の秋ですね、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
『公文書でめぐる ふるさと福岡』今回は、筑後市をご紹介します。(筑後市HP)
筑後市は福岡県の南西部、筑後平野(九州最大の筑紫平野の福岡側)の中央に位置する田園都市です。市の南を流れる矢部川の流域は、縄文・弥生時代の集落跡である裏山遺跡があり、古くから人が住んでいた地域です。
(地名がたくさん出て来ますので、末尾に地名等のよみがな対照表をつけています。)
市内を南北に通る坊津街道(薩摩街道)は江戸時代の参勤交代の通り道で、羽犬塚はその宿場町でした。ややルートの変遷はあるものの、平安時代に編纂された『延喜式』(10世紀前半)の中にも「西海道」(古代飛鳥・奈良時代の幹線道路)の駅名として「葛野駅」(現在の羽犬塚付近と想定される)が登場しており、九州縦断の交通の要衝であったことがうかがえます。(参考『福岡県百科事典』)
筑後市から当館に移管された資料は9月末現在で789点です。年代が古いものは、明治時代の字図・一筆限竿入帳などの土地の台帳です。また、教育委員会作成の埋蔵文化財報告書では遺跡や西海道に関連する場所について調査したものも多いです。
温暖な気候と、土壌や水にも恵まれた農業が盛んな土地で、米・麦・イグサ・ナシ・ブドウ・八女茶などが生産されています。炭酸泉の船小屋温泉郷や恋の木神社などの観光スポットがあり、「恋のくに筑後」と題して市をあげての婚活イベントなども盛んです。
筑後市を紹介しながら、恋も応援するPR動画 恋のファーム♡Chiku−Go! ちくご恋するチャンネル(広報ちくご・筑後市公式Youtubeチャンネル)より
藩政時代には久留米藩に属していた地域で、明治22年(1889)町村制施行により、上妻郡の羽犬塚村、二川村、下妻郡の水田村、下妻村、古川村の五ヵ村が成立します。明治29年(1896)上妻郡、下妻郡は生葉郡の一部とともに八女郡となります。水田村(明治41年(1908)合体合併;水田村、下妻村、二川村)と、羽犬塚町(大正14年(1925);町制施行)と、古川村、岡山村(一部)が合併して、昭和29年(1954)4月に筑後市が誕生しました。その後、三潴郡西牟田町と八女郡下広川村の一部を編入して、現在に至ります。
実は、筑後市は、常設展秋の特集「公文書と〈害虫〉」の中でご紹介している、明治の螟虫駆除とも深いかかわりがあります。今回は『筑後市史』2巻「益田素平と螟虫駆除法」に登場する、益田素平(八女郡江口村の老農、のち二川村長)と螟虫駆除に関連する資料をご紹介します。
近世、農作物の〈害虫〉は、「虫」または、稲につく虫「蝗」と呼ばれ、天災のひとつとされていました。民俗行事で今も残る虫送りや虫追いは、呪術的な害虫駆除による豊作祈願であり、虫供養は農作業の過程で駆除した虫への鎮魂でした。
明治の福岡県では、品種改良や施肥の改善によって、茎が太く収量の多い稲がつくられるようになりましたが、この稲の茎を中から食す螟虫(螟蛾の幼虫)による甚大な被害が発生します。
(ニカメイチュウ写真提供:福岡県農林業総合試験場 病害虫部)
螟虫というのは通称で、方言でスムシ、ズイムシ、ナカザシ、シンキリ、イネノドウムシ、カラクダシなどと呼ばれていました。稲の茎の中で幼虫が成長し、年2回(2世代)発生するので二化螟虫(二化螟蛾の幼虫)と名づけられました。現在はあまり見られなくなりましたが、ウンカと並び稲作に大きな被害をもたらした〈害虫〉で、とくに筑後地方では、年3回発生する三化螟虫(三化螟蛾の幼虫、イッテンオオメイガ)による深刻な被害を受けていました。
福岡で、県や明治政府に掛け合いながら螟虫駆除予防に尽力したのは益田素平をはじめとする筑後地方の老農たちでした。老農というのは、西洋農学を学ばずに在来の農業技術の改良をおこなってきたひとたちのことです。益田は自身の試験田での研究と新しく知られるようになった西洋昆虫学の情報を照らし合わせ、稲の茎を中から食して穂枯れをおこすメイガの幼虫(特に、三化螟虫)の存在を確信します。1877(明治10)年、当時副戸長でもあった益田は「螟虫駆除予防稟申書」を福岡県に提出し、県の対応を求めます。県からも国へ上申し、内務省勧農局員の鳴門義民(青森のニカメイガと九州で発生していたサンカメイガについて、虫害の調査、駆除の方法の指導に当たっている)が派遣されます。鳴門との協議の結果、益田が提案した様々な防除方法の中から、稲刈りを終えた稲株をすべて掘り起こして寒気にさらし焼却する「稲株掘り起し法」が有効とされ、導入への働きかけが行われます。
1879(明治12)年10月 メイガの被害町村連合会(三潴、八女、山門の三郡)で益田素平・中島忠蔵(上妻郡島田村)・原口茂七(下妻郡常用村)ら螟虫研究老農たちが説明を行いますが、「稲株掘取」は時期尚早と採用されませんでした。代わりに18か所の螟虫試験所が設置されました。
『福岡県における螟蟲(めいちゅう)駆除豫防の沿革 病害虫駆除豫防資料第15号』(1-1-0007432)附益田素平翁遺稿螟虫実験説
1880(明治13)年10月、反対意見も多い中、益田素平・佐野貞三(三潴郡八丁牟田村、現大木町)らの啓発や渡辺県令の説示もあり、上妻下妻、三潴、山門の4郡聯合会で当年度の「稲株掘取焼却」による駆除予防の実施が採用されます。被害の大小にかかわらず収穫後の稲株を掘取焼却等処分をすることとされ、罰則もありました。しかし、県から強制される形で非常に労力の要る「稲株掘取」を行うことは、すぐには理解を得られず、同月反発する農民らによって「不掘取」を請願する「筑後稲株騒動」が起き、益田や佐野、郡長や議長が襲撃の対象となりました。三潴郡27カ村、上妻郡45カ村、800名に及ぶ逮捕者を出したこの騒動ののち、次第に農作物の〈害虫〉と駆除予防の必要性が理解されていきます。明治29年には、明治政府によって害虫駆除予防法が制定され、県の害虫駆除予防規則のもと行政主導の組織的な防除が行われるようになり、農業試験場での応用昆虫学や農法、薬剤の研究とともに農業の近代化がすすんでいきます。
『二川村会決議録 八女郡二川村役場』(1-2-0005938)、『筑後市史 第二巻』(2-4-0005776)
明治22年、益田素平は二川村の村長に就任しています。明治政府による「害虫駆除予防法」が公布された明治29年、福岡県令に基づき、二川村会は「苗代田並植田螟虫駆除規定」を制定しました。行政区ごとに取締人を選び、村の直営事業として苗代田の採卵と捕蛾とその買上、枯茎採取の夫役雇入れが行われました。また益田は、反発を招く原因となった稲株掘取の労力を減らし、稲株処理を普及させるための稲株切断器(株切鍬)も考案しています。
螟虫駆除のために、益田らが提唱し各地の試験研究機関で研究されるようになった、遁作法、採卵、採蛾、稲株処理、誘蛾灯、虫害稲藁の処理など総合的な駆除対策は、現代の農業におけるIPM(Integrated Pest Management 総合的病害虫・雑草管理)の考え方とも通じるものがありますね。
いかがでしたか?次回は福津市をご紹介します。お楽しみに。
福岡共同公文書館では常設展の一部を入替、秋の特集「公文書と〈害虫〉」がご覧いただけます。Web展示で一部資料をご紹介しておりますので、そちらもどうぞ。
※地名等 ふりがな対照表 (参考:日本歴史地名大系41「福岡県の地名」平凡社、2004年)
食欲の秋ですね、皆さまいかがお過ごしでしょうか。今回は、常設展秋のミニ特集「公文書と〈害虫〉」より、虫たちの旺盛な食欲で食べられてしまった資料のお話です。虫の写真が出てきますので、苦手な方はご注意ください。
公文書館に移管される以前に、長い年月保管されている中で、劣化や災害、虫害などにあってしまった資料もあります。和紙に墨で書かれた資料は、水や湿気には弱いですが、正しく保存すれば1000年以上の寿命を持ちます。文化財害虫による食害を受けた状態で入ってきた資料も、大切な情報を持っています。また、そのままの姿の原本(一次史料)を保管しているからこそ、記録されている情報が証拠としての価値をもつ証明の一助にもなります。
歴史公文書として受け入れる際には、目視点検によって、虫の死骸(生きた虫は出てしまった後のことが多いです)や蛹、卵、糞、カビなどを取り除き、ガス燻蒸による殺菌・殺虫・殺卵処理を行います。燻蒸後は、残った汚れを可能な限り取り除き、保存庫に収蔵します。保存庫に入れた後も、利用の際や定期点検の度に、状態を確認し、必要な手当てを過不足なく行い、環境管理を行うことが、資料保存業務の原則です。
秋の特集展示、公文書と〈害虫〉では、通常は資料への負担をなるべく減らすために、保存庫からほとんど出すことがない、虫損(ちゅうそん)をうけた公文書をご紹介しています。
10月になりました。秋の衣替えはおすみでしょうか。
福岡共同公文書館では、今年度は新型コロナウィルス感染症の影響で、企画展は実施いたしません。
その代わりに、常設展「公文書にみる福岡のあゆみ~福岡県の誕生と市町村合併~」の中の、ミニ特集「行政資料の世界」を入替え、秋のミニ特集「公文書と〈害虫〉」を10月6日より展示しております。ご来館の際には、ぜひ展示室にもお立ち寄りください。
このミニ特集では『国際植物防疫年2020』にちなんで、近現代の福岡県内の病虫害防除・防疫に関連した資料をご紹介しております。
また、『文化財IPM』(文化財分野での虫やカビの害の予防対策の取組み)に関連して、通常は資料への負担をなるべく減らすために、保存庫からほとんど出すことがない、虫損(ちゅうそん)をうけた公文書もご覧いただけます。
ご来館がむずかしい方にもご覧いただけるよう、Web展示にて一部資料のご紹介をしておりますので、そちらもどうぞ。
先週末は、台風19号の影響で、福岡でも強い風が吹きました。
遠く離れた福岡でも、これほどの影響を受けるのだから、
台風に近い場所はどれほどか…と思ってはいたのですが、
次第に明らかになった被害の大きさに、愕然としました。
本当に自然災害は恐ろしいです。
被災地の皆様には、心からお見舞いを申し上げますとともに、
一日も早い復興をお祈りいたします。
また、なにか協力できることを探して実践していきたいと思っています。
当館では、9月末に企画展「学校給食ヒストリー」が終了しました。
企画展にご協力くださったみなさま、ご来場くださったみなさま、
本当にありがとうございました。
現在、当館展示室では、常設展「公文書に見る福岡のあゆみ」を、
エントランスでは、パネル展「昭和の主基斎田~福岡県の記録から~」を行っています。
このパネル展は、平成27年度の冬に行った同タイトルの企画展のリバイバル展示です。
なぜ、いまさら3年半も前のパネルを展示するのか…といいますと、
11月に大嘗祭(だいじょうさい)が行われるからです!
大嘗祭は、新天皇が即位後初めて行う新嘗祭(にいなめさい)のことです。
近代以降では、明治、大正、昭和、平成、そして令和と5度目の大嘗祭になります。
この大嘗祭にコメを作って献上するのが、
「悠紀(ゆき)」「主基(すき)」という二つの地域であり、
その地域は、亀卜(きぼく)という亀の甲羅を使った占いで選ばれます(斎田点定の儀)。
令和の大嘗祭では、悠紀が栃木県、主基が京都府に決定し、
この二つの地域の田(斎田)で作られたコメは、先日大嘗宮に供納されました(新穀供納)。
今をさること91年前、大正天皇崩御の後1年間の服喪を終え、
昭和天皇の即位の礼と大嘗祭が行われたのが、昭和3年(1928)でした。
その大嘗祭の主基地方に選ばれたのが福岡県です。
この時の資料(公文書、写真)が、福岡共同公文書館に多数移管されており、
主基斎田の詳細を知ることができます。
平成27年度の企画展「昭和の主基斎田~福岡県の記録から~」では、
公文書、写真、絵葉書、お田植衣裳など、関連資料の展示を行い、
昭和3年の福岡県を大いににぎわせた、主基斎田という一大事業についてご紹介しました。
この企画展を行ったときは、まさか次の大嘗祭がこんなに早く行われるとは思ってもいなかったのですが、
せっかくよい機会なので、過去の企画展のリバイバル展示を行うことにしました。
展示パネルは、斎田での農作業、お田植祭、抜穂式(ぬきほしき)などの祭祀、
京都の御所に供納する様子などを記録した写真が中心です。
当時の福岡県は、この一大事業の顛末を文書だけでなく、膨大な記録写真としても残しています。
大変画質の良い写真で、91年前の雰囲気を今に伝えてくれています。
令和の大嘗祭のニュースを見て、大嘗祭や主基斎田にご興味を持たれた方は、
ぜひこの機会に、福岡共同公文書館に来ていただいて、
昭和の大嘗祭と福岡県との関わりについても知っていただきたいな、と思います。
パネルだけでなく、もっと関連資料を見てみたい、という場合は、
利用申請をすればどなたでも資料の閲覧ができますので、どうぞご利用ください。
※平成27年度第2回企画展「昭和の主基斎田~福岡県の記録から~」の
概要や展示資料につきましては、
・当館ホームページ>展示・講座案内>過去のイベント情報>企画展>昭和の主基斎田
・「福岡共同公文書館だより」第9号(当館ホームページ>刊行物等>福岡共同公文書館だより)
に掲載しておりますので、あわせてご覧ください。
あっという間にお盆も過ぎて、8月も残りわずかになりました。
7月23日から始まった企画展も、折り返し地点を過ぎたところです。
今回の企画展は、展示室の外(エントランス)にもいろいろと見どころがあります。
給食年表や福岡県の郷土料理を紹介するパネルの展示、
アルマイトの食器に触ってみるコーナー、
石盤・石筆を体験するコーナー、
明治と平成の小学生の身長を比較するコーナー
などなど。
そして、今回ご紹介するのは、
ご来場のお客さまに、小学校や学校給食の思い出をカードに書いて掲示してもらうコーナーです。
こうしてお客様自身の手で掲示をしていただく試みは、
以前、5周年記念展示「公文書でめぐる鉄道の旅」でもやりました
(この時は鉄道に関する写真を掲示していただきました)が、
展示を見ていただくだけでなく、お客様にも展示に参加していただきたい、
という趣旨で始めた取り組みです。
エントランスの片隅にあるので、気がつかずに帰られるお客さまもいらっしゃるのですが、
今回は、備え付けのカードに
・出身小学校
・年齢
・好きな教科
・好きな給食
・小学校の思い出(授業、給食、休み時間、運動会、遠足、修学旅行/楽しかったこと、いやだったこと)
を書いていただいています。
8月22日現在、87枚のカードが掲示されています。
今回の企画展は、ご家族連れで来場されるお客様が多く、未就学児さんから70代まで、
幅広い年齢層のお客様に書いていただいています。
読んでいると、くすっと笑ってしまったり、わかるわかると共感したり、へえ~と驚かされたり。
結局、企画者が一番楽しませていただいているようです。
その中から、給食に関するコメントをいくつかご紹介しようと思います。
給食に関する思い出で多かったのが、次のようなものでした。
給食時間内に食べ終わることができず、休み時間や掃除時間、5時間目までぽつんと残されることは、
子どもにとってはかなりのトラウマですよね。
私の小学生時代にも、食べ終わることができないまま掃除時間に突入し、
机ごと教室の後ろに下げられてしまった友達がいて、見る方もツライ気持ちになったものです。
同じようなご意見が、他にも多数寄せられていました。
・嫌いな給食を残したら、後日校長室に呼ばれて、校長先生と一緒に給食を食べさせられました(50代、熊本県)
・給食で食べるのがすごく遅く、それが嫌で、早く食べる練習をした事もあった(50代、福岡県)
・給食を食べるのが遅かったので、昼休みに教室に残されて、完食させられたのがつらかったです(50代、福岡県)
・食べるのが遅かったため掃除時間まで食べたり、牛乳が苦手で手洗い場に流したこともありました(10代、福岡県)
読むだけで切なくなります…。
また、こんなコメントもありました。
先生をも黙らせる「ジャガイモのオレンジ煮」。ちょっと味見してみたいような…。
いきなりつらい思い出からご紹介しましたが、一方で、こんなコメントもありました。
残ったおかずやデザートの争奪じゃんけん、ありましたありました!
みんなで協力して「完食」というのは、いいですね。
ところで、みなさんに書いていただいた、「好きな給食のメニュー」では、ダントツ人気が
でした。
なんと、87名中32名がカレーを挙げておられました。
なかには、
こんなコメントもありました(笑)。
「人生で一番」というのは小学校生活の楽しい思い出込みの評価でしょうか。
でも確かに、給食のカレーってすごくおいしかったです。
私も小学生の時、母に「給食と同じカレーを作ってくれ」とごねて、困らせたことがあります。
一方で不人気№1は、これまたダントツで、
でした。
これは経験された世代、知らない世代に分かれますが、
経験された方たちは口をそろえて「まずい!」とおっしゃっています。
直接お話をうかがうことができたお客様から、
「味も匂いもいやだったけど、冷めた時の表面に張る膜が本当にいやだった」
という具体的なご意見もいただきました。
このようにすこぶる評判が悪い「脱脂粉乳」は、
終戦後、子どもたちに必要なたんぱく源として、GHQの公衆衛生福祉局長サムスが導入を強く主張し、
日本の官僚も積極的に給食に取り入れたものです。
しかし、子どもたちにとっては随分悩ましい存在であったようです。
ここまで、人気・不人気のメニューを見てきましたが、他にこんな変わったメニューを挙げてくれた方がいます。
「なっぴー」というかわいらしい名前の割に、かなり攻めた食べ物のようです。
北海道の食べ物らしい、ということで、早速インターネットで検索してみました。
すると「Now Pea」(ナゥピー)という北海道の食品がヒットしました。
学校給食で提供されていたものが、現在では店頭でも販売されているそうです。
(昔はナッピーという名称だったそうです)
果たして、もなかの皮に冷凍納豆が入っているおやつ?でした。
このコメントをくださった方は、味について書かれてていなかったものの、
確かに「アイスもなか」と思ってかぶりついて、中身が納豆だったら、
その衝撃はいかほどか、想像にかたくありません。
ただ納豆好きとしては、ちょっと試してみたい一品です。
このほか、北海道出身の方が好きな献立として挙げてくださった「味噌ラーメン」、
長崎県出身の方の「ちゃんぽん」、熊本県出身の方の「太平燕」などから、
その地域の郷土料理が給食に取り入れられていることがわかりました。
地域や学校によって、さまざまに異なる給食のメニュー。本当に興味深いです。
また、調理士をされていたお母さまの思い出や、
離島の小学校の給食事情について書いてくださった方もいて、
非常に読み応えのあるバラエティに富んだコーナーになっています。
展示室の中も楽しいですが、ご来場の際には、
ぜひこの小学校の思い出コーナーもご覧になってください。
そしてあなたの思い出を残して帰ってください!
「冷やし中華はじめました」風タイトルですけれども。
令和元年度第1回企画展として、「学校給食ヒストリー」が
7月23日(火)から始まりました。
今回は、学校給食の歴史がテーマです。
また、給食の舞台であった小学校の歴史もあわせて見ていただける展示になっています。
当館の、気は優しいけど見た目がイカツイ公文書さんたちを盛り上げるために、
福岡県学校給食会さま
筑紫野市歴史博物館さま
久留米市教育委員会さま
から、強力な助っ人(資料)に来ていただいております。
文書とモノ資料とレプリカ、色とりどり、形さまざま、内容もおもしろく、
目にも楽しい展示になっていると思います。
おじいちゃんが子供のころって、小学校あったと?
お母さんの好きやった給食ってなに?
子どもたちからそんな質問を受けてしまったおじいさま、そしてお母さま。
どうぞ「学校給食ヒストリー」へお越しください。
展示を見て、お話に花が咲くと思います。
エントランスでも、パネル展示のほか、
石盤・石筆体験コーナーやアルマイト食器にさわれるコーナー、
小学校の思い出を書いて壁に展示してみるコーナーなど、
色々なコーナーを準備しておりますので、
夏休み中のお子さまをさそって、帰省中のお友達をさそって、
ぜひぜひ遊びにきてください!
ごぶさたしております。
年の初めには張りきっていたのに、その後公文書館ブログ休眠しておりました。
先日、新元号の発表がありましたね。
「令和」れいわ
出典となった万葉集の詞書の梅花の宴は大宰府の大伴旅人の邸で行われたそうで、
そう思うと、福岡県民としては親近感が湧いてくるような・・。・・。
何はともあれ、新元号も決まり、ふわふわとしていた気持ちが落ち着いたような気がします。
「平成」も残り1ヶ月。
前回の改元の時は、「昭和」の終わりと「平成」の始まりの間には1日しかなかったのですが、
今回はゆっくりと「平成」を惜しむことができます。
最近では、何かにつけて「平成最後の」という枕詞がつくのですが、
九州・四国・本州では「平成最後の桜」も、
北海道で咲くころには「令和最初の桜」となるかもしれませんね。
公文書館では、常設展を再開しました!
今回は、特集「さようなら平成」展もやっています。
ぜひ見に来てください。
早いもので10月です。
暑さがようやく一段落した、とほっとしていたら
ここ数日の朝晩の冷え込みで、あっという間に風邪を引いてしまいました・・・。
まったく油断できない季節の変わり目です。
ここ数日といえば、
ノーベル生理学・医学賞の受賞が決まった、本庶佑先生の会見を見て、
心洗われる思いがしています。
研究には、好奇心とあきらめない気持ちが大切とのこと。
どちらも、年を重ねるうちに、失いがちですが、
研究のみならず、日頃のお仕事にも生活にも大切なことだと改めて思いました。
よし!
好奇心を満タンにして、ブログのネタを探そうっと。
さて。
当館の夏の企画展は、無事に終了いたしました。
ご観覧くださった皆さま、ありがとうございました。
ご協力いただいた皆さま、ありがとうございました。
企画展開催期間中、ケース内に展示していた特大錦絵は、
しばらくエントランスに掲示しておりますので、
「見逃した」という方、「もっと近くで見たかった」という方、ぜひ御覧ください。
展示室では、9月29日(土)から常設展を行っております。
こちらもぜひどうぞ!
なお次の企画展は、来年2月からを予定しております。
そのうち、詳しい情報をお届けしたいと思います。
みなさん、くれぐれも、風邪には気をつけてくださいね!
毎日、暑いですね~。少し外に出ただけで、溶けそうです。
こんな時は、ぜひ公文書館へお越しください!
冷房が効いていますし、休憩コーナーもございます。
そして何より。
現在、企画展を開催中でございます!
今年2018年は、明治維新から数えて150年です。明治10年に起こった西南戦争からは、ちょうど140年の節目。
大河ドラマでも「西郷どん」が放送されていますね。
西南戦争中、電報によってほぼリアルタイムで情報が伝達され、
新聞や錦絵によって戦況が全国に報道されたことをご存知でしょうか?
幕府が倒れ、日本の近代化が始まってから、わずか10年後の話です。
今回の展示のテーマは、西南戦争をめぐる「通信」と「報道」です。
電報がいかに戦況を伝え、新聞と錦絵がいかに戦況を報道したか、ということを、当時の資料を用いてご紹介しています。
何と言っても、見どころの一つは、豊富な錦絵資料です。
今回は、北九州市立大学の生住先生、久留米大学の大庭先生のご協力を賜り、
両大学および先生個人が所蔵されている貴重な錦絵を多数展示しております。
なかには、明治7年頃から14年頃にかけてのきわめて短期間しか発行されなかった、珍しい錦絵新聞や、
判じ絵になっていて絵解きするとさらに面白い風刺画などもあり、
どれもこれもじっくりと見ていただきたいものばかりです。
西南戦争もの錦絵ということで、明治10年に発行されたものが多いのですが、
つい最近刷られたか、と見紛うほど色鮮やかで美しい状態です。ぜひ、来館して実際の資料をご覧ください。
また、もう一つの見どころが電報です。福岡県立図書館所蔵の資料を多数展示しております。
明治10年当時、実際に福岡県と各府県や政府との間でやりとりされた電報の記録は、
臨場感にあふれ、読めば読むほど興味が尽きません。
電報資料はカタカナ表記なので、くずし字が苦手だわ、という方にも、容易に読んでいただけると思います。
また、エントランスでは、西日本新聞社から借用した福岡の新聞の歴史についてのパネルや、
電報でたどる西南戦争として、電報資料をわかりやすくパネル化した展示も行っておりますので、
こちらもあわせてご覧ください。
所在地 | 〒818-0041 福岡県筑紫野市上古賀1-3-1 アクセスマップはこちら | 電話 | 092-919-6166 | FAX | 092-919-6168 | kobunsyokan@pref.fukuoka.lg.jp |
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