収穫の秋ですね、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
『公文書でめぐる ふるさと福岡』今回は、筑後市をご紹介します。(筑後市HP)
筑後市
筑後市は福岡県の南西部、筑後平野(九州最大の筑紫平野の福岡側)の中央に位置する田園都市です。市の南を流れる矢部川の流域は、縄文・弥生時代の集落跡である裏山遺跡があり、古くから人が住んでいた地域です。
(地名がたくさん出て来ますので、末尾に地名等のよみがな対照表をつけています。)
市内を南北に通る坊津街道(薩摩街道)は江戸時代の参勤交代の通り道で、羽犬塚はその宿場町でした。ややルートの変遷はあるものの、平安時代に編纂された『延喜式』(10世紀前半)の中にも「西海道」(古代飛鳥・奈良時代の幹線道路)の駅名として「葛野駅」(現在の羽犬塚付近と想定される)が登場しており、九州縦断の交通の要衝であったことがうかがえます。(参考『福岡県百科事典』)
筑後市から当館に移管された資料は9月末現在で789点です。年代が古いものは、明治時代の字図・一筆限竿入帳などの土地の台帳です。また、教育委員会作成の埋蔵文化財報告書では遺跡や西海道に関連する場所について調査したものも多いです。
温暖な気候と、土壌や水にも恵まれた農業が盛んな土地で、米・麦・イグサ・ナシ・ブドウ・八女茶などが生産されています。炭酸泉の船小屋温泉郷や恋の木神社などの観光スポットがあり、「恋のくに筑後」と題して市をあげての婚活イベントなども盛んです。
筑後市を紹介しながら、恋も応援するPR動画 恋のファーム♡Chiku−Go! ちくご恋するチャンネル(広報ちくご・筑後市公式Youtubeチャンネル)より
筑後市内遺跡群Ⅳ 筑後市文化財調査報告書 第45集 (2-1-0019164)
藩政時代には久留米藩に属していた地域で、明治22年(1889)町村制施行により、上妻郡の羽犬塚村、二川村、下妻郡の水田村、下妻村、古川村の五ヵ村が成立します。明治29年(1896)上妻郡、下妻郡は生葉郡の一部とともに八女郡となります。水田村(明治41年(1908)合体合併;水田村、下妻村、二川村)と、羽犬塚町(大正14年(1925);町制施行)と、古川村、岡山村(一部)が合併して、昭和29年(1954)4月に筑後市が誕生しました。その後、三潴郡西牟田町と八女郡下広川村の一部を編入して、現在に至ります。
実は、筑後市は、常設展秋の特集「公文書と〈害虫〉」の中でご紹介している、明治の螟虫駆除とも深いかかわりがあります。今回は『筑後市史』2巻「益田素平と螟虫駆除法」に登場する、益田素平(八女郡江口村の老農、のち二川村長)と螟虫駆除に関連する資料をご紹介します。
近世、農作物の〈害虫〉は、「虫」または、稲につく虫「蝗」と呼ばれ、天災のひとつとされていました。民俗行事で今も残る虫送りや虫追いは、呪術的な害虫駆除による豊作祈願であり、虫供養は農作業の過程で駆除した虫への鎮魂でした。
明治の福岡県では、品種改良や施肥の改善によって、茎が太く収量の多い稲がつくられるようになりましたが、この稲の茎を中から食す螟虫(螟蛾の幼虫)による甚大な被害が発生します。
(ニカメイチュウ写真提供:福岡県農林業総合試験場 病害虫部)
螟虫というのは通称で、方言でスムシ、ズイムシ、ナカザシ、シンキリ、イネノドウムシ、カラクダシなどと呼ばれていました。稲の茎の中で幼虫が成長し、年2回(2世代)発生するので二化螟虫(二化螟蛾の幼虫)と名づけられました。現在はあまり見られなくなりましたが、ウンカと並び稲作に大きな被害をもたらした〈害虫〉で、とくに筑後地方では、年3回発生する三化螟虫(三化螟蛾の幼虫、イッテンオオメイガ)による深刻な被害を受けていました。
福岡で、県や明治政府に掛け合いながら螟虫駆除予防に尽力したのは益田素平をはじめとする筑後地方の老農たちでした。老農というのは、西洋農学を学ばずに在来の農業技術の改良をおこなってきたひとたちのことです。益田は自身の試験田での研究と新しく知られるようになった西洋昆虫学の情報を照らし合わせ、稲の茎を中から食して穂枯れをおこすメイガの幼虫(特に、三化螟虫)の存在を確信します。1877(明治10)年、当時副戸長でもあった益田は「螟虫駆除予防稟申書」を福岡県に提出し、県の対応を求めます。県からも国へ上申し、内務省勧農局員の鳴門義民(青森のニカメイガと九州で発生していたサンカメイガについて、虫害の調査、駆除の方法の指導に当たっている)が派遣されます。鳴門との協議の結果、益田が提案した様々な防除方法の中から、稲刈りを終えた稲株をすべて掘り起こして寒気にさらし焼却する「稲株掘り起し法」が有効とされ、導入への働きかけが行われます。
1879(明治12)年10月 メイガの被害町村連合会(三潴、八女、山門の三郡)で益田素平・中島忠蔵(上妻郡島田村)・原口茂七(下妻郡常用村)ら螟虫研究老農たちが説明を行いますが、「稲株掘取」は時期尚早と採用されませんでした。代わりに18か所の螟虫試験所が設置されました。
『福岡県における螟蟲(めいちゅう)駆除豫防の沿革 病害虫駆除豫防資料第15号』(1-1-0007432)附益田素平翁遺稿螟虫実験説
1880(明治13)年10月、反対意見も多い中、益田素平・佐野貞三(三潴郡八丁牟田村、現大木町)らの啓発や渡辺県令の説示もあり、上妻下妻、三潴、山門の4郡聯合会で当年度の「稲株掘取焼却」による駆除予防の実施が採用されます。被害の大小にかかわらず収穫後の稲株を掘取焼却等処分をすることとされ、罰則もありました。しかし、県から強制される形で非常に労力の要る「稲株掘取」を行うことは、すぐには理解を得られず、同月反発する農民らによって「不掘取」を請願する「筑後稲株騒動」が起き、益田や佐野、郡長や議長が襲撃の対象となりました。三潴郡27カ村、上妻郡45カ村、800名に及ぶ逮捕者を出したこの騒動ののち、次第に農作物の〈害虫〉と駆除予防の必要性が理解されていきます。明治29年には、明治政府によって害虫駆除予防法が制定され、県の害虫駆除予防規則のもと行政主導の組織的な防除が行われるようになり、農業試験場での応用昆虫学や農法、薬剤の研究とともに農業の近代化がすすんでいきます。
『二川村会決議録 八女郡二川村役場』(1-2-0005938)、『筑後市史 第二巻』(2-4-0005776)
明治22年、益田素平は二川村の村長に就任しています。明治政府による「害虫駆除予防法」が公布された明治29年、福岡県令に基づき、二川村会は「苗代田並植田螟虫駆除規定」を制定しました。行政区ごとに取締人を選び、村の直営事業として苗代田の採卵と捕蛾とその買上、枯茎採取の夫役雇入れが行われました。また益田は、反発を招く原因となった稲株掘取の労力を減らし、稲株処理を普及させるための稲株切断器(株切鍬)も考案しています。
螟虫駆除のために、益田らが提唱し各地の試験研究機関で研究されるようになった、遁作法、採卵、採蛾、稲株処理、誘蛾灯、虫害稲藁の処理など総合的な駆除対策は、現代の農業におけるIPM(Integrated Pest Management 総合的病害虫・雑草管理)の考え方とも通じるものがありますね。
いかがでしたか?次回は福津市をご紹介します。お楽しみに。
福岡共同公文書館では常設展の一部を入替、秋の特集「公文書と〈害虫〉」がご覧いただけます。Web展示で一部資料をご紹介しておりますので、そちらもどうぞ。
※地名等 ふりがな対照表 (参考:日本歴史地名大系41「福岡県の地名」平凡社、2004年)
- 坊津街道(ぼうのつかいどう)
- 羽犬塚(はいぬづか)
- 西海道(さいかいどう)
- 葛野駅(かどののえき):「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる筑後国の駅で、大宰府から筑後国を経て肥後・薩摩国府へ向かう薩摩路(小路)に設置された
- 上妻郡(かみつまぐん)
- 下妻郡(しもつまぐん)
- 生葉郡(いくはぐん)
- 三潴郡(みづまぐん)
- 山門郡(やまとぐん)