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なんて日だっっ!!
が、続いている今日この頃です。
福岡共同公文書館も、他の類縁施設と同様、臨時休館のまま、新年度に突入しました。
令和2年度です。
普段から、お客さまでごった返すこともない、静かな公文書館ですが
やはり無観客業務は、寂しい。。。
公文書を閲覧に来てくださる方、展示室をのぞきにきてくださる方、
会議室を利用してくださる方、
新聞を読みに来てくださる方、道に迷って訊ねて来られる方、
トイレを借りに来られる方、
すべてのお客様によって、公文書館は盛り立てられているのだなあ、
と改めてしみじみと思います。
一日も早く、この厳しい状況が収まって、再開館できる日を待ちながら、
もうしばらく、無観客業務をがんばります。
昨日のクリスマスイブ。
みなさま、いかがお過ごしになったでしょうか。
形ばかりのクリスマスディナーを…と思い、
仕事終わりに近くのショッピングモールをのぞいてみたら、
ケーキ屋さんには長蛇の列。
食品売り場では、日常のお惣菜は姿を消し、あふれるばかりのチキンレッグ!
サラダもパーティ用に盛りつけられ、お値段もパーティ用になっておりました。
これじゃあ、うちは仏教徒なのでクリスマスは関係ない、と言っていても、
気がついたら、食卓はなんだかクリスマス…ってことになりかねません。
さて、このクリスマス。はたまたクリスマス商戦。
日本ではいつから始まったのでしょうか?
日本で初めてクリスマス行事が行われたのは16世紀のことだそうです。
現在の山口県で宣教師によって行われた降誕祭が、日本初のクリスマス。
その後、禁教令によって長いこと途絶えますが、
明治時代になると、再びクリスマス文化が戻ってきます。
特に、明治期には店先にクリスマスツリーが飾られ、
いわゆるクリスマス商戦というものが始まりました。
一般の家庭にクリスマスが定着するのは明治の終わりごろだそうです。
昭和に入り、12月25日が、先帝祭(大正天皇が崩御した日)として
国民の休日になると(昭和23年廃止)、
子どもだけでなく大人もクリスマスを楽しむようになります。
昭和9年12月17日の大阪朝日新聞には、「大量注文殺到で品不足の悲鳴」というタイトルで、
豪勢なクリスマス景気の記事が掲載されています。
記事は、
クリスマスが近づき、街のショーウインドウにはクリスマスのデコレーションが施され、
サンタクロースが商店やデパートの売り出しに引っ張りだこ、新商品の提灯式マネキンサンタや、
仮装マスクなどが大いに売れ、家庭用のクリスマスツリーや
デコレーションケーキも色々取りそろえられている様子。
クリスマスプレゼントとしては、フランス人形や絵本などが人気だ、
と伝えています。(*神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫参照)
戦前の日本でも、まさに現在と同じようなにぎやかなクリスマスの風景があったんですね。
その後の日中戦争のぼっ発でクリスマスは禁止されますが、
戦後の昭和23年にはにぎやかなクリスマスが復活してきます。
ここで、当館の資料から戦後まもないクリスマスの様子を見てみたいと思います。
昭和21年12月に戦争孤児、浮浪児などを養育する施設として発足した「百道松風園」は、
昭和22年12月に2度目のクリスマスを迎えます。
当時の職員による業務記録である『日誌』(福岡県公文書、1-1-0021115)の
昭和22年12月25日のページには、次のような記録が残されています。
12月25日(木) 晴 暖
〇福岡高女生徒によりクリスマス飾付をなす。
〇朝礼時、クリスマスのお話をする
〇冬休に入る
午前――垣根作業完了
夜 ――クリスマス演芸会 九時迄
〇来、福岡高女生――クリスマス飾付
〇クリスマス演芸会を子供の主催で行ふ。福高女の生徒さんのお飾りで、
クリスマス気分を十分味ひつつ愉快に行ふ。やはり流行歌が一番多い。
この唄が自然に明朗な児童歌に代る様、われわれの努力が必要である。
演芸会の品性、たまには此の様な品のある会も催し、
丹念な情操教育が必要であろう。演芸会中、各寝室を見廻るも、
各室とも電灯は豆で暗くし、日頃の節電を実行してゐる様が見えた。
12月25日には、福岡県立福岡高等女学校(翌年、福岡女子高等学校と改称。現在の福岡中央高等学校)
の生徒がクリスマスの飾りつけに来園し、夜にはクリスマス演芸会が開催されたようです。
子どもたちの出し物は、流行歌(の歌唱)が多かったようで、
職員は子供向けの歌が増えるようにしないといけない、と考えつつ、
部屋の節電につとめる子どもたちの姿に、日常生活のルールが身についてきた、
と喜んでいる様子です。
戦争のために親や住むところを失ったり、貧困などのために家を飛び出した子どもたちは、
松風園で迎えるクリスマス会にどんな思いをいだいたのでしょうか。
いずれにしても、クリスマス文化が当時の日本にしっかり根づいていたことが、
こうした資料からも窺えます。
クリスマスが終わると、もうすぐお正月です。
去る8月3日(土)に当館の公開講座、「親子和綴じ講座」を開催しました。
講師として倉本優子先生をお招きし、26名の親子の方たちが頑張って和綴じのメモ帳を作成されました。
普段は、なかなかお子さまに来ていただけない公文書館ですが、
今夏は、企画展「学校給食ヒストリー」や今回の「親子和綴じ講座」などの開催により、
館内に子供たちの元気な声がひびき、楽しそうな笑顔を見ることができ、
スタッフ一同大いにいやされております。
さて。
今回は「和綴じ」から話を始めましたので、公文書の綴じ方について書いてみたいと思います。
みなさんは、公文書というと、どのような姿を想像されるでしょうか?
福岡共同公文書館は、明治から平成までの、福岡県および県内58の市町村の公文書を保存しているので、いろんな時代の、いろんな自治体の公文書を一覧することができます。
そうやって見てみると、「公文書」と一口に言っても、本当に様々な姿をしていることに改めて気づかされます。作成された時代や、作成・使用・保存されていた場所(自治体)によって、その姿は異なるのです。
たとえば、明治時代のある村の公文書。
明治9年の上山田村(現・嘉麻市)の地租取調帳(村控)です。
地租改正に伴って作成された文書で、地租の区分(地目)、等級、地租金一覧などが記載されています。
この文書は、表紙に表題を直書きした(打付書)、四つ目綴じの装丁となっており、
こうしてきちんと製本されているところを見ると、地租に関する重要な文書として
長く保存されることを予定して作成されたことが想像されます。
このような体裁は、いまだ近世の気配が色濃く残る明治初期という時代性を強く感じさせるものです。
これは、明治24年に作成された赤村の「村会議件及雑書留」という公文書です。
村会の開設告知や議決報告などを綴ったものです。
共表紙にこより綴じという体裁は、近世の文書でもよく見かけますが、
明治期の公文書でも多く見られるものです。
先の地租取調帳と異なるのは、地租取調帳が完結文書として製本されているのに対し、
こちらは、こよりによる仮綴じの体裁であるということです。
こうした年ごとの議会文書(仮綴じ)を数年分まとめて製本している例をよく見かけます。
こちらは、時代が少しくだって、明治終りごろの福岡県の公文書です。
表題が打付書きされ四つ目綴じの、和本の体裁ですが、
先の明治9年のものとは異なり、背の部分を表紙と同じ用紙でくるんであります。
包背装の一種と考えられるこの体裁では、小口の部分に何も記されない代わりに、
背の部分に表題が記載されており、和本は平置きが基本ですが、
こちらは縦置きに保管されていたのではないか、と想像されます。
文書の保管の仕方も徐々に近代化されていく様子が、こうしたささいな変化からうかがえるのです。
こちらは昭和初期ごろ、横山村(現・八女市)役場が作成した道路台帳です。
表紙は厚紙で、上下二ヶ所をこよりで綴じています。
こちらは津屋崎町(現・福津市)の町条例という公文書です。
昭和3年に作成され、昭和26年まで使用されていたものです。
黒表紙に、上下二ヶ所の紐綴じで、背は表紙とは別の紙が付されています。
(この背表紙は後補のようです)
長期間使用するために、中身を加除しやすい様式になっており、
縦置きで整理しやすいよう、表紙は厚手で、背にもしっかりした用紙を用いています。
昭和も終わりごろになると、紐綴じに代わって、
金属などの留め具がついたファイルが登場してきます。
こちらは昭和57年の福岡県公文書です。
レバーファイルが用いられています。
レバーファイルは、穴をあけずに文書を綴じておくことができ便利ですが、
留め具をはずすと文書が散乱してしまう恐れがあるので注意が必要です。
また、大量の文書を綴じるのには向きません。
こちらは、平成4年の福間町(現・福津市)の公文書です。
パイプ式ファイルが用いられています。
穴をあけて綴じるタイプのファイルで、大量の文書にも対応可能です。
仕切りやインデックスを使って、文書を整理することができます。
しかし、容量に合っていないファイルを用いると、
無駄に場所をとってしまうという難点があります。
こちらは平成21年の岡垣町の公文書です。フォルダで整理されています。
フォルダは、1枚の厚紙を2つに折った紙挟みです。
フォルダのタブにタイトルを書いて、文書を挟んで立てて並べて使います。
検索性、利便性の良いファイリング方法で、文書の見直しがしやすい、
廃棄しやすいといった特長があります。
フォルダは、ボックスファイルで保存したり、引き出し式の什器に並べて保存したりします。
以上、見てきたように、公文書の綴じ方は年々変化してきました。
それは、道具の進化ということだけでなく、
書棚、机などの什器を含む執務室内の環境の変化からの要求によるものと考えられます。
執務室の環境は、自治体それぞれで異なりますし、
文書管理の方針もまた自治体ごとに差異があることから、
公文書も年代ごと自治体ごとに様々な姿をしているのだと思います。
内容ばかりに目が行きがちですが、公文書を外側から見てみるのも、案外楽しいものです。
ごぶさたしております。
年の初めには張りきっていたのに、その後公文書館ブログ休眠しておりました。
先日、新元号の発表がありましたね。
「令和」れいわ
出典となった万葉集の詞書の梅花の宴は大宰府の大伴旅人の邸で行われたそうで、
そう思うと、福岡県民としては親近感が湧いてくるような・・。・・。
何はともあれ、新元号も決まり、ふわふわとしていた気持ちが落ち着いたような気がします。
「平成」も残り1ヶ月。
前回の改元の時は、「昭和」の終わりと「平成」の始まりの間には1日しかなかったのですが、
今回はゆっくりと「平成」を惜しむことができます。
最近では、何かにつけて「平成最後の」という枕詞がつくのですが、
九州・四国・本州では「平成最後の桜」も、
北海道で咲くころには「令和最初の桜」となるかもしれませんね。
公文書館では、常設展を再開しました!
今回は、特集「さようなら平成」展もやっています。
ぜひ見に来てください。
こちら、九州は福岡県筑紫野市。
日中暖かい日が続いています。
暖冬ですね。
例年なら、この時期は、朝出勤しようと思うと、車のフロントガラスが凍りついていて、
「遅刻する~」と自分も凍りつく…ということが、頻繁にあるのですが、
今冬はフロントガラスガッチガチ体験、それほど味わわずにすんでいます。
それでも、筑紫野市は内陸部に位置し、朝はぐんと冷え込みます。
今朝も、公文書館の植込みに霜が降りていました。
今日はお天気なので、昼間はまた暖かくなりそうです。
2月5日から、冬の企画展が始まります!
お楽しみに!
あけましておめでとうございます。
残すところ、平成もあと4ヶ月となりました。
本年もよろしくお願いいたします。
続きです。
「主基斎田記念館のゆくえ 2」にも書きましたが、
開館当時の〈主基斎田記念館〉には、
主基斎田事業で使用された農機具や道具、衣裳などが陳列されていました。
そのころの記念館内部の様子は、「主基斎田記念館開館記念絵はがき」によって、
わずかながら知ることができます。
絵はがきの写真があまり鮮明ではないのですが、
衣裳を着たマネキンや、斎田地の模型、様々な標本らしきものが並んでいることがわかります。
陳列品の詳細については、
昭和6年に福岡県が発行した『昭和主基斎田記録』に、
昭和5年6月1日現在の「主基斎田記念館陳列品目録」が掲載されているので、
それで確認することができます。
この目録から、いくつか挙げてみますと、
・戸畑石油発動機(4馬力)
・半田式渦巻ポンプ
・ミノル親玉号脱穀機
・ナショナル精米機(昇降器共)
・荷車
・深見犂(すき)
・塩水選桶
・耕牛装身具 1揃
・麻製磨袋
・捕虫網
・唐櫃(からびつ)
・八乙女舞服装(付属品共)
・絵はがき(抜穂式記念品)
・主基斎田収納米製菓子(昭代)
・主基斎田稲株標本
・大礼使事務官衣冠束帯 1揃
・太田主作業服(冠付)
・奉耕者式服・作業服
などなど、
主基斎田事業に関するあらゆる資料が収蔵・陳列されていたことがわかります。
しかし現在、主基斎田事業に関するモノ資料として残っているのは、
斎田地である早良郡脇山村(現・福岡市早良区脇山)に残された米や箸などの記念品や衣裳、
当館が所蔵する写真帳や、そのほかフィルムなど、ごくわずかです。
記念館に収蔵されていた品々は、どうなったのでしょうか?
『福岡県立農業試験場百年史』(昭和54年3月発行)によれば、
「第2次世界大戦の結果、陳列品のごとくは遺憾ながら逸散し、辛じて建物のおもかげを残すのみである」
と記され、記念館の建物は残ったものの、
中の陳列品は、戦後の混乱のなかで散逸してしまったとのことです。
平成27年度に当館が開催した企画展「昭和の主基斎田~福岡県の記録から~」の事前調査で、
筑紫野市在住のある男性からお話をうかがう機会がありました。
この方は、戦中から戦後にかけて、上古賀の農事試験場で働いておられた経験をお持ちです。
その方の話では、
・〈主基斎田記念館〉はとても立派な建物だったが、中では展示などはされていなかった。
・戦時中、記念館は物資倉庫として利用されており、軍から航空用燃料などを預かっていて、
見張りも立っていた。
・戦後すぐは、記念館にはいろんな人が出入りしていたので、収蔵品もその時に持ち出されたのではないか。
ということでした。
昭和17年3月ごろに二日市に移築された〈主基斎田記念館〉は、
戦時中ということもあり、資料の陳列などは行わず、
戦後の混乱に乗じて収蔵物を散逸してしまった、ということで間違いはなさそうです。
中身を失った〈主基斎田記念館〉は、その後も35年あまり二日市は上古賀の地に建っていましたが、
昭和56年の農業試験場の再移転の際に取り壊されてしまいました。
長くなりましたが、最後です。
企画展「昭和の主基斎田~福岡県の記録から~」を企画した当初、
まさか当館と主基斎田とが記念館を通して結びつくなど、まったく想像もしていませんでした。
しかし、準備段階から、いろいろな人や場所との出会いに恵まれ、
「ご縁」を感じる場面がたくさんありました。
今から考えると、当館の場所にかつて建っていた〈主基斎田記念館〉の、
「展示をして、昭和の主基斎田のことをみんなに伝えてくれ~」という声なき声に導かれて、
展示を〈させられた〉のではないか、
と、季節外れのオカルトチックな妄想がわいてくるのです…。
続きです。
福岡市住吉から筑紫郡二日市町の福岡県立農事試験場に移築された〈主基斎田記念館〉。
いったい、試験場内のどこに建っていたのでしょうか?
上記図面は、二日市時代の農業試験場(農事試験場)の配置図です。
赤丸で示した部分の建物が「記念館」と説明されています。
〈主基斎田記念館〉のことです。
「記念館」から、真下に伸びた直線の先に、黒点二つで示されているのが、試験場の正門です。
つまり、試験場正門の真正面の位置に建っていたことになります。
二日市時代の〈主基斎田記念館〉を撮影した写真↑では、
手前に写る正門との位置関係がよくわかります。
さて、試験場内の〈主基斎田記念館〉の位置を確認したところで、
本題です。
〈主基斎田記念館〉が建っていた場所は、現在のどの辺に当たるのでしょうか?
↑は、「主基斎田記念館のゆくえ2」にも載せた現在の筑紫野市上古賀付近の航空写真。
試験場の跡地に当たる部分です。
中央を縦に走っている直線が、県道137号線。
青い四角で囲んでいる部分が、福岡共同公文書館です。
そして↑は、農業試験場の平面図(部分)。
航空写真に合わせて回転させ、注釈をつけています。
ちなみに赤で縁取りしているのが〈主基斎田記念館〉です。
道路の位置や、溝の形状などに注意しながら、現在の航空写真に平面図を重ねてみます。
おわかりいただけますでしょうか。
なんと〈主基斎田記念館〉は、隣のグランドにまがたるかたちで、
福岡共同公文書館の真裏に建っていたのです。
それとなく、当館と主基斎田記念館との浅からぬ因縁をこじつけたところで、
最後の疑問。
〈主基斎田記念館〉に収蔵されていた、資料の数々はどうなってしまったのか、です。
またまた続きます。
続きです。
昭和3年2月に福岡県が大嘗祭の主基地方に決定してから、
実際に米作りを行う〈斎田〉の選定、栽培する米の選定、農作業を行う奉耕者の選定、
そして実際の米作り作業、各神事の準備・実施、最後の京都大宮御所への奉納に至るまで、
延べ9か月間にわたる斎田事業が行われました。
すべての斎田事業が終了した後、「大嘗祭主基斎田奉仕を永遠に記念し、農業の振興を図る」目的で、
〈主基斎田記念館〉の建設が県会で可決され、
福岡市住吉にあった福岡県立農事試験場
(※昭和24年に福岡県立農業試験場と改称。現・農林業総合試験場)内に、
建坪202坪、純日本式社殿建造りの立派な記念館が完成しました。
記念館建設にあたっては、大嘗祭で使用された建物の一部を下賜され、
京都御所から移築して使用しました。
記念館内部には、斎田事業で使用された農機具、道具、衣裳などが展示されました。
落成記念の絵はがきからは、真新しい記念館の外観や、陳列品の充実ぶりなどが見て取れます。
昭和14年になると、農事試験場は福岡市住吉から、筑紫郡二日市町(現・筑紫野市)に移転します。
それにつれて、主基斎田記念館も昭和17年3月、同地に移築されました。
福岡県立農事試験場が移転したのは、現在の筑紫野市上古賀です。
昭和14年の移転から約40年間上古賀の地にあった試験場ですが、
昭和56年に筑紫野市吉木へ再度移転しました。
福岡共同公文書館は、この試験場跡地に建っています。
福岡共同公文書館のみならず、南は筑紫野市文化会館から北は筑紫野警察署、
道路をはさんでJT九州工場が建つこの一帯には、かつて広い広い農事試験場が広がっていたのです。
昭和23年の航空写真で、オレンジ色の線で囲んでいる部分が、農事試験場です。
写真中央を縦に走る白い直線は県道137号線で、
この道路をはさんで、右側に圃場が広がり、左側に建物が並んでいます。
そして、この試験場跡地の現在の姿がこちら↓。ずいぶん変わりました。
さて、上古賀時代、試験場内のどこに、主基斎田記念館は建っていたのでしょうか?
またまた、次に続きます。
12月ですね。
いつもの年なら、何かと気ぜわしくなる時期ですが、
今年は暖かいせいか、「師走」に入っても、なんとなく気持ちがのんびりしてしまいます。
さて。
もう、2週間ほどたちますが、
11月23日は「勤労感謝の日」の祝日でした。
3連休だったという方も、多かったのではないでしょうか?
「勤労感謝の日」が制定されたのは、昭和23年のことです。
それまで11月23日は、「新嘗祭(にいなめさい、しんじょうさい)」の休日でした。
「新嘗祭」は天皇がその年の収穫に感謝する宮中祭祀であり、
各地の神社でも神事が行われています。
その新嘗祭のなかでも、
新天皇が、即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を「大嘗祭(だいじょうさい)」といいます。
天皇が即位後ただ一度だけ行う儀式なので、明治以降はまだ4度しか行われていません。
今上天皇が即位された1990年に行われた大嘗祭が、直近のものになります。
「大嘗祭」の儀式で使用する新穀を、栽培・収穫し、奉納する役割を担うのが、
「悠紀(ゆき)地方」と「主基(すき)地方」です。
この二つの地方(近代以降は都道府県単位)は、亀卜(きぼく)つまり亀の甲羅を用いた占いで選ばれます。
来年5月1日に、新天皇が即位されますが、その後この亀卜を行う「斎田点定の儀」が行われ、11月に大嘗祭が行われる予定だそうです。
さて、今から90年前の昭和3年。
昭和天皇の即位の礼と大嘗祭が行われました。
この時、亀卜によって福岡県が「主基地方」に選ばれました。
そこで福岡県では、斎田の選定から、米作りなどの主基斎田事業に奔走することになります。
福岡共同公文書館では、平成28年2月~3月に企画展「昭和の主基斎田~福岡県の記録から~」を開催し、福岡県での主基斎田事業をご紹介しました。
この展示については、
当館ホームページ>「展示・講座案内」>「過去のイベント情報」
に詳細を掲載しておりますので、そちらをご覧ください。
もともとこの展示は、当館にこの主基斎田に関する公文書や写真などの資料が多数移管されており、これらの資料をご紹介する目的で、企画しました。
しかし、展示準備のためにいろいろ調べていくうちに、
「やや、これはなにかしら、運命というものに導かれて、この企画が降りてきたのではないか・・・」
と、思うようなことがわかったのでした。
それは、なにか?
次回に続きます。
10月1日に、那珂川町が市制施行して那珂川市となりましたが、
福岡県には、11月にお誕生日を迎える市が、二市あります。
(この場合のお誕生日は、市制施行、つまり「市となった日」を指しています)
市制施行の年代順にご紹介しますと、
まず、田川市。
昭和18年(1943)11月3日 伊田町と後藤寺町が合併して、市制施行し、
田川市となりました。
両町の合併は、以前から議論されていたところでしたが、
大きく合併・市制施行へと動き出したのは、
昭和17年9月に起こった
田川区裁判所の廃止問題がきっかけでした。
もともと取扱い件数が多い同裁判所が廃止となったのは、
この地区が市制施行していないことが原因となっていることがわかったのです。
両町は、合併そして市制施行についての協議へと進んでいくことになります。
昭和18年5月に正式な合併協議を始め、
わずか5ヶ月後には内務大臣から市制施行の正式な認可を得ることができました。(以上「田川市史」参照)
そして11月3日、田川市が誕生したのです。
田川市は、今年75回目のお誕生日を迎えました。
*************************************
次に、中間市。
昭和33年(1958)11月1日 中間町が市制施行して中間市となりました。
戦後、行政事務処理の効率化と住民福祉の向上をはかるために、
市町村の規模を見直そうということになりました。
町村合併促進法や新市町村建設促進法が公布・施行され、
町村合併や市制施行が進みました。
いわゆる昭和の大合併です。
福岡県でも、町村合併促進審議会条例を制定して合併を進めました。
昭和29年までに、柳川市、山田市、甘木市、八女市、筑後市、大川市、行橋市
が市となりました。
中間町を含む遠賀郡では、昭和25年に、遠賀郡6町村が合併して遠賀市を
誕生させる計画が浮上しましたが、実現にはいたりませんでした。
さらに、地方自治法が定める市制施行の基準が「人口5万以上」であり、
中間町の人口はこれに達していないために、単独での市制施行は難しい状況でした。
しかし昭和33年4月、地方自治法の一部を改正する法律が公布され、
昭和33年9月30日までに申請を行った自治体は、
人口3万以上をもって市になることができることになりました。
これを受けて、中間町議会は市制調査特別委員会を設置し、
市制施行に関する調査検討を行い、9月17日の町議会で、市制施行が可決されました。
まさに、タイムリミット寸前の決定でした。(以上「中間市史」参照)
そして中間市は、今年、60回目のお誕生日を迎えました。
人に歴史あり、と言いますが、
市町村にも歴史あり、です。
自分の住んでいる市町村のお誕生日、調べてみませんか?
皆さまご存じの通り、10月1日に那珂川町が市制施行し、
那珂川市が誕生しました。
これで福岡県内の市町村の内訳は、29の市と29の町と2の村となりました。
と同時に、筑紫郡が無くなりました。
筑紫郡は、明治29年(1896)の郡制施行時に、御笠郡、那珂郡、席田郡の区域をもって発足しました。
発足当初は、2町20村が属していました。
大正15年(1926)に郡役所が廃止され、郡は単なる地域区分の名称となりました。
昭和47年(1972)に筑紫郡に属していた5町のうち、筑紫野町、春日町、大野町が市制施行し、
昭和58年(1983)に太宰府町が市制施行して、筑紫郡に属する町は那珂川町だけになっていました。
そして今回、那珂川町が市制施行したため、筑紫郡に属する町が無くなり、筑紫郡が消滅した、
というわけです。単なる地域区分なので、無くなるからどうということもないのですが、
市の誕生の陰でそっと姿を消す、というのがちょっぴり切なくもあります。
当館でも、那珂川市の誕生に合わせて、掲示物や見出しの変更をしました。
そして、当館にやって来た那珂川市作成の資料第1号は、「広報なかがわ」でした。
「広報なかがわ」を含む、県内自治体の広報紙は、当館閲覧室に置いています!
早いもので10月です。
暑さがようやく一段落した、とほっとしていたら
ここ数日の朝晩の冷え込みで、あっという間に風邪を引いてしまいました・・・。
まったく油断できない季節の変わり目です。
ここ数日といえば、
ノーベル生理学・医学賞の受賞が決まった、本庶佑先生の会見を見て、
心洗われる思いがしています。
研究には、好奇心とあきらめない気持ちが大切とのこと。
どちらも、年を重ねるうちに、失いがちですが、
研究のみならず、日頃のお仕事にも生活にも大切なことだと改めて思いました。
よし!
好奇心を満タンにして、ブログのネタを探そうっと。
さて。
当館の夏の企画展は、無事に終了いたしました。
ご観覧くださった皆さま、ありがとうございました。
ご協力いただいた皆さま、ありがとうございました。
企画展開催期間中、ケース内に展示していた特大錦絵は、
しばらくエントランスに掲示しておりますので、
「見逃した」という方、「もっと近くで見たかった」という方、ぜひ御覧ください。
展示室では、9月29日(土)から常設展を行っております。
こちらもぜひどうぞ!
なお次の企画展は、来年2月からを予定しております。
そのうち、詳しい情報をお届けしたいと思います。
みなさん、くれぐれも、風邪には気をつけてくださいね!
所在地 | 〒818-0041 福岡県筑紫野市上古賀1-3-1 アクセスマップはこちら | 電話 | 092-919-6166 | FAX | 092-919-6168 | kobunsyokan@pref.fukuoka.lg.jp |
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