中間市は、福岡県の北部に位置し、北九州市と遠賀郡、鞍手郡に接しています。市の中央をちょうど南北に一級河川の遠賀川が流れていることから、市域は通称「川東」と「川西」に分かれています。北九州市側となる川東には、なだらかな丘陵を背景に閑静な住宅地と商業地などを形成し、市の人口の9割が集中しています。川西の広々とした平野部には、美しくのどかな田園風景が広がり、市の振興方針による工場団地が立地しています。明治末期から昭和初期に、この地で発見された石炭が国の重要なエネルギー源となり、炭坑のまちとして筑豊炭田の一翼を担います。人口も増え続け、明治末の4,800人から昭和34年(1959)には46,000人にまでなりました。
◆中間市の変遷
1889(明治22)年4月、市制・町村制が施行され遠賀郡岩瀬村・中間村が合併し遠賀郡長津村が誕生しました。この「長津」の村名は斉明天皇が「磐瀬」にあった磐瀬行宮(行幸の際の仮の御殿)を「長津宮」と改称したということに由来しているといわれていましたが、「磐瀬」は別の場所であるということが郷土史家たちにより明らかになりました。また、「長津」の名称は住民にもあまり浸透しておらず、「中間」の通称が広く用いられていました。
そのため、1922(大正11)年11月、遠賀郡長津村は町制施行を行い「遠賀郡長津町」となりましたが、1924(大正13)年3月、長津町を中間町と改称する認可申請が町会において満場一致で可決され、同年9月1日、35年使用していた「長津」の名を「中間」町と称することになりました。
その後、1932(昭和7)年3月1日、遠賀郡底井野村が編入し、1958(昭和33)年11月1日市制施行を行い、中間市になりました。
これらの資料はただいま開催中の企画展「福岡県 市町村の変遷」で展示中です。
◆堀川
江戸時代初めの遠賀川は、大雨の度に洪水を起こし、周囲の村々に大きな被害をもたらしました。 このような状況下、1620年初代筑前藩主黒田長政は、遠賀川筋の中間から洞海湾へ人工の運河(堀川)を通すことで、洪水防止・かんがい用水の確保・物資の輸送が可能になるという理由から遠賀川の築堤とともに堀川の開削を計画しました。工事は1621年着工しましたが、1623年長政の死去や藩財政の悪化等により中断することになりました。それから130年後に工事は再開され、1762年、6代藩主・継高の時代に、遠賀川からの取水口「堀川の中間唐戸」の完成をもって、堀川はついに全面開通しました。その後、1804年楠橋寿命に新たな水門を設置、洞海湾まで全長12kmの堀川運河が開通しました。1891(明治24)年、鉄道(筑豊興業鉄道、現:筑豊本線)が開通後も、筑豊炭田から若松港への石炭輸送に鉄道と共に堀川の川艜輸送が重要な役割を果たしました。しかし、鉄道の方が輸送時間が短いことや運賃が安いこと、さらに筑豊の炭鉱地帯に細かく鉄道が張り巡らされたことなどがあり、1938(昭和13)年を最後に石炭輸送運河としての役目を終えました。その後はかんがい用水路や生活用水路として役目を果たしていましたが、地盤沈下で土砂が堆積し流れが悪くなり水質汚染が問題となっていました。このため、浄化施策が様々な形で行われるようになり、少しずつ昔の姿を取り戻しています。
当館では現在、2023年企画展「福岡県 市町村の変遷」を開催中です。中間市資料以外の各市町村の合併の経緯や市制施行のための書類等も展示しています。ぜひお近くにお越しの際にはお立ち寄りください。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!