企画展も残り日数がわずかとなってきました。
大変だった準備作業の日々を、
「あの頃はワクワクして楽しかったよな~」と懐かしく思い出す今日この頃です・・。
さて、今回の企画展、錦絵もさることながら、福岡県立図書館からお借りした、
「福岡県史稿」という資料が、これまたすごくおもしろいものでした。
佐賀の乱や秋月の乱、西南戦争に関する電報綴り、事件に関する県と関係地域の戸長とのやり取り、
事件の捜査の探偵書、取調書などなど、読めば読むほど興味がつきません。
ただ、展示する上で、「文書」はなかなか悩ましい存在です。
中身を読んでもらわないと意味も面白さもわからない。
でも、古い文書は、くずし字で書かれていたり、文語体で書かれていたりして、
なかなか読みづらい。
すっきりと、わかりやすく、それでいて「文書」の持つ面白さを十分に伝える・・・
これは、公文書館における展示の大きな課題ではありますが、
せっかくブログなぞやっていますので、この場を借りまして、
展示中の文書資料をご紹介してみよう、と思います。
今回展示している県立図書館所蔵「福岡県史稿」のなかで、比較的読みやすく、
内容がわかりやすいのが、逃亡者捜索のための「人相書」です。
現代でも、指名手配犯のモンタージュ写真や似顔絵が、交番や公共の建物などに掲示されているのを
目にします。時代劇でも、高札に下手人の似顔絵を掲示している場面を見かけますが、江戸時代以来、
人相書といえば、姿かたちの特徴を箇条書きで示すのが一般的でした。
ご紹介するのは、西南戦争のさなか、明治10年3月に発生した「福岡の変」の首謀者の一人、
武部(建部)小四郎の人相書です。
西南戦争が始まると、福岡でも西郷軍に呼応して挙兵をもくろむ、越智彦四郎、武部小四郎ら
士族たちの動きが活発化し、ついに明治10年3月末、決起して福岡城を襲撃します(「福岡の変」)
が、あえなく失敗に終わります。越智彦四郎らの敗走を知った、別動隊の武部小四郎は、
逃走して身を隠します。この武部小四郎捜索・捕縛のために、福岡県は人相書を作成しました。
「福岡県史稿 福岡県暴動ニ付達書留他」の建部(武部)小四郎の人相書
人相書
士族 建部小四郎
三十四、五歳位
一、丈 高く痩たる方 (身長:高く痩せている)
一、顔 長き方 (顔:面長)
一、色 白き方 (色:色白)
一、髪 斬切 (頭髪:ザンギリ頭)
一、眼 大なる方 (眼:大きい)
一、眉 常体 (眉:普通)
一、鼻 高き方 (鼻:高い)
一、唇 常体 (唇:普通)
一、歯 掽 (歯:掽※並んでいるほどの意か)
一、音声 穏なる方 (声:穏やか)
一、宗旨
当時の人相書はだいたいこんな感じですが、逃亡時の服装や持ち物の特徴などを
記したものもあります。
それにしても。
むむ。
年の頃は三十四、五。痩せて背が高く、色白、面長、鼻が高く、短髪で、穏やかな声…。
正直、こんな人、どこにでもいそう…。
しかし、福岡上土居町に潜伏中だった武部小四郎は一ヶ月後に捕縛され、斬罪に処せられます。
現代と比較して地域コミュニティの力が強かった時代ですし、
意外と今よりは身を隠しにくかったのかもしれません。
この人相書が綴られている、「福岡県史稿 福岡県暴動ニ付達書留他」には、
他にも「福岡の変」に関する興味深い資料が多く、丁寧に読んでいくと、
当時福岡を騒がせた事件の詳細が浮かび上がってきます。
「福岡県史稿 諸方電報綴」では、当時この事件に関して、中央政府や近県知事たちと通信した
電報が残っており、そのスピード感に満ちたやり取りからは、ニュースを見ているような臨場感を
味わうこともできます。
また、福岡県公文書「辞令原簿」には、この福岡の変の鎮圧に参加した巡査たちの
負傷の様子が記載され、通史では「決起したものの失敗に終わった」と
簡単に描かれる福岡の変の断片が、被害者を通して垣間見えますし、
また地元紙「筑紫新聞」も多くの紙面をさいて、「福岡の変」について報じています。
人相書も含め、事件と同時代のこうした文書資料を丹念に読み解くことで、
通史では数行で片付けられる事件の骨組みに肉付けをすることができます。
文書資料は、一見とっつきにくいけれど、
仲良くなれば、いろんなことを教えてくれる、魅力的なツンデレさんなのです。
あ。
人相書は、秋月の乱に関しても展示していますので、展示が終了する前に見に来てくださいね!