◆はじめに
現在、当館で開催している特別展「ふくおか あの日あのとき1972年 ~50年前、「町」が「市」になりました~」で展示している筑紫野市の紹介です。前回紹介した小郡市と同じく、筑紫野市も今年市制施行50周年を迎えました。
さまざまな記念イベントにくわえ、11月には市制施行50周年記念誌も発行されました。
◆筑紫野市の地勢
筑紫野市は福岡県の中央部やや西に位置し、東西約16キロメートル、南北約14キロメートルで、総面積は87.73平方キロメートルあります。
市域は中央部が細くくびれたような形状をしており、市のホームページでは“蝶が羽を広げた姿”にたとえられています。
そして市の中央部には平坦な土地にはめずらしい分水嶺があります。これによって市内を流れる河川のうち御笠川水系は博多湾へ、そして宝満川水系は有明海へとそれぞれ注いでいます。
◆筑紫野市の歴史
筑紫野市の歴史を眺めると、古くは三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)を出土した原口(はらぐち)古墳や、貴重な装飾古墳である国指定史跡・五郎山(ごろうやま)古墳が注目されます。
中世から戦国期にかけては、武将同士の戦の拠点となる山城(やまじろ)が各地に設けられました。現在、筑紫野市には博多見城(はかたみじょう)や柴田城(しばたじょう)など、13ケ所の山城跡が確認されています。
そして江戸期になると、日田街道(ひたかいどう)の二日市宿(ふつかいちしゅく)、長崎街道(ながさきかいどう)の山家宿(やまえしゅく)や原田宿(はるだしゅく)が宿場町として栄え、この頃から現在につながる町の原型がかたちづくられて行きました。
◆筑紫野市の公文書
筑紫野市から当館に移管された資料は、令和4年12月10日現在、公文書1,431冊、行政資料143冊となっています。ここでいう行政資料とは、行政の事績を広報・普及するため、公文書を分かりやすく加工し刊行した資料のことです。
これらの中からいくつかご紹介します。 最も古いものがこちら、明治21(1888)年の『野取図 立明寺(のとりず りゅうみょうじ)』という資料です。野取図は、土地の地番、所有者、面積等を記載した地籍簿に当るもので、これは立明寺地区の土地についての記録です。
次に大正期の公文書から『武蔵財産区(区会)事績(むさしざいさんくくかいじせき)』を紹介します。
筑紫野市と言えば二日市温泉が有名ですが、こちらはその二日市温泉を保有する武蔵財産区の大正3年度の決算および大正4年度の予算資料です。
財産区というのは、自治体内の一部地域が山林、沼地、温泉、漁業権などの財産を有している場合、その財産の保全・利用・処分等を行うために置かれる法人格の団体で、管理者は自治体の首長になります。現在では、財産区は特別地方公共団体に分類され、総務省の調査によると全国に3900余りが存在しています。
資料の最後に報告として、「温泉貸附金」のことばが見え、貸付けた相手が「渡邊與三郎(わたなべよさぶろう)」氏となっています。この方は、明治期に福岡市への帝国大学誘致や市内電車運行に尽力し、今も福岡市天神のメインストリート「渡辺通(わたなべどおり)」にその名を残す「渡邊與八郎(わたなべよはちろう)」氏の御子息にあたる方と考えられます。
他に、軍事演習で疲れた兵隊さんたちに対しては「入浴料半額」という措置が取られ、大盤振る舞いの気風の良さも見て取れます。
行政資料から1点、『西鉄筑紫駅列車銃撃事件の記録』を紹介します。これは昭和20(1945)年8月8日、終戦間近の西鉄大牟田線筑紫駅付近で起こった、米軍機による西鉄電車銃撃事件についての記録です。
この事件に関しては、これまでにも西鉄関係者によって残された記録や、銃撃で被弾した駅の待合所を保存する取組み、そしていくつかの出版物、等々を通じて何度か注目を集めてきました。
今回は、アメリカ合衆国国立公文書館に残されていた、ガンカメラによって撮影された銃撃の瞬間を記録したフィルムが発見されたことから、これまでの記録・情報・証言の整理・再検証を行い、「筑紫野市文化財調査報告書」の1冊として刊行されたものです。
戦後70年を経て、当時の瞬間を切り取った映像が発見されたことも衝撃的ですが、それとともに、記録が残ること、記録が残されることの重要性を改めて考えさせられる資料ではないでしょうか。