続きです。
「主基斎田記念館のゆくえ 2」にも書きましたが、
開館当時の〈主基斎田記念館〉には、
主基斎田事業で使用された農機具や道具、衣裳などが陳列されていました。
そのころの記念館内部の様子は、「主基斎田記念館開館記念絵はがき」によって、
わずかながら知ることができます。
![](https://kobunsyokan.pref.fukuoka.lg.jp/blog/wp-content/uploads/2018/12/c412619b464737f697b59d227b1ec352.png)
記念館全景(開館記念絵はがきより)
![](https://kobunsyokan.pref.fukuoka.lg.jp/blog/wp-content/uploads/2018/12/03cf770f911d8100aa9493303d475148.png)
陳列室その1(開館記念絵はがきより)
![](https://kobunsyokan.pref.fukuoka.lg.jp/blog/wp-content/uploads/2018/12/75ba6ea65483e5c47b119f03ff43b0e9.png)
陳列室その2(開館記念絵はがきより)
絵はがきの写真があまり鮮明ではないのですが、
衣裳を着たマネキンや、斎田地の模型、様々な標本らしきものが並んでいることがわかります。
陳列品の詳細については、
昭和6年に福岡県が発行した『昭和主基斎田記録』に、
昭和5年6月1日現在の「主基斎田記念館陳列品目録」が掲載されているので、
それで確認することができます。
この目録から、いくつか挙げてみますと、
・戸畑石油発動機(4馬力)
・半田式渦巻ポンプ
・ミノル親玉号脱穀機
・ナショナル精米機(昇降器共)
・荷車
・深見犂(すき)
・塩水選桶
・耕牛装身具 1揃
・麻製磨袋
・捕虫網
・唐櫃(からびつ)
・八乙女舞服装(付属品共)
・絵はがき(抜穂式記念品)
・主基斎田収納米製菓子(昭代)
・主基斎田稲株標本
・大礼使事務官衣冠束帯 1揃
・太田主作業服(冠付)
・奉耕者式服・作業服
などなど、
主基斎田事業に関するあらゆる資料が収蔵・陳列されていたことがわかります。
しかし現在、主基斎田事業に関するモノ資料として残っているのは、
斎田地である早良郡脇山村(現・福岡市早良区脇山)に残された米や箸などの記念品や衣裳、
当館が所蔵する写真帳や、そのほかフィルムなど、ごくわずかです。
記念館に収蔵されていた品々は、どうなったのでしょうか?
『福岡県立農業試験場百年史』(昭和54年3月発行)によれば、
「第2次世界大戦の結果、陳列品のごとくは遺憾ながら逸散し、辛じて建物のおもかげを残すのみである」
と記され、記念館の建物は残ったものの、
中の陳列品は、戦後の混乱のなかで散逸してしまったとのことです。
平成27年度に当館が開催した企画展「昭和の主基斎田~福岡県の記録から~」の事前調査で、
筑紫野市在住のある男性からお話をうかがう機会がありました。
この方は、戦中から戦後にかけて、上古賀の農事試験場で働いておられた経験をお持ちです。
その方の話では、
・〈主基斎田記念館〉はとても立派な建物だったが、中では展示などはされていなかった。
・戦時中、記念館は物資倉庫として利用されており、軍から航空用燃料などを預かっていて、
見張りも立っていた。
・戦後すぐは、記念館にはいろんな人が出入りしていたので、収蔵品もその時に持ち出されたのではないか。
ということでした。
昭和17年3月ごろに二日市に移築された〈主基斎田記念館〉は、
戦時中ということもあり、資料の陳列などは行わず、
戦後の混乱に乗じて収蔵物を散逸してしまった、ということで間違いはなさそうです。
中身を失った〈主基斎田記念館〉は、その後も35年あまり二日市は上古賀の地に建っていましたが、
昭和56年の農業試験場の再移転の際に取り壊されてしまいました。
長くなりましたが、最後です。
企画展「昭和の主基斎田~福岡県の記録から~」を企画した当初、
まさか当館と主基斎田とが記念館を通して結びつくなど、まったく想像もしていませんでした。
しかし、準備段階から、いろいろな人や場所との出会いに恵まれ、
「ご縁」を感じる場面がたくさんありました。
今から考えると、当館の場所にかつて建っていた〈主基斎田記念館〉の、
「展示をして、昭和の主基斎田のことをみんなに伝えてくれ~」という声なき声に導かれて、
展示を〈させられた〉のではないか、
と、季節外れのオカルトチックな妄想がわいてくるのです…。