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今回は川崎町(かわさきまち)の紹介です。
◆川崎町の位置◆
◆川崎町の地理◆
川崎町は福岡県の中央やや東寄りのところに位置し、南北が約12.6キロメートル、東西が約4.9キロメートル、総面積は約36.1平方キロメートルです。周囲を田川市(たがわし)、大任町(おおとうまち)、添田町(そえだまち)、嘉麻市(かまし)にとり囲まれ、おおよそ南部は山岳地、北部が平野部という地形です。
町内には添田町を起点とする中元寺川(ちゅうがんじがわ)が流れ、途中で安宅川(あたかがわ)、木城川(きしろがわ)、櫛毛川(くしげがわ)を合流して田川市へと抜け、最終的に遠賀川(おんががわ)に合流しています。
◆川崎町の成り立ち◆
明治以降、川崎町は以下のように変遷します。
1887(明治20)年:安真木村(あまぎむら)、川崎村(かわさきむら)が誕生
1937(昭和12)年:安真木村と川崎村が合併(村名は川崎村)
1938(昭和13)年:町制施行(8月15日)により、川崎町が誕生
こちらは合併を可決した際の安真木村議会の記録です。
『昭和11年~昭和12年村会議事録』昭和12年度 川崎町公文書(1-2-0015047)
川崎村との関係を『密接不離』であるとし、合併について『最早(もはや)必然』『村百年の大計』とまで言い切り、「待ってました!」と言わんばかりの意気込みがうかがえます。
そしてこちらは町制への移行を可決した町議会の議決書です。
『昭和13年町会事績』昭和13年度 川崎町公文書(1-2-0015048)
『最近ニ於テハ商取引其他ニ於テ川崎町ト記載シ往復セルモノ多ク』とあります。正式にはまだ『川崎村』であるにも関わらず、世間では勝手に『川崎町』と称して商取引が行われ、しかもそれが頻繁であったことが分かります。なんとも大らかな時代です。さしずめ現代なら、「詐称」とか「フライング」とか言われてSNSで一気に叩かれる炎上案件かも知れません。
次は1968(昭和43)年の30周年記念行事の記録です。
『町制施行30周年事績』昭和43年度 川崎町公文書(1-2-0014809)
『NHKのど自慢』の収録も行われました。当時の正式タイトルは『NHKのど自慢素人演芸会』で、テレビ放映も始まってはいたようですが、行事表を見る限り川崎町での収録はラジオで放送されたようです。
そして2023(令和5)年には町制施行85周年をお祝いしています。
『広報かわさき 2023年度』令和5年度 川崎町行政資料(2-4-0021396)
◆川崎町の今昔◆
川崎町は炭鉱の町として栄え、明治以降の日本の近代化や第二次世界大戦後の経済復興に貢献してきました。しかし昭和30年代以降、石炭から石油へとエネルギー革命が進むと同時に経済基盤に大きな打撃を受け、財政的に苦しい状況となりました。国の旧産炭地復興支援や過疎化対策の補助金も活用しながらその後は農業と観光を軸に据えた地域活性化を目指しています。
『平成10年度 産炭地域開発就労事業費補助金実績報告書』平成10年度 川崎町公文書(1-2-0044585)
『福岡県観光推進協議会(観光地づくり川崎町)』平成20年度 福岡県公文書(1-1-0028982)
『福岡県観光推進協議会(観光地づくり)』平成21年度 福岡県公文書(1-1-0031228)
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もどうぞお楽しみに。
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は、嘉麻市(かまし)です。
◆嘉麻市の地理
嘉麻市は、面積135.11平方キロメートル、福岡県のほぼ中央に位置し、北は飯塚市(いいづかし)に、東は田川市(たがわし)、川崎町(かわさきまち)、添田町(そえだまち)に、西は桂川町(けいせんまち)に、南は朝倉市(あさくらし)、東峰村(とうほうむら)にそれぞれ接しています。
市の南部は古処(こしょ)・屏(へい)・馬見(うまみ)連峰、南東部は戸谷ヶ岳(とやがたけ)、熊ヶ畑山(くまがはたやま)などの山林で、そこを源とする遠賀川(おんががわ)をはじめとする河川が南から北に流れ、市の北部及び北西部に流域平野を形成しています。
また、市全体の約72%が森林と耕作地で、多様な生態系を保護する山林や河川流域に広がる生産緑地などの、水と緑が豊富な地域です。
◆嘉麻市の誕生
平成18(2006)年3月27日、嘉穂南部の1市3町、山田市(やまだし)・碓井町(うすいまち)・稲築町(いなつきまち)・嘉穂町(かほまち)が合併して、嘉麻市(かまし)が誕生しました。合併前の各市・町の歴史については、市・町誌(史)に詳しく記載されています。
『山田市誌』昭和60年度 嘉麻市(旧山田市)行政資料(2-4-0015179)
『碓井町誌』昭和57年度 嘉麻市(旧碓井町)行政資料(2-4-0015181)
『稲築町史 上・下巻』平成15年度 嘉麻市(旧稲築町)行政資料(2-4-0015183、2-4-0015184)
『嘉穂町誌』昭和58年度 嘉麻市(旧嘉穂町)行政資料(2-4-0015182)
◆合併以前の市町村公文書
公文書館には合併前の市町村の公文書も保存されています。当館が所蔵する最も古い嘉麻市の公文書は、『明治9年 地租取調帳 村控』(上山田村)となっています。また、『戦災者名簿』、『引揚者台帳』など、戦争に関連する資料も残されています。
『明治9年 地租取調帳 村控』明治9年度 嘉麻市(旧上山田村)公文書(1-2-0003898)
『昭和21年起 戦災者名簿 山田町』昭和21年度 嘉麻市(旧山田町)公文書(1-2-0003880)
『昭和30年度 引揚者台帳』昭和30年度 嘉麻市(旧大隈町)公文書(1-2-0003807)
◆石炭産業の記録
嘉麻市の石炭産業の歴史は古く、旧市町史(誌)等に詳細に記録されており、当時の写真も多く残されています。また、石炭産業と切り離せない鉄道に関する記録も残されています。
『きらり!やまだ”ありがとう山田市”人と、自然とITと。山田市閉市記念誌』平成17年度 嘉麻市(旧碓井町)公文書(1-2-0038391)
『碓井町誌』昭和57年度 嘉麻市(旧碓井町)行政資料(2-4-0015181)
『稲築町史 下巻』平成15年度 嘉麻市(旧稲築町)行政資料(2-4-0015184)
『昭和27年 國鉄油須原線陳情書綴 市長室企画係』昭和27~33年度 嘉麻市(旧山田市)公文書(1-2-0003868)
◆平成の合併の記録
平成16(2004)年11月5日、嘉穂南部1市3町による「嘉穂南部1市3町合併協議会」が設置され、平成17年1月には、新市建設計画が作成されました。
新市名は公募され、1市3町が属していた郡名でもあった「嘉麻」と決定されました。令和2(2020)年3月には新庁舎が開庁しました。
『嘉穂南部1市3町 合併協議会だより 山田市・稲築町・碓井町・嘉穂町 創刊号』平成16年度 嘉麻市(旧碓井町)公文書(1-2-0038389)
『嘉穂南部1市3町 新市建設計画』平成17年度 嘉麻市(旧碓井町)公文書(1-2-0038388)
『山田市・稲築町・碓井町・嘉穂町 合併のあゆみ -新「嘉麻市」誕生までの記録-』平成18年度 嘉麻市(碓井町)公文書(1-2-0038396)
『広報嘉麻 2020年度』令和2年度 嘉麻市行政資料(2-4-0014031)
◆義務教育学校の新設
令和5(2023)年4月、嘉麻市に3つの義務教育学校が開校しました。子どもたちは新しい学び舎で学校生活をスタートさせました。
『広報嘉麻 2023年度』令和5年度 嘉麻市行政資料(2-4-0021395)
◆カマデジ
嘉麻市のホームページを開くと、「カマデジ」という文字が目を引きます。「カマデジ」こと「嘉麻市デジタル推進計画」は、「デジタル・人・自然が融合するまち、嘉麻」をビジョンとして、令和6(2024)年2月に策定されました。
広報紙の表紙を飾るのは嘉麻市のマスコットキャラクター、ゆるキャラ係長の「かまししちゃん」です。
『広報嘉麻 2024年度』令和6年度 嘉麻市行政資料(2-4-0024308)
◆嘉穂アルプス
馬見山(うまみやま)(978m)・江川岳(えがわだけ)(861m)・屏山(へいざん)(927m)・古処山(こしょさん)(860m)からなる通称「嘉穂アルプス」は、平成28(2016)年度には九州で2例目となる日本山岳遺産に認定されました。嘉穂アルプスは、見所も豊富で、特別天然記念物にも指定されているツゲの原始林の他にオオキツネノカミソリ、ニシキキンカメムシなどの貴重な生態系が保全されている自然豊かな山域です。
嘉麻市の土地の約6割を占める森林。森林を守り、森林を活かすために、様々な取り組みが行われています。
『福岡県嘉麻市市勢要覧 2019』平成30年度 嘉麻市行政資料(2-4-0012005)
『広報嘉麻 2024年度』令和6年度 嘉麻市行政資料(2-4-0024308)
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今回は粕屋町(かすやまち)の紹介です。
◆粕屋町の位置◆
◆粕屋町の地理◆
粕屋町は福岡県の北西部に位置しており、西側が福岡市(ふくおかし)、北側が久山町(ひさやままち)、東側が篠栗町(ささぐりまち)と須恵町(すえまち)、そして南側が志免町(しめまち)、というように1市4町に隣接しています。
粕屋町の面積は、14.13平方キロメートルで、町内には駕与丁池(かよいちょういけ)をはじめとする大小のため池が点在し、多々良川(たたらがわ)と須恵川(すえがわ)が町内を東西に流れています。
◆ワンポイント粕屋町◆
①一般国道201号、福岡都市高速道路4号線、九州自動車道が通り、JRの篠栗線(福北ゆたか線)と香椎線(かしいせん)が長者原駅(ちょうじゃばるえき)を交点に十文字に交差して走っています。また福岡空港にも近いなど、交通の利便性の高い町です。
『第5次粕屋町総合計画』平成27年度 粕屋町行政資料(2-4-0005518)
➁住民人口が着実に増え続けており、市制施行条件の5万人に達するのも間近と言われています。
③福岡県のホームページで紹介されていますが、県内で最も高齢化率の「低い」自治体です。(https://www.pref.fukuoka.lg.jp/contents/koreisyajinko20240401.html)
④かねてから、京都の妙心寺(みょうしんじ)に伝来する国宝の梵鐘に、古代7世紀末ごろの糟屋政庁の長官・舂米連廣國(つきしねのむらじひろくに)という名前が刻まれていることが知られていました。2013(平成25)年から発掘が開始された阿恵官衙遺跡(あえかんがいせき)が、まさにその時代の政庁跡であることが明らかになり、古代の役所の位置とその長官の氏名が判明するという、全国的にも極めて珍しい事例となりました。
『粕屋評衙 阿恵遺跡』平成27年度 粕屋町行政資料(2-4-0005633) ※「郡(こおり)」という行政区画が用いられる以前の、「評(こおり)」という表記が使われていた時代の遺跡です。
◆粕屋町の歴史◆
(1)「優美なる歴史を閉じ」て合併
明治以降、粕屋町は以下のような2度の合併を経て現在の姿になりました。
1889(明治22)年 近隣の村々が合併し、大川村(おおかわむら)と仲原村(なかばるむら)が誕生
1957(昭和32)年 大川村と仲原村が合併して粕屋町が誕生
『市町村の配置分合』昭和30年度 福岡県公文書(1-1-0024670)
ただ合併協定書を見る限り「優美なる歴史を閉じ」「時代の趨勢と国策に従い」などの表現があり、自発的な合併というより国や県からの勧奨に従った、ある種の諦めムードが漂っているようにも感じられるのは深読みでしょうか。
『市町村の配置分合』昭和30年度 福岡県公文書(1-1-0024670) ※ 協定書の部分です。
(2)粕屋町の広報誌
粕屋町が発行している広報誌は、粕屋町誕生の1957(昭和32)年から1973(昭和48)年12月までが『粕屋町だより』というタイトルで、それ以降1974(昭和49)年1月から現在までは『広報かすや』となっています。
タイトルが変わっても号数は継承しており、途中若干の欠号はあるものの、第1号から今月(令和6年9月)の第765号まで、そのほとんどが当館に保存されています。
『粕屋町だより其の一 第一号(昭和三二年八月) 第二六号(昭和三八年一月)』昭和37年度 第1号 粕屋町公文書(1-2-0007546) ※ 傷みが激しいですが貴重な1枚です。公務員以外の一般個人の氏名等が記載された部分はマスキング(非表示処理)しています。
『広報かすや 昭和46年5月1日発行~昭和53年12月1日発行』昭和49年1月1日 第157号 粕屋町公文書(1-2-0007548) ※ タイトル変更のご挨拶が掲載されています。公務員以外の一般個人の氏名等が記載された部分はマスキング(非表示処理)しています。
(3)粕屋町の町制施行記念誌
粕屋町では5~10年ごとに合併・町制施行の記念誌を発行しています。実際に並べてみると、それぞれのキャッチフレーズがその時々の「町づくり」の方向性を表し、しかもそれが単なる場当たり的な美辞麗句ではなく、次の10年、次の次の10年へと着実につながる自治行政の一貫性を示していることが分かります。
①10周年
『合併10周年記念 町勢要覧』昭和41年度 粕屋町公文書(1-2-0007559)
➁15周年:のびゆく粕屋町
『のびゆく粕屋町 合併15周年記念誌』昭和46年度 粕屋町公文書(1-2-0007560)
③20周年:輝く光と田園の町かすや
『輝く光と田園の町かすや 町制施行20周年記念誌』昭和51年度 粕屋町公文書(1-2-0007561)
④30周年:語らいとふれあいのある町かすや
『語らいとふれあいのある町かすや 町制施行30周年記念誌』昭和61年度 粕屋町公文書(1-2-0007565) ※
⑤35周年:会いたい人・・歩きたい風景・・大切な想い・・心のふるさと、粕屋町
『KASUYA 町制施行35周年記念誌』平成4年度 粕屋町公文書(1-2-0007566)
⑥40周年:明日咲く、まち
『明日咲く、まち 町制施行40周年記念粕屋町町勢要覧』平成9年度 粕屋町公文書(1-2-0007567)
⑦50周年:未来へつなぐまち
『未来へつなぐまち 粕屋町制施行50周年記念誌』平成19年度 粕屋町公文書(1-2-0007568)
⑧60周年:ともに未来へ
『広報かすや 2016年度』平成28年度 10月号 粕屋町公文書(2-4-0002189)
(4)よみがえった「優美」遺伝子
1985(昭和60)年、粕屋町は町花を制定しますが、そこで選ばれたのは優美・華麗なバラと清楚・可憐なコスモスの2種でした。かつて2村の「優美なる歴史を閉じ」て誕生した粕屋町ですが、30年近くを経てその優美なる遺伝子は不死鳥のようによみがえったようです。
それにちなんで粕屋町は全国29自治体(2024年5月現在)で構成される「ばらサミット(ばら制定都市会議)」に加盟し、2005(平成17)年には第14回サミットを主催しました。またこれを機に駕与丁公園(かよいちょうこうえん)内にバラ園を整備し、毎年5月に「バラまつり」を開催しています。コロナ禍で中止となった時期もありましたが、今年2024(令和6)年には第20回を数え、その優美なる歴史を刻み続けています。
『第14回 ばら制定都市会議(ばらサミット)』平成17年度 粕屋町行政資料(2-2-0000475)
① ➁
①『広報かすや綴 2004(H16).4月号~2009(H21).3月号』平成17年度 5月号 粕屋町公文書(1-2-0007557)
➁『広報かすや 2024年度』令和6年度 5月号 粕屋町行政資料(2-4-0024318)
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
8月30日(金)から2024年度福岡共同公文書館企画展「皇室と福岡県」を開催しています。
今回は、当館所蔵の文書の中で「皇室」と「福岡県」の関わりや行幸・行啓・お成りの記録を通して各時代の福岡県の様子を紹介します。
〈明治〉
・福岡県の初代県知事は「有栖川宮熾仁親王」でした。
『本県に於ける有栖川宮熾仁親王(福岡藩知事)御事蹟』1980(昭和55)年度
行政資料(2-1-0006684)
〈大正〉
・皇后陛下は天皇陛下快癒祈願のために香椎宮ほか福岡県内に行啓されました。
『行啓に関する事蹟(行啓に関する書類)』1921(大正10)年度 福岡県公文書(1-1-0021170)
〈昭和〉
・戦前は多くの皇族の方が福岡にお出ましになりました。
『高松宮妃殿下・梨本宮殿下・東伏見大妃殿下御成事蹟(高松宮妃殿下・梨本宮殿下御成事蹟)』
1933(昭和8)年度 福岡県公文書(1-1-0021200)
・戦後、天皇陛下は九州を巡幸されました。
『天皇陛下行幸録』1951(昭和26)年度 行政資料(2-4-0016734)
〈平成〉
・第45回国民体育大会(とびうめ国体)には、天皇・皇后両陛下をはじめ宮様方がお出ましになりました。
『第45回国民体育大会報告書』1990(平成2)年度 行政資料(2-1-0006724)
〈令和〉
・新元号「令和」の典拠は約1300年前に太宰府の地で行われた「梅花の宴」を記した『万葉集」の序文といわれています。
『太宰府市市制施行40周年記念誌』2022(令和4)年度 行政資料(2-4-0021527)
このように、各時代の「皇室」と「福岡県」の文書を展示いています。会期は2024年8月30日(金)~12月15日(日)で、観覧は無料です。皆様の公文書館へのご来館をお待ちしております。
また、Web展示も同時に開催しておりますので、HPをご確認ください。
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は、遠賀町(おんがちょう)です。
◆遠賀町の地理
遠賀町は、一級河川遠賀川(おんががわ)の河口近くの西岸に位置し、東西に4キロメートル、南北に6キロメートルの水と緑に囲まれた自然豊かな町です。北は芦屋町(あしやまち)、東は遠賀川を境に水巻町(みずまきまち)、南東は中間市(なかまし)、南は鞍手町(くらてまち)、南西は宗像市(むなかたし)、西は岡垣町(おかがきまち)に接しています。
◆町制施行60周年
遠賀町は、令和6(2024)年4月1日に町制施行60周年を迎えました。
『広報おんが 令和6年4月号』令和6年度 遠賀町行政資料(2-4-0024322)
◆遠賀町の誕生
昭和4(1929)年4月1日、浅木村(あさぎむら)と島門村(しまとむら)が合併し遠賀村(おんがむら)が誕生しました。
『議事録(昭和3年~昭和4年)』昭和4年度 遠賀町公文書(1-2-0005519)
『市町村の廃置分合』昭和4年度 福岡県公文書(1-1-0024538)
その後、昭和10年代の石炭景気によって、遠賀村の人口は合併時の2倍近くまで増えて、昭和39(1964)年4月1日に町制を施行、遠賀村(おんがむら)から遠賀町(おんがちょう)になりました。
『議決書』昭和39年度 遠賀町公文書(1-2-0005332)
◆町章の選定
遠賀町の町章は、遠賀町の頭文字である「オ」をデザイン化したもので、昭和47(1972)年に公募によって選ばれました。
『町章制定事蹟』昭和47年度 遠賀町公文書(1-2-0005374)
◆昭和28年 遠賀大水害
昭和28(1953)年6月、九州北部を中心に梅雨前線を原因とする集中豪雨による水害が発生しました。当時の遠賀村でも記録的な豪雨により大きな被害が出ました。紙芝居を作り子どもたちにわかりやすく伝えるなど、令和の今も遠賀大水害は語り継がれています。
『昭和28年.6月大水害に関する事蹟』昭和28年度 遠賀町公文書(1-2-0005382)
『広報おんが 令和2年8月10日号 語り継ぐ遠賀大水害』令和2年度 遠賀町行政資料(2-4-0014053)
◆平成の合併
遠賀郡4町の合併については、平成15年7月に「芦屋町・水巻町・岡垣町・遠賀町合併協議会」が設置され全26回の協議会が開催されましたが、平成16年10月に協議会は解散、合併は白紙となりました。
『新市建設計画・遠賀郡将来構想等』平成16年度 遠賀町公文書(1-2-0042368)
『合併協議経過(芦屋町・水巻町・岡垣町・遠賀町合併協議会①)』平成16年度 福岡県公文書(1-1-0041468)
『合併協議経過(芦屋町・水巻町・岡垣町・遠賀町合併協議会②)』平成16年度 福岡県公文書(1-1-0041469)
◆おんがのおと
令和3(2021)年5月にリニューアルされた「広報おんが」の表紙タイトルは「おんがのおと」。ちょっと気になるタイトルの由来を探してみました。
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遠賀町の記録であり、見ている人への手紙であり、皆さんの心に留めてほしい、遠賀町を知ってほしいという思いを込めたタイトルにしました。「遠賀ノート」という意味だけでなく、「遠賀の音」という意味も込めています。「うれしい」「たのしい」「ここちよい」、そんな「まちの音」が聴こえてくるような広報紙をお届けします。(『広報おんが 令和3年5月号』より引用)
『広報おんが 令和3年5月号』令和3年度 遠賀町行政資料(2-4-0016619)
※福岡共同公文書館の閲覧室では、県内60市町村の広報紙を見ることができます。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今回は大牟田市(おおむたし)の紹介です。
♦ 大牟田市の位置 ♦
大牟田市は福岡県の最南端に位置しています。西に有明海を望み、北はみやま市、東は熊本県南関町(なんかんまち)、南は熊本県荒尾市(あらおし)と隣接しており、これらの自治体と熊本県長洲町(ながすまち)を含めて『大牟田都市圏』という呼び方もされています。現在はここに柳川市(やながわし)も加わって、大牟田市を中心とした『有明圏域定住自立圏構想』を推進しているところです。
『広報おおむた』2021年6月1日号 大牟田市行政資料(2-4-0016195)
♥ 大牟田市の歴史 ♥
大牟田市は、現在の市域になるまでに以下のような変遷をたどりました。
1889(明治22)年 町村制施行により大牟田町が発足
1917(大正6)年 市制施行により大牟田町から大牟田市へ
1929(昭和4)年 三川町(みかわまち)を編入
1941(昭和16)年 玉川村(たまがわむら)、駛馬町(はやめまち)、三池町(みいけまち)、
銀水村(ぎんすいむら)を編入。
その後、昭和の大合併、平成の大合併ともに異同はなく、2017(平成29)年に市制施行100周年を迎えています。
まだ大牟田市に編入前の玉川村の文書の中に、三池炭鉱の経営に尽力した団琢磨に関連する文書がありました。亡くなった後に、本人の「遺志」として遺族から奨学金寄附の申出があったようです。
『昭和十年以降願伺指令綴 三池郡玉川村役場』昭和16年度 大牟田市公文書(1-2-0012549)
1941(昭和16)年の町村合併の際には詳細な事務引継書が作成されています。画像は銀水村の部分ですが、備品目録には「火鉢」「キリ」など、時代を感じさせる用具が並んでいます。
そして「ホチッキス」とは…? 現在ホッチキスと呼ばれている物の単純な誤記なのでしょうか、あるいは当時はそう呼ばれていたのでしょうか、はたまた全く違う現在に継承されていない謎の事務機器なのでしょうか…。
『昭和16年4月町村合併事務引継書』昭和16年度 大牟田市公文書(1-2-0011894)
『年表と写真で見る大牟田市の100年(『新大牟田市史』別冊)』平成29年度 大牟田市行政資料(2-4-0007415)
♣ 大牟田市と石炭産業 ♣
大牟田と言えばやはり石炭と三池炭鉱を抜きにしては語れません。大牟田における採炭の歴史は古く、江戸時代中期にまで遡ります。そして明治初期に富国強兵政策を推し進める政府のもと、一旦は官営の三池炭鉱となりますが、その後大牟田町が発足する1889(明治22)年には官営から三井に払い下げられています。
以後大牟田は石炭資源を基盤に重化学工業都市として発展し、1957(昭和32)年には市制施行40周年の記念事業として『大牟田産業科学大博覧会(石炭博)』を開催するまでに至りました。
『市政だより』31号(昭和32年9月25日) 大牟田市行政資料(2-2-0001018)
しかし同時にこの頃から石炭にも陰りが見え始め、やがて高度経済成長期を迎えると共にエネルギーの主役は石炭から石油へと移り、石炭採掘や石炭を基盤とする産業は衰退へと向かいます。
そして1997(平成 9)年、奇しくも大牟田市市制施行80周年の年に三池炭鉱は閉山し、日本の近代化や戦後復興を支え続けたその歴史に幕を下ろすこととなりました。
『広報おおむた』772号(平成9年4月15日号) 大牟田市行政資料(2-2-0001020)
『グラフふくおか』484号(平成9年4月号) 福岡県行政資料(2-1-0006035)
♠ 石炭産業からの脱却 ♠
基幹産業であった石炭産業の衰退に合わせ、大牟田市では石炭依存からの脱却を企図し、財政再建計画の策定や有明海沿岸部の福岡県内・熊本県内の自治体との県境を越えた連携(有明沿岸サミット)等を模索しました。
『有明海地域総合開発協議会』昭和62年度 福岡県公文書(1-1-0002699)
平成時代には構造改革特区制度を活用した、石炭産業から「環境・リサイクル産業」という新たな基幹産業へと産業構造の転換を試みる「エコタウン事業」を推進、さらには、高速道路、鉄道、空港、港湾というあらゆる輸送手段へのアクセスが60分以内という地理的優位性を活かした工場団地「大牟田テクノパーク」を造成し、企業誘致に力を入れるなど地域経済の再浮揚を目指しています。
『構造改革特別区域(大牟田)3』平成15年度 福岡県公文書(1-1-0009451)
『大牟田テクノパーク』平成8年度 福岡県公文書(1-1-0038450)
また、市制施行100周年を目前に控えた2015(平成27)年には、三池炭鉱の残存施設である「宮原坑(みやのはらこう)」「三池炭鉱専用鉄道敷跡(みいけたんこうせんようてつどうじきあと)」「三池港(みいけこう)」の3施設が「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界文化遺産に登録されました。かつての基幹産業の歴史と栄光に再びスポットライトが当たり、新しい観光資源としての魅力に期待が集まっています。
『大牟田市勢要覧』平成29年度 大牟田市行政資料(2-4-0012188)
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は、大任町(おおとうまち)です。
◆大任町の地理
大任町は福岡県の北東部に位置し、田川郡のほぼ中央にあります。町の中央を南北に彦山川(ひこさんがわ)が貫流する低地帯で、周囲は丘陵地域となっています。広さは、東西3.6km、南北7.2km、総面積14.26k㎡です。
東は赤村(あかむら)、北は香春町(かわらまち)、西は田川市(たがわし)・川崎町(かわさきまち)、南は添田町(そえだまち)と接しています。
西日本最大級の規模を誇る道の駅「おおとう桜街道」のほか、季節ごとに咲く美しい花が魅力のまちです。
『広報おおとう 2023年度』2023年5月号(2-4-0021391) 花のまち おおとう フォトリポート
◆大任町の誕生
明治22(1889)年の町村制施行に伴い、今任原村(いまとうばるむら)と大行事村(だいぎょうじむら)が合併して大任村(おおとうむら)が成立しました。昭和35(1960)年、大任村が町制施行して大任町となりました。
公文書館が所蔵する最も古い大任村の資料は明治34(1901)年度の大任村の村會議事録で、会議録や明治34年度の予算書などが綴られています。
『明治三十四年度 村會議事録 大任村役場』大任町公文書(1-2-0033523)
◆石炭産業遺跡群(鉄道関係)
旧国鉄油須原(ゆすばる)線(仮称)は漆生(うるしお)駅と油須原駅を結び、石炭を苅田(かんだ)港へ輸送する目的で大正年間に計画されました。
昭和32年に着工、炭鉱閉山に伴い生活路線に変更し、昭和41年漆生駅から豊前川崎(ぶぜんかわさき)駅まで部分開業しました。
しかしながら採算が見込まれないことなどから、昭和45年に工事中止、昭和60年代に全線廃止となりました。大任町区間では開業に至らないまま、路床等の撤去後、旧添田線跡地と併せて町道等公共用地として利用されています。古河炭鉱跡地、福田(ふくた)トンネル、野原越(のばらごし)トンネル、彦山川橋梁等が石炭産業の遺跡として残っています。
大任町にはかつて数多くの炭鉱が存在し、町の基幹産業でしたが、その多くは残されておらず、この鉄道遺跡は大任町の経済産業の貴重な遺跡となっています。
『篠栗線・油須原線鉄道建設促進についての陳情書(昭和36年11月22日)』福岡県公文書(1-1-0006709)
◆花としじみの里
「しじみ」が自生する大任町では、しじみを環境保護とまちおこしのシンボルと位置づけています。平成7年には「しじみ育成保護条例」が制定され、彦山川流域でのしじみの保護が行われています。水辺公園では、昭和62年から毎年10月に「しじみ祭り」が開催されています。町のイメージキャラクターは、しじみの大ちゃんです。
『第4次大任町総合計画』大任町行政資料(2-2-0001334)
左『花としじみの里大任町 新庁舎・コミュニティセンター』大任町行政資料(2-2-0001333)
右『広報おおとう 2023年度』2023年12月号(2-4-0021391) 第37回しじみ祭り
◆神幸祭
神幸祭は五穀豊穣や家内安全などを祈願する初夏の祭りです。4月下旬から5月上旬にかけて、各地域ごとに色とりどりのバレンで飾りつけられた山車やみこしが舞い、町中がにぎわいます。『大任町誌』に祭事に関する詳しい記述があります。
左『大任町誌 ふるさと大任 【下巻】』大任町行政資料(2-4-0010154)
右『広報おおとう 2019年度』2019年6月号(2-4-0011996) 神幸祭
◆災害の記録
昭和28年6月、九州地方北部を中心に梅雨前線を原因とする集中豪雨による水害が発生しました。当時の大任村の水害対策本部の日誌や、土木工事に関する事跡が公文書として残されています。
『昭和廿八年七月 日誌(大任町水害対策本部)』大任町公文書(1-2-0033551)
『昭和二十八年災害單独事業の綴 田川郡大任村役場』大任町公文書(1-2-0033526)
『昭和二十八年六月 大任中学校災害復旧の綴 大任村役場』大任町公文書(1-2-0033502)
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
「公文書でめぐる ふるさと福岡」、今回は大川(おおかわ)市の紹介です。
◆◆ 大川市の位置 ◆◆
◆◆ 大川市の地勢 ◆◆
大川市は福岡県の南西部に位置し、北は久留米(くるめ)市、東は大木(おおき)町、南は柳川(やながわ)市、そして西側は筑後川(ちくごがわ)を隔てて佐賀県と隣接しています。
市域の大部分は筑後川下流左岸の三角州地帯で、そこに用水路、排水路、貯水池など様々な機能を有するクリーク(堀)が網の目のように広がっているのが特徴です。
下記の絵図は、現在の大川市一木(ひとつき)の明治17(1884)年当時のクリーク(堀)の様子を示したものです。
●『川口村官有地一件綴(明治9~17年)』明治17年度(1-2-0002795)
現在大川市役所には「クリーク課」という部署が存在し、用排水路の整備・管理、土地改良事業などの業務を行っています。
◆◆ 大川市の沿革 ◆◆
昭和29(1954)年4月1日、大川町・大野島(おおのじま)村・川口(かわぐち)村・木室(きむろ)村・田口(たぐち)村・三又(みつまた)村の6町村が合併して大川市が誕生しました。
以下は合併以前の各々の町村の公文書です。
① ➁ ③
④ ⑤ ⑥
①『大正4~5年 大川町議会会議録』大正5年度(1-2-0002635)
➁『村会決議録(明治29年以降)』明治31年度(1-2-0002710)
③『明治44年 川口村議会議事録』明治44年度(1-2-0002804)
④『大正14年 木室村議会議事録』大正14年度(1-2-0002614)
⑤『明治34年~明治37年 田口村議会議事録』明治37年度(1-2-0002583)
⑥『遺族年金弔慰金請求書受付発送簿(三又村)』昭和28年度(1-2-0002923)
平成の大合併の時期には大木町との合併協議会も設けられましたが、実現には至りませんでした。
●『新市建設計画ダイジェスト版 5部』平成16年度(1-2-0002218)
◆◆ 大川市あれこれ ◆◆
💚家具・木工
大川と言えばやはり何と言っても家具・木工産業が有名です。毎年「大川木工まつり」が開催され、令和5年にはに72回目を迎えました。
●『市報おおかわ 2023年10月』令和5年度(2-4-0021389)
こちらは昭和30年代当時の大川木工指導所(現在の福岡県工業技術センターインテリア研究所)の家具設計図集です。
●『設計図集』昭和36年度(1-1-0004659) レトロな雰囲気が魅力的です。
💚筑後川昇開橋(ちくごがわしょうかいきょう)
国の重要文化財に指定されている「昇開橋」は、もともとは国鉄佐賀線の鉄道橋梁「筑後川橋梁(ちくごがわきょうりょう)」として建設されたものでした。
●『大川市市勢要覧2020』令和元年度(2-4-0015029)
国鉄佐賀線関連の文書、柳河(柳川)・大川間の工事に関する事績です。
●『佐賀線鉄道関係書類』昭和6年度(1-2-0002829)
平成21(2009)年には文化庁指導のもと、保存修理工事が行われました。
●『筑後川昇開橋保存修理委員会事務局会議』平成21年度(1-2-0043767)
💚古賀政男(こが まさお)
一般的に考えて、芸術・芸能に関することはなかなか公文書として残りにくいものですが、大川が生んだ昭和期を代表する作曲家古賀政男氏に関するものが残されています。古賀氏による時計塔の寄贈を紹介する『市報おおかわ』です。
●『市報おおかわ 1977年3月』昭和51年度(2-4-0008799)
💚甘味 vs 辛味
美しく愛らしい見た目と、甘味と酸味の絶妙なバランスが人気のイチゴ「あまおう」。大川市はその「あまおう」の主要な生産地のひとつです。また、その正反対のどっ辛調味料の開発にも挑戦し、「大川ペッパー」の創出に成功しています。
① ➁
①『市報おおかわ 2016年1月』平成27年度(2-4-0000015)
➁『市報おおかわ 2021年10月』令和3年度(2-4-0000015)
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は、うきは市です。
◆うきは市の地理
うきは市は福岡県の南東部に位置し、朝倉市、久留米市、八女市、大分県日田市と接しています。南に耳納連山(みのうれんざん)を抱き、北に「筑紫次郎」と称される筑後川(ちくごがわ)が流れる自然に恵まれた地域です。
耳納連山を源流とする巨瀬川(こせがわ)、小塩川(こじおがわ)、隈上川(くまのうえがわ)が市内を流れ、筑後川に注ぎ込んでいます。市域は、筑後川の南に広がる平坦部、平坦部と山間部との間にある山麓部、耳納連山に属する山間部に区分されます。平坦部には肥沃な水田地帯、山麓部には果樹地帯が形成され、山間部は棚田などを含む森林となっています。
◆うきは市誕生
昭和26(1951)年、御幸町が山春村、大石村及び姫治村を編入するとともに浮羽町へと町名を変更しました。昭和30(1955)年には吉井町、江南村、福富村、千年村及び船越村の一部が合併して吉井町が生まれました。
平成17(2005)年3月20日、浮羽町と吉井町が合併して「うきは市」が誕生します。福岡県内26番目の市で、平成の大合併としては県内4番目の合併となりました。平成15年4月に、2町によって設置された法定協議会の記録が残っています。
『広報うきは』平成17(2005)年度 うきは市行政資料 (2-2-0000492)
『合併協議会関連事蹟』平成15(2003)年度 うきは市公文書 (1-2-0009703)
公文書館には、現在のうきは市の公文書だけではなく、合併前の吉井町・浮羽町の公文書、さらにさかのぼって明治・大正・昭和の各村の公文書が保存されています。
『古文書M20~26(自明治二十年至同廿六年役場事務引継書)』明治26(1893)年 うきは市公文書 (1-2-0045260)
◆伝統的建造物群保存地区
うきは市には、文化庁が選定した伝統的建造物群保存地区が2地区あります。景観行政団体として「うきは市景観計画」(平成23年3月)を作成、伝統的建造物の保存だけではなく活用を進めながら、歴史の伝承や文化の向上、地域活性につなげています。
『景観計画策定事業』平成23(2011)年度 うきは市公文書 (1-2-0049519)
【筑後吉井(ちくごよしい)】平成8(1996)年12月10日選定
江戸時代、有馬藩の城下町久留米と天領日田を結ぶ豊後街道の宿場町として栄えたうきは市吉井町。町屋や土蔵が連続する町並みと、豊かな緑に包まれた屋敷や社寺建築、さらに吉井の経済基盤を支えてきた河川や水路などが一体となって歴史的風致を形成しており、筑後地方の商業都市として、特色ある歴史的景観を伝えています。平成8(1996)年に県内で初めて、文化庁の「伝統的建造物群保存地区」に選定されました。その町並みを背景に、平成5年から「筑後吉井おひなさまめぐり」が行われています。第32回の今年は、令和6(2024)年2月11日(日)~3月20日(水)に開催が予定されています。
『浮羽地域振興計画推進1』平成11(1999)年度 福岡県公文書 (1-1-0003835)
『筑後吉井おひなさまめぐり』平成27(2015)年度 うきは市公文書 (1-2-0046844)
【新川田篭(にいかわたごもり)】平成24(2012)年7月9日選定
新川地区及び田篭地区には、湧水や豊かな水系によって発達した棚田が集落と渾然一体となって残っています。国の重要文化財に指定されているくど造り民家「平川家住宅」をはじめとして、伝統的な茅葺民家が残り、棚田や山林に取り囲まれた、昔ながらの山村集落の景観を見せています。平成10(1998)年には棚田を守る大切さを都市住民に実感してもらいながら保全を図る取り組みとして、「棚田オーナー制度」がスタートしました。平成11(1999)年には新川地区の葛篭(つづら)の棚田が農林水産省の「日本棚田百選」に選定され、平成12(2000)年には、「全国棚田サミット」を星野村と共同開催するなど、棚田を中心とした地域振興が行われています。
『景観計画策定事業(新川・田篭地区文化的景観調査中間報告書)』平成21(2009)年度 うきは市公文書 (1-2-0045290)
『中山間ふるさと・水と土保全対策事業』平成12(2000)年度 福岡県公文書 (1-1-0004314)
◆森林セラピー
「森林セラピー」とは、ストレスホルモンの減少や血圧の低下など、心身への健康維持・増進等の効果が科学的な証拠に裏付けされた森林浴のことです。この森林セラピーに適しているとして特定非営利活動法人森林セラピーソサエティが認定した場所を「森林セラピー基地」といいます。福岡県内では、うきは市、八女市、篠栗町、豊前市の4市町が、森林セラピー基地として認定されています。
うきは市は市内の森林が持つリラックス効果が実証され、平成20(2008)年4月に北部九州で初めて森林セラピー基地として認定されました。市内には、石積みされた棚田の景観が美しい「つづら棚田の散歩道コース」と、水辺の空気が心地よい「巨瀬の源流の散歩道コース」の2つの認定セラピーロードがあります。
『福岡県観光推進協議会(観光地づくり)(うきは市)』平成22(2010)年度 福岡県公文書 (1-1-0034667)
◆とびうめ国体
「とびうめ国体」(第45回国民体育大会)は、平成2(1990)年に福岡県で開催されました。浮羽町ではカヌー競技、吉井町では銃剣道競技が行われました。うきは市から移管された資料には、ビデオテープ、写真のネガ、レコード、国体の旗、ステッカー、ワッペンなどがあり、様々な形で町の歴史が残されています。
『第45回国民体育大会レコード(とびうめ国体音頭・とびうめ国体の歌)』平成2(1990)年度 うきは市行政資料 (2-4-0019411)
◆豪雨災害の記録
平成24(2012)年7月の九州北部豪雨により、うきは市は甚大な被害を受けました。災害の経験・記憶を風化させないため、また、今後の教訓として後世に伝えるため、『平成24年7月九州北部豪雨災害記録誌(冊子版・簡易版)』が発行されました。簡易版は、うきは市防災サイト(平成24年7月九州北部豪雨の災害記録誌を発行しました / 防災サイト / うきは市 (city.ukiha.fukuoka.jp)でも見ることができます。
『平成24年7月九州北部豪雨災害記録誌』平成26(2014)年度 うきは市行政資料 (2-4-0000071) ※冊子版
『平成24年7月うきは市の災害記録 九州北部豪雨DOCUMENT』平成26(2014)年度 うきは市行政資料 (2-4-0000070) ※簡易版
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福岡共同公文書館では、福岡県と県内58市町村(政令市である北九州市、福岡市を除く)の歴史公文書(歴史資料として重要な公文書)や行政資料を、収集、整理、保存し、皆様に提供しています。
常設展示では、戦後から今日までの「福岡県」を当館の公文書や行政資料で振り返るとともに、所蔵する歴史公文書や行政資料をもとに県内の市町村を順番に紹介しています。現在(令和5年11月10日~令和6年3月24日予定)紹介している市町村は、うきは市・宇美町・大川市・大木町・大任町・大野城市です。
お近くにお越しの際は、ぜひ福岡共同公文書館にお立ち寄りください。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
春日市は東西4キロメートル、南北5.34キロメートル、面積が14.15平方キロメートルと非常にコンパクトで、福岡都市圏のほぼ中央部に位置しています。福岡市の中心部まで約10キロメートルという便利なロケーションで、そのため昭和40年代以降、福岡都市圏の住宅都市としての魅力を発揮してきました。
春日市は一昨年(令和4年)市制施行50周年を迎えました。今回は、前身である「春日町」の誕生から現在までの歴史の中で注目しておきたい文書を少し紹介します。
明治22(1889)年、春日、上白水、下白水、小倉、須玖の5村が合併し、春日市の前身である「春日村」が誕生しました。
その後、昭和28(1953)年に町制施行により「春日町」となります。
『町制施行関係書』昭和27年度(1-2-0006857)
「春日町」としての第1号の告示、町議会招集を告げる内容です。
『告示原本(S25~35年度)』昭和35年度(1-2-0006871)
昭和38(1963)年には、町政施行10周年を記念して「町章」が制定されました。広く町民に案を募り、入選作品をもとにデザインが決定されました。この「町章」は市制施行後も引き継がれ、現在は「市章」となっています。
『昭和38年 町章関係事績綴』昭和38年度(1-2-0006858)
昭和47(1972)年には、市制施行により「春日市」が誕生しました。
『市制施行関係書』昭和46年度(1-2-0006860)
市制施行5周年を記念して、昭和52(1977)年に「市の木」「市の花」が選定されました。それを報告する広報紙『市報かすが』の記事ですが、これは通常の紙で保存されたものではなく、マイクロフィルム撮影された資料をプリントアウトしたものです。
公文書というとどうしても「紙」の文書を想像してしまいますが、こうしたマイクロフィルムという形態で保存されたものも存在します。
『昭和39年~昭和56年 広報誌(マイクロフィルム№2)』昭和56年度(2-2-0001064)
昭和59(1984)年、春日市は全国で初めてとなる『個人情報保護条例』を制定、施行しました。この画期的な条例の実現は、情報公開条例と個人情報保護条例の制定を要望する市民からの請願を契機としたものでした。
この事実は40年近くを過ぎた今もなお、一般財団法人地方自治研究機構のホームページで紹介され、著名な法学者・堀部政男氏の「我が国におけるプライバシー保護策の歴史の中で、画期的なものであると評価できる」という文章が添えられています。 (http://www.rilg.or.jp/htdocs/img/reiki/017_privacyprotection.htm)
『議会請願書』昭和56年度(1-2-0006908)
『昭和57年~平成4年 広報誌(マイクロフィルム№3)』平成4年度(2-2-0001065)
平成13(2001)年、『出前トーク「市長と語る」』がスタートしました。「地方の時代」「協働のまちづくり」というスローガンを眼に見える形にした施策で、22年を経た現在も700回を超えて継続しています。
『市報かすが 平成13年版』平成13年度(2-2-0001045)
そして市制施行50周年を迎えた今、この協働の取組みを未来へつなぐため、これまでの成果と、それを支えた各自治会の着実な活動を紹介する冊子が発行されました。
『未来へつなぐ 春日市の協働のまちづくり―春日市制50周年を記念して―』令和4年度(2-4-0021463)
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
八女市は福岡県の南部、福岡市から南へ約50キロメートルに位置し、北は久留米市、広川町、西は筑後市、南は熊本県、東は大分県に接しています。面積は482.44平方キロメートルで、総面積県内2位です。中南部は平野、北東部は森林で占められている中核都市で、市の中央部を国道3号線が南北に、国道442号が東西に走り、西端には九州縦貫自動車道が通じ、八女インターチェンジがあります。
『日本書紀』にある、「この地方に女神あり、その名を八女津媛といい、常に山中にある」という一節が、八女という地名の由来と言われています。岩戸山古墳をはじめ多くの古墳が広がり、はるか昔から人々は豊かに暮らしていました。江戸時代には八女地方の物産集積地として、政治・文化などの中心地として栄え、現在も手すき和紙・仏壇・提灯などの伝統工芸品や茶・電照菊・椎茸などの農産物も豊富です。
【沿革】
1871(明治4)年、廃藩置県により、久留米県を経て三潴県となり、その後、1876(明治9)年、福岡県になりました。1896(明治29)年、福島町を中心に八女郡が形成され、1951(昭和26)年、地域住民の強い要望により、福島町・長峰村・三河村・八幡村・上妻村が合併して、福島町の町域は拡大し、さらに1954(昭和29)年、周辺の川崎村・忠見村・岡山村(一部を除く)が編入し、八女市が誕生しました。
【市名が「八女市」に決まるまで】
1954(昭和29)年4月、八女郡福島町に川崎村・忠見村・岡山村(一部)が編入し、市制施行を行い「八女市」が誕生しました。
合併及び市制施行にあたり「市名」をどうするか問題となり、1954(昭和29)年3月12日付の書類には市名を「福島市」として県に提出しました。しかし、福島県の福島市と同じになるため、「筑後福島市」と改めて新市建設計画書は作成されていますが、隣接する八女郡羽犬塚町が八女郡水田村・古川村と合併し「筑後市」が発足することになること、市名として字画が多すぎるなどの意見がでたため再検討した結果、旧福島町住民から反対意見が出ましたが、合併協議会執行部や有識者の説得により「八女市」として発足することになりました。
【平成の合併で編入した町・村】
平成の合併により、2006(平成18)年10月1日に上陽町、2010(平成22)年2月1日に黒木町、立花町、星野村、矢部村が編入し、現在の八女市となりました。
【八女と水害】
1953(昭和28)年6月、福岡県南部の豪雨により矢部川は大洪水が起き、各地で橋の流出やダムの決壊、道路の寸断などが起こりました。旧八女郡の被害は死者27名、全壊・流出家屋154戸にもおよび、社会生活に大きな痛手を与えました。
2012(平成24)年7月、北部九州を中心に発生した集中豪雨は、観測史上最大の降雨量を記録しました。八女市でも急激記録的豪雨となり、黒木町、上陽町、立花町、星野村を中心に大きな被害をもたらしました。
そして、今年(2023年)も、7月に大雨により、上陽町を中心に各地で災害が発生しました。
現在も、一刻も早い復旧・復興に取り組んでいるそうです。
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は大野城(おおのじょう)市の紹介です。
◆大野城市の位置
大野城市は福岡市の南に隣接し、古くから博多と大宰府を結ぶ交通の要衝として栄えて来ました。 現在も国道3号や九州縦貫自動車道、福岡都市高速道路といった自動車交通の大動脈が走り、公共交通ではJR鹿児島本線と西鉄天神大牟田線が通っています。 さらに福岡空港にも近く、いにしえと同様交通の便に恵まれた環境と言えます。
◆大野城市の地勢
位置図で明らかなように、大野城市は中心部の幅が非常に細く、ひょうたん型をしています。 東北部に四王寺(しおうじ)山や乙金(おとがな)山、南部には牛頸(うしくび)山があり、緑にも恵まれています。 また市内には御笠(みかさ)川と牛頸(うしくび)川が流れ、この二つの川は瓦田(かわらだ)付近で合流してそのまま御笠川として博多湾へ注いでます。
◆大野城市の変遷
市名の「大野城」は、遠く飛鳥時代、朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)の戦いで日本軍が敗れ、唐・新羅連合軍の反撃に備えるため、大野(おおの)山(現在の四王寺(しおうじ)山)に築かれた山城「大野城」に由来しています。 近代以降の大野城市は自治体として次のような変遷をたどりました。 明治22(1889)年、村制の施行により大野村が誕生 昭和25(1950)年、町制の施行により大野町が誕生 昭和47(1972)年、市制の施行により大野市が誕生 しかし既に「福井県大野市」が存在するため、施行と同時に「大野城市」へ市名変更となりました。
◆大野城市と公文書
当館で保存している大野城市に関連する公文書・行政資料を少し紹介しましょう。
『一瀬井堰変更事績』明治44年(1-2-0026847) 明治44(1911)年、大野村長から県知事に提出された一瀬井堰改築願の事跡です。大野城市(当時は大野村)が作成した文書で当館が保存している最古のものになります。
『部落有財産統一事績』大正4年(1-2-0026848) 町村制施行後20年を経過し、一層の地方行政振興を図るために村の基本財産を精査した資料です。
『ルース住宅覚書協定書』昭和27年(1-2-0026843) 昭和26(1951)年の台風第15号(ルース台風)は各地に甚大な被害をもたらしました。そのルース台風による住宅被害者への救済措置の事跡です。
『青年学級研究集会資料 昭和28年度』(2-4-0006091) 昭和28(1953)年に「青年学級振興法」が制定され、勤労青年を対象に、一般教養や職業、家事などについて学ぶ「青年学級」がスタートしました。ご覧のように、履修内容もお遊び程度ではなく本格的なものとなっています。
ところで、表紙からも明らかなようにこの資料は大野町(現大野城市)の青年学級に関する資料ですが、しかし大野城市に残されていた訳ではありません。実は、糟屋郡志免町が保存していたものを当館に移管したものなのです。
当該自治体では散佚してしまった資料でも、何らかの事情により他自治体に残されている場合があり、それが共同公文書館に移管されることで、当該自治体もその資料の存在に改めて気付いたりすることがあります。同時に「当該自治体に資料が残ってなければ仕方がない」と諦めていた利用者も、他自治体のおかげでその資料を閲覧することが可能となります。 こういうところにも共同公文書館の存在意義を垣間見ることができます。
『大野城市市勢要覧 ~市制施行50周年記念~』令和4年(2-4-0022146)
昨年(令和4年)大野城市は市制施行50周年をむかえ、様々な記念イベントが挙行されました。
現在開催中の企画展「福岡県 市町村の変遷」でも、大野町が市に移行した事蹟や「大野城市」への市名変更理由を紹介しています。是非お立ち寄りください。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
中間市は、福岡県の北部に位置し、北九州市と遠賀郡、鞍手郡に接しています。市の中央をちょうど南北に一級河川の遠賀川が流れていることから、市域は通称「川東」と「川西」に分かれています。北九州市側となる川東には、なだらかな丘陵を背景に閑静な住宅地と商業地などを形成し、市の人口の9割が集中しています。川西の広々とした平野部には、美しくのどかな田園風景が広がり、市の振興方針による工場団地が立地しています。明治末期から昭和初期に、この地で発見された石炭が国の重要なエネルギー源となり、炭坑のまちとして筑豊炭田の一翼を担います。人口も増え続け、明治末の4,800人から昭和34年(1959)には46,000人にまでなりました。
◆中間市の変遷
1889(明治22)年4月、市制・町村制が施行され遠賀郡岩瀬村・中間村が合併し遠賀郡長津村が誕生しました。この「長津」の村名は斉明天皇が「磐瀬」にあった磐瀬行宮(行幸の際の仮の御殿)を「長津宮」と改称したということに由来しているといわれていましたが、「磐瀬」は別の場所であるということが郷土史家たちにより明らかになりました。また、「長津」の名称は住民にもあまり浸透しておらず、「中間」の通称が広く用いられていました。
そのため、1922(大正11)年11月、遠賀郡長津村は町制施行を行い「遠賀郡長津町」となりましたが、1924(大正13)年3月、長津町を中間町と改称する認可申請が町会において満場一致で可決され、同年9月1日、35年使用していた「長津」の名を「中間」町と称することになりました。
その後、1932(昭和7)年3月1日、遠賀郡底井野村が編入し、1958(昭和33)年11月1日市制施行を行い、中間市になりました。
これらの資料はただいま開催中の企画展「福岡県 市町村の変遷」で展示中です。
◆堀川
江戸時代初めの遠賀川は、大雨の度に洪水を起こし、周囲の村々に大きな被害をもたらしました。 このような状況下、1620年初代筑前藩主黒田長政は、遠賀川筋の中間から洞海湾へ人工の運河(堀川)を通すことで、洪水防止・かんがい用水の確保・物資の輸送が可能になるという理由から遠賀川の築堤とともに堀川の開削を計画しました。工事は1621年着工しましたが、1623年長政の死去や藩財政の悪化等により中断することになりました。それから130年後に工事は再開され、1762年、6代藩主・継高の時代に、遠賀川からの取水口「堀川の中間唐戸」の完成をもって、堀川はついに全面開通しました。その後、1804年楠橋寿命に新たな水門を設置、洞海湾まで全長12kmの堀川運河が開通しました。1891(明治24)年、鉄道(筑豊興業鉄道、現:筑豊本線)が開通後も、筑豊炭田から若松港への石炭輸送に鉄道と共に堀川の川艜輸送が重要な役割を果たしました。しかし、鉄道の方が輸送時間が短いことや運賃が安いこと、さらに筑豊の炭鉱地帯に細かく鉄道が張り巡らされたことなどがあり、1938(昭和13)年を最後に石炭輸送運河としての役目を終えました。その後はかんがい用水路や生活用水路として役目を果たしていましたが、地盤沈下で土砂が堆積し流れが悪くなり水質汚染が問題となっていました。このため、浄化施策が様々な形で行われるようになり、少しずつ昔の姿を取り戻しています。
当館では現在、2023年企画展「福岡県 市町村の変遷」を開催中です。中間市資料以外の各市町村の合併の経緯や市制施行のための書類等も展示しています。ぜひお近くにお越しの際にはお立ち寄りください。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
7月21日(金)から2023年の企画展「福岡県 市町村の変遷」がはじまりました。
今回は、「福岡県」が誕生してから、明治・昭和・平成の合併を経て、現在の29市・29町・2村になるまでの県内市町村の変遷を公文書で紹介しています。
1871(明治4)年7月、廃藩置県の実施により全国諸藩の制度的廃止が布告され、福岡県域では当初、豊津・千束・中津・福岡・秋月・久留米・柳川・三池の8県が成立しました。その後の統廃合の結果、福岡県・小倉県・三潴県の3県になり、さらに、1876(明治9)年再び府県の大廃合が行われ、現在の「福岡県域」が確定しました。
1889(明治22)年「市制・町村制」により、明治の大合併が行われました。県内市町村は、1888(明治21)年に2市、273町、1685村だったのが、1889(明治22)年には2市、20町、364村になりました。
昭和の大合併は、1953(昭和28)年「町村合併促進法」の施行により行われました。1953(昭和28)年10月現在、福岡県内には12市、73町、177村があり、そのほとんどが明治の大合併期以来の状態でした。そこで、福岡県では「町村合併促進協議会」を設置し、当時の250町村を87町村とする計画を立案し、その結果1956(昭和31)年12月末には、19市、68町、33村になりました。
その後、合併や市制・町制の施行により、1997(平成9)年10月1日の時点で24市、65町、8村になりました。そして、平成の大合併によって、福岡県は、現在29市、29町、2村の60市町村になっています。
今回の企画展では、各市町村の合併の経緯や市制施行のための書類等を展示しています。
ほんの一部ではありますが、明治から現在までの各市町村の変遷が分かる資料を展示しています。「この駅の名前は昔の町の名前だった」、「この交差点の名前は昔の村の名前だった」という発見があるかもしれません。
皆様の公文書館へのご来館をお待ちしております。
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は、糸田町(いとだまち)です。
◆糸田町の地理
糸田町は、福岡県のほぼ中央、田川盆地(たがわぼんち)の北西に位置する面積約8km²、人口1万人弱の町です。遠賀川(おんががわ)水系の中元寺川(ちゅうがんじがわ)と泌川(たぎりがわ)が町を貫いて北流し、町域を三分しています。
中元寺川より東、町の東部地域は標高40mほどの丘陵で、かつて筑豊炭田(ちくほうたんでん)の繁栄を担った地域は、今日では住宅団地として整備されています。また、中元寺川と泌川に囲まれた中部地域は、標高およそ30mの台地と流域平野からなり、台地上は古くから拓かれ、現在も町の中心部を形成しています。泌川の西、西部地域は関の山山地(せきのやまさんち)の東に位置し、豊かな自然と水資源を抱え、稲作、イチゴ、ミニトマト、花卉(かき)栽培などが盛んです。
◆糸田町の歴史
1887年(明治20年)、糸田(いとだ)村・大熊(おおくま)村・鼠ヶ池(ねずがいけ)村が合併して糸田村となりました。1889年(明治22年)の町村制施行によって田川郡糸田村となり、1905年(明治38年)には弓削田村川宮(ゆげたむらかわみや)の宮床(みやとこ)地区を編入、1939年(昭和14年)町制施行により糸田町となりました。1890年(明治23年)に豊国炭鉱(ほうこくたんこう)が本格的に操業を開始し、炭鉱町として発展を遂げます。第2次世界大戦後、国策による石炭増産体制がとられた中で活況を呈し、地域は石炭産業で繁栄しました。
しかし、昭和30年代後半から昭和40年代のはじめにかけて起きたエネルギー革命により、石炭から石油へと移行する中で石炭産業は崩壊し、地域社会は壊滅的な打撃を受けました。この石炭産業の崩壊は、若い労働力の激減や鉱害、失業などをもたらし、地域経済に大きな影響を及ぼしました。
そのような中、石炭六法などの国の財政措置と町独自の取組により、鉱害復旧事業による基盤整備、旧炭鉱住宅の改良、企業誘致、工場用地や分譲団地の造成、役場や住民センターの建替えなど、町の整備が進められてきました。
2019(平成31年)には町制施行80周年を迎え、「たくさんの人に愛される みんなのふるさと糸田町」(「第5次糸田町総合計画後期基本計画」より)を目指して、さらなる町の活性化に向けた取組が進められています。
町の歴史や民俗、文化等については、『糸田町史』(2-2-0000594)に詳しく書かれています。
◆平成の大合併の記録
田川市および田川郡では10 市町村による合併を模索しましたが、金田町、赤池町、方城町が離脱、のちに3町は合併し、福智町となりました。3町を除く7市町村(田川市、川崎町、香春町、添田町、糸田町、大任町、赤村)は、2003(平成15年)9月に「たがわ7市町村任意合併協議会」を設置し協議を重ねましたが、法定協議会設置には至りませんでした。
当時の記録が、歴史公文書として公文書館に保存されています。
『たがわ7市町村任意合併協議会事績綴』(1-2-0036047)
『平成15年度市町村合併に関する住民説明会』(1-2-0036043)
◆種田山頭火と木村緑平
柳川市出身で糸田町に住んでいた医者・木村緑平(きむら りょくへい)は、漂泊の俳人・種田山頭火(たねだ さんとうか)を経済的かつ精神的に援助していた友人で、山頭火はたびたび糸田町を訪れていました。2人の文芸活動を記念した句碑が町内に点在しています。
『糸田町町勢要覧2009』(2-2-0000655)
◆糸田祇園山笠
糸田祇園山笠(いとだぎおんやまかさ)は、町指定文化財8号(無形民俗文化財)に指定されている300年以上続く町の伝統行事です。最大で高さ9メートル、重さ2トン以上の飾り山笠を担ぐ勇壮な祭りです。毎年5月の第2土・日曜日に行われ、今年は4年ぶりの開催となりました。
『糸田町広報 いとだ 2023年度(2023年6月号)』(2-4-0021386)
『糸田町史』(2-2-0000594)
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福岡共同公文書館では、福岡県と県内58市町村(政令市である北九州市、福岡市を除く)の歴史公文書(歴史資料として重要な公文書)や行政資料を、収集、整理、保存し、皆様に提供しています。
常設展示では、戦後から今日までの「福岡県」を当館の公文書や行政資料で振り返るとともに、県内の各市町村を紹介するコーナーを設け、県内の政令指定都市(北九州市・福岡市)を除く58市町村を順次紹介しています。現在(令和5年2月7日~7月2日)紹介しているのは、赤村・朝倉市・芦屋町・飯塚市・糸島市・糸田町です。
お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は、芦屋町(あしやまち)です。
◆芦屋町の地理
福岡県の北部に位置する芦屋町は、東を北九州市に隣接し、響灘(ひびきなだ)を望む遠賀川(おんががわ)の河口に広がる町です。町の中央部を流れる遠賀川を挟んで両極端な海岸線は、東側は奇岩景勝の磯を形成し、西側は白砂青松のなだらかな海岸となっています。
美しく豊かな自然と地域の特性を活かした、「あしや砂像展」や「花火大会」、航空自衛隊芦屋基地の「航空祭」などのイベント、そして茶の湯の名器「芦屋釜」といった魅力的な資源が数多くあります。
◆芦屋町の誕生~町制施行130周年ロゴマーク
明治22(1889)年の町村制施行により芦屋村(あしやむら)と山鹿村(やまがむら)が誕生し、明治24(1891)年に芦屋村が芦屋町となり、明治38(1905)年に芦屋町と山鹿村が合併して現在の芦屋町が誕生、令和3年に130周年を迎えました。
公募作品から選ばれた町制施行130周年のロゴマークは、130周年の「130th」を基調に、”ashiya”の頭文字「a」、芦屋町を表す特徴的な要素である町花、町木、芦屋釜や芦屋町民、太陽を組み合わせてデザインし、芦屋町が永遠(無限=∞)に発展することを表しています。隣にいるのは、芦屋町イメージキャラクター「アッシー」です。
◆芦屋海浜公園の開発
響灘に隣接した芦屋海浜公園は、海水浴場、レジャープール「アクアシアン」、広大な芝生広場「わんぱーく」などがある総合公園です。その開発に関わる資料が、公文書館に保存されています。2019年からは芦屋港の活性化も進められています。
◆「海と大河の町芦屋展~芦屋釜とまちめぐり」(福岡よかもん広場)
芦屋釜(あしやがま)は、南北朝時代頃(14世紀半ば頃)から筑前国芦屋津金屋(ちくぜんのくにあしやつかなや)(現在の福岡県遠賀郡芦屋町中ノ浜付近)で造られた茶の湯釜です。芦屋釜の里は、江戸時代初期頃に途絶えた芦屋釜の復興に取り組む施設です。
現在、福岡県庁11階のよかもん広場では、「海と大河の町芦屋展」が開催されています。会場では芦屋釜の里で製作された現代の芦屋釜を見ることができます。(2023年7月14日まで)
福岡共同公文書館では、福岡県と県内58市町村(政令市である北九州市、福岡市を除く)の歴史公文書(歴史資料として重要な公文書)や行政資料を、収集、整理、保存し、皆様に提供しています。
常設展示では、戦後から今日までの「福岡県」を当館の公文書や行政資料で振り返るとともに、県内の各市町村を紹介するコーナーを設け、県内の政令指定都市(北九州市・福岡市)を除く58市町村を順次紹介しています。現在(令和5年2月7日~7月2日)紹介しているのは、赤村・朝倉市・芦屋町・飯塚市・糸島市・糸田町です。
お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は、朝倉市(あさくらし)です。
◆朝倉市の地理
朝倉市は福岡県のほぼ中央部に位置し、九州一の大河筑後川(ちくごがわ)とその支流の水に恵まれた、緑豊かな田園都市です。市内を北西から南東に貫く国道386号線から南側に平野が広がり、北側には古処山(こしょさん)、屏山(へいざん)、馬見山(うまみやま)などの山々がそびえています。
◆朝倉市の誕生
朝倉市は平成18年3月20日、甘木市(あまぎし)・朝倉町(あさくらまち)・杷木町(はきまち)の1市2町の合併によって誕生しました。当初は、旧朝倉郡全体(1市4町2村)で構成する「甘木・朝倉市町村合併任意協議会」において合併協議が進められてきました。その後「甘木・朝倉市町村合併協議会」(1市2町2村)、「甘木市・朝倉町・杷木町合併協議会」(1市2町)と変遷、様々な議論を経て現在の朝倉市が誕生するまでの様子が、合併協議会だよりにまとめられています。
◆4つの「近い」~ここは豊かさに近いまち
「暮らし」をテーマにつくられた『朝倉市市勢要覧』(平成29年3月発行)では、「水に近い」・「食に近い」・「感動に近い」・「人に近い」という4つの視点で、朝倉市の魅力を伝えています。
◆水害の記録
朝倉市では、平成29年7月九州北部豪雨の教訓から、7月5日を「市民防災の日」と定めています。過去にも水害は繰り返されており、公文書館には昭和28年6月の大水害に関する事跡(旧大福村)等が保存されています。
福岡共同公文書館では、福岡県と県内58市町村(政令市である北九州市、福岡市を除く)の歴史公文書(歴史資料として重要な公文書)や行政資料を、収集、整理、保存し、皆様に提供しています。
常設展示では、戦後から今日までの「福岡県」を当館の公文書や行政資料で振り返るとともに、県内の各市町村を紹介するコーナーを設け、県内の政令指定都市(北九州市・福岡市)を除く58市町村を順次紹介しています。現在(令和5年2月7日~7月2日)紹介しているのは、赤村・朝倉市・芦屋町・飯塚市・糸島市・糸田町です。
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次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は、赤村(あかむら)です。
◆赤村の地理
赤村は福岡県筑豊地域の東部にあり、英彦山(ひこさん)から扇状に走った山麓に挟まれた細長い盆地で、英彦山を源流とした今川(いまがわ)が流れています。土地は肥沃で昔から良質米が生産されており、山間部一帯では、緑と清流がつくりだした素晴らしい景観に恵まれています。
◆赤村の歴史
全国の自治体で市町村名に色を単独で用いて表記するところは、唯一赤村のみと言われます。この珍しい赤村、ここではその名に秘められたストーリーをご紹介します。その昔、赤村には「吾勝山(あがつのやま)」と呼ばれた霊峰がありました。それは今、「岩石山(がんじゃくさん)」と呼ばれ、隣の添田町との境界にあります。吾勝山の東側にあたる南北に細長い平野部を「吾勝野(あがつの)」と呼んだと言い伝わりますが、時の天皇が「この南北にのびる平野は長すぎる。北と南に別けて呼ぶように」と言われ、それから「あが」と「つの」と別けて呼ばれるようになったということです。「あが」という地名は、わが国最古の歴史書「日本書紀」に登場します。同書安閑天皇二(535)年、福岡県各地に屯倉(みやけ、ヤマト王権の直轄地)を設けたとあります。この中に「我鹿(あが)屯倉」という記述があり、その推定地が赤村ではないかとされています。(赤村ホームページ「赤村の由来」より引用)
明治20年に上赤村、下赤村、山浦村が合併し旧赤村となり、小内田村、大内田村が合併し内田村となって、明治22年に旧赤村と内田村が合併して今日の赤村となりました。以降合併は行われていませんが、昭和の大合併の際に行われた協議等の事蹟が歴史公文書として残されています。
赤村の歴史や文化財については、『赤村史』及び『郷土 我鹿(あか)』に詳しく記載されています。
◆DO YOU 農?
「DO YOU 農?」は、農村体験を中心にした村民と都市住民との交流事業です。春には田植え、秋には稲刈りを中心に、年2回行われています。今年は5月20日に『第37回 DO YOU農? どろんこフェスティバル ザ・田植え』が開催予定です。昨年の様子が、『広報あか』に報告されています。
◆油須原線とトロッコ列車
油須原線(ゆすばるせん)は、戦後間もない頃、急激な発展を続ける日本を支えた筑豊の炭坑のために開発された鉄路でした。ところが、完成間近にして筑豊の炭坑は衰退期を迎え、この鉄路は実際に使用されることなくその役目を終える事となりました。
昭和30年代から40年代にかけての油須原線建設に関する事蹟が、歴史公文書として残されています。
現在は、その幻の鉄路に「赤村トロッコ油須原線」のトロッコ列車が走っており、炭坑時代の面影や赤村に残る大自然を感じる事ができます。
福岡共同公文書館では、福岡県と県内58市町村(政令市である北九州市、福岡市を除く)の歴史公文書(歴史資料として重要な公文書)や行政資料を、収集、整理、保存し、皆様に提供しています。
常設展示では、戦後から今日までの「福岡県」を当館の公文書や行政資料で振り返るとともに、県内の各市町村を紹介するコーナーを設け、県内の政令指定都市(北九州市・福岡市)を除く58市町村を順次紹介しています。現在 常設展示では、戦後から今日までの「福岡県」を当館の公文書や行政資料で振り返るとともに、県内の各市町村を紹介するコーナーを設け、県内の政令指定都市(北九州市・福岡市)を除く58市町村を順次紹介しています。現在(令和5年2月7日~7月2日)紹介しているのは、赤村・朝倉市・芦屋町・飯塚市・糸島市・糸田町です。 紹介しているのは、赤村・朝倉市・芦屋町・飯塚市・糸島市・糸田町です。
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次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
3月も残りわずかとなりました。福岡県と県内全市町村(政令市である北九州市、福岡市を除く)が共同で設置・運営する福岡共同公文書館は、福岡県の職員と市町村職員そして会計年度任用職員という職員の構成になっています。
そこで、今回「公文書でめぐる ふるさと福岡」は当館の職員さんにご自身の市町村の紹介をしていただこうと思います。
では、ここからは当館の「しょこら」がお話を聞きます。
どちらの市町村からの派遣ですか?
川崎(かさわき)町から派遣された國澤です。令和4年度に福岡共同公文書館で勤務していました。
川崎町はどんなところですか?
川崎町は福岡県の中央部にあり、福岡共同公文書館がある筑紫野市からは少し遠い場所にあります。
1937(昭和12)年に南部の安眞木(あまぎ)村と北部の川崎村が合併し、翌(1938(昭和13)年、町制施行により川崎町となりました。
昭和30年代は石炭産業で栄え、その後、産業、自然を生かした観光やすべての人にやさしい福祉のまちづくりを進めています。
「福岡共同公文書館」の印象は?
研修で以前に来たことはありますが、漠然と古い文書を保存しているといったイメージしかありませんでした。
当館に派遣が決った時はどう思いましたか?
業務内容のイメージがつかず、図書館のようなことをするのかなと思っていました。また、専門的な知識はいらないのかなと勝手に思い込んでいました。
当館ではどのような仕事をしていましたか?
総務企画班に所属していました。
主な業務は、保存されている公文書を利用されたい住民や行政職員のお手伝いをする利用業務と、公文書のことをより多くの方に知っていただくための普及啓発業務に携わり、毎月県内の市町村でパネル展を実施していました。
國澤さんは1年間の勤務でしたが、この1年で印象に残った出来事は?
昨年の11月19日に開館10周年の式典がありました。
担当業務としては、当日に配布する「福岡共同公文書館年報」の作成が大変でしたが、10周年という節目の年に働けたことは今後も忘れないと思います。
実際に働いての感想は?
4月当初は何もわからずとりあえず必死でした(笑)。
上司や他の職員の方々に助けていただく場面も多く、なんとか1年間を過ごせました。
公文書館は一般の方にはなじみがなく、どういった場所なのかわからない方がほとんどだと思いますが、後世に残す残すべき資料が保存されている貴重な施設だと1年間働いてみて感じました。
ご自身市町村のご紹介と今後の抱負をお願いします
川崎町には、川崎町リンゴ園で栽培されているリンゴや県内の有名店も出店する「かわさきパン博」などがあります。
現在、道の駅を構想中で町外からも多くの方に来ていただけるよう町の活性化に力を入れています。ほかにも、町民誰もが心も体も健康で、元気に幸せに暮らせる町「スマート・ウェルネス・シティかわさき」を掲げ、様々な事業に取り組んでおり、町民の健幸づくり及び健康寿命の延伸を推進しています
公文書館で様々なことを学ばせていただきました。ここでの経験を今後の糧として川崎町に戻っても頑張りたいと思います。
つい最近、年が明けたと思っていたのに気が付くともう3月です。日ごと暖かくなり、当館の植え込みに生えている「つくし」たちがどんどん成長しています。予想では、来週には桜も咲きそうです。春はすぐそこに来ています。
さて、当館では「開館10周年記念特別展『ふくおか あの日あのとき1972年』」を1月22日まで開催しました。2月7日からは「常設展『戦後 福岡のあゆみ』」を開催しています。戦後から今日までの「福岡県」を当館の公文書や行政資料で振り返ります。また、今回の常設展から県内の各市町村の紹介するコーナーを設け、県内の政令指定都市(北九州市・福岡市)を除く58市町村を順次紹介していきます。今回紹介しているのは、赤村・朝倉市・芦屋町・飯塚市・糸島市・糸田町です。
また、当館の歴史公文書の活用事例を紹介する、ロビー展「福岡の『連接車(連節車)』誕生80周年」は、3月31日(金)までです。
お近くにお越しの際は、お立ち寄りください。
現在、当館で開催している特別展「ふくおか あの日あのとき1972年 ~50年前、「町」が「市」になりました~」で展示している筑紫野市の紹介です。前回紹介した小郡市と同じく、筑紫野市も今年市制施行50周年を迎えました。
さまざまな記念イベントにくわえ、11月には市制施行50周年記念誌も発行されました。
筑紫野市は福岡県の中央部やや西に位置し、東西約16キロメートル、南北約14キロメートルで、総面積は87.73平方キロメートルあります。
市域は中央部が細くくびれたような形状をしており、市のホームページでは“蝶が羽を広げた姿”にたとえられています。
そして市の中央部には平坦な土地にはめずらしい分水嶺があります。これによって市内を流れる河川のうち御笠川水系は博多湾へ、そして宝満川水系は有明海へとそれぞれ注いでいます。
筑紫野市の歴史を眺めると、古くは三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)を出土した原口(はらぐち)古墳や、貴重な装飾古墳である国指定史跡・五郎山(ごろうやま)古墳が注目されます。
中世から戦国期にかけては、武将同士の戦の拠点となる山城(やまじろ)が各地に設けられました。現在、筑紫野市には博多見城(はかたみじょう)や柴田城(しばたじょう)など、13ケ所の山城跡が確認されています。
そして江戸期になると、日田街道(ひたかいどう)の二日市宿(ふつかいちしゅく)、長崎街道(ながさきかいどう)の山家宿(やまえしゅく)や原田宿(はるだしゅく)が宿場町として栄え、この頃から現在につながる町の原型がかたちづくられて行きました。
筑紫野市から当館に移管された資料は、令和4年12月10日現在、公文書1,431冊、行政資料143冊となっています。ここでいう行政資料とは、行政の事績を広報・普及するため、公文書を分かりやすく加工し刊行した資料のことです。
これらの中からいくつかご紹介します。 最も古いものがこちら、明治21(1888)年の『野取図 立明寺(のとりず りゅうみょうじ)』という資料です。野取図は、土地の地番、所有者、面積等を記載した地籍簿に当るもので、これは立明寺地区の土地についての記録です。
次に大正期の公文書から『武蔵財産区(区会)事績(むさしざいさんくくかいじせき)』を紹介します。
筑紫野市と言えば二日市温泉が有名ですが、こちらはその二日市温泉を保有する武蔵財産区の大正3年度の決算および大正4年度の予算資料です。
財産区というのは、自治体内の一部地域が山林、沼地、温泉、漁業権などの財産を有している場合、その財産の保全・利用・処分等を行うために置かれる法人格の団体で、管理者は自治体の首長になります。現在では、財産区は特別地方公共団体に分類され、総務省の調査によると全国に3900余りが存在しています。
資料の最後に報告として、「温泉貸附金」のことばが見え、貸付けた相手が「渡邊與三郎(わたなべよさぶろう)」氏となっています。この方は、明治期に福岡市への帝国大学誘致や市内電車運行に尽力し、今も福岡市天神のメインストリート「渡辺通(わたなべどおり)」にその名を残す「渡邊與八郎(わたなべよはちろう)」氏の御子息にあたる方と考えられます。
他に、軍事演習で疲れた兵隊さんたちに対しては「入浴料半額」という措置が取られ、大盤振る舞いの気風の良さも見て取れます。
行政資料から1点、『西鉄筑紫駅列車銃撃事件の記録』を紹介します。これは昭和20(1945)年8月8日、終戦間近の西鉄大牟田線筑紫駅付近で起こった、米軍機による西鉄電車銃撃事件についての記録です。
この事件に関しては、これまでにも西鉄関係者によって残された記録や、銃撃で被弾した駅の待合所を保存する取組み、そしていくつかの出版物、等々を通じて何度か注目を集めてきました。
今回は、アメリカ合衆国国立公文書館に残されていた、ガンカメラによって撮影された銃撃の瞬間を記録したフィルムが発見されたことから、これまでの記録・情報・証言の整理・再検証を行い、「筑紫野市文化財調査報告書」の1冊として刊行されたものです。
戦後70年を経て、当時の瞬間を切り取った映像が発見されたことも衝撃的ですが、それとともに、記録が残ること、記録が残されることの重要性を改めて考えさせられる資料ではないでしょうか。
当館では、2022年11月19日(土)に開館10周年の記念式典を開催しました。
主催者挨拶に始まり、筑紫野市長より祝辞をいただきました。
その後、当館の利用者である「NPO法人 福岡鉄道史料保存会」の方の「歴史公文書活用事例紹介」がありました。「福岡の『連接車(連節車)』誕生80周年というテーマで、福岡県の高度経済成長を支えた連接車(連節車)の軌跡を当館の所蔵資料の紹介を絡めながら発表していただきました。
続いて「記念講演」として、西南学院大学国際文化学部教授の宮崎克則先生による「シーボルトと『お滝さん』の恋文」と題する講演が行われました。日本地図を持ち出そうとして国外追放となった「シーボルト」のもとに届いた日本人妻「お滝さん」からの恋文を読み解き、当時の出島や長崎の様子をお話しされました。
そして、講演後は希望者にはバックヤードツアーや、特別展「ふくおかあの日あのとき 1972年」の解説会やNPO法人福岡鉄道史料保存会によるロビー展示の解説等が行われました。
10年前の開館記念式典の日、式典開始時は雨が降っていましたが、式典終了時には雨が上がっていました。今回も天気予報が二転三転し、天候がどうなるかと思いましたが、式典前に雨が降り出し、式典途中から天候も回復するという同じような空模様になりました。式典および講演会には多くの方に参加いただきありがとございました。
特別展とロビー展示は開催中です(2023年1月22日(日)まで)。
皆様のご来館をお待ちしております。
開館10周年を迎えた福岡共同公文書館をこれからもよろしくお願いいたします。
◆はじめに
今回は小郡市の紹介です。小郡市は、今年市制施行50周年を迎えました。
様々な記念行事が実施されていますが、「公文書」をテーマにした企画も実施されています。
それがこちら、市の広報紙『広報おごおり』です」。
今年の4月号の表紙で『50周年』を大きくアピールしていますが、
以後毎号『広報タイムスリップ』というコーナーを設けて、
過去の懐かしい『広報おごおり』の記事をピックアップして掲載しています。
◆小郡市の地勢
小郡市は福岡県の中央よりやや南に位置し、北は筑紫野市、東は筑前町と大刀洗町、南は久留米市、
そして西は佐賀県(鳥栖市、基山町)と境を接しています。
東西6キロメートル、南北12キロメートルで、総面積は45.51平方キロメートルあります。
市の北東部、筑前町との境には標高130.6メートルの花立山(はなたてやま)があり、
また市の中央部を南北に貫いて宝満川(ほうまんがわ)が流れています。
画像は、1975(昭和50)年、花立山一帯を「銃猟禁止区」に設定する際、
当時の佐々木保市長から提出された意見書です。
◆小郡市の歴史
近代の小郡は、1889(明治22)年の市制町村制による「小郡村」から出発します。
次いで1953(昭和28)年、町制施行により「小郡町」となり、
1972(昭和47)年の市制施行で「小郡市」というように歩みを進めて来ました。
画像(1)は、1953(昭和28)年小郡を村から町にすることについて、杉本勝次福岡県知事から
時の内閣総理大臣吉田茂宛てに送られた報告の控です。
また画像(2)は、1971(昭和46)年12月、当時の佐々木敏雄小郡町長から
亀井光福岡県知事宛てに提出された市制施行の申請書類の鑑、続く画像(3)は、
小郡町を市とする処分に関する記事を掲載した、1972(昭和47)年2月1日付の官報です。
こうした小郡市ですが、「小郡」という名称そのものは古く、『日本書紀』持統天皇3年の6月条に
「乙巳於筑紫小郡設新羅弔使金道那等」とあるのが最も古い記録とされています。
大意は、「6月24日に、筑紫の小郡で、新羅からの弔使である金道那(こんどうな)達を接待した」
ということになります。
その後、奈良時代には地方官衙(役所)も置かれ、その区域は現在「小郡官衙遺跡(おごおり
かんがいせき)」として国指定史跡となっています。
◆小郡市のイチオシ・七夕プロジェクト
小郡市では平成元年から、「七夕」をテーマとした町づくりに取り組んでいます。
市内を流れる宝満川をはさんで、織女神をまつる媛社神社(ひめこそじんじゃ=別名・七夕神社)と、
犬飼神(いぬかいしん=彦星)を合祀する稲吉老松神社(いなよしおいまつじんじゃ)があり、
それがまるで天の川を挟んだ織姫と彦星の物語のようであることに着想を得た施策です。
ランドマークやモニュメントの設置、イベントの開催、商品開発など、「七夕のさとづくり」を
推進し、併せてテーマソング『小郡 七夕サンバ』のCDを作成するという力の入れようです。
平成30年からは「七夕」を地域ブランドとして確立し、地域活性化につなげるプロジェクトも
立ち上げられました。
今後も小郡の七夕から目が離せそうにありません。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!!
福岡県の最東端に位置し、東は山国(やまくに)川を境に大分県中津(なかつ)市、西は海岸沿いに豊前(ぶぜん)市、南は上毛(こうげ)町に接し、北は波静かな周防灘(すおうなだ)に面している清流と澄んだ空気にはぐくまれ自然環境に恵まれた、北九州から50km圏内に位置する肥よくな土地の田園町です。総面積は5.68㎢で「九州で一番小さな町」です。
町名は、室町時代から呼称されてきた「吉富(よしとみ)郷」に由来して、吉富町と名付けられました。
吉富町は、江戸時代から1871(明治4)年まで中津藩にあり、廃藩置県よって中津県となりましたが、120日後に小倉県に編入されました。さらに、1876(明治9)年には小倉県も廃止され、福岡県に併合されました。1888(明治21)年の市町村制施行によって翌年に東吉富村と高浜(高浜)村が誕生しました。1895(明治29)年築上(ちくじょう)郡設置の際、当時の高浜村の山国川を境として西側の小祝(こいわい)・小犬丸(こいぬまる)を東吉富村に編入し、現在の町の姿となりました。
1940(昭和15)年吉富製薬K.K.工場創立に伴い、1942(昭和17)年5月19日町制を施行しました。
1952(昭和27)年5月3日、日本国憲法発布5周年、平和条約発効、吉富町町制施行10周年記念の式典挙行の際に、当時の町長が読んだ式辞です。
1942(昭和17)年5月19日に東吉富村が吉富町と改名し町制を施行したが、直前に勃発した大東亜戦争、そして敗戦と全国的に虚脱状態に陥っていたが、次第に復興してきたということが式辞の中で述べられています。
今年、吉富町は町制80周年です。2022(令和4)年5月19日に町勢施行80周年記念式典が開催されました。
【神様が相撲をとる町】
吉富町は「神様が相撲をとる町」として有名です。
八幡古表神社(はちまんこひょうじんしゃ)に伝わっている傀儡子(くぐつ)とそれを操っての傀儡子の舞(細男舞(くわしおのまい))と神相撲は、古表神社の長い歴史と共に特色ある民俗文化として今日まで伝承してきています。
鎌倉時代から始まり、その後、継続的に行われましたが、昭和の初期に本格的に復元され現在は、この貴重な文化財を途切れることなく後世に伝えるため細男舞・神相撲保存会により伝承活動が行われています。
奈良時代に始まる宇佐神社(うさじんじゃ)の放生会に古表船を出し、傀儡子(木彫りの操り人形)を操って細男の伎楽(ぎがく)を奏したのが起源とされ、東西10体ずつの神々によって逐次、勝ち抜き相撲、次いで東・5体の神々と西・住吉神の飛び掛り相撲、次いで東・11体と西・住吉神の押し合い相撲、最後に、東西4体ずつの女神による八乙女舞が奏されて終わります。
現在は4年に1度の放生会(ほうじょうえ)で奉納され、昼間は沖合に繰り出した船上で一部が披露され、夜は八幡古表神社境内の神舞殿で、およそ1時間半にわたって披露されます。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!!
最近、当館の資料の閲覧が増えています。
そこで、これから利用してみようと思っていらっしゃる方へ当館の資料の利用についてのご案内です。
まずは、当館の所蔵資料検索システムでお探しの資料を特定してください。
福岡共同公文書館の資料は「歴史公文書」と「行政資料」の2種類です。
ということで、行政資料と歴史公文書の中で「公開状態」が「公開」・「一部公開」ならば、 「簡易閲覧申込書」を提出 していただくと、すぐに閲覧が可能となります。
注意!
・各申込書・申請書は県文書と市町村文書で様式が異なります
資料IDが 1-1-00××××× ⇒「県文書」
1-2-00××××× ⇒「市町村文書」
そして、「公開状態」が「要審査」ならば「特定歴史公文書利用請求書」を提出していただきます。
「特定歴史公文書利用請求書」を公文書館が受理したら
このように、「歴史公文書」の閲覧できるまでに、少なくても2週間、資料の内容やその時の利用状況によりますが、長いときには半年ほどかかかってしまう場合があります。公開状態が「要審査」の「歴史公文書」の閲覧を希望される際には、閲覧までに時間がかかるということをどうかご承知おきください。
今回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」は宮若市(みやわかし)です。
福岡共同公文書館では県民の皆さんに広く公文書館のことを知っていただくため、各市町村の公共施設等をお借りして出張展示『キャラバン隊』を実施しています。
7月の『キャラバン隊』は宮若市です。令和4年7月12日(火)から26日(火)まで、宮若リコリス(生涯学習センター)でパネル展示を行います。
◆地理
宮若市は、福岡市と北九州市のほぼ中間に位置しています。市の面積は139.99平方キロメートル。市の西部から南部にかけては、西山(にしやま)、犬鳴山(いぬなきやま)、鉾立山(ほこたてやま)、笠置山(かさぎやま)などの太宰府県立自然公園に指定されている三郡(さんぐん)山系が連なり、平地や小丘陵が広く分布した盆地となっています。 また、市の中央を東へ貫流する犬鳴川(いぬなきがわ)と八木山川(やきやまがわ)に流れ込む支流があり、その流域に農地や市街地が形成され、水と緑に恵まれた地域となっています。
◆歴史
宮若市は、平成18年2月11日に、宮田町(みやたまち)と若宮町(わかみやまち)が合併して発足しました。
宮田町は、明治17年に石炭採掘が開始されて以来、ほぼ1世紀にわたり大規模なエネルギー供給地として栄え、炭鉱の閉山後は自動車関連企業が立地し、工業のまちとして発展してきました。
一方、若宮町は、美しい山々に囲まれた自然豊かな農村地域であり、農業を主な産業として、脇田温泉(わきたおんせん)や国指定史跡である竹原古墳(たけはらこふん)など文化・観光にも力を入れてきました。
◆「宮若生活」(みやわか せいかつ)
「宮若生活」は宮若市の広報紙です。生活に欠かせない「情報」に加え、毎号まちの「話題」を取り上げています。令和4年4月号では、「ありがとう母校」と題し、閉校となった小学校、そして新たに開校する小学校を8ページにわたり特集しています。
◆宮若追い出し猫(みやわか おいだしねこ)
宮若市と言えば「追い出し猫」を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
市のイメージキャラクター「宮若追い出し猫」は、地元に古くから語り継がれている伝説に由来しており、市内の至る所で追い出し猫のモチーフを目にすることができます。追い出し猫のデザインが使用された福丸(ふくまる)交流スペースは、平成29年に福岡県の屋外広告景観賞を受賞しました。
ここでは、観光によるまちづくりの軌跡をたどる資料を紹介します。
どうぞ、宮若市(宮若リコリス)での出張展示『キャラバン隊』へおでかけください。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
5月29日(日)に開館10周年記念特別展 第1弾「お金で見る福岡の時代の流れ」が終了しました。
ご来館いただいた皆様、ありがとうございました。
6月14日(火)から展示室は常設展に戻ります。
公文書館の紹介とともに、各時代の公文書の書式の変遷、戦後福岡のあゆみを紹介しています。
また、特集展示として「福岡県の水害」についての展示も行っています。
特集展示「福岡県の水害」
福岡県は先日梅雨入りしました。福岡県では近年、6~9月に毎年のように大雨や台風によって水害が起こっています。
そこで、「福岡県の水害」中でもいまだに語り継がれている昭和28年6月の水害に関する展示を「特集展示」として行い、今後の水害への注意とその備えになればと思っています。
この文書は「昭和28年度 水害見舞芳名簿 大福村役場」(朝倉市公文書)です。大福村(現在朝倉市)に送られてきた支援のための寄贈リストです。食品、衣料品、新聞紙等が婦人会等から寄贈されていることがわかります。
このほかにも、被害状況の把握のための受付簿や県が国に提出した要望書等を展示しています。
どうぞ、お気軽にお立ち寄りください。
今回は那珂川市の紹介です。
ご存じのように、福岡共同公文書館では県民の皆さんに公文書館をアピールするため、各市町村のパブリックスペースをお借りして『出張展示』を行っています。今年5月17日(火)~31日(火)には、那珂川市(なかがわし)のお世話になり、ミリカローデン那珂川で展示を行いました。という訳で、今回は公文書をもとに那珂川市の魅力の一端をお伝えします。
◆地理
那珂川市は、地理的には福岡県の西部に位置します。
東側は春日市、大野城市、筑紫野市と隣接
南側は佐賀県に隣接、
北・西側は福岡市に隣接し、福岡市の都心部から約13Km
という状況で、『福岡都市圏』の一角を占めています。
◆歴史
明治22(1889)年4月30日 町村制の施行によって
南畑村
岩戸村
安徳村 の三村が誕生
昭和31(1956)年4月1日 市町村合併促進法に基づいて三村が合併し、筑紫郡那珂川町が誕生
平成30(2018)年10月1日 筑紫郡那珂川町から『那珂川市』へ
◆ずうーっと住みたい那珂川市
那珂川市の広報紙『広報なかがわ』には「ずうーっと住みたい那珂川市」というキャッチフレーズが添えられています。このキャッチフレーズ、実はかなりの歴史があります。公文書館に保存されている『広報なかがわ』をさかのぼると、まだ「那珂川町」だった時代の平成23(2011)年4月から広報紙のキャッチフレーズとして登場したことがわかります。かれこれ11年、福岡共同公文書館よりも年長です。良いものは長持ちしますね。
◆裂田溝
「読めたらスゴイ漢字」と言っても通用しそうですが、『さくたのうなで』と読みます。那珂川市に古くからある農業用水路で、日本書紀の神功皇后紀で築造のいきさつが語られています。令和2(2020)年には、文化庁による『日本遺産』にも認定されました。
◆ヤーコン
これも「知ってたらスゴイ」の類です。日本でのヤーコンの認知度はまだまだ低いですが、外観がサツマイモに似て、フラクトオリゴ糖・食物繊維・カリウム・ポリフェノールなどを多く含む健康野菜です。那珂川市ではこれを特産品と位置付け、栽培に力を入れています。
このほかにも、那珂川市は大川市と連携して、那珂川産の木材を使い大川の家具技術で製品を作る、という持続可能な森林サイクルを構築しようと取り組んでいます。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!!
福岡共同公文書館では、昨年から市町村の施設の一部をお借りして、
「おいでよ!福岡共同公文書館へ」
という出張展示を行っています。「福岡共同公文書館」のことをいろいろな方に知ってもらうために、福岡共同公文書館はどのような施設なのか、どのような取組をしているのか、どのような歴史公文書を所蔵しているのかなどをパネルで紹介しています。
福岡共同公文書館は今年の11月で開館10周年となります。ということで、今年度は開館10周年の企画を予定しています。その第1弾として当館展示室では開館10周年特別展「お金で見る福岡の時代の流れ」を開催中です(5月29日(日)まで)。
また、出張展示「おいでよ!福岡共同公文書館へ」も開館10周年の企画の1つとして、これまで以上に多くの市町村で実施したいと考えています。
そこで、
2022年4月26日~5月10日まで 小郡市(小郡市生涯学習センターエントランスホール)
で出張展示を行いました。
そして、
2022年5月17日~31日 那珂川市(ミリカローデン那珂川)
で実施予定です。
その後も、各市町村を回る予定です。皆さんの市町村にお邪魔した際にはのぞいてみてください。
福岡共同公文書館は、福岡県と県内全市町村(政令市である北九州市、福岡市を除く)が共同で設置・運営する公文書館です。そのため、ここで働く職員は福岡県の職員3名と市町村の職員3名に会計年度任用職員9名という構成になっています。
そこで、今回「公文書でめぐる ふるさと福岡」は当館の職員さんにご自身の市町村の紹介をしていただこうと思います。
では、ここからは当館の「しょこら」がお話を聞きます。
どちらの市町村からの派遣ですか?
大川(おおかわ)市から派遣されていた野田です。私は、令和3年度に福岡共同公文書館で勤務していました。
大川市ってどんなところですか?
大川市は筑後南部にあり、派遣先の福岡共同公文書館がある筑紫野市からは少し遠いところです。
昭和29年4月1日に大川町を中心とした三又(みつまた)・木室(きむろ)・田口(たぐち)・川口(かわぐち)・大野島(おおのしま)村の6か町村が「町村合併促進法」に基づいて合併し、大川市が誕生しました。
福岡県南部の主要都市である久留米市、大牟田市や佐賀県佐賀市を結ぶトライアングルのほぼ中心に位置しています。筑後平野の中央に位置し、筑後川が市の西部を流れ、有明海に注いでいます。また、市内を延べ300キロメートルにもわたるクリークが縦横に走り、独特の景観を有しています。
当館に来る前の「福岡共同公文書館」の印象は?
「自分たち公務員が市役所で作成している公文書の中でも特に重要なものを保存している場所」、というようなぼんやりとしたイメージです。
実は公務員になったばかりの頃、新採研修で一度訪れたことがあったのですが、4年ほど前のことだったので記憶はおぼろげでした。
当館に派遣が決った時はどう思いましたか?
「自宅から場所が遠いけど通勤は大丈夫だろうか」、「公文書館で保存するような重要なものを自分が選ぶのだろうか」、「そもそも自分で仕事は務まるのだろうか」と心配事がいろいろと思い浮かびました。
ただ、今回の派遣が公務員になって初めての異動だったこともあり、決まった当初は実感が湧かない感じもありました。
当館ではどのような仕事をしていましたか?
公文書を収集・選別して保存する「文書班」に所属していました。
県内の様々な市町村から大量の公文書を運ぶために運搬業者に依頼します。一度に複数の市町村を回れるように、移管市町村の日程調整などが必要になってきます。
保存する公文書を決める「選別会議」を行ったり、保存が決まった公文書に「燻蒸」という殺虫処理を燻蒸業者に依頼したり、文書保存庫の湿度管理をしていたりと、「歴史公文書保存」のために様々な仕事をしています。
ここでは紹介しきれない小さな仕事から大きな仕事まで、まだまだたくさんあります。
野田さんは1年間の勤務でしたが、この1年で印象に残った出来事は?
宮若市で行った「歴史公文書研修会」になります。
自分が講師となって福岡共同公文書館がどういったところかや公文書移管の重要性を説明するのですが、緊張してちゃんと説明できたか不安でした。
でもその後、宮若市から公文書を移管してもらうことができて嬉しい結果となりました。
実際に働いてみた「共同公文書館」はいかがでしたか?
働きはじめた頃は仕事を覚えるのに必死で「通勤が遠い」なんてことはどうでもよくなりました(笑)。
この1年間福岡共同公文書館で仕事をするうえでわからないことばかりで、職場の皆さん、文書事務担当者の方、仕事を依頼する業者の方と、様々な人たちに本当にいろんなことを教えてもらい、そして助けてもらいました。
1年前の福岡共同公文書館に対するぼんやりとしたイメージが、実際に働くことで全く違ったイメージに変わっていることを自分の中で感じています。
ご自身市町村のご紹介と今後の抱負をお願いします
大川市は「家具」が有名なところで、木工まつりや家具展示会をやっています。「家具」といえば「大川市」をイメージする人たちも多いのではないでしょうか。
他にも「あまおう」の主要な生産地だったり、筑後川の「えつ」が有名だったりもします。
実は、「子育て」にも力を入れていて、保育料が安いといったこともあります。私がこちらに派遣されている間に子育て支援施設「モッカランド」もオープンしているんです。
今回福岡共同公文書館で働くことで、多くの人たちと出会い、知り合うことができました。
この「経験」、「繋がり」を忘れず、大川市でのこれからの仕事に活かして、自分自身と大川市どちらも成長できるよう頑張りたいと思います!
開館10周年記念特別展 第1弾「お金で見る福岡の時代の流れ」が3月25日(金)から始まりました。
今年令和4(2022)年は福岡共同公文書館が稼働して10年目にあたります。10周年という一つの区切りを迎えることから、いま一度原点を見つめ直す意味で「公文書」とは何なのかを考えてみました。福岡共同公文書館が保存する公文書は、福岡県と県内市町村の「行政運営の歴史」であり、同時に住民から集めた税金を財源として実施した「公共サービスの事蹟」でもあります。
と言う訳で今回の展示は『お金(税金)』に着目し、明治から平成にいたる時の流れの中でその時々の時代色を反映するような行政的課題に、どれほどの経費が投入されたのかを探ります。合わせて、そうした行政運営に携わる職員(公務員)に払われた人件費についても、大まかな年代ごとに歳出に占める割合で表示しました。以下にその一部をご紹介いたしますので、詳しくは是非ご来館のうえご鑑賞ください。
【各時代の公文書】
【昭和時代:初期~戦後復興期】
【昭和時代:高度経済成長期】
【平成時代】
【財政規模と人件費】
2022年1月13日(木)から2月1日(火)までの間、当館の出張展示を、柳川市(やながわし)の柳川市民文化会館ロビーで行っていました。そこで、今回お世話になった柳川市の紹介を「公文書でめぐる ふるさと福岡」でしたいと思います。
柳川市は、福岡県南部、筑後平野の西南端に位置しています。東西11km、南北12kmとなっており、北は大川(おおかわ)市、大木(おおき)町、筑後(ちくご)市、東はみやま市に接し、南は有明海(ありあけかい)に面しています。
県庁所在地の福岡(ふくおか)市まで約50km、久留米(くるめ)市まで約20km、大牟田(おおむた)市まで約15kmの距離にあり、西鉄天神大牟田線などを利用した通勤・通学圏となっています。
総面積は77.15平方kmで、地目別に見ると宅地が18.0%、農地が50.7%、その他の地目が31.3%となっています。
また、市の大部分は、古くから開拓・干拓された大小規模の干拓地が魚鱗状に広がる海面干拓地帯です。標高は0~約6mの平坦な低地となっており、0°から3°の緩やかな傾斜で有明海に向かって広がっています。
柳川地方に人が住み始めたのは、およそ2千年前と推定されています。そのころから人々は、有明海の湿地の溝を掘り、その土を盛り上げて開拓し、灌漑と排水を担うクリーク網を形成していきました。市内外に残る条里の遺構や地名はその営みの古さを物語っており、この縦横に走るクリークは柳川地方の景観の特徴です。1601(慶長6)年から田中吉政が、1620(元和6)年から立花宗茂がこの地を治め、治水・干拓事業により2000町に及ぶ干拓地の造成など、今日に伝えられている地域の社会的、物的環境の基礎が整えられました。
1871(明治4)年の廃藩置県により旧柳川藩は柳河県となり、1889(明治22)年の明治の大合併で、現在の柳川市域は山門(やまと)郡内に1町12村、三潴(みずま)郡内に3村が誕生しました。1907(明治40)年に3村が合併して大和(やまと)村に、4村が合併して三橋(みつはし)村が誕生しました。また、昭和になると1937(昭和12)年には2村が合併して昭代(しょうだい)村が誕生します。そして、昭和の大合併で1951(昭和26)年4月に1町5村が合併して柳川町となり、翌年4月に市制を施行しました。また、同年6月には三橋村が、9月には大和村が町制を施行しました。さらに1955(昭和30)年1月に、柳川市が三潴郡の昭代村、蒲池(かまち)村を編入合併しています。平成17年3月21日に柳川市、大和町、三橋町の1市2町が合併し、現在に至っています。
柳川百選
柳川市は「水郷柳川」としても知られ、市内には網目のように掘割が張り巡らされ柳川ならではの風土を作り上げています。船頭さんの歌を聞きながら、ゆったりと流れる時間をたのしむ川下りはもちろん、掘割沿いを歩くだけでも四季を通して非日常を感じることが出来るところです。そんな、柳川市は2006(平成18)年に市内の「大切にしたいもの」「誇れるもの」100点を選んだ「柳川百選」を完成しました。
2006(平成18)年の8~9月に募集し、449人から述べ628点の応募があり、その中から学識経験者などで構成する選考委員会で選定しました。
有明沿岸サミット
「有明沿岸サミット」とは福岡県の大牟田市・高田(たかた)町(現在みやま市)・大和町(現在柳川市)・柳川市・大川市と熊本県の玉名(たまな)市・岱明(たいめい)町(現在玉名市)・長洲(ながす)町・荒尾(あらお)市の有明海を囲む市・町で運営協議会を構成しています。「県境を越え、協調と連帯」を基本理念に1987(昭和62)年から毎年1回開催されています。この「有明沿岸サミット」は当館の文書で第15回(2002(平成14)年)の開催までは確認できましたが、それ以降の開催が確認できませんでした。開催等の確認ができる文書をお持ちの自治体の方、共同公文書館への移管をお待ちしております。
柳川市からは891冊の公文書が移管されています(2021年12月末現在)。また、行政資料も所蔵しています。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
1月18日(火)に、西南学院大学法学部(勢一智子教授ゼミ)の皆さんが当館を視察されました。
現地視察(参加11名)とオンライン視察(参加14名)の
”ハイブリッド” 視察 です。
これまで多くの視察を受け入れてきましたが、オンライン視察はこれまで2回、ハイブリッド視察は今回が初めてです。
研修室で公文書館の概要を簡単に説明したのち、館内の視察を行いました。
案内は、副館長、各視察先では担当職員も参加して説明。
オンラインなので、カメラ撮影者も一緒に回ります。
参加者の皆さんは公文書館を見るのは初めて。
オンライン視察の皆さんにも公文書館がどのような建物なのかわかるように、建物外観を撮影してからスタート。
荷解室、選別室、整理室、製本補修室、文書保存庫、展示室、閲覧室と、館内を一周しました。
ハイブリッド視察では、現地視察の皆さんだけでなく、オンラインで参加されている皆さんにもわかりやすく説明しなければなりません。
館内の状況や展示している歴史公文書など、カメラをズームアップしながら、公文書館を”リアル”に体験してもらえるよう工夫しました。
公文書館初体験の皆さんは、歴史公文書に実際に触れたり、副館長が出すクイズに答えたり、チャットで質問したり…。
初のハイブリッド視察で、職員もドキドキワクワク。
とても楽しい一日になりました。
コロナ禍でも、オンラインであれば自宅や学校などから公文書館を視察することができます。
少人数からの視察も受け付けていますので、ぜひ一度お問い合わせください!!
【しょこら】
こんにちは!福岡共同公文書館 マスコットキャラクターの「しょこら」です!
すっかり?恒例になった、福岡共同公文書館の出張展示。
昨年10月の筑後市に続き、今回は柳川市にお邪魔しています。
【出張展示担当職員】
みやま市、大木町、筑後市に続いて、今回は柳川市か。
なんだか、筑後地域での開催が続いているね?
【しょこら】
はわわわわ!
ぐ、偶然だよ!偶然!!!
【出張展示担当職員】
福岡共同公文書館では、出張展示に御協力いただける市町村様を募集しております!
しょこらも、いろんな市町村へ行ってみたいよね!
【しょこら】
うん!!目指せ!
県内60市町村制覇!!
【出張展示担当職員】
よし!その意気だ!!
そのままの勢いで、今回の出張展示について紹介してよ!
【しょこら】
わかった!!
今回の出張展示は、1月13日(木曜日)から2月1日(火曜日)までの間、柳川市の柳川市民文化会館ロビーで行っているよ!
【出張展示担当職員】
昨日、展示の準備にお邪魔したけど、福岡共同公文書館のある筑紫野市からは、車で1時間くらいかかったかな。
【しょこら】
そうだね。でも、筑紫野市まで行くのはちょっと遠いなぁ…っていう柳川市周辺にお住いの方は、気軽に行けちゃうんじゃないかな!
【出張展示担当職員】
これが、福岡共同公文書館のことを知ってもらえるきっかけになればうれしいね!
そういえば、今回は、どんな展示をしているのかな?
【しょこら】
今回は
『100年先に歴史とメッセージを』
をテーマに、福岡共同公文書館はどんな施設なのか、どういう取組をしているのか、どんな歴史公文書を所蔵しているのかなどについて、14枚のパネルで紹介しているよ。
【出張展示担当職員】
福岡共同公文書館の取組について詳しく紹介している広報誌「福岡共同公文書館だより」も配布してるの?
【しょこら】
うん!
パネルと公文書館だよりで、たくさんの人に福岡共同公文書館のことをもっともっと知ってもらえるとうれしいな!
【出張展示担当職員】
福岡共同公文書館を訪れてくれる人が増えるといいね!
じゃあ、最後にもう一度、今回の出張展示についてまとめてみよう!
【しょこら】
福岡共同公文書館、出張展示「おいでよ!福岡共同公文書館」
展示期間:1月13日(木)~2月1日(火)
展示場所:柳川市民文化会館 ロビー
で開催中!
【出張展示担当職員】
ありがとう、しょこら!
【しょこら】
みなさまのご来場、お待ちしております!
じゃあ、今回はこの辺で…
【2人】
ばいばーい!!
今年も残りわずかとなりました。今年も新型コロナウイルスに振り回された1年でした。
さて、今回は「公文書でめぐる ふるさと福岡」で、「添田町(そえだまち)」を紹介します。
添田町は、福岡県の東南部に位置し、南部は北部九州の最高峰英彦山(ひこさん)(1,199m)や鷹巣山(たかのすやま)(979m)を境に大分県日田市(ひたし)、中津市(なかつし)と接しています。西部は釈迦ヶ岳(しゃかがだけ)(844m)、大日ヶ岳(だいにちがだけ)(829m)、戸谷ヶ岳(とやがだけ)(702m)などの山系をもって、朝倉郡東峰村(あさくらぐんとうほうむら)および嘉麻市(かまし)、田川郡川崎町(たがわぐんかわさきまち)と接しています。
東西13㎞、南北16㎞で総面積132.20平方㎞と県下でも屈指の広大な面積を有しています。地勢は、南部を中心とした山間地帯、中部の山麓地帯によって占められ、北部の平坦地に、町の経済、文化、行政、交通等の中心となり人口の70%が集中しています。
年間の平均気温は12~14度と低く、平均雨量は2,200~2,600mmと県下最高の降雨量です。しかし、この自然条件が豊かな森林資源を育て、雄大な景観を持つ県下唯一の休養型観光地としての適地を作るとともに、山間地より流下する清流となって周辺市町村の農作物や飲料水を潤す貴重な水資源を生み出しています。 (HPより)
それでは、町制施行100周年記念誌「添田百科」を見ながら、もう少し詳しく添田町の紹介をしたいと思います。
添田町が町制施行100周年を迎えたのは2011(平成23)年です。ということは添田町が町制施行したのは1911(明治44)年です。1889(明治22)年の市制・町制施行前に添田町域に16あった村は財政基盤を固めるために合併を進め、8つの村に統合されました。1907(明治40)年に添田村と中元寺村(ちゅうがんじむら)が合併し、新たな添田村が誕生しました。その4年後の1911(明治44)年に添田村は町制施行して添田町になりました。1942(昭和17)年、添田町は彦山村(ひこさんむら)と合併しました。また、その後町村合併法の施行を機に1955(昭和30)年津野村(つのむら)と合併し現在の町域となりました。
添田警察署
1896(明治9)年行事(ぎょうじ)警察所添田屯所として設立し、翌年には屯所を廃止し添田分署となりました。その後管轄の変更等を経て1926(大正15)年に添田警察署として独立しました。1948(昭和23)年、警察制度の改正によって自治体の添田警察署となります。1954(昭和29)年に警察制度が改正され自治体警察が廃止となり、県警察が発足し、福岡県添田警察署となりました。その際に、添田町の商工会や消防団等から添田町の警察署をそのまま残してほしいという旨の陳情書が提出されています。田川郡の中でも一番面積の広い添田町は炭鉱地帯であるとともに国定公園英彦山があり近年犯罪が増加しているため、添田町に警察署を置いてほしいということでした。結果としては、警察署の位置はそのままとなりました。添田警察署は2010(平成22)年県下の警察再編成に伴い廃止され、田川警察署添田警部交番となりましたが、位置は現在も昔のままです。
英彦山
旧豊前(ぶぜん)国である添田町と大分県中津市山国町(やまくにまち)にまたがる標高1,199メートルの山です。日本三大修験道霊山のひとつとして多くの信仰を集めてきました。その昔、英彦山へ降臨し、山の神とあがめられた日胤尊(ひこのみこと)の名にちなんで、日子の山「日子山」と名付けられたとされています。それが変化して、「英彦山」と呼ばれるようになりました。
英彦山は、1925(昭和25)年に国定公園指定を受けています。それ以降は参詣者だけでなく登山やレジャー目的の観光客が増えました。
添田町からは170冊の公文書が移管されています(2021年11月末現在)。また、行政資料も所蔵しています。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
11月16日(火)に県庁へ移管予定文書の箱詰めに行きました。
県の文書は年に2回、有期文書(保存期間1年・3年・5年・10年・20年)と長期文書(保存期間永年長期、30年)が搬入されます。
今回は有期文書1916冊、段ボール329箱分の箱詰めを行いました。
保存期間を過ぎた文書の中で、担当課及び文書事務担当課が「歴史公文書」と判断した文書で、これらを公文書館へ運び、再度公文書館の職員が「歴史公文書」として保存すべきかどうかの確認をします。
担当課及び文書事務担当課が「歴史公文書」と判断した文書は1つの部屋に集められます
文書には1冊ずつしおりをはさみます
確認しながら箱に詰めていきます
箱に詰めたら準備完了!
そして、11月19日(金)に福岡共同公文書館へ搬入されました。
県文書は市町村文書に比べると、一度に運びこまれる量が多いので、これから年度末にかけて、県文書の整理に追われることになります。
【お知らせ】
コロナの影響により、本年3月以来なかなか実施できなかった出張展示も、緊急事態措置の解除により、10月26日からようやく開催することができました。
半年ぶりに市町村に出向いての展示ということで、ちょっと張り切っているところです。どうぞこれからも、福岡共同公文書館をよろしくお願いします
今回は、3月に実施した大木町に続き、筑後市中央公民館(サンコア)で、「おいでよ!福岡共同公文書館へ」と題して、少しでも多くの人に知っていただくため、出張展示を企画しました。
★展示期間 令和3年10月26日(火)~11月10日(水)
★展示場所 筑後市中央公民館(サンコア)
それでは、ここからは当館キャラクター「しょこら」がご案内します。
【しょこら】
今回の展示は、「筑後市」におじゃましています。今日は筑後市のPRキャラクター『はね丸くん』に筑後市を紹介してもらいます。
【はね丸くん】
こんにちまーる。筑後市のPRキャラクターのはね丸です。ほかに「パネコ」「ポネコ」もよろしくね。
それでは筑後市をちょっとだけ紹介しまーる。筑後市は、筑後平野の真ん中にあり、自然に囲まれた田園都市なんだよ。
九州新幹線の停車駅「筑後船小屋駅」や九州自動車道もあって交通が便利なんだ。また自然に恵まれているから、米・麦・なし・ぶどう・いちご・八女茶など栽培がさかんで、学校給食にも地元でとれたおいしい野菜やくだものが使われていまーる。
筑後市は数少ない人口増加自治体の一つで、筑後市に住む人や家族は増えているんだよ。
また、ちくごの賢人に、益田素平さんがいるけど、以前福岡共同公文書館ブログでも紹介してもらっていたね。
【しょこら】
はね丸くんありがとうございます。
公文書館では、昨年10月29日に「公文書館でめぐる ふるさと福岡~筑後市~」で『二川村会決議録八女郡二川村役場』『筑後市史 第二巻』など紹介しています。その中で益田素平さんも紹介しています。(詳しくは2020年10月29日福岡共同公文書館ブログを見てね。)
今回中央公民館(サンコア)で11月10日まで、公文書館の仕事や歴史公文書を紹介するパネル展を開催します。中央公民館(サンコア)にお立ち寄りの際は、ぜひのぞいてみてください。
【はね丸くん】
公文書館?歴史公文書?難しそう、ぼくにもわかるのかな?
]
【しょこら】
公文書館には、地域の歴史や文化を知ることができる文書が豊富にあります。パネル展ではそのこをわかりやすく紹介します。
【はね丸くん】
じゃあ、さっそく行ってみまーる。筑後市の多くのみなさんが見に来てくれたらいいなあ。
【しょこら】
ありがとうございました。ぜひお待ちしています!
早いもので今年度も残り半分になりました。
緊急事態宣言は解除になりましたが、福岡共同公文書では引き続き感染対策をおこないながら、開館していきます。
さて、今回は「公文書でめぐる ふるさと福岡」で、「筑前(ちくぜん)町」を紹介します。
筑前町は、平成17年3月22日に旧夜須(やす)町と旧三輪(みわ)町が合併して誕生した町です。福岡県の中南部、福岡市の南東約25km、久留米市の北東約20kmの場所に位置しており、面積は約67平方キロメートル、町の西南部は筑後(ちくご)平野の北端部にあたり比較的平坦な地形であり、この平地に主要集落が発達しています。人口は約2万9千人(令和3年4月現在)で、近年は福岡都市圏や久留米広域圏に近接しているという恵まれた立地条件を背景に、現在も人口増加を続けています。
米・麦・大豆の普通作を中心とした農業地帯で、黒大豆(クロダマル)、大豆(フクユタカ)、大豆加工品、いちご、米、麦、ナシ、しいたけ、木酢、なす、きゅうりなどが特産品です。
「閉町式・開町式」 (1-2-0006744) 三輪町の閉町式 「夜須町閉町式」 (1-2-0024604) 夜須町の閉町式
「閉町式・開町式」 (1-2-0006744) 筑前町の開町式(のぼり・立看板・懸垂幕の図案)
筑前町の町章は、「ち」の文字を基調に、未来に躍動する人を象徴的に表現し、赤は太陽、青は大空、緑は大地で自然豊かな筑前町をイメージしています。
また、筑前町には歴史から大自然まで沢山の見所があります。日本最古の神社といわれる「大己貴神社(おおなむちじんじゃ)」などの観光名所や、町一番の祭り「ど~んとかがし祭」や700~ 800年前から続いていると言われている「おくんち(秋季大祭)」などが開催されています。
大己貴神社とは
大己貴神社の歴史は古く、西暦200年頃(仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)9年)神功皇后(じんぐうこうごう)が、現在の朝倉(朝倉)市(秋月野鳥(あきづきやちょう))のあたりで勢力を持っていた豪族羽白熊鷲(はじろくまわし)を征伐後、新羅(しらぎ)征討を起こすにあたり兵を募ったが集まらず困っていたところ、大神社(または大三輪社(おおみわのやしろ)と記載)を建て、太刀や矛を奉納したところ、兵が集まったと『日本書紀』に記載されています。また、延喜式によると日本最古の神社の一つとと数えられ、地元では「おんがさま」と呼ばれて崇敬されています。
「栗田八幡宮 大己貴歳入歳出決議書類」 「1-2-0006363」
羽白熊鷲についてはこちらに説明があります。
「夜須町の民話と伝説」 (2-1-0020709)
筑前町からは535冊の公文書が移管されています(2021年9月末現在)。また、約50冊の行政資料を所蔵しています。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
タイトル:「行政資料の活用法 ~「官報」~」
当館では、歴史資料として重要な価値を有する特定歴史公文書のほかに、国や都道府県、市町村の地方公共団体などが発行した出版物、また各機関の資料に基づき作成された民間の出版物等の「行政刊行物(当館では、これらを「行政資料」と言っています)も、収集しています。
この「行政資料」の中で、今回は、「官報」を紹介します。
官報とは、法律や政令、条約等の公告を国民に広く周知するための機関紙です。公的伝達手段として重要な役割を果たしており、内閣府が休日を除き毎日発行しています。
令和2年度に福岡県議会図書室から、1963(昭和38)年1月~2010(平成22)年3月までの 1037冊(1冊に約1カ月分が収録)が移管され、当館の行政資料として登録されました。
その中から、福岡県に関係のあるものや、私たちの生活に関わっている記事を何冊かご紹介します。
・当館に移管された中でいちばん古いのは、1963(昭和38)年1月の官報です。
1963(昭和38)年2月に「北九州市」が誕生することを記念し、(門司・小倉・若松・八幡・戸畑の5市を合併し1963(昭和38)年2月10日に発足)1月の官報では、郵政省の「北九州市発足記念の特殊通信目附印と十円郵便切手発行する件」が告示されたという記載があります。期間は「昭和38年2月10日~2月16日」と限定され、写真のような日附印(消印)が使用されました。
・1988(昭和63)年12月の官報で、法律108号により「消費税法」が公布されています。
消費税は、少子高齢化の進展に伴う社会保障の安定財源確保等のため、長年議論され、1990(平成元)年4月、日本で初めて導入されました。当初3%であった税率が5%、8%と引き上げられ2019(令和元)年10月より10%となっています。2020(令和2)年度、国の一般会計の税収は60兆8216億円で、そのうち消費税が20兆9714億円で税収全体の34.5%を占め、基幹税の一つとなっています。
・また翌年の1990(昭和64)年1月7日に、昭和天皇がご逝去され、皇位の継承が行われることに伴い、元号が改められることになりました。
政令1号により「元号を改める政令」が公布され、その元号は「平成」と改められ、内閣告示第6号により、その読み方は「へいせい」であると告示され、翌日から「平成」が始まりました。
このように官報には、私たちの生活に密接に関わる、政府や各府省からの公布文や、地方公共団体からの告知などが掲載されており、官報をひも解くことで、日本や、お住まいの地域の移り変わりを知ることができます。
「官報」は、保存庫にあるので利用の際は当館職員にお声掛けください。1階の閲覧室に行政資料を配架しておりこれらについては、自由に閲覧していただくことができます。また、「官報」同様、閲覧室にない行政資料については、「行政資料閲覧申込書」に記入していただくことで、閲覧可能となっておりますので、ぜひご利用ください。
昭和の大合併が進んでいた昭和29年、東郷(とうごう)町、赤間(あかま)町、吉武(よしたけ)村、河東(かとう)村、南郷(なんごう)村の5町村と神興(じんごう)村の一部が合併し、旧宗像(むなかた)町が誕生しました。翌年には、神湊(こうのみなと)町、田島(たしま)村、池野(いけの)村、岬(みさき)村の4町村が合併し、旧玄海(げんかい)町が誕生しました。
昭和52年に、旧宗像町の人口が5万人を突破し、昭和56年に旧宗像市が誕生しました。
その後、地方分権や少子高齢化の進展への対応などの社会全体の流れや、それぞれの市町村の特徴と資源を生かしたまちづくりを進めるため、平成15年に旧宗像市と旧玄海町が合併し、新しい宗像市が誕生しました。平成17年には旧大島(おおしま)村と合併し、現在の宗像市となっています。
北九州市と福岡市の両政令指定都市の中間に位置し、北を除く3方向を山に囲まれ、玄界灘(げんかいなだ)に大島、地島(じのしま)、沖ノ島(おきのしま)、勝島(かつしま)を有しています。また、市の中心部には、水源でもある釣川(つりかわ)が流れ、玄界灘に注いでいます。
市内を東西に横断するJR鹿児島本線や国道3号および国道495号により福岡市・北九州市への交通アクセスが充実し、住宅団地や大学、大型商業施設などが相次いで進出しました。これに伴い、急激な都市化が進み、生活環境や都市基盤が整備され、教育や文化、子育て支援などが充実し、人口減少時代に突入している現在においても、人口を維持し続けています。
宗像市には
世界遺産「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」があります。
日本列島と朝鮮半島を結ぶ海域に位置する沖ノ島では、古来、航海安全の祈りが捧げられ、崇拝されてきました。祭祀跡からは、約8万点もの奉献品が出土しています。立ち入りを許さない厳格な禁忌は、500年間にも及ぶ古代祭祀の跡をその後1000年以上、手つかずの状態で守り伝えてきました。
「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」は、沖ノ島に宿る神への信仰を起源とする宗像三女神をお祭りする宗像大社三宮(沖津宮(おきつぐう)、中津宮(なかつぐう)、辺津宮(へつぐう))、遥か彼方に沖ノ島を望む大島の沖津宮遙拝所(おきつみやようはいじょ)、信仰の伝統を築いた人々が眠る新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群で形成されています。古代東アジアで行われた活発な対外交流の時期に遡る航海安全のための信仰は、日本固有の自然崇拝思想の原初的な形態を残し、その後の祭祀行為や信仰の意味が変容するものの、現代まで一貫して宗像地域の人々によって継承されてきました。このことが世界に例のない物証として顕著な普遍的な価値を持つと評価され、平成29年7月にユネスコ世界文化遺産に登録されました。
世界遺産登録までには10年以上の年月を要しています。平成の合併により、現在の宗像市となる平成15~17年頃から「沖ノ島を世界遺産に!」という運気が盛り上がってきたようです。平成18年から文化庁への提案書の提出をはじめ、平成21年にユネスコの暫定リストに記載されました。そしてそこからスケジュールを組み、世界遺産の登録へ向けて様々な取り組みを行った結果、平成29年に世界文化遺産に登録されました。
「世界遺産庁内組織 世界遺産登録推進専門部会」 (1-2-002526)
福岡地区で初めての県立の中高一貫校となる宗像中学校の開校
2015年に宗像高校の併設校として福岡県立宗像中学校が開校しました。近くに私立の中高一貫校がなく、進学校である宗像高校に併設されることから、宗像中学校の人気は高く、志願倍率は8倍を超える狭き門でした。
また、「安心して子どもを育てることができるまち宗像」を教育行政の柱とし、この「安心」を生み出す具体策の一つに、平成18年度から「小中一貫教育」の調査研究を進めています。
「小中一貫教育(推進協議会)」 (1-2-0020204)
宗像市からは317冊の公文書が移管されています。また、約150冊の行政資料を所蔵しています。
(令和3年8月現在)
また、当館ではただいまエントランスにおいて、県と県内市町村の役場や町の風景の「いま」と「昔」をふり返る写真展「なつかしの写真展~あの日のふくおか~」を開催しています。ここでは、宗像市の旧庁舎(昭和40年代後半)と現在の庁舎の写真を展示しています。
しかし、緊急事態宣言の発出に伴い当館は休館中(~令和3年9月12日(日)まで)です。再開した際には、ぜひ見に来てください。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
令和3年度第1回企画展「福岡県政150年 第2部アジアのなかの福岡へ」が
8月3日(火)から始まりました。
昨年度は、新型コロナウィルス感染症拡大防止のため、夏・冬の企画展を見送ったため、
夏季としては2年ぶりの企画展開催ということになります。
今回のテーマは、ずばり「福岡県政」です。
というのも、今年は明治の廃藩置県から数えて150年目に当たるので、
福岡県の150年をふり返ろう、というのが企画展のテーマです。
とはいっても、150年の間にはたくさんの出来事があり、
とてもとても当館の展示室にはおさめきれません。
そこで今回は、九州歴史資料館と共に、2部構成で開催することになりました。
明治から太平洋戦争終了直後(公選知事誕生まで)を九州歴史資料館が、
終戦後(公選知事誕生から)から現在までを福岡共同公文書館が、
それぞれ展示をいたします。
2館通してご覧いただくと、福岡県政150年の流れがよくわかると思いますので、
ぜひ合わせてご観覧ください。
さて。
福岡共同公文書館で開催する「福岡県政150年~第2部アジアのなかの福岡へ~」について
少しご紹介させてください。
「県政」と聞くと、ちょっとわかりにくそう、とか、
身近なテーマじゃないから、興味が持てない、
と思われる方もいらっしゃるのではないかな、と思います。
でも、私たちの暮らしの困ったことや、もう少しこうなるといいのにな、
ということを解決していくのが行政の役割なので、暮らしに密着したテーマがたくさんあります。
「災害」「雇用」「交通」「環境」「教育」などなど。
終戦後から今日までの75年、県内ではどのような問題が起こり、
福岡県や関係市町村はどのようにそれに対応していったのか、
未来にどのような目標をたてて進んできたのか、を知っていただくのが今回の企画展です。
「あのダムってどうして作られたの?」
「地下鉄っていつ開通したの?」
「福岡っていつごろから人口が増えたの?」
そうした「?」にちょっとでも答えが見つかったら、うれしいです。
また、エントランスでは、
県と県内市町村の役場や町の風景の「いま」と「昔」をふり返る写真展
「なつかしの写真展~あの日のふくおか~」を開催しています。
市町村へ呼びかけをして、寄せていただいた写真たちを、市町村ごとに展示しています。
現在住んでいる町、学生時代に住んでいた町、親せきやお友達が住んでいる町、
そんな町の懐かしい風景を見に来ませんか?
企画展、写真展は、8月3日(火)~9月26日(日)まで開催中です。
コロナ禍ではございますが、福岡共同公文書館では、感染防止対策に力を入れ、
皆様のご来館をお待ちしております!
毎日暑い日が続いて、季節はすっかり夏ですね。学校は夏休みに入り、ただいま、オリンピックが開催中です。
さて、今回は「公文書でめぐる ふるさと福岡」で、「篠栗(ささぐり)町」を紹介します。
篠栗町は、1955(昭和30)年4月1日 に 篠栗町と勢門(せと)村が対等合併し、新町制による篠栗町が発足しました。
「新町建設計画書 粕屋郡篠栗町」(1-1-0039366)
福岡市内から東に約12キロメートルのところに位置しており、車は都市高速道路を使用すれば福岡市内まで20分、町の東西を走るJR篠栗線(福北ゆたか線)の快速を利用すれば博多駅まで15分の距離にあり、バスなどの公共交通機関もあります。
町の面積は38.93平方キロメートルです。東西約8キロメートル、南北約7キロメートルで、鉾立(ほこたて)山・八木(やき)山・若杉(わかすぎ)山の峰々に囲まれた緑豊かな町で、中央には多々良(たたら)川が東西に流れ、その周囲に平地が開けています。
町の総面積の約7割に山林が広がり、ウォーキングコースやキャンプ場などのレクリエーション施設や、180年の歴史を持つ篠栗四国八十八箇所霊場に結びつきのある歴史的な遺産や施設などが数多く点在しています。
篠栗四国八十八箇所霊場(ささぐりしこくはちじゅうはちかしょれいじょう)
空海(弘法大師)を拝する88か所の霊場の総称で、篠栗八十八箇所または単に篠栗霊場とも呼ばれています。小豆島(しょうどしま)八十八箇所、知多(ちた)四国霊場と共に、「日本三大新四国霊場」に数えられることもあります。町内各地に寺があり、中でも1番札所の南蔵院(なんぞういん)は青銅製のものとしては世界最大の釈迦涅槃像(しゃかねはんぞう)で知られており、多くの観光客が訪れています。
篠栗町の町章
篠栗町の「さ」を図案化して、明るく住みよい調和のある町をシンボライズしたもので、中心から四方に広がりゆく発展の意味を含んでいます。三つの三角頂点は若杉山を中心として鉾立山、米の山を表しています。
公文書の電子的管理
篠栗町では、平成27年度から公文書の本格的な電子的管理を県内自治体のなかで最初に導入しています。
現在ほとんどの自治体ではパソコンで作成した公文書の多くが紙に印刷され、それを原本として保存されていきますが、パソコンで作成した文書そのものを原本として、紙を使わずに保存などを行うことを原則とすることを「公文書の電子的管理」といいます。
篠栗町では、電子的管理を導入したことで、ペーパーレス化による経費の節減は元より、文書事務効率の向上、特に100%の電子決裁により事務処理のスピードが格段に上がり効率化が図られています。
議会においてもタブレット端末により議会運営の効率化とペーパーレス化が図られています。また、住民サービスが様々な申請等において今年の4月から印鑑の押印が不要となったことで電子申請ができる環境を整え、篠栗町全体のデジタル化が進んでいます。
他の自治体からの視察も数多くあるようで、先進的なシステムとして注目されています。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
当館をよくご利用いただく利用者さんの私物です。
当館の資料を複写したものに、ご自身で表紙をつけて、
製本されていました。
現物よりも、また当館で作成している複製物よりも何倍もきれいです!(当館の複製物は簡易すぎて並べてお見せできません⤵)
ご自身の研究に使われているようですが、当館の資料をきれいにそして丁寧に使用していただいているのを見るとこちらもなんとなくうれしくなります。
雑然と綴じられて移管されてくる公文書たちですが、必要な方にとっては大切な資料です。作成される行政職員の皆さん、皆さんが業務で作成された文書が、何年あるいは何十年後には誰かにとって貴重な資料になっているかもしれません。文書作成・整理をする際はこのことを頭の片隅においていただければ、と思います。
また、「公文書をみて何がわかるの?」と思っていらっしゃる方、公文書は皆さんにとって身近なものなんですよ。
例えば、
広い敷地に建っている大型商店、ここには前になにがあった?
自分が通っていた小学校の校舎はいつ建て替わった?
この道路、前からこんなに広かった?
など、素朴な疑問が解決できるかもしれません。
いつでも、気軽に「福岡共同公文書館」をのぞいてみて下さい。
福岡県は、6月20日に緊急事態宣言が解除になり、一部地域がまん延防止等重点措置に移行します。
5月12日から臨時休館していた当館は6月22日(火)より開館します。引き続き新型コロナウイルス感染症拡大防止のための対応を行いますので、ご利用の際にはご理解とご協力をお願いします。
九州北部は、5月中旬に梅雨入りをしており、ただいま文書には好ましくない季節です。
これは選別室(文書の一時保管及び選別作業を行う部屋)の温・湿度計です。ここ数日は湿度が60%以上の日が続いています。
一般的に文書(紙)にとっての適切な温度は22~25度、湿度は55%前後と言われています。当館においても文書保存庫は、夏は25度、冬は22度、湿度は1年を通じて55%に設定し24時間・365日、温湿度管理を行っています。
しかし、運び込まれた文書を一時保管し作業を行う選別室においては職員が温湿度の管理を調節しています。温度はエアコンで調節できるのですが、湿度はちょっと油断すると夏(特に梅雨の時期)は上がりすぎ、冬は下がりすぎてしまいます。
湿度管理は夏はサーキュレーター、冬は加湿機能付きの空気清浄機を使用して調節しますが、なかなか思うようにいきません。特に、コロナ禍のいま、室内の換気も必要なので温湿度の管理は大変です。
当館で保存する文書は永久に保存する文書です。長い年月の中で劣化していくのは当然ですが、少しでも劣化の速度をおさえ、後世により良い状態で残していけるように日々気を付けています。
福岡県は、緊急事態宣言が延長になりました。それに伴い当館も6月20日まで臨時休館を継続することになりました。
当館では5月11日より常設展の特集展示「ふくおか スポーツの軌跡(リバイバル)」 を行っていましたが、開始した次の日から休館になってしまいました。そこで、少しでも皆様にお楽しみいただけるよう、展示資料の一部をホームページ上で公開しています!
当時、直方市内で行われた聖火リレーの様子が記録されている『オリンピック東京大会聖火リレー写真集』(直方市公文書)や福岡で開催されたスポーツイベント(「とびうめ国体」「ねんりんぴっくふくおか」)等を「Web展示」として紹介しています。
詳しくはこちらからご覧ください!
また、広報誌『福岡共同公文書館だより第17号』を発行しました。こちらもホームページ上でご覧いただけます。 ▼第17号(PDF)
これからも、ホームページ上で情報を発信していきたいと思います。
九州北部は、5月中旬に統計開始以来2番目に早い梅雨入りをしました。これから文書には好ましくない雨の季節になります。
さて、今回は(久しぶりの)「公文書でめぐる ふるさと福岡」で、「糸島(いとしま)市」を紹介します。
「前原市(まえばるし)」・「志摩町(しままち)」・「二丈町(にじょうまち)」が合併して2010年1月に月に糸島市が誕生しました。糸島市は、中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記されている「伊都国(いとこく)」があった地です。大陸との玄関口として古くから文化が栄え、さまざまな史跡や遺跡などが各所に残されています。中でも、平原遺跡(ひらばるいせき)で出土した日本最大の銅鏡「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」をはじめとする出土品群は、国宝に指定されています。
福岡県西部の糸島半島に位置し、東は 福岡市、西は佐賀県唐津市(からつし)、南は佐賀市と接しています。市北側には玄界灘(げんかいなだ)に面した美しい海岸線が広がり、市南側には脊振(せふり)山系の山々が連なっています。そして、それらの中間部には「糸島平野」と呼ばれる、なだらかな田園地帯が広がり、JR筑肥線(ちくひせん)と国道202号沿線を中心に市街地が形成されています。福岡市の中心部天神からJR筑肥線筑前前原駅(ちくぜんまえばるえき)まで30分ほど、また高速道路を利用してもおよそ30分の時間距離にあり、博多駅や福岡空港にも直通でアクセスでき、交通の利便性が高い地域です。
都市近郊型の農業や畜産業が盛んで、休日には市内各所にある農畜産物や海産物直売所に多くの人が訪れます。 また市内には、万葉の歌にも詠まれ「糸島富士」と呼ばれる可也山(かやさん)、神秘的な景観の芥屋の大門(けやのおおと)や桜井二見ヶ浦(さくらいふたみがうら)、美しい海岸線を有した幣の浜(にぎのはま)や鳴き砂で知られる姉子の浜(あねごのはま)、脊振山系の山々からの清らかな水が流れる白糸の滝や千寿院の滝(せんじゅいんのたき)などの名勝があります。
このほかにも、サーフィンや海水浴、登山、各種芸術家の工房、ゴルフ場、眺めのよいカフェやレストラン、カキ小屋、遺跡をめぐる歴史探訪など、さまざまな方法で糸島の魅力を楽しむことができます。
「糸島の山歩き」(左より 2-4-0012072 2-4-0012071 2-4-0012070 2-4-0012069)
九州大学との連携協力協定
市北東部には九州大学伊都キャンパスがあり、およそ18,700人の学生と教職員がキャンパスとその周辺で活動しています。
糸島市は、福岡県や福岡市、経済界と連携し、九州大学を核とした知の拠点づくりの一翼を担っています。 住環境や情報インフラなどの都市基盤の整備や知的資源を生かした企業や研究所の誘致、地域の国際化など、あらゆる分野で九州大学との連携や交流を図りながら、学術研究都市づくりを積極的に推進しています。
九州大学学術研究都市構想実現のための長期計画(案)
「九州大学学術研究都市推進協議会 九州大学学術研究都市推進機構」(1-2-0025058)
九州大学学術研究都市機能イメージ
「九州大学学術研究都市推進機構」(1-2-0025059)
怡土(いと)・志摩(しま)→「糸島」
1878(明治11)年に行政区画として発足した怡土郡と志摩郡は前原村に設置された「怡土志摩郡役所」の管轄でした。1896(明治29)年4月1日 、郡制の施行において「怡土志摩郡役所」の管轄区域の怡土郡と志摩郡を合併させて糸島郡になりました。市名の由来となっている「糸島」郡の名称は合併前の「怡土(いと)」と「志摩(しま)」の名前をつなげて「糸島」という別の字をあてたものです。
「明治二十九年五月以降 村長会決議録」(1-2-0028811) 第1回糸島村長会合議録
「怡土志摩の合併のお祝いを兼ねて親睦会を開く」ということが書かれている
糸島市からは約300冊の公文書が移管されています。また、約150冊の行政資料を所蔵しています。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
福岡県が5月12日(水)から緊急事態宣言の対象地域に追加されることになり、当館も12日(水)~31日(月)まで臨時休館とさせていただきます。
福岡県では、東京オリンピックの聖火リレーが11日から2日間、公道でのリレーはすべて中止され県内の2か所に集約して点火セレモニーだけが行われました。当館においても聖火リレーに合わせて、常設展の特集展示「ふくおか スポーツの軌跡(リバイバル)」 を5月11日(火)より行っていましたが、開始した次の日から休館になってしまいました。
今回の特集展示は、令和2年2月4日(火)~3月22日(日)に開催した企画展を一部リニューアルしたものです。この企画展も開催期間中に、新型コロナウイルス感染症の感染とその拡大防止のため令和2年2月28日(金)より臨時休館となったため、今回「リバイバル」で展示を行うことにしました。またしても、休館になってしまいましたが、しばらくは、Web展示でお楽しみいただけたらと思います。
なお、休館中も、電話、ファクシミリ、メール等による収蔵資料等についての問い合わせや相談については対応いたしております。
新年度を迎えました。コロナはまだまだ油断できない状況ですが、今年度も福岡共同公文書館をよろしくお願いいたします。
ここ数日、HP改修のためご迷惑をおかけしました。
さて、今回は前回のみやま市に続き、大木町図書・情報センター「こっぽーっとギャラリー」(大木町図書・情報センター:こっぽーっとギャラリー (library.oki.fukuoka.jp)において 実施していた『おいでよ!福岡共同公文書館へ』 と題した出張展示の報告と、3月末まで当館の職員として働いていた大木町から派遣の職員さんのインタビューです。お話を聞いたのは当館キャラクターのしょこらです。
【出張展示 ㏌大木町の様子】
まずは自己紹介をお願いします。
大木町から派遣されていた堤です。
当館では、「文書班」で、県や各市町村からの文書の収集・保存に関する業務を行っていました。
派遣が決った時は、今まで通勤時間自転車で約2分だったのが、自転車、電車、徒歩で約1時間20分になってしまうので「早起きがつらい!」ということが最初に頭に浮かびました。しかし、今年度末で派遣が終わり名残惜しい気持ちもありましたが、4月から大木町役場の職員に戻りました。
公文書館の印象は?
福岡共同公文書館に勤務する前は「公文書館」は
「歴史」公文書を集める施設?
「歴史」公文書ってなかなかないよな…
という印象でした。しかし、実際にはそんなことはなく、身近な公文書が「歴史公文書」になっているということを知りました。
当館の利用者の方から、「ここにある資料は『お宝』です」といわれたことが、文書収集を担当するものとして非常にうれしく感じた瞬間でした。
実際に働いてみていかがでしたか?
比較的新しい施設なので1年中快適に仕事を行うことができました。
また、職場の皆さんにもさまざまな場面で助けていただきました。共同公文書館で県の職員、他の市町村職員、さまざまな経歴をお持ちの会計年度任用職員と「共同」して業務を行えたことは、私にとって非常によい経験でした。
最後に大木町のPRをお願いします。
大木町は面積が県内60市町村中49位と決して大きな町ではありませんが、
アスパラガスの生産県内 ナンバー1
キノコ類の生産量九州 ナンバー1
の魅力あふれる町です。ほかにもたくさん町の魅力をお伝えしたいのですが、「百聞は一見にしかず」ぜひ、大木町にお越しいただき、大木町を見て、聞いて、感じてみて下さい。きっとあなたにとってほかの町にはない「ナンバー1」もしくは「オンリー1」が大木町で見つかるのではないかと思います。
「アクアス」の柔らかなお湯たちがあなたの旅の疲れを癒したがっています!
「道の駅 おおき」のきのこたちがあなたにもぎ取られたくてうずいています!
「おおき田園小旅行 サイクリング・ウォーキングマップ」 (2-4-0009291)
「木の子のとっておきレシピ きのこの郷 大木町発」 (2-4-00092909)
1度ならず、2度、3度のご来町をお待ちしております。
私も4月からは町の魅力をより多く・大きくするために力の限り頑張っていきたいと思います。
ありがとうございました。4月からは町のために頑張ってください。
でも、公文書館のことも忘れずに気にかけてくださいね。
また、大木町の紹介は前回の「公文書でめぐる ふるさと福岡 ~大木町~」もご覧ください。
『公文書でめぐる ふるさと福岡』今回は、大木町をご紹介します。(大木町HP)
三潴郡大木町は、福岡県の南西部、筑後平野のほぼ中央にあって、山ノ井川、花宗川の沖積で形成された肥沃な土地、豊富な水に恵まれた穀倉地帯です。
筑後川下流左岸地域にあるこの地方は、古代「水沼の縣」とよばれる沼地で、鎌倉時代末期ごろ「水沼」が転じて「三潴」荘になったといわれています。立花氏の柳河藩時代、有馬氏の久留米藩時代を経て、明治4年の廃藩置県により、久留米・柳河・三池の三県が合併して三潴県となり、明治9年(1876)三潴県を廃して福岡県となりました。
明治22年(1889)町村制が施行され、旧来の村々が合併して大溝村、木佐木村、大莞村となり、昭和30年(1955)市町村合併促進法に基づき、この3村が合併して大木町になりました。町名は村民から募集し、協議で絞られた「大木」「木佐木」「花井」から全村民投票で決定したそうです。
平成17年(2005)に三潴町と城島町が久留米市に編入したので、現在の三潴郡は大木町のみです。
標高4~5mのほぼ平坦で水田の多い町内を、「堀」と呼ばれるクリーク(溝渠)が縦横に走る景観が特徴的で、堀の面積は町全体の14%を占めています。県内で同じように堀を持つ市町村(筑後市、柳川市、大川市など)の中でも特に堀の密度が高く、全国でも有数の溝渠地帯です。
堀(溝渠)は灌漑・排水・貯水の役割を兼ねています。平坦な沼地に水路を作り、掘削した土を盛り上げた部分を住居とし、洪水時に水を逃がす排水路や干ばつに備えた用水源にもなっており、この地域の農耕文化やくらしを古くから支えてきた構造物です。秋の菱の実とり(掘割に自生する菱の実を「半切り」と言われる大きなタライに乗って収穫する)や、冬の堀干し作業なども、かつてはどの堀でも見られていたそうです。近年は、生活雑排水による堀の汚濁などの問題も発生し、住民とともに堀再生の取組が行われています。
米麦を中心とした農業が主産業で、特産物としてイ草、イチゴ、アスパラガスやキノコ類の栽培、畜産業、イ草加工品である畳表、花筵や久留米絣などの伝統工芸品も生産されています。(参考:福岡百科事典、大木町誌)
中学生の歌声にのせて大木町を紹介するPR動画 この町が好きだよ (大木町公式Youtubeチャンネル)より
大木町から福岡共同公文書館に移管された歴史公文書は451点(令和3年2月現在)で、循環のまちづくりに関する文書や、堀の再生や保全に関する文書などがあるのが特徴です。また、大木町が大川市との合併を協議検討した際の文書もあります。合併はしないことになりましたが、この時の文書は大川市からも移管されており、当時の意思決定の過程を将来の検証にたえうる形でのこす公文書館の使命と、当館が「共同」公文書館だからこそできることを考えていくうえでも重要な資料といえます。
平成17年(2005)大木町は九州で一番先にバイオマスタウン構想を公表し、リサイクルやごみの減量といった循環のまちづくりに取り組んできた自治体です。
九州農政局のバイオマスタウンマップ(大木町が提出したバイオマスタウン構想を見ることができます。)
バイオマスというのは、「動植物から生まれた、再利用可能な有機性の資源(石油などの化石燃料を除く)」のことです。化石燃料ももとは有機物ですが非常に長い年月をかけて化石になった限りのある資源です。しかし、バイオマスは、太陽エネルギーを使って水と二酸化炭素から生物が生成するものなので、持続的に再生可能な資源で、さまざまな利用方法があります。木材、海草、生ゴミ、紙、動物の死骸・ふん尿、プランクトンなど様々なバイオマス資源を、原料やエネルギーとして利活用した場合、植物が育つ過程で吸収した大気中の二酸化炭素を、物体(炭素)として固定、また大気中に戻すだけで、増加させないので、気候変動の抑止に役立つとされています。
転機となったのは平成14年(2002)、ロンドン条約に基づいた廃棄物処理法施行令の一部改定で、し尿・浄化槽汚泥等の海洋投入処分の全面禁止(適用猶予期間5年)が決まったことです。それまでのし尿等の海洋投棄処分を速やかに停止し、陸上処理に切り替えることになり、大木町は平成18年(2006)から、家庭の生ごみ、し尿、浄化槽汚泥を循環施設「くるるん」で資源化する事業をはじめました。バケツコンテナ式の生ごみ分別を確立し、その後、プラスチックや紙おむつなども資源化したので焼却ゴミの量は半分以下に減り、施設でのエネルギー(メタンガス)創出と消化液(メタン発酵液肥)の農業還元に成功した事例として、多くの視察も受け入れてきました。
平成20年(2008)3月には全国で2番目の「もったいない宣言(ゼロ・ウェイスト宣言)」を公表し、その年の可燃ごみ組成調査で焼却ゴミの重量比の中で大きな割合(約1割)を占めていた紙おむつをリサイクルする仕組みづくりに着手します。紙おむつの処分(リサイクル)は現在、超高齢社会の日本の廃棄物行政において、大きな課題となっていますが、大木町は福岡県のリサイクル総合研究センターや大牟田エコタウンのリサイクル施設、企業、紙おむつメーカーとも連携して、平成23年(2011)10月に家庭から出る紙おむつ分別回収をいち早くはじめました。年間100tを超える紙おむつが回収され、再資源化されています。(参考:『ごみを資源にまちづくり』中村修,2017年8月,農文協、『月刊廃棄物』日報ビジネス,2019年4月号ほか)
大木町公文書「平成23年度紙おむつリサイクル事業」(1-2-0023751)
大木町公文書「平成23年度ゼロウェイスト関係文書」(1-2-0023750)
大木町公文書「EPR・デポジット(協議会)」(1-2-0030051)
平成22年(2010)、大木町・筑後市・大川市が共同開催した『第18回環境自治体会議「ちっご会議」』では、「拡大生産者責任(Extended Producer Responsibilities:EPR)」と「デポジット制度」の導入で循環型社会の再構築をめざす ちっご会議決議が採択され、EPRとデポジットの法制化を求める署名活動を行っています。環境保全や温暖化防止は、廃棄物処理等の行政活動だけでは実現できません。自治体内で住民とともに目標を持って根気強く取組むこと、県や近隣市町村とも連携し、全国に向けて発信していくことなど、大木町の取組みから学べることは多いですが、環境や廃棄物の問題は多くの自治体がよりよいあり方を模索し、つながりをつくりながら取り組んでいることがわかる資料です。
大木町のように堀のある地域では、農閑期である冬に、堀に沈殿した堆積物(泥土)をくみ上げる、堀干し・ごみ揚げという作業を行います。ここで【ごみ】というのはこの有機物の栄養をたっぷり含んだ泥土のことを指していて、水田や藺田(イ草を作る田)に客土として入れて土壌改善をおこなったり、肥しに使ったりしていたそうです。堀の貯水量を維持して町内に水をめぐらせ、土も循環させてきた大木町の風土が、循環型のまちづくりの基層にあるのですね。
福岡県立公文書館であり、福岡県市町村公文書館でもある当館では、大木町職員もはたらいています。せっかくなのでコメントをもらいました。
この度は、福岡共同公文書館のブログをご覧いただき、どうもありがとうございます。今回のブログでお伝えしきれなかった、大木町・福岡共同公文書館の魅力がたくさんありますので、ご来町・ご来館を心よりお待ちしております。(文書班・堤)
みやま市立図書館「市民ギャラリーKusu-Kusu(くすくす)」みやま市立図書館 (みやま市立図書館 (library.miyama.fukuoka.jp) で 『 おいでよ!福岡共同公文書館へ 』 と題した出張展示を実施しています。
「なかなか筑紫野市まで行けないよ~」という方々にも「福岡共同公文書館」のことを知っていただこうと、企画しました。
福岡共同公文書館は福岡県と県内市町村が共同で設置・運営している公文書館です。平成24年11月に当館が開館して「福岡県内市町村の公文書館設置率は100%」になったのです。
ここで働く職員は15名。県の職員と市町村から派遣された職員がそれぞれ3名ずつと、会計年度任用職員が9名という構成になっています。
市町村への出張展示『おいでよ!福岡共同公文書館へ』は初の試みです。きっかけとなったのは、当館職員にみやま市から派遣の職員さんがいたからです!
ここからは当館キャラクターのしょこらによるインタビュー形式でお伝えします。
まずは自己紹介をお願いします
みやま市から派遣されている高木と申します。生まれ育ったのは自然豊かなみやま市高田町です。福岡共同公文書館の存在は知っていましたが、一般の方も利用できる施設であることは知りませんでした。派遣が決定したときは、「みやま市の看板を背負って仕事する!頑張ろう!」という気持ちでした。当館では、「総務企画班」で、施設の利用促進、展示や講座に関する業務や広報誌等の作成を手掛けました。今年度末で派遣が終わり、4月からはみやま市役所の職員に戻る予定です。「出張展示inみやま市」が実現したので嬉しいです。たくさんの皆様のご来場をお待ちしています。
みやま市ってどんなところですか?
みやま市は、平成19年1月29日に瀬高町(せたかまち)・山川町(やまかわまち)・高田町(たかたまち)が合併して誕生しました。福岡県の南部に位置し、一部は熊本県と接しています。東部には山々が連なり、中心部は広大な筑後(ちくご)平野、西部には有明(ありあけ)海の干拓によって開かた低地が広がっています。
市内を流れる矢部川(やべがわ)を中心とした河川がもたらす肥沃な土壌と有明海の恵みによって農業・海苔養殖業のまちとして発展してきました。
JR鹿児島本線と西鉄大牟田線が乗り入れ、九州新幹線「筑後船小屋駅」にもほど近く、また、九州自動車道の「みやま柳川IC」があるなど、交通面は充実しています。ICを降りてみやま市内に向かうと、「みちの駅“みやま”」があります。四季折々のみやまの特産品がずらりと並び、中でもセルリー(博多セロリ)の大きさには驚かされます。テレビでも話題になった「玉めし」など、フードコートも充実しています。ぜひ、お立ち寄りください。
おすすめの一冊を教えてください!
みやま市からの公文書の移管は1,364冊(2021年2月現在)あります。そのほか、行政資料も所蔵しています。私のおススメの一冊はコレ!
「みやまの人と歩み みやま市史Ⅰ」(2-4-0006384) H26.12発行
「みやま市史」の人物編として発行されたものです。みやま市出身で全国的に目覚ましい活躍をした人や地元の経済・文化・福祉の向上等に功績のあった方々を、読みやすい文字で、写真等を交えてわかりやすく紹介しています。
最後にしょこらから~!
みやま市の次は、大木町図書館・情報センターの「こっぽーっとギャラリー」(3/16~28)に行くよ。
うちの市町村にも来てほしい~☆という声をお待ちしていま~す。
1月は「いく」、2月は「にげる」、3月は「さる」といわれているように、気が付けば2月も半ばを過ぎていましました。
さて、「公文書でめぐる ふるさと福岡」今回は岡垣町です。
岡垣町(おかがきまち)は)、福岡市と北九州市の間に位置し、町の東部は芦屋町(あしやまち)と遠賀町(おんがちょう)、西南部は孔大寺(こだいし)山系を隔てて宗像市(むなかたし)に接し、北部は響灘(ひびきなだ)に面し、三里松原(さんりまつばら)が美しい海岸を形成しています。町の総面積は48.51平方キロメートルで、遠賀郡(岡垣町・芦屋町・水巻町(みずまきまち)・遠賀町)の総面積のはぼ半分を占めています。
「おかがき」という町名の由来
1907(明治40)年に岡県村(おかがたむら)と矢矧村(やはぎむら)の二つの村が合併して岡垣村が誕生しました。明治維新後、廃藩置県の影響で誕生した二つの村は、基本的な風俗や性格に共通する部分が多く、加えて日本国有鉄道(現在のJR)の停車駅の誘致運動なども影響して次第に合併の機運が高まってきました。しかし、そこで問題となったのが新しい村名でした。岡県村は「矢矧村も古くは岡の県だったから岡県村とすべきだ」という声がありました。一方の矢矧村は「神功皇后(じんぐうこうごう)の時代に、当時武器である弓矢を作った故事から名付けられた矢矧川が村名の由来なので、こちらも由緒正しい名前だ」と意見がまとまりませんでした。そこで、当時の遠賀郡の郡長(郡の行政をつかさどる長官)が、「岡県の岡と古くからこの地を垣崎(かきさき)と呼んでいたことから垣をとり、『岡垣』とする」という決定を下したのです。こうして、村名を残せなかった矢矧村の名前は、矢矧川にその名を残し、また1910(明治43)年に開業した日本国有鉄道の駅に、矢矧村の中心地であった「海老津(えびつ)」の名を残し今日に至っています。そして、55年後の1962(昭和37)年10月1日に岡垣村から岡垣町になりました。
「(昭和37年十月)町制施行に関する事績」 (1-2-0033643)
遠賀郡の合併
遠賀郡ではで1998(平成10)年から合併に関する動きが始まりました。1999(平成11)年)に「遠賀郡4町合併任意協議会」が発足しました。この協議会は2001(平成13)年に解散しましたが、2003(平成15)年に「遠賀郡4町合併協議会」(法定協議会)が設置されました。その後、合併に向けての協議が進められましたが、2004(平成16)年9月5日(日)に岡垣町では合併に関する住民投票が行われ、そこで反対が賛成を上回ったため、岡垣町は合併協議会から離脱を表明しました。その結果、4町での合併は断念することになり「遠賀郡4町合併協議会」は同年10月31日の解散することになりました。
「遠賀郡4町合併に関する住民投票(③)」(1-2-0033634)
岡垣町の周年行事
1962(昭和37)年10月1日に町制施行した岡垣町では、1977(昭和52)年町制15周年、1982(昭和57)年町制20周年、その後10年度とに周年記念事業を行っています。
町制20周年記念事業において「岡垣音頭」(レコード)を制作し、40周年記念事業において「変わらない岡垣(ふるさと)」というイメージソングを制作しています。また今回、参考にした「岡垣町総合学習副読本 おかがきナビ おかがきの、いいとこ探そう!」(小学生向け)は町制50周年を迎え、ふるさと岡垣町のことをもっと知ってもらい、ふるさとを誇りに思い、愛する心を育ててもらいたいという気持ちをこめて作成されたそうです。
「(昭和57年度)町制20周年事業(事績綴)」(1-2-0033648)
「岡垣町イメージソング 変わらない岡垣(ふるさと)」(2-4-0012647)
「岡垣町総合学習副読本 おかがきナビ おかがきの、いいとこ探そう!」(2-2-0000881)
現在、当館で開催中の「常設展 冬」「特集 公文書のいろいろ」において30周年をアピールするために作成されたのぼり旗を展示しています。
2012(平成24)年に町制施行50周年を迎えた岡垣町は交通網の整備や団地の開発が進められ、自然環境にも恵まれた住みよい街として発展しています。
岡垣町から移管された公文書は令和2年1月現在455冊です。また公文書のほか岡垣町が作成した行政刊行物も所蔵しています。
それではまた、次回「公文書でめぐる ふるさと福岡」をお楽しみに!
緊急事態宣言が延長されましたが、福岡共同公文書館は、感染拡大防止対策をおこないながら開館しております。
さて今回は、2021年1月29日(金)10時よりおこなわれた県文書(長期保存文書)評価選別会議についてです。
その前に、評価選別会議は文書班のお仕事なので、以前説明したことはありますが、久しぶりなのでここで文書班のお仕事を少しおさらいです。
福岡共同公文書館のお仕事(文書班編)
保存年限が満了になった公文書の中で、行政の推移・内容・仕組みなどが明らかになるものや住民生活・社会情勢を反映しているものなど、将来への残すべき文書(歴史公文書)を移管元である県や市町村が選びます。
県や市町村が歴史公文書として選んだ文書は、公文書館へ運び込まれ、担当職員(文書班・専門員)が1冊ずつ内容の確認をおこないリスト化します。そのリストをもとに館長及び担当が参加する評価選別会議をおこないます。
評価選別会議とは、運び込まれた公文書が福岡共同公文書館として永久保存とするべき公文書がどうかを判断する会議です。
この評価選別会議で、「保存」と判断された文書については外部有識者によるチェックを受けた後に、検索システムに登録しID番号・バーコードが印字されたラベルを貼り、燻蒸(くんじょう)をおこないます。
燻蒸が終わった公文書は、中性紙の保存箱に入れ、保存庫に収納します。
ここまでが文書班のお仕事です。(過去の記事もご参照ください CATEGORY:公文書館・文書班からとべます)
では、話を評価選別会議に戻します。
今回は、福岡県の長期文書の評価選別会議をおこないました。
福岡県の文書は有期文書(保存年限が1~20年の文書)と長期文書(保存年限が30年)の2回に分けて運び込まれます。有期文書の評価選別会議は2020年12月17日(木)に実施しました。その際は、2,459冊の文書を保存するか否かについて話し合いました。
今回は、長期文書の評価選別会議です。539冊の文書について話し合いをしました。会議では、当館で設けている選別基準(1~20)や分類(17分類)のどれに該当するのか、ということについての意見交換をおこないました。
選別基準とは、文書を形式的に「1.例規等に関する文書」、「2.組織・制度等に関する文書」というように20類型に区分したものです。選別基準には、細目が設けられており具体的にどのような文書が保存に値する文書なのかが示されています。また、分類とは、行政の分野を「総務企画」、「議会」というように17に区分したものです。
当館の基準に従って、事前に準備していた評価選別シートとそれに対する意見票をもとに、時には実際に資料を確認しながら、保存するか否かの判断をおこないました。
評価選別会議は、公文書館において非常に大切な仕事の一つです。
ここで、保存しないとことになった文書は、移管元で保存するか廃棄ということになります。廃棄されてしまえば、その文書は二度と見ることができなくなります。公文書を保存するか否かの判断は、慎重に行わなければなりません。
今回は福岡県の文書でしたが、福岡共同公文書館では県内の市町村文書も保存しています。福岡県の文書と同様に各市町村から運び込まれた文書は評価選別会議をおこない保存するか否かを判断しています。そのため、福岡共同公文書館では、月に1回程度、評価選別会議をおこなっています。
今回は、飯塚(いいづか)市です。
福岡共同公文書館が所在する筑紫野市と、飯塚市とは隣接するおとなりさんです。
当館の専門員さんにも、飯塚市から出勤している方がいますが、この二つの都市は、
そもそも江戸時代から、同じ街道沿いの宿場町としてのつながりがありました。
江戸時代、長崎と小倉を結び、参勤交代をはじめ多くの旅人の通行があった長崎街道。
長崎街道の筑前国内の六つの宿場を「筑前六宿(ちくぜんむしゅく)」と呼びました。
その西の端の原田(はるだ)宿と次の山家(やまえ)宿は現在の筑紫野市、
その次の内野宿と飯塚宿は現在の飯塚市です。
しかし隣り合う山家宿と内野宿の間には、長崎街道一の難所ともいわれた
冷水峠(ひやみずとうげ)が立ちはだかり、旅人を苦しめました。
その冷水峠にも、1985年に全長2,891mの冷水トンネルが開通し、
飯塚市と筑紫野市を結ぶ道路ルートはぐっと快適になりました。
鉄道の方も、筑豊本線(若松駅(北九州市)-原田駅)が飯塚市と筑紫野市を結んでいます。
福岡市・北九州市の両政令市と飯塚市とを考えてみても、
道路は八木山(やきやま)バイパスや直方(のおがた)バイパスなどが整備され、
鉄道は福北ゆたか線(黒崎駅(北九州市)-博多)が通っており、通勤・通学圏内となっています。
交通の要衝でもあり、人口は福岡市、北九州市、久留米市についで、県内4番目の規模で、
まさに筑豊地域の中心都市といえます。
飯塚といえば、やはり「炭鉱」をイメージする方も多いのではないでしょうか。
福岡の近代化と発展に大きく寄与したのが、明治期に始まる石炭産業です。
そして、飯塚は良質な産炭地として、大手資本が注目し、多くの炭鉱が開坑しました。
筑豊御三家の一として有名な麻生太吉(あそうたきち)や、
朝の連続テレビ小説にも取り上げられた炭鉱王伊藤伝右衛門(いとうでんえもん)も飯塚出身の人物で、
明治期に石炭の採掘から身を起こし、一財を為して、政界や実業界で活躍をした、
まさに石炭ドリームを実現した男たちです。
彼らは、町にも大きな貢献を果たしており、公文書にも、高額納税者や寄附者として、
たびたびその名が登場します。さらに朝ドラ「あさが来た!」の主人公のモデルとなった
広岡浅子(ひろおかあさこ)(日本女子大学の設立や大同生命の創始で著名)が再開発に成功した
潤野炭鉱(うるのたんこう)も飯塚にあり、ドラマでもその再開発の様子は克明に描かれていました。
明治期の筑豊地方は、石炭産業の隆興により、いち早く鉄道が走り、道路も整備されていきました。
福岡県で最初の鉄道といえば、明治22年(1889)に博多~久留米間を開通させた九州鉄道ですが、
2番目の鉄道は、筑豊興業鉄道(ちくほうこうぎょうてつどう)でした。
産炭量が増加するにつれ、川ひらた舟を使った水上輸送を鉄道による大量輸送に切り替えるために、
筑豊五郡によって明治22年7月に設立された鉄道会社です。
会社設立からわずか8年後の明治30年(1897)に九州鉄道と合併した
筑豊興業鉄道についての資料は数が少なく、当館でもほんのわずかしか所蔵していませんが、
飯塚市から移管されてきた公文書のなかに、鉄道建設に関する貴重な資料があります。
「鉄道係スル事蹟」(1-2-0013000、明治25年度、飯塚市公文書)です。
これは、筑豊興業鉄道が路線を延長する際に、
関係町村とどのような協議をおこなったのかがわかる資料で、
そのころ筑豊興業鉄道会社の監査役であった安川敬一郎(やすかわけいいちろう)が折衝のために、
飯塚を訪れた事蹟や、新路線開業時の試乗会に飯塚町長を招待した事蹟などを確認することができます。
石炭産業の隆盛によって人口が増え、インフラの整備も進む飯塚は、
昭和7年(1932)1月、市制施行を行います。福岡県では10番目の市ということになります。
市制施行の詳しい事蹟は、県の公文書に残されています。
飯塚市から当館へ移管された公文書は、現在約4,000件。
飯塚市公文書について特筆すべきは、明治期から継続して残された文書群が非常に多いということです。
例えば、議会文書は市制町村制施行前の明治18年から約100年にわたって保存され移管されています。
しかも、合併により現飯塚市の一部になった、旧町村の文書を並列して見ることが可能です。
これは、飯塚市をめぐる様々な出来事を検証するだけでなく、議会史、地方行政史を考える上でも、
大変貴重な一次資料となります。
また、学校教育課が保存していた「学齢簿」「学籍簿」も
明治27年のものから約60年にわたり残されています。この膨大な資料群も、
先祖探しに役立つということだけでなく、時代や社会に応じて変遷していく教育制度をたどる
重要な一次資料といえるのです。
このように非常に見どころの多い飯塚市の公文書ですが、とにかく数が多いので、
今後も折に触れご紹介していこうと思います。
新しい年を迎えました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。福岡共同公文書館は1月5日(火)より「三密」に気を配りながら開館しています。
昨年は大変な年でしたが、今年は少しでも良い兆しが見えるとよいですね。
さて、「公文書でめぐる ふるさと福岡」は今回「大木町」の予定でしたが、予定を変更して今回は宇美町を紹介します。
宇美町(うみまち)は、福岡都市圏に属する糟屋(かすや)郡の町で、西は大野城(おおのじょう)市と福岡市、北西は志免(しめ)町、北は須恵(すえ)町、東は飯塚(いいづか)市、南は太宰府(だざいふ)市と筑紫野(ちくしの)市にそれぞれ隣接しています。
宇美町(うみまち)は、福岡都市圏に属する糟屋(かすや)郡の町で、西は大野城(おおのじょう)市と福岡市、北西は志免(しめ)町、北は須恵(すえ)町、東は飯塚(いいづか)市、南は太宰府(だざいふ)市と筑紫野(ちくしの)市にそれぞれ隣接しています。
東部は砥石山(といしやま)(828m)、三郡山(さんぐんざん)(936m)、頭巾山(とっきんざん)(901m)、仏頂山(ぶっちょうざん)(868m)などの三郡山系と、南部は四王寺(しおうじ)山塊の大城山(おおきやま)(410m)に囲まれており、町の面積のおよそ6割を豊かな森林が占めています。
宇美町の歴史は古く、西暦665年に築城された日本最古の古代山城「国指定特別史跡 大野城跡」をはじめ、近年、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に記載がある「不彌(ふみ)国」として本町が注目される根拠となった「国指定史跡 光正寺(こうしょうじ)古墳」などの史跡が多くあります。また、古事記や日本書紀に、神功(じんぐう)皇后が応神天皇を出産された地を「宇美(産み)」と呼ぶようになったという記述があるように、安産の神様として全国的に有名な宇美八幡宮があります。 (宇美町 HPより)
なお、宇美町から移管された文書は、令和3年1月現在で約140冊です。
大正9年(1920年)10月に糟屋郡で最初に町制を施行して誕生した宇美町は、令和2年(2020年)に町制100周年を迎えました。
「広報うみ町制施行100周年特別号」(2-4-0015161)
今回、宇美町をご紹介したのは、当館で1月8日(金)より「常設展 冬」の
「特集 公文書のいろいろ」
と題してさまざまな記録媒体を紹介しており、その中で、宇美町からの移管文書も展示しているからです。
展示で紹介しているのは、宇美町の「町勢要覧」です。「宇美町文庫」と題して表紙も本の写真が掲載されています。「町勢要覧」とは、町の概要や魅力を紹介するために写真や文章で分かりやすくまとめたものです。「〇〇年 △△町勢要覧」という表紙が多い中、パッと見たら「町勢要覧」とはわからないけれども、非常に目を引く表紙だと思いました。よく見ると表紙に掲載されている本の背は、「宇美物語」(歴史)、「宇美町散歩ガイド」(町の紹介)、「【近未来エッセイ】いま、明日のために」(総合計画の概要)、「Quiz-U」(クイズで楽しむ宇美町のアレコレ)と目次になっていて、とても遊び心のある表紙だと思いました。また、映像編も制作されています。
「宇美町文庫 DVD(映像編)」(2-4-0010253)
「宇美町町勢要覧2005(宇美町文庫)」 (2-4-0006679)
展示にちなんでもう一つ。展示の中で「市町村のオリジナルソング」を紹介しています。当館に所蔵がないので展示では紹介できませんでしたが、宇美町にも「宇美町町制施行70周年を記念して制作された「宇美町賛歌」という「町歌」があります。この歌は宇美町のHPからダウンロードできます。
かつては炭鉱の町として栄えた宇美町は、町制100周年を迎えた現在、福岡市のベッドタウンとしてとして成長を続けています。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
東部は砥石山(といしやま)(828m)、三郡山(さんぐんざん)(936m)、頭巾山(とっきんざん)(901m)、仏頂山(ぶっちょうざん)(868m)などの三郡山系と、南部は四王寺(しおうじ)山塊の大城山(おおきやま)(410m)に囲まれており、町の面積のおよそ6割を豊かな森林が占めています。
宇美町の歴史は古く、西暦665年に築城された日本最古の古代山城「国指定特別史跡 大野城跡」をはじめ、近年、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に記載がある「不彌(ふみ)国」として本町が注目される根拠となった「国指定史跡 光正寺(こうしょうじ)古墳」などの史跡が多くあります。また、古事記や日本書紀に、神功(じんぐう)皇后が応神天皇を出産された地を「宇美(産み)」と呼ぶようになったという記述があるように、安産の神様として全国的に有名な宇美八幡宮があります。 (宇美町 HPより)
なお、宇美町から移管された文書は、令和3年1月現在で約140冊です。
大正9年(1920年)10月に糟屋郡で最初に町制を施行して誕生した宇美町は、令和2年(2020年)に町制100周年を迎えました。
「広報うみ町制施行100周年特別号」(2-4-0015161)
今回、宇美町をご紹介したのは、当館で1月8日(金)より「常設展 冬」の
「特集 公文書のいろいろ」
と題してさまざまな記録媒体を紹介しており、その中で、宇美町からの移管文書も展示しているからです。
展示で紹介しているのは、宇美町の「町勢要覧」です。「宇美町文庫」と題して表紙も本の写真が掲載されています。「町勢要覧」とは、町の概要や魅力を紹介するために写真や文章で分かりやすくまとめたものです。「〇〇年 △△町勢要覧」という表紙が多い中、パッと見たら「町勢要覧」とはわからないけれども、非常に目を引く表紙だと思いました。よく見ると表紙に掲載されている本の背は、「宇美物語」(歴史)、「宇美町散歩ガイド」(町の紹介)、「【近未来エッセイ】いま、明日のために」(総合計画の概要)、「Quiz-U」(クイズで楽しむ宇美町のアレコレ)と目次になっていて、とても遊び心のある表紙だと思いました。また、映像編も制作されています。
「宇美町文庫 DVD(映像編)」(2-4-0010253)
「宇美町町勢要覧2005(宇美町文庫)」 (2-4-0006679)
展示にちなんでもう一つ。展示の中で「市町村のオリジナルソング」を紹介しています。当館に所蔵がないので展示では紹介できませんでしたが、宇美町にも「宇美町町制施行70周年を記念して制作された「宇美町賛歌」という「町歌」があります。この歌は宇美町のHPからダウンロードできます。
かつては炭鉱の町として栄えた宇美町は、町制100周年を迎えた現在、福岡市のベッドタウンとしてとして成長を続けています。
次回の「公文書でめぐる ふるさと福岡」もお楽しみに!
今年も残り1ヶ月をきってしまいました。
さて、今回は「公文書でめぐる ふるさと福岡」で福津市を紹介します。
平成17年1月24日、旧福間(ふくま)町と旧津屋崎(つやざき)町が合併し、「福津市(ふくつし)」が誕生しました。
福岡県の北部で福岡市と北九州市の近隣に位置し、北東側は宗像(むなかた)市、南東側は宮若(みやわか)市、南側は古賀(こが)市に隣接しており、西側は玄界灘(げんかいなだ)に面しています。
また、東部を山、西部を海に囲まれ、特に海岸一帯と宮地嶽(みやじだけ)神社周辺の山林は、昭和31年に玄海(げんかい)国定公園に指定され、風光明媚な自然景観を形成しています。
東西にJR鹿児島本線、国道3号が延び、海岸線と併行して国道495号が走っており、九州自動車道若宮(わかみや)インター、古賀インターも近く、広域的な交通利便性にも富んでいます。このため、福津市は宮地嶽神社や津屋崎・福間海岸などを中心とした観光レクリエーションの場として、また、福岡・北九州両政令市への通勤・通学の利便性を背景とした住宅地域として、さらには、新鮮な食料品の生産供給地域としての広域的な役割をもっています。
「福津市」という名称
「福津市」という名称には、幸福や多くの人が集まる津(港、場所)という意味が込められています。市の名称を決めるにあたり、全国に公募したところ3,064通の応募があり、合併協議会において協議され、最終選考で残った「福津市」と「北筑前市」で決選投票を実施した結果、過半数の票を獲得した「福津市」に決定しました。
次に、福津市が行ってきた事業を紹介します。
国民健康保険制度のルーツ
福津市は、国民健康保険制度の参考にされた定礼(じょうれい)(常礼)制度が、かつておこなわれていた地域です。1930(昭和5)年ごろ、世界中をおそった不景気により、農村では経済状況も衛生状況も悪化し、都市部に比べ平均寿命も短く、多くの病気が蔓延しました。特に、結核は栄養状態の悪い農村の人々の間で広まり不治の病と言われていました。農村のこのような状況を救うため国(当時の内務省社会局)は全国の医療の状況を調査しました。すると、福岡県の19地区(宗像郡11地区・鞍手(くらて)郡8地区)と熊本県の1地区ですでに「医療互助組合」が運営されていました。
当時宗像郡では医療互助組合のことを「定礼」または「常礼」と言っていました。この言葉は村人たちが作り出した言葉で、「医者にかかってもかからなくても、その人の収入に応じて、定まった額をお礼するので。常日ごろ、お世話になっている医者へのお礼を欠かしてはいけないということから常礼」と言っていたそうです。定礼(常礼)には、ほとんどの家が加入しており、各家から玄米を集め、それを診療所の医者に差し出せば、1年間無料で治療が受けられる仕組みになっていました。1938(昭和13)年7月に世界でも初めてといわれる国民健康保険制度がスタートしました。この手本となったのが宗像の定礼(常礼)で国民健康保険制度のルーツといわれています。
(「やさしい福間町の歴史」 2-2-0001942)より)
「うみがめ課」という課がある
福津市には、福津市の環境保全活動の象徴として「うみがめ課」という名の「課」があります。この課は他自治体でいう「環境課」「環境整備課」などに当てはまり、ウミガメの保護活動だけではなく、地域のゴミ問題や動物全般の保護など多岐に渡った業務をしています。
課名の由来は、福津の海岸にアカウミガメが産卵に来ることからきています。福津市は、昔からウミガメが産卵に来ることは知られていました。しかし都市化が進み、ゴミの不法投棄や、浜辺に車で乗り付けて夜遅くまで遊ぶ人が増えるなど、ウミガメにとって環境は悪くなるばかりでした。そこで、平成9年に地元住民の方々が自発的にウミガメを守る会を作り、保護活動を始められました。その後、当時の津屋崎町役場にウミガメの保護活動について相談がなされ、町長の「官民一体でウミガメが来てくれるような環境保全をしていかないか」という呼びかけのもと、平成14年に「環境整備課」から「うみがめ課」と課名の変更を行い、住民と行政が一体となり、ウミガメ保護に取り組んでいくことになりました。
そしてこの活動は、平成17年の合併後も福津市の環境保全活動の象徴となり、課名もそのまま継続されています。また、うみがめ保護条例なども策定され、「うみがめ」現在でも福津市の環境保護の象徴のような特別な生き物となっています。
「ウミガメ保護条例関係資料」 1-2-0034598)
また、「広報ふくつ」(お知らせ版 2020年11月15日号)に、「遠くて近い ウミガメのこと」(「環境掲示板」)として、ウミガメの孵化(ふか)に関する記事が掲載されています。
(「広報ふくつ」 2-4-0015042)
*福津市のHPでも見ることができます fukutsu20201115_page16.pdf
福津市から移管された公文書は令和2年12月現在で約1500冊です。また公文書のほか福津市が作成した行政刊行物も所蔵しています。
次回は大木町です。
朝晩冷え込んでまいりましたね。皆さま、秋の夜長の虫の声♪は耳にされましたか。
今回は、常設展秋のミニ特集「公文書と〈害虫〉」より、文化財IPMと当館の【館内IPM】のお話です。またしても、虫の写真が出てきますので、苦手な方はご注意ください。IPMってなんだ?という方は前回のブログ「ミニ特集「公文書と〈害虫〉」より ②IPMとおまけの展示」をどうぞ。
9月の館内IPM(トラップ調査など)の様子をご紹介します。(クリックすると各項目に移動します)
芸術の秋ですね。皆さまは、美術館や博物館にいかがお過ごしでしょうか。
10月20日のブログ「ミニ特集「公文書と〈害虫〉」より①虫損を受けた公文書」でもご紹介しましたが、受け入れた資料を長期にわたって虫やカビの害から守り保存することは公文書館の大切な仕事です。今回は、入替から1か月が経過しました、常設展秋のミニ特集「公文書と〈害虫〉」より、文化財IPMとエントランスのおまけの展示についてご紹介します。
曝書・曝涼(虫干し)とは、奈良時代から千年以上もつづく、日本の伝統的(文化財の)保存管理法(行事)です。書物や宝物を日や風に当て、湿気を飛ばし、虫やカビを払い、目通し・風通しにより状態を点検を行います。資料を丁寧に扱い、何重にも収納し、定期的に曝涼と点検を行い、必要に応じて修理を行うというサイクルになっています。
第二次世界大戦後(1960(昭和30)年代から)、臭化メチルと酸化エチレンの混合ガスによる燻蒸(気化させた薬剤による殺菌殺卵殺虫処理)が採用され、次第に大規模で定期的なガス燻蒸が曝涼の代わりに普及していきました(1980年代)。1997年「オゾン層を破壊する物質に関するモントリオール議定書」の締結によって、先進国では2005年から臭化メチルが全廃されることとなり、文化財IPM(総合的有害生物管理:Integrated Pest Management)の考え方が本格的に導入されていきます。
文化財IPMとは、「博物館・美術館・資料館・図書館・文書館等の建物において考えられる有効で適切な技術を合理的に組み合わせて使用し、展示室、収蔵庫、書庫など資料のある場所では、文化財害虫がいないことと、カビによる目に見える被害がないことを目指して、建物内の有害生物を制御し、その水準を維持する」という考え方で、薬剤だけに頼らず日常的な保存環境の点検整備による予防対策が中心となっています。(参考:公益財団法人 文化財虫菌害研究所『文化財IPMの手引き』2014年)
IPMという概念はもとは農業分野で生まれました。1960年代、環境問題が深刻化して、生物多様性や環境保全型農業といった自然にとって望ましい在り方への関心が高まり、1965年以降IPMという考え方が育っていきます。
Integrated Pest Management (総合的有害生物管理:IPM)とは、「利用可能なすべての防除技術を経済性を考慮しつつ慎重に検討し、病害虫・雑草の発生増加を抑えるための適切な手段を総合的に講じるものであり、これを通じ、人の健康に対するリスクと環境への負荷を軽減、あるいは最少の水準にとどめるものである。また、農業を取り巻く生態系のかく乱を可能な限り抑制することにより、生態系が有する病害虫及び雑草抑制機能を可能な限り活用し、安全で消費者に信頼される農作物の安定生産に資するもの」とされています。(農林水産省,2011ガイドライン:FAOの定義(2013))
IPMを実践する生産者は「要防除水準」や「病害虫発生予察情報」などを参考に、病害虫・雑草の発生をよく観察し、防除要否や防除手段およびタイミングを判断する必要があります。このIPMの考え方は、現在、病院、食品工場、建築物衛生分野等の多方面でいかされ、文化財分野にも影響を与えています。
文化財IPMや資料の保存について、もっと詳しく知りたい方は、こちらもどうぞ。
【エントランスのおまけの展示】
展示室入口では、文化財害虫ザウテルシバンムシの昆虫標本と被害本を実際に手に取ってご覧いただけます。
ロビーでは過去の企画展のポスターを展示しています。
福岡共同公文書館では常設展の一部を入替、秋のミニ特集「公文書と〈害虫〉」がご覧いただけます。
Web展示で一部資料をご紹介しておりますので、そちらもどうぞ。
収穫の秋ですね、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
『公文書でめぐる ふるさと福岡』今回は、筑後市をご紹介します。(筑後市HP)
筑後市は福岡県の南西部、筑後平野(九州最大の筑紫平野の福岡側)の中央に位置する田園都市です。市の南を流れる矢部川の流域は、縄文・弥生時代の集落跡である裏山遺跡があり、古くから人が住んでいた地域です。
(地名がたくさん出て来ますので、末尾に地名等のよみがな対照表をつけています。)
市内を南北に通る坊津街道(薩摩街道)は江戸時代の参勤交代の通り道で、羽犬塚はその宿場町でした。ややルートの変遷はあるものの、平安時代に編纂された『延喜式』(10世紀前半)の中にも「西海道」(古代飛鳥・奈良時代の幹線道路)の駅名として「葛野駅」(現在の羽犬塚付近と想定される)が登場しており、九州縦断の交通の要衝であったことがうかがえます。(参考『福岡県百科事典』)
筑後市から当館に移管された資料は9月末現在で789点です。年代が古いものは、明治時代の字図・一筆限竿入帳などの土地の台帳です。また、教育委員会作成の埋蔵文化財報告書では遺跡や西海道に関連する場所について調査したものも多いです。
温暖な気候と、土壌や水にも恵まれた農業が盛んな土地で、米・麦・イグサ・ナシ・ブドウ・八女茶などが生産されています。炭酸泉の船小屋温泉郷や恋の木神社などの観光スポットがあり、「恋のくに筑後」と題して市をあげての婚活イベントなども盛んです。
筑後市を紹介しながら、恋も応援するPR動画 恋のファーム♡Chiku−Go! ちくご恋するチャンネル(広報ちくご・筑後市公式Youtubeチャンネル)より
藩政時代には久留米藩に属していた地域で、明治22年(1889)町村制施行により、上妻郡の羽犬塚村、二川村、下妻郡の水田村、下妻村、古川村の五ヵ村が成立します。明治29年(1896)上妻郡、下妻郡は生葉郡の一部とともに八女郡となります。水田村(明治41年(1908)合体合併;水田村、下妻村、二川村)と、羽犬塚町(大正14年(1925);町制施行)と、古川村、岡山村(一部)が合併して、昭和29年(1954)4月に筑後市が誕生しました。その後、三潴郡西牟田町と八女郡下広川村の一部を編入して、現在に至ります。
実は、筑後市は、常設展秋の特集「公文書と〈害虫〉」の中でご紹介している、明治の螟虫駆除とも深いかかわりがあります。今回は『筑後市史』2巻「益田素平と螟虫駆除法」に登場する、益田素平(八女郡江口村の老農、のち二川村長)と螟虫駆除に関連する資料をご紹介します。
近世、農作物の〈害虫〉は、「虫」または、稲につく虫「蝗」と呼ばれ、天災のひとつとされていました。民俗行事で今も残る虫送りや虫追いは、呪術的な害虫駆除による豊作祈願であり、虫供養は農作業の過程で駆除した虫への鎮魂でした。
明治の福岡県では、品種改良や施肥の改善によって、茎が太く収量の多い稲がつくられるようになりましたが、この稲の茎を中から食す螟虫(螟蛾の幼虫)による甚大な被害が発生します。
(ニカメイチュウ写真提供:福岡県農林業総合試験場 病害虫部)
螟虫というのは通称で、方言でスムシ、ズイムシ、ナカザシ、シンキリ、イネノドウムシ、カラクダシなどと呼ばれていました。稲の茎の中で幼虫が成長し、年2回(2世代)発生するので二化螟虫(二化螟蛾の幼虫)と名づけられました。現在はあまり見られなくなりましたが、ウンカと並び稲作に大きな被害をもたらした〈害虫〉で、とくに筑後地方では、年3回発生する三化螟虫(三化螟蛾の幼虫、イッテンオオメイガ)による深刻な被害を受けていました。
福岡で、県や明治政府に掛け合いながら螟虫駆除予防に尽力したのは益田素平をはじめとする筑後地方の老農たちでした。老農というのは、西洋農学を学ばずに在来の農業技術の改良をおこなってきたひとたちのことです。益田は自身の試験田での研究と新しく知られるようになった西洋昆虫学の情報を照らし合わせ、稲の茎を中から食して穂枯れをおこすメイガの幼虫(特に、三化螟虫)の存在を確信します。1877(明治10)年、当時副戸長でもあった益田は「螟虫駆除予防稟申書」を福岡県に提出し、県の対応を求めます。県からも国へ上申し、内務省勧農局員の鳴門義民(青森のニカメイガと九州で発生していたサンカメイガについて、虫害の調査、駆除の方法の指導に当たっている)が派遣されます。鳴門との協議の結果、益田が提案した様々な防除方法の中から、稲刈りを終えた稲株をすべて掘り起こして寒気にさらし焼却する「稲株掘り起し法」が有効とされ、導入への働きかけが行われます。
1879(明治12)年10月 メイガの被害町村連合会(三潴、八女、山門の三郡)で益田素平・中島忠蔵(上妻郡島田村)・原口茂七(下妻郡常用村)ら螟虫研究老農たちが説明を行いますが、「稲株掘取」は時期尚早と採用されませんでした。代わりに18か所の螟虫試験所が設置されました。
『福岡県における螟蟲(めいちゅう)駆除豫防の沿革 病害虫駆除豫防資料第15号』(1-1-0007432)附益田素平翁遺稿螟虫実験説
1880(明治13)年10月、反対意見も多い中、益田素平・佐野貞三(三潴郡八丁牟田村、現大木町)らの啓発や渡辺県令の説示もあり、上妻下妻、三潴、山門の4郡聯合会で当年度の「稲株掘取焼却」による駆除予防の実施が採用されます。被害の大小にかかわらず収穫後の稲株を掘取焼却等処分をすることとされ、罰則もありました。しかし、県から強制される形で非常に労力の要る「稲株掘取」を行うことは、すぐには理解を得られず、同月反発する農民らによって「不掘取」を請願する「筑後稲株騒動」が起き、益田や佐野、郡長や議長が襲撃の対象となりました。三潴郡27カ村、上妻郡45カ村、800名に及ぶ逮捕者を出したこの騒動ののち、次第に農作物の〈害虫〉と駆除予防の必要性が理解されていきます。明治29年には、明治政府によって害虫駆除予防法が制定され、県の害虫駆除予防規則のもと行政主導の組織的な防除が行われるようになり、農業試験場での応用昆虫学や農法、薬剤の研究とともに農業の近代化がすすんでいきます。
『二川村会決議録 八女郡二川村役場』(1-2-0005938)、『筑後市史 第二巻』(2-4-0005776)
明治22年、益田素平は二川村の村長に就任しています。明治政府による「害虫駆除予防法」が公布された明治29年、福岡県令に基づき、二川村会は「苗代田並植田螟虫駆除規定」を制定しました。行政区ごとに取締人を選び、村の直営事業として苗代田の採卵と捕蛾とその買上、枯茎採取の夫役雇入れが行われました。また益田は、反発を招く原因となった稲株掘取の労力を減らし、稲株処理を普及させるための稲株切断器(株切鍬)も考案しています。
螟虫駆除のために、益田らが提唱し各地の試験研究機関で研究されるようになった、遁作法、採卵、採蛾、稲株処理、誘蛾灯、虫害稲藁の処理など総合的な駆除対策は、現代の農業におけるIPM(Integrated Pest Management 総合的病害虫・雑草管理)の考え方とも通じるものがありますね。
いかがでしたか?次回は福津市をご紹介します。お楽しみに。
福岡共同公文書館では常設展の一部を入替、秋の特集「公文書と〈害虫〉」がご覧いただけます。Web展示で一部資料をご紹介しておりますので、そちらもどうぞ。
※地名等 ふりがな対照表 (参考:日本歴史地名大系41「福岡県の地名」平凡社、2004年)
食欲の秋ですね、皆さまいかがお過ごしでしょうか。今回は、常設展秋のミニ特集「公文書と〈害虫〉」より、虫たちの旺盛な食欲で食べられてしまった資料のお話です。虫の写真が出てきますので、苦手な方はご注意ください。
公文書館に移管される以前に、長い年月保管されている中で、劣化や災害、虫害などにあってしまった資料もあります。和紙に墨で書かれた資料は、水や湿気には弱いですが、正しく保存すれば1000年以上の寿命を持ちます。文化財害虫による食害を受けた状態で入ってきた資料も、大切な情報を持っています。また、そのままの姿の原本(一次史料)を保管しているからこそ、記録されている情報が証拠としての価値をもつ証明の一助にもなります。
歴史公文書として受け入れる際には、目視点検によって、虫の死骸(生きた虫は出てしまった後のことが多いです)や蛹、卵、糞、カビなどを取り除き、ガス燻蒸による殺菌・殺虫・殺卵処理を行います。燻蒸後は、残った汚れを可能な限り取り除き、保存庫に収蔵します。保存庫に入れた後も、利用の際や定期点検の度に、状態を確認し、必要な手当てを過不足なく行い、環境管理を行うことが、資料保存業務の原則です。
秋の特集展示、公文書と〈害虫〉では、通常は資料への負担をなるべく減らすために、保存庫からほとんど出すことがない、虫損(ちゅうそん)をうけた公文書をご紹介しています。
10月になりました。秋の衣替えはおすみでしょうか。
福岡共同公文書館では、今年度は新型コロナウィルス感染症の影響で、企画展は実施いたしません。
その代わりに、常設展「公文書にみる福岡のあゆみ~福岡県の誕生と市町村合併~」の中の、ミニ特集「行政資料の世界」を入替え、秋のミニ特集「公文書と〈害虫〉」を10月6日より展示しております。ご来館の際には、ぜひ展示室にもお立ち寄りください。
このミニ特集では『国際植物防疫年2020』にちなんで、近現代の福岡県内の病虫害防除・防疫に関連した資料をご紹介しております。
また、『文化財IPM』(文化財分野での虫やカビの害の予防対策の取組み)に関連して、通常は資料への負担をなるべく減らすために、保存庫からほとんど出すことがない、虫損(ちゅうそん)をうけた公文書もご覧いただけます。
ご来館がむずかしい方にもご覧いただけるよう、Web展示にて一部資料のご紹介をしておりますので、そちらもどうぞ。
公文書館発の県内市町村のご紹介、今回は直方市です。
さっそくですが、問題です。
直方市の正しい読みを答えましょう。
「直方」市→「〇〇〇〇」市
福岡県内の方には簡単な問題ですが、県外の方には意外と難読地名だったりします。
答えは「のおがた」市です。
もしかしたら、「のうがた」と間違えて覚えている人もいるのでは…。
発音してみると、「お」なのか「う」なのか迷ってしまうことってありますよね。
そんな迷える人々のために、直方市ではこんなキャッチコピーをご用意されています。
(直方市HPより) |
|
楽しいキャッチコピー!
これでしっかり覚えました!
直方市は、福岡県の北部に位置し、飯塚市、田川市と並んで筑豊三都と称されています。
古くは福岡藩の支藩でしたが、享保5年(1720)年に廃藩となった後は、
長崎街道の木屋瀬宿と飯塚宿の間に置かれた中継地「立場(たてば)」として、
人馬の継立や飲食物の提供を行いました。
明治時代になると、筑豊で産出した石炭の集積地となり、問屋的な役割を担います。
直方駅には操車場や機関区が置かれるなど鉄道輸送の基地として、
また乗合自動車の路線もおびただしく、交通の要衝として栄えました。
炭鉱機械工業や商業の町として石炭産業の盛衰とともに歩んできた町でもあります。
エネルギー革命が起こった昭和30年代以降は、脱石炭への努力を続け、
工業都市、生活都市への発展を遂げました。
(参考『福岡県百科事典』)
昭和6年ごろの直方駅構内(1-1-0024547) |
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直方町交通図(部分)下方部の丸がすべて乗合自動車の会社です。直方駅を起点に様々な乗合自動車が路線をめぐらせていることがわかります。(1-1-0024547) |
直方市の沿革としては、まず大正15年11月に、直方町・新入村・福地村・頓野村
下境村が合体して直方町となり、その後、昭和6年(1931)に市制施行して直方市となりました。
福岡県では9番目の市ということになります。
この時の市制施行申請書は、福岡県公文書のなかに残されています
(1-1-0024547「市制町制施行」)。
添付資料の交通図や写真などは、市制施行時の直方の繁栄を物語る貴重な資料といえます。
昭和の大合併が行われていた昭和30年、植木町を編入して現在と同じ市域が確立しました。
直方市から当館に移管された特定歴史公文書は、2020年9月現在で838点に及びます。
公文書の内容を見ると、〈歳入歳出簿〉が最も多く、教育委員会や農業振興課などの文書も
多く移管されています。
そのなかで注目されるのが、昭和27年に戸畑市、直方市、飯塚市、田川市、柳川市の5市による
一部事務組合として設立された「福岡県五市競輪組合」に関する公文書です。
昭和23年に公布された自転車競技法のもと、小倉を発祥として始まった「競輪」ですが、
昭和27年にこの「競輪」事業の共同運営を行う目的で設置されたのが「五市競輪組合」です。
組合に関する当館所蔵公文書102冊の内92冊が直方市から移管されたものです。
現在でこそオリンピック競技として注目されている自転車競技ですが、
「競輪」の歴史は様々なトラブルや社会的な反発など、
決して順風満帆ではありませんでした。
しかし一方で、自治体財政への功績が大きかったことも事実です。
小倉や久留米の競輪場を借りて、五市競輪組合主催のレースが行われ、
その収益は組合自治体に分配されました。
この「五市競輪組合」文書は、昭和27年の第1回議会事蹟から存し、
平成にいたるまでの組合の活動をたどることができます。
昭和27年時の「競輪」競技のルールブックなどは、自転車競技の歴史を知る上でも
好資料といえるでしょう。
その他東京オリンピックの聖火リレー写真や、昭和50年前後の九州縦貫自動車道や
山陽新幹線延伸に関する文書といった、
高度成長期の社会の様子を示す資料などもあり、バラエティに富んだ公文書群になっています。
第1回議会事績を含む五市競輪組合文書(1-2-0004273) |
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五市競輪組合競輪実施規則(昭和27年)より。当時の選手の服装(シャツ)は「布又は毛製半袖の見苦しくない色彩のもの」と定められていた。(1-2-0004445) |
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東京オリンピック(1964)の聖火リレー隊員委嘱状(1-2-0004363) |
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直方市聖火リレー団の集合写真(同上) |
写真出典:
1-1-0024547「市制町制施行」(福岡県公文書、昭和6年度)
1-2-0004273「議会事績」(直方市公文書、昭和29年度)
1-2-0004445「組合条例規則綴」(直方市公文書、昭和28年度)
1-2-0004363「オリンピック東京大会聖火リレー写真集」(直方市公文書、昭和39年度)
次は、筑後市です。
福岡共同公文書館は「福岡県立公文書館」と「福岡県市町村公文書館」という二つの施設の総称で、福岡県と県内全市町村(北九州市と福岡市を除く)が共同で設置・運営する公文書館です。
福岡共同公文書館には明治以降に作成または取得された公文書の中で行政事務上必要とされる保存期間を満了した文書が各自治体から移管されており、これらの文書は当館のHPで目録を公開しています。
これからこのブログで、福岡共同公文書館所蔵資料の移管元である福岡県及び県内市町村それぞれの紹介とともに、移管元に関連する所蔵資料の紹介をしていきたいと思います。
初回は、「福岡県」です。
福岡は、古代、遠の朝廷(とおのみかど)と呼ばれた大宰府政庁や、外国使節の迎賓館である鴻臚館がおかれ、中国大陸や朝鮮半島と我が国との交流の窓口でした。いち早く大陸文化に触れ、日本のどの地方よりも早く米作りを始めました。また、大陸から新しい文化や学問、外国の品々を受入れてきました。
江戸時代になると、福岡藩・久留米藩・柳河藩・小倉藩などがおかれ、明治になると廃藩置県により藩の地域が県となりました。そしてその後、小倉、福岡、三潴の3県の時期を経て1876年(明治9年)に現在の福岡県ができました。
また、県内の製鉄や石炭産業が日本の近代化を支え、その後、商工業や農林水産業が発展し、空港・道路・鉄道等の交通も整備されていきました。
現在は、アジアをはじめ、世界との交流を促進する交通基盤や文化機能は着実に向上しています。九州の経済や文化、行政の中枢機能の集積が進む中、アジア諸国・世界各地との交流をさらに拡大し、九州、西日本、アジアにおける広域交流都市圏としての一大拠点になっています。
明治以降の福岡県のあゆみについては、当館展示室の「公文書にみる福岡140年のあゆみ~福岡県の誕生と市町村合併~」(常設展)をご覧ください。
福岡県には、北九州市と福岡市の2つの政令指定都市を含めて60市町村(29市29町2村)があります。これら60市町村は、地理的、歴史的、経済的特性などから、「北九州」「福岡」「筑後」「筑豊」の4地域に分けられています。
このような、福岡県のすがたや施策・事業などは
「県政のしおり」(一般向け)
「わたしたちの福岡県」(小学生向け)
というパンフレットを県で作成し、紹介しています。
当館にも過去10年分(それ以前のものも多少あり)を所蔵しています。
(福岡県行政資料:2-4-0013571)
(福岡県行政資料:2-4-0013570)
福岡県から移管された公文書は令和2年7月現在で約45,200冊です。また公文書のほか県が作成した行政刊行物も所蔵しています。
福岡共同公文書館の公文書や行政刊行物は、誰でも閲覧することができます。
ぜひ、福岡共同公文書館をご利用ください。
次回は「直方市」の紹介です。
新型コロナウイルス感染症の感染とその拡大防止のため、令和2年2月28日(金)より臨時休館としていましたが、5月15日(金)から開館します。(展示室は準備中のため閉鎖しています)
なお、今後も新型コロナウイルス感染症拡大を防止のため、下記の対応を行いますのでご理解とご協力をお願いします。
・発熱等、体調がすぐれない方のご利用はお控えください
・来館時には健康チェックシートの記入・検温・消毒をお願いします
・館内への滞在は120分以内でお願いします
・館内ではマスクの着用をお願いします
・席数を減らし、座席間隔を広げます
・定期的に換気を行います
・手洗いや咳エチケットを心がけ、「三密」を避けましょう
利用者の皆さまにはご迷惑をおかけしますが、新型コロナウイルス感染症拡大防止のために、また一日も早く日常に戻れるようになるためにご理解とご協力をお願いします。
なんて日だっっ!!
が、続いている今日この頃です。
福岡共同公文書館も、他の類縁施設と同様、臨時休館のまま、新年度に突入しました。
令和2年度です。
普段から、お客さまでごった返すこともない、静かな公文書館ですが
やはり無観客業務は、寂しい。。。
公文書を閲覧に来てくださる方、展示室をのぞきにきてくださる方、
会議室を利用してくださる方、
新聞を読みに来てくださる方、道に迷って訊ねて来られる方、
トイレを借りに来られる方、
すべてのお客様によって、公文書館は盛り立てられているのだなあ、
と改めてしみじみと思います。
一日も早く、この厳しい状況が収まって、再開館できる日を待ちながら、
もうしばらく、無観客業務をがんばります。
昨日のクリスマスイブ。
みなさま、いかがお過ごしになったでしょうか。
形ばかりのクリスマスディナーを…と思い、
仕事終わりに近くのショッピングモールをのぞいてみたら、
ケーキ屋さんには長蛇の列。
食品売り場では、日常のお惣菜は姿を消し、あふれるばかりのチキンレッグ!
サラダもパーティ用に盛りつけられ、お値段もパーティ用になっておりました。
これじゃあ、うちは仏教徒なのでクリスマスは関係ない、と言っていても、
気がついたら、食卓はなんだかクリスマス…ってことになりかねません。
さて、このクリスマス。はたまたクリスマス商戦。
日本ではいつから始まったのでしょうか?
日本で初めてクリスマス行事が行われたのは16世紀のことだそうです。
現在の山口県で宣教師によって行われた降誕祭が、日本初のクリスマス。
その後、禁教令によって長いこと途絶えますが、
明治時代になると、再びクリスマス文化が戻ってきます。
特に、明治期には店先にクリスマスツリーが飾られ、
いわゆるクリスマス商戦というものが始まりました。
一般の家庭にクリスマスが定着するのは明治の終わりごろだそうです。
昭和に入り、12月25日が、先帝祭(大正天皇が崩御した日)として
国民の休日になると(昭和23年廃止)、
子どもだけでなく大人もクリスマスを楽しむようになります。
昭和9年12月17日の大阪朝日新聞には、「大量注文殺到で品不足の悲鳴」というタイトルで、
豪勢なクリスマス景気の記事が掲載されています。
記事は、
クリスマスが近づき、街のショーウインドウにはクリスマスのデコレーションが施され、
サンタクロースが商店やデパートの売り出しに引っ張りだこ、新商品の提灯式マネキンサンタや、
仮装マスクなどが大いに売れ、家庭用のクリスマスツリーや
デコレーションケーキも色々取りそろえられている様子。
クリスマスプレゼントとしては、フランス人形や絵本などが人気だ、
と伝えています。(*神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫参照)
戦前の日本でも、まさに現在と同じようなにぎやかなクリスマスの風景があったんですね。
その後の日中戦争のぼっ発でクリスマスは禁止されますが、
戦後の昭和23年にはにぎやかなクリスマスが復活してきます。
ここで、当館の資料から戦後まもないクリスマスの様子を見てみたいと思います。
昭和21年12月に戦争孤児、浮浪児などを養育する施設として発足した「百道松風園」は、
昭和22年12月に2度目のクリスマスを迎えます。
当時の職員による業務記録である『日誌』(福岡県公文書、1-1-0021115)の
昭和22年12月25日のページには、次のような記録が残されています。
12月25日(木) 晴 暖
〇福岡高女生徒によりクリスマス飾付をなす。
〇朝礼時、クリスマスのお話をする
〇冬休に入る
午前――垣根作業完了
夜 ――クリスマス演芸会 九時迄
〇来、福岡高女生――クリスマス飾付
〇クリスマス演芸会を子供の主催で行ふ。福高女の生徒さんのお飾りで、
クリスマス気分を十分味ひつつ愉快に行ふ。やはり流行歌が一番多い。
この唄が自然に明朗な児童歌に代る様、われわれの努力が必要である。
演芸会の品性、たまには此の様な品のある会も催し、
丹念な情操教育が必要であろう。演芸会中、各寝室を見廻るも、
各室とも電灯は豆で暗くし、日頃の節電を実行してゐる様が見えた。
12月25日には、福岡県立福岡高等女学校(翌年、福岡女子高等学校と改称。現在の福岡中央高等学校)
の生徒がクリスマスの飾りつけに来園し、夜にはクリスマス演芸会が開催されたようです。
子どもたちの出し物は、流行歌(の歌唱)が多かったようで、
職員は子供向けの歌が増えるようにしないといけない、と考えつつ、
部屋の節電につとめる子どもたちの姿に、日常生活のルールが身についてきた、
と喜んでいる様子です。
戦争のために親や住むところを失ったり、貧困などのために家を飛び出した子どもたちは、
松風園で迎えるクリスマス会にどんな思いをいだいたのでしょうか。
いずれにしても、クリスマス文化が当時の日本にしっかり根づいていたことが、
こうした資料からも窺えます。
クリスマスが終わると、もうすぐお正月です。
先週末は、台風19号の影響で、福岡でも強い風が吹きました。
遠く離れた福岡でも、これほどの影響を受けるのだから、
台風に近い場所はどれほどか…と思ってはいたのですが、
次第に明らかになった被害の大きさに、愕然としました。
本当に自然災害は恐ろしいです。
被災地の皆様には、心からお見舞いを申し上げますとともに、
一日も早い復興をお祈りいたします。
また、なにか協力できることを探して実践していきたいと思っています。
当館では、9月末に企画展「学校給食ヒストリー」が終了しました。
企画展にご協力くださったみなさま、ご来場くださったみなさま、
本当にありがとうございました。
現在、当館展示室では、常設展「公文書に見る福岡のあゆみ」を、
エントランスでは、パネル展「昭和の主基斎田~福岡県の記録から~」を行っています。
このパネル展は、平成27年度の冬に行った同タイトルの企画展のリバイバル展示です。
なぜ、いまさら3年半も前のパネルを展示するのか…といいますと、
11月に大嘗祭(だいじょうさい)が行われるからです!
大嘗祭は、新天皇が即位後初めて行う新嘗祭(にいなめさい)のことです。
近代以降では、明治、大正、昭和、平成、そして令和と5度目の大嘗祭になります。
この大嘗祭にコメを作って献上するのが、
「悠紀(ゆき)」「主基(すき)」という二つの地域であり、
その地域は、亀卜(きぼく)という亀の甲羅を使った占いで選ばれます(斎田点定の儀)。
令和の大嘗祭では、悠紀が栃木県、主基が京都府に決定し、
この二つの地域の田(斎田)で作られたコメは、先日大嘗宮に供納されました(新穀供納)。
今をさること91年前、大正天皇崩御の後1年間の服喪を終え、
昭和天皇の即位の礼と大嘗祭が行われたのが、昭和3年(1928)でした。
その大嘗祭の主基地方に選ばれたのが福岡県です。
この時の資料(公文書、写真)が、福岡共同公文書館に多数移管されており、
主基斎田の詳細を知ることができます。
平成27年度の企画展「昭和の主基斎田~福岡県の記録から~」では、
公文書、写真、絵葉書、お田植衣裳など、関連資料の展示を行い、
昭和3年の福岡県を大いににぎわせた、主基斎田という一大事業についてご紹介しました。
この企画展を行ったときは、まさか次の大嘗祭がこんなに早く行われるとは思ってもいなかったのですが、
せっかくよい機会なので、過去の企画展のリバイバル展示を行うことにしました。
展示パネルは、斎田での農作業、お田植祭、抜穂式(ぬきほしき)などの祭祀、
京都の御所に供納する様子などを記録した写真が中心です。
当時の福岡県は、この一大事業の顛末を文書だけでなく、膨大な記録写真としても残しています。
大変画質の良い写真で、91年前の雰囲気を今に伝えてくれています。
令和の大嘗祭のニュースを見て、大嘗祭や主基斎田にご興味を持たれた方は、
ぜひこの機会に、福岡共同公文書館に来ていただいて、
昭和の大嘗祭と福岡県との関わりについても知っていただきたいな、と思います。
パネルだけでなく、もっと関連資料を見てみたい、という場合は、
利用申請をすればどなたでも資料の閲覧ができますので、どうぞご利用ください。
※平成27年度第2回企画展「昭和の主基斎田~福岡県の記録から~」の
概要や展示資料につきましては、
・当館ホームページ>展示・講座案内>過去のイベント情報>企画展>昭和の主基斎田
・「福岡共同公文書館だより」第9号(当館ホームページ>刊行物等>福岡共同公文書館だより)
に掲載しておりますので、あわせてご覧ください。
あっという間にお盆も過ぎて、8月も残りわずかになりました。
7月23日から始まった企画展も、折り返し地点を過ぎたところです。
今回の企画展は、展示室の外(エントランス)にもいろいろと見どころがあります。
給食年表や福岡県の郷土料理を紹介するパネルの展示、
アルマイトの食器に触ってみるコーナー、
石盤・石筆を体験するコーナー、
明治と平成の小学生の身長を比較するコーナー
などなど。
そして、今回ご紹介するのは、
ご来場のお客さまに、小学校や学校給食の思い出をカードに書いて掲示してもらうコーナーです。
こうしてお客様自身の手で掲示をしていただく試みは、
以前、5周年記念展示「公文書でめぐる鉄道の旅」でもやりました
(この時は鉄道に関する写真を掲示していただきました)が、
展示を見ていただくだけでなく、お客様にも展示に参加していただきたい、
という趣旨で始めた取り組みです。
エントランスの片隅にあるので、気がつかずに帰られるお客さまもいらっしゃるのですが、
今回は、備え付けのカードに
・出身小学校
・年齢
・好きな教科
・好きな給食
・小学校の思い出(授業、給食、休み時間、運動会、遠足、修学旅行/楽しかったこと、いやだったこと)
を書いていただいています。
8月22日現在、87枚のカードが掲示されています。
今回の企画展は、ご家族連れで来場されるお客様が多く、未就学児さんから70代まで、
幅広い年齢層のお客様に書いていただいています。
読んでいると、くすっと笑ってしまったり、わかるわかると共感したり、へえ~と驚かされたり。
結局、企画者が一番楽しませていただいているようです。
その中から、給食に関するコメントをいくつかご紹介しようと思います。
給食に関する思い出で多かったのが、次のようなものでした。
給食時間内に食べ終わることができず、休み時間や掃除時間、5時間目までぽつんと残されることは、
子どもにとってはかなりのトラウマですよね。
私の小学生時代にも、食べ終わることができないまま掃除時間に突入し、
机ごと教室の後ろに下げられてしまった友達がいて、見る方もツライ気持ちになったものです。
同じようなご意見が、他にも多数寄せられていました。
・嫌いな給食を残したら、後日校長室に呼ばれて、校長先生と一緒に給食を食べさせられました(50代、熊本県)
・給食で食べるのがすごく遅く、それが嫌で、早く食べる練習をした事もあった(50代、福岡県)
・給食を食べるのが遅かったので、昼休みに教室に残されて、完食させられたのがつらかったです(50代、福岡県)
・食べるのが遅かったため掃除時間まで食べたり、牛乳が苦手で手洗い場に流したこともありました(10代、福岡県)
読むだけで切なくなります…。
また、こんなコメントもありました。
先生をも黙らせる「ジャガイモのオレンジ煮」。ちょっと味見してみたいような…。
いきなりつらい思い出からご紹介しましたが、一方で、こんなコメントもありました。
残ったおかずやデザートの争奪じゃんけん、ありましたありました!
みんなで協力して「完食」というのは、いいですね。
ところで、みなさんに書いていただいた、「好きな給食のメニュー」では、ダントツ人気が
でした。
なんと、87名中32名がカレーを挙げておられました。
なかには、
こんなコメントもありました(笑)。
「人生で一番」というのは小学校生活の楽しい思い出込みの評価でしょうか。
でも確かに、給食のカレーってすごくおいしかったです。
私も小学生の時、母に「給食と同じカレーを作ってくれ」とごねて、困らせたことがあります。
一方で不人気№1は、これまたダントツで、
でした。
これは経験された世代、知らない世代に分かれますが、
経験された方たちは口をそろえて「まずい!」とおっしゃっています。
直接お話をうかがうことができたお客様から、
「味も匂いもいやだったけど、冷めた時の表面に張る膜が本当にいやだった」
という具体的なご意見もいただきました。
このようにすこぶる評判が悪い「脱脂粉乳」は、
終戦後、子どもたちに必要なたんぱく源として、GHQの公衆衛生福祉局長サムスが導入を強く主張し、
日本の官僚も積極的に給食に取り入れたものです。
しかし、子どもたちにとっては随分悩ましい存在であったようです。
ここまで、人気・不人気のメニューを見てきましたが、他にこんな変わったメニューを挙げてくれた方がいます。
「なっぴー」というかわいらしい名前の割に、かなり攻めた食べ物のようです。
北海道の食べ物らしい、ということで、早速インターネットで検索してみました。
すると「Now Pea」(ナゥピー)という北海道の食品がヒットしました。
学校給食で提供されていたものが、現在では店頭でも販売されているそうです。
(昔はナッピーという名称だったそうです)
果たして、もなかの皮に冷凍納豆が入っているおやつ?でした。
このコメントをくださった方は、味について書かれてていなかったものの、
確かに「アイスもなか」と思ってかぶりついて、中身が納豆だったら、
その衝撃はいかほどか、想像にかたくありません。
ただ納豆好きとしては、ちょっと試してみたい一品です。
このほか、北海道出身の方が好きな献立として挙げてくださった「味噌ラーメン」、
長崎県出身の方の「ちゃんぽん」、熊本県出身の方の「太平燕」などから、
その地域の郷土料理が給食に取り入れられていることがわかりました。
地域や学校によって、さまざまに異なる給食のメニュー。本当に興味深いです。
また、調理士をされていたお母さまの思い出や、
離島の小学校の給食事情について書いてくださった方もいて、
非常に読み応えのあるバラエティに富んだコーナーになっています。
展示室の中も楽しいですが、ご来場の際には、
ぜひこの小学校の思い出コーナーもご覧になってください。
そしてあなたの思い出を残して帰ってください!
去る8月3日(土)に当館の公開講座、「親子和綴じ講座」を開催しました。
講師として倉本優子先生をお招きし、26名の親子の方たちが頑張って和綴じのメモ帳を作成されました。
普段は、なかなかお子さまに来ていただけない公文書館ですが、
今夏は、企画展「学校給食ヒストリー」や今回の「親子和綴じ講座」などの開催により、
館内に子供たちの元気な声がひびき、楽しそうな笑顔を見ることができ、
スタッフ一同大いにいやされております。
さて。
今回は「和綴じ」から話を始めましたので、公文書の綴じ方について書いてみたいと思います。
みなさんは、公文書というと、どのような姿を想像されるでしょうか?
福岡共同公文書館は、明治から平成までの、福岡県および県内58の市町村の公文書を保存しているので、いろんな時代の、いろんな自治体の公文書を一覧することができます。
そうやって見てみると、「公文書」と一口に言っても、本当に様々な姿をしていることに改めて気づかされます。作成された時代や、作成・使用・保存されていた場所(自治体)によって、その姿は異なるのです。
たとえば、明治時代のある村の公文書。
明治9年の上山田村(現・嘉麻市)の地租取調帳(村控)です。
地租改正に伴って作成された文書で、地租の区分(地目)、等級、地租金一覧などが記載されています。
この文書は、表紙に表題を直書きした(打付書)、四つ目綴じの装丁となっており、
こうしてきちんと製本されているところを見ると、地租に関する重要な文書として
長く保存されることを予定して作成されたことが想像されます。
このような体裁は、いまだ近世の気配が色濃く残る明治初期という時代性を強く感じさせるものです。
これは、明治24年に作成された赤村の「村会議件及雑書留」という公文書です。
村会の開設告知や議決報告などを綴ったものです。
共表紙にこより綴じという体裁は、近世の文書でもよく見かけますが、
明治期の公文書でも多く見られるものです。
先の地租取調帳と異なるのは、地租取調帳が完結文書として製本されているのに対し、
こちらは、こよりによる仮綴じの体裁であるということです。
こうした年ごとの議会文書(仮綴じ)を数年分まとめて製本している例をよく見かけます。
こちらは、時代が少しくだって、明治終りごろの福岡県の公文書です。
表題が打付書きされ四つ目綴じの、和本の体裁ですが、
先の明治9年のものとは異なり、背の部分を表紙と同じ用紙でくるんであります。
包背装の一種と考えられるこの体裁では、小口の部分に何も記されない代わりに、
背の部分に表題が記載されており、和本は平置きが基本ですが、
こちらは縦置きに保管されていたのではないか、と想像されます。
文書の保管の仕方も徐々に近代化されていく様子が、こうしたささいな変化からうかがえるのです。
こちらは昭和初期ごろ、横山村(現・八女市)役場が作成した道路台帳です。
表紙は厚紙で、上下二ヶ所をこよりで綴じています。
こちらは津屋崎町(現・福津市)の町条例という公文書です。
昭和3年に作成され、昭和26年まで使用されていたものです。
黒表紙に、上下二ヶ所の紐綴じで、背は表紙とは別の紙が付されています。
(この背表紙は後補のようです)
長期間使用するために、中身を加除しやすい様式になっており、
縦置きで整理しやすいよう、表紙は厚手で、背にもしっかりした用紙を用いています。
昭和も終わりごろになると、紐綴じに代わって、
金属などの留め具がついたファイルが登場してきます。
こちらは昭和57年の福岡県公文書です。
レバーファイルが用いられています。
レバーファイルは、穴をあけずに文書を綴じておくことができ便利ですが、
留め具をはずすと文書が散乱してしまう恐れがあるので注意が必要です。
また、大量の文書を綴じるのには向きません。
こちらは、平成4年の福間町(現・福津市)の公文書です。
パイプ式ファイルが用いられています。
穴をあけて綴じるタイプのファイルで、大量の文書にも対応可能です。
仕切りやインデックスを使って、文書を整理することができます。
しかし、容量に合っていないファイルを用いると、
無駄に場所をとってしまうという難点があります。
こちらは平成21年の岡垣町の公文書です。フォルダで整理されています。
フォルダは、1枚の厚紙を2つに折った紙挟みです。
フォルダのタブにタイトルを書いて、文書を挟んで立てて並べて使います。
検索性、利便性の良いファイリング方法で、文書の見直しがしやすい、
廃棄しやすいといった特長があります。
フォルダは、ボックスファイルで保存したり、引き出し式の什器に並べて保存したりします。
以上、見てきたように、公文書の綴じ方は年々変化してきました。
それは、道具の進化ということだけでなく、
書棚、机などの什器を含む執務室内の環境の変化からの要求によるものと考えられます。
執務室の環境は、自治体それぞれで異なりますし、
文書管理の方針もまた自治体ごとに差異があることから、
公文書も年代ごと自治体ごとに様々な姿をしているのだと思います。
内容ばかりに目が行きがちですが、公文書を外側から見てみるのも、案外楽しいものです。
企画展「学校給食ヒストリー」の関連イベントとして、講演会を開催いたします。
講師は、日本経済大学の竹川克幸先生。
竹川先生は、福岡県内の食文化や、筑前地方の鶏肉・鶏卵の食文化史研究の第一人者で、
テレビやラジオでのコメントされることもあり、今回も楽しいお話を聞かせてくださると思います。
(今朝のNHKアサイチ(福岡の鶏料理特集)でも、パネルでご出演されていましたよ!!)
タイトルは、
です。
食文化といえば、
わたしの祖母の家は長崎県の「東彼杵(ひがしそのぎ)」という町にありまして、
この町は古くから鯨肉の流通拠点として栄えた町です。
くじらはスーパーで普通に販売されていて、お正月やお盆などで親戚が集まると、
鉢盛には、赤身やおばいけ、百尋(ひゃくひろ)など、さまざまな部位が並び、皆で舌鼓をうったものです。
普段も、肉じゃがのお肉のかわりにくじらを入れたり、湯かけくじらなどは、よく食卓に並びました。
子どものころは、全国の家庭で普通にくじらを食べていると思っていたので、
そうではない、と知った時は結構ショックでした。
地域の歴史が独自の食文化を生み、郷土料理として定着していくわけですが、
その流れを逆にたどることはとても興味深いと思います。
福岡県も、各地域で独自の食文化が残っています。
自分たちが当たり前だと思って食べている料理のルーツはなんなのか、
地域の歴史との関わりを知ることで、その料理に対する見方が変わるかもしれません。
今回の講演会は、そうしたことを考えるきっかけになると思います。
とき:7月27日(土)午後2時~4時(受付 午後1時30分~)
ところ:福岡共同公文書館 2階研修室
定員:80名(事前申し込み・先着順)
申込先・お問い合わせ:福岡共同公文書館(092-919-6166)
「冷やし中華はじめました」風タイトルですけれども。
令和元年度第1回企画展として、「学校給食ヒストリー」が
7月23日(火)から始まりました。
今回は、学校給食の歴史がテーマです。
また、給食の舞台であった小学校の歴史もあわせて見ていただける展示になっています。
当館の、気は優しいけど見た目がイカツイ公文書さんたちを盛り上げるために、
福岡県学校給食会さま
筑紫野市歴史博物館さま
久留米市教育委員会さま
から、強力な助っ人(資料)に来ていただいております。
文書とモノ資料とレプリカ、色とりどり、形さまざま、内容もおもしろく、
目にも楽しい展示になっていると思います。
おじいちゃんが子供のころって、小学校あったと?
お母さんの好きやった給食ってなに?
子どもたちからそんな質問を受けてしまったおじいさま、そしてお母さま。
どうぞ「学校給食ヒストリー」へお越しください。
展示を見て、お話に花が咲くと思います。
エントランスでも、パネル展示のほか、
石盤・石筆体験コーナーやアルマイト食器にさわれるコーナー、
小学校の思い出を書いて壁に展示してみるコーナーなど、
色々なコーナーを準備しておりますので、
夏休み中のお子さまをさそって、帰省中のお友達をさそって、
ぜひぜひ遊びにきてください!
改元から1週間過ぎました。
公文書館も、連休が終わり、いよいよ新元号のもと始動しました。
当館の閲覧室の中央に並べている、福岡県内60市町村の広報紙も
新しい元号を載せた最新号がやってきました。
「令和元年5月号」と号数表記の部分に掲載している市町村もあれば、
表紙のテーマや巻頭ページに新元号を掲載している市町村もあり、
はたまた元号なしの西暦のみを表記している市町村もあり、
それぞれに個性があって面白いです。
今回は、昭和から平成への改元と異なり、1か月前に新元号の発表があったので、
広報紙への掲載もスムーズにいったのではないでしょうか?
ちなみに、平成改元の時は、
昭和64年1月7日に昭和天皇が崩御され、皇太子殿下が天皇に即位されました。
同日、臨時閣議において新元号が「平成」と決定し、
官房長官から記者発表がありました。あの有名なシーンです。
そして翌1月8日に改元され、平成が始まったのです。
当時の広報紙(1989年1月号)を見てみると、
1月8日以前に発行された広報紙の発行年は「昭和64年」、
それ以降に発行された広報紙の発行年は「平成元年」と表記されています。
(1989年1月号の「広報かすや」(左)と「広報みわ」(右))
(1月1日発行の「広報かすや」の発行年は「昭和64年」(上)、
1月10日発行の「広報みわ」の発行年は「平成元年」(下)と表記されている)
当時の県内の広報紙すべてに目を通したわけではありませんが、
今回確認した広報紙では、「昭和」から「平成」への改元をはっきりと示しているのは、
発行年の元号部分のみで、改元にまつわる写真や特別な記事は見当たりませんでした。
昭和天皇の崩御ということもあり、社会全体が自粛ムードだったことにもよると思いますが、
突然「昭和」が終わり、いきなり「平成」になった、という感じでした。
今回は、静かに「平成」を見送り、にぎやかに「令和」を迎えた、というところでしょうか。
新緑の美しい季節を迎えました。
令和元年、公文書館も新たな気持ちで頑張っていきます!
※今回ご紹介した広報紙はすべて当館閲覧室、展示室にて見ることができます。
ぜひ、ご来館ください。
ごぶさたしております。
年の初めには張りきっていたのに、その後公文書館ブログ休眠しておりました。
先日、新元号の発表がありましたね。
「令和」れいわ
出典となった万葉集の詞書の梅花の宴は大宰府の大伴旅人の邸で行われたそうで、
そう思うと、福岡県民としては親近感が湧いてくるような・・。・・。
何はともあれ、新元号も決まり、ふわふわとしていた気持ちが落ち着いたような気がします。
「平成」も残り1ヶ月。
前回の改元の時は、「昭和」の終わりと「平成」の始まりの間には1日しかなかったのですが、
今回はゆっくりと「平成」を惜しむことができます。
最近では、何かにつけて「平成最後の」という枕詞がつくのですが、
九州・四国・本州では「平成最後の桜」も、
北海道で咲くころには「令和最初の桜」となるかもしれませんね。
公文書館では、常設展を再開しました!
今回は、特集「さようなら平成」展もやっています。
ぜひ見に来てください。
こちら、九州は福岡県筑紫野市。
日中暖かい日が続いています。
暖冬ですね。
例年なら、この時期は、朝出勤しようと思うと、車のフロントガラスが凍りついていて、
「遅刻する~」と自分も凍りつく…ということが、頻繁にあるのですが、
今冬はフロントガラスガッチガチ体験、それほど味わわずにすんでいます。
それでも、筑紫野市は内陸部に位置し、朝はぐんと冷え込みます。
今朝も、公文書館の植込みに霜が降りていました。
今日はお天気なので、昼間はまた暖かくなりそうです。
2月5日から、冬の企画展が始まります!
お楽しみに!
あけましておめでとうございます。
残すところ、平成もあと4ヶ月となりました。
本年もよろしくお願いいたします。
県公文書(長期分)が搬入されてきました。
当館では毎年、保存期間が満了した県及び市町村公文書のうち、
歴史資料として重要なもの、いわゆる「歴史公文書」を収集し、永久保存しています。
県公文書については、「有期分(保存期間1年・3年・5年・10年・20年)」と
「長期分(保存期間永年長期、30年)」の2回に分けて引渡しを受けています。
今回(12月6日)は、長期分の県公文書の搬入がありました。
102箱、800冊以上の文書です。
年末には、その倍以上の量の有期分の搬入を予定しています。
当館では、長期保存に耐えられる処理(傷んだ文書の製本補修や虫害防止のための燻蒸)を行い、
整理保存します。
続きです。
「主基斎田記念館のゆくえ 2」にも書きましたが、
開館当時の〈主基斎田記念館〉には、
主基斎田事業で使用された農機具や道具、衣裳などが陳列されていました。
そのころの記念館内部の様子は、「主基斎田記念館開館記念絵はがき」によって、
わずかながら知ることができます。
絵はがきの写真があまり鮮明ではないのですが、
衣裳を着たマネキンや、斎田地の模型、様々な標本らしきものが並んでいることがわかります。
陳列品の詳細については、
昭和6年に福岡県が発行した『昭和主基斎田記録』に、
昭和5年6月1日現在の「主基斎田記念館陳列品目録」が掲載されているので、
それで確認することができます。
この目録から、いくつか挙げてみますと、
・戸畑石油発動機(4馬力)
・半田式渦巻ポンプ
・ミノル親玉号脱穀機
・ナショナル精米機(昇降器共)
・荷車
・深見犂(すき)
・塩水選桶
・耕牛装身具 1揃
・麻製磨袋
・捕虫網
・唐櫃(からびつ)
・八乙女舞服装(付属品共)
・絵はがき(抜穂式記念品)
・主基斎田収納米製菓子(昭代)
・主基斎田稲株標本
・大礼使事務官衣冠束帯 1揃
・太田主作業服(冠付)
・奉耕者式服・作業服
などなど、
主基斎田事業に関するあらゆる資料が収蔵・陳列されていたことがわかります。
しかし現在、主基斎田事業に関するモノ資料として残っているのは、
斎田地である早良郡脇山村(現・福岡市早良区脇山)に残された米や箸などの記念品や衣裳、
当館が所蔵する写真帳や、そのほかフィルムなど、ごくわずかです。
記念館に収蔵されていた品々は、どうなったのでしょうか?
『福岡県立農業試験場百年史』(昭和54年3月発行)によれば、
「第2次世界大戦の結果、陳列品のごとくは遺憾ながら逸散し、辛じて建物のおもかげを残すのみである」
と記され、記念館の建物は残ったものの、
中の陳列品は、戦後の混乱のなかで散逸してしまったとのことです。
平成27年度に当館が開催した企画展「昭和の主基斎田~福岡県の記録から~」の事前調査で、
筑紫野市在住のある男性からお話をうかがう機会がありました。
この方は、戦中から戦後にかけて、上古賀の農事試験場で働いておられた経験をお持ちです。
その方の話では、
・〈主基斎田記念館〉はとても立派な建物だったが、中では展示などはされていなかった。
・戦時中、記念館は物資倉庫として利用されており、軍から航空用燃料などを預かっていて、
見張りも立っていた。
・戦後すぐは、記念館にはいろんな人が出入りしていたので、収蔵品もその時に持ち出されたのではないか。
ということでした。
昭和17年3月ごろに二日市に移築された〈主基斎田記念館〉は、
戦時中ということもあり、資料の陳列などは行わず、
戦後の混乱に乗じて収蔵物を散逸してしまった、ということで間違いはなさそうです。
中身を失った〈主基斎田記念館〉は、その後も35年あまり二日市は上古賀の地に建っていましたが、
昭和56年の農業試験場の再移転の際に取り壊されてしまいました。
長くなりましたが、最後です。
企画展「昭和の主基斎田~福岡県の記録から~」を企画した当初、
まさか当館と主基斎田とが記念館を通して結びつくなど、まったく想像もしていませんでした。
しかし、準備段階から、いろいろな人や場所との出会いに恵まれ、
「ご縁」を感じる場面がたくさんありました。
今から考えると、当館の場所にかつて建っていた〈主基斎田記念館〉の、
「展示をして、昭和の主基斎田のことをみんなに伝えてくれ~」という声なき声に導かれて、
展示を〈させられた〉のではないか、
と、季節外れのオカルトチックな妄想がわいてくるのです…。
続きです。
福岡市住吉から筑紫郡二日市町の福岡県立農事試験場に移築された〈主基斎田記念館〉。
いったい、試験場内のどこに建っていたのでしょうか?
上記図面は、二日市時代の農業試験場(農事試験場)の配置図です。
赤丸で示した部分の建物が「記念館」と説明されています。
〈主基斎田記念館〉のことです。
「記念館」から、真下に伸びた直線の先に、黒点二つで示されているのが、試験場の正門です。
つまり、試験場正門の真正面の位置に建っていたことになります。
二日市時代の〈主基斎田記念館〉を撮影した写真↑では、
手前に写る正門との位置関係がよくわかります。
さて、試験場内の〈主基斎田記念館〉の位置を確認したところで、
本題です。
〈主基斎田記念館〉が建っていた場所は、現在のどの辺に当たるのでしょうか?
↑は、「主基斎田記念館のゆくえ2」にも載せた現在の筑紫野市上古賀付近の航空写真。
試験場の跡地に当たる部分です。
中央を縦に走っている直線が、県道137号線。
青い四角で囲んでいる部分が、福岡共同公文書館です。
そして↑は、農業試験場の平面図(部分)。
航空写真に合わせて回転させ、注釈をつけています。
ちなみに赤で縁取りしているのが〈主基斎田記念館〉です。
道路の位置や、溝の形状などに注意しながら、現在の航空写真に平面図を重ねてみます。
おわかりいただけますでしょうか。
なんと〈主基斎田記念館〉は、隣のグランドにまがたるかたちで、
福岡共同公文書館の真裏に建っていたのです。
それとなく、当館と主基斎田記念館との浅からぬ因縁をこじつけたところで、
最後の疑問。
〈主基斎田記念館〉に収蔵されていた、資料の数々はどうなってしまったのか、です。
またまた続きます。
続きです。
昭和3年2月に福岡県が大嘗祭の主基地方に決定してから、
実際に米作りを行う〈斎田〉の選定、栽培する米の選定、農作業を行う奉耕者の選定、
そして実際の米作り作業、各神事の準備・実施、最後の京都大宮御所への奉納に至るまで、
延べ9か月間にわたる斎田事業が行われました。
すべての斎田事業が終了した後、「大嘗祭主基斎田奉仕を永遠に記念し、農業の振興を図る」目的で、
〈主基斎田記念館〉の建設が県会で可決され、
福岡市住吉にあった福岡県立農事試験場
(※昭和24年に福岡県立農業試験場と改称。現・農林業総合試験場)内に、
建坪202坪、純日本式社殿建造りの立派な記念館が完成しました。
記念館建設にあたっては、大嘗祭で使用された建物の一部を下賜され、
京都御所から移築して使用しました。
記念館内部には、斎田事業で使用された農機具、道具、衣裳などが展示されました。
落成記念の絵はがきからは、真新しい記念館の外観や、陳列品の充実ぶりなどが見て取れます。
昭和14年になると、農事試験場は福岡市住吉から、筑紫郡二日市町(現・筑紫野市)に移転します。
それにつれて、主基斎田記念館も昭和17年3月、同地に移築されました。
福岡県立農事試験場が移転したのは、現在の筑紫野市上古賀です。
昭和14年の移転から約40年間上古賀の地にあった試験場ですが、
昭和56年に筑紫野市吉木へ再度移転しました。
福岡共同公文書館は、この試験場跡地に建っています。
福岡共同公文書館のみならず、南は筑紫野市文化会館から北は筑紫野警察署、
道路をはさんでJT九州工場が建つこの一帯には、かつて広い広い農事試験場が広がっていたのです。
昭和23年の航空写真で、オレンジ色の線で囲んでいる部分が、農事試験場です。
写真中央を縦に走る白い直線は県道137号線で、
この道路をはさんで、右側に圃場が広がり、左側に建物が並んでいます。
そして、この試験場跡地の現在の姿がこちら↓。ずいぶん変わりました。
さて、上古賀時代、試験場内のどこに、主基斎田記念館は建っていたのでしょうか?
またまた、次に続きます。
12月ですね。
いつもの年なら、何かと気ぜわしくなる時期ですが、
今年は暖かいせいか、「師走」に入っても、なんとなく気持ちがのんびりしてしまいます。
さて。
もう、2週間ほどたちますが、
11月23日は「勤労感謝の日」の祝日でした。
3連休だったという方も、多かったのではないでしょうか?
「勤労感謝の日」が制定されたのは、昭和23年のことです。
それまで11月23日は、「新嘗祭(にいなめさい、しんじょうさい)」の休日でした。
「新嘗祭」は天皇がその年の収穫に感謝する宮中祭祀であり、
各地の神社でも神事が行われています。
その新嘗祭のなかでも、
新天皇が、即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を「大嘗祭(だいじょうさい)」といいます。
天皇が即位後ただ一度だけ行う儀式なので、明治以降はまだ4度しか行われていません。
今上天皇が即位された1990年に行われた大嘗祭が、直近のものになります。
「大嘗祭」の儀式で使用する新穀を、栽培・収穫し、奉納する役割を担うのが、
「悠紀(ゆき)地方」と「主基(すき)地方」です。
この二つの地方(近代以降は都道府県単位)は、亀卜(きぼく)つまり亀の甲羅を用いた占いで選ばれます。
来年5月1日に、新天皇が即位されますが、その後この亀卜を行う「斎田点定の儀」が行われ、11月に大嘗祭が行われる予定だそうです。
さて、今から90年前の昭和3年。
昭和天皇の即位の礼と大嘗祭が行われました。
この時、亀卜によって福岡県が「主基地方」に選ばれました。
そこで福岡県では、斎田の選定から、米作りなどの主基斎田事業に奔走することになります。
福岡共同公文書館では、平成28年2月~3月に企画展「昭和の主基斎田~福岡県の記録から~」を開催し、福岡県での主基斎田事業をご紹介しました。
この展示については、
当館ホームページ>「展示・講座案内」>「過去のイベント情報」
に詳細を掲載しておりますので、そちらをご覧ください。
もともとこの展示は、当館にこの主基斎田に関する公文書や写真などの資料が多数移管されており、これらの資料をご紹介する目的で、企画しました。
しかし、展示準備のためにいろいろ調べていくうちに、
「やや、これはなにかしら、運命というものに導かれて、この企画が降りてきたのではないか・・・」
と、思うようなことがわかったのでした。
それは、なにか?
次回に続きます。
10月1日に、那珂川町が市制施行して那珂川市となりましたが、
福岡県には、11月にお誕生日を迎える市が、二市あります。
(この場合のお誕生日は、市制施行、つまり「市となった日」を指しています)
市制施行の年代順にご紹介しますと、
まず、田川市。
昭和18年(1943)11月3日 伊田町と後藤寺町が合併して、市制施行し、
田川市となりました。
両町の合併は、以前から議論されていたところでしたが、
大きく合併・市制施行へと動き出したのは、
昭和17年9月に起こった
田川区裁判所の廃止問題がきっかけでした。
もともと取扱い件数が多い同裁判所が廃止となったのは、
この地区が市制施行していないことが原因となっていることがわかったのです。
両町は、合併そして市制施行についての協議へと進んでいくことになります。
昭和18年5月に正式な合併協議を始め、
わずか5ヶ月後には内務大臣から市制施行の正式な認可を得ることができました。(以上「田川市史」参照)
そして11月3日、田川市が誕生したのです。
田川市は、今年75回目のお誕生日を迎えました。
*************************************
次に、中間市。
昭和33年(1958)11月1日 中間町が市制施行して中間市となりました。
戦後、行政事務処理の効率化と住民福祉の向上をはかるために、
市町村の規模を見直そうということになりました。
町村合併促進法や新市町村建設促進法が公布・施行され、
町村合併や市制施行が進みました。
いわゆる昭和の大合併です。
福岡県でも、町村合併促進審議会条例を制定して合併を進めました。
昭和29年までに、柳川市、山田市、甘木市、八女市、筑後市、大川市、行橋市
が市となりました。
中間町を含む遠賀郡では、昭和25年に、遠賀郡6町村が合併して遠賀市を
誕生させる計画が浮上しましたが、実現にはいたりませんでした。
さらに、地方自治法が定める市制施行の基準が「人口5万以上」であり、
中間町の人口はこれに達していないために、単独での市制施行は難しい状況でした。
しかし昭和33年4月、地方自治法の一部を改正する法律が公布され、
昭和33年9月30日までに申請を行った自治体は、
人口3万以上をもって市になることができることになりました。
これを受けて、中間町議会は市制調査特別委員会を設置し、
市制施行に関する調査検討を行い、9月17日の町議会で、市制施行が可決されました。
まさに、タイムリミット寸前の決定でした。(以上「中間市史」参照)
そして中間市は、今年、60回目のお誕生日を迎えました。
人に歴史あり、と言いますが、
市町村にも歴史あり、です。
自分の住んでいる市町村のお誕生日、調べてみませんか?
皆さまご存じの通り、10月1日に那珂川町が市制施行し、
那珂川市が誕生しました。
これで福岡県内の市町村の内訳は、29の市と29の町と2の村となりました。
と同時に、筑紫郡が無くなりました。
筑紫郡は、明治29年(1896)の郡制施行時に、御笠郡、那珂郡、席田郡の区域をもって発足しました。
発足当初は、2町20村が属していました。
大正15年(1926)に郡役所が廃止され、郡は単なる地域区分の名称となりました。
昭和47年(1972)に筑紫郡に属していた5町のうち、筑紫野町、春日町、大野町が市制施行し、
昭和58年(1983)に太宰府町が市制施行して、筑紫郡に属する町は那珂川町だけになっていました。
そして今回、那珂川町が市制施行したため、筑紫郡に属する町が無くなり、筑紫郡が消滅した、
というわけです。単なる地域区分なので、無くなるからどうということもないのですが、
市の誕生の陰でそっと姿を消す、というのがちょっぴり切なくもあります。
当館でも、那珂川市の誕生に合わせて、掲示物や見出しの変更をしました。
そして、当館にやって来た那珂川市作成の資料第1号は、「広報なかがわ」でした。
「広報なかがわ」を含む、県内自治体の広報紙は、当館閲覧室に置いています!
早いもので10月です。
暑さがようやく一段落した、とほっとしていたら
ここ数日の朝晩の冷え込みで、あっという間に風邪を引いてしまいました・・・。
まったく油断できない季節の変わり目です。
ここ数日といえば、
ノーベル生理学・医学賞の受賞が決まった、本庶佑先生の会見を見て、
心洗われる思いがしています。
研究には、好奇心とあきらめない気持ちが大切とのこと。
どちらも、年を重ねるうちに、失いがちですが、
研究のみならず、日頃のお仕事にも生活にも大切なことだと改めて思いました。
よし!
好奇心を満タンにして、ブログのネタを探そうっと。
さて。
当館の夏の企画展は、無事に終了いたしました。
ご観覧くださった皆さま、ありがとうございました。
ご協力いただいた皆さま、ありがとうございました。
企画展開催期間中、ケース内に展示していた特大錦絵は、
しばらくエントランスに掲示しておりますので、
「見逃した」という方、「もっと近くで見たかった」という方、ぜひ御覧ください。
展示室では、9月29日(土)から常設展を行っております。
こちらもぜひどうぞ!
なお次の企画展は、来年2月からを予定しております。
そのうち、詳しい情報をお届けしたいと思います。
みなさん、くれぐれも、風邪には気をつけてくださいね!
企画展も残り日数がわずかとなってきました。
大変だった準備作業の日々を、
「あの頃はワクワクして楽しかったよな~」と懐かしく思い出す今日この頃です・・。
さて、今回の企画展、錦絵もさることながら、福岡県立図書館からお借りした、
「福岡県史稿」という資料が、これまたすごくおもしろいものでした。
佐賀の乱や秋月の乱、西南戦争に関する電報綴り、事件に関する県と関係地域の戸長とのやり取り、
事件の捜査の探偵書、取調書などなど、読めば読むほど興味がつきません。
ただ、展示する上で、「文書」はなかなか悩ましい存在です。
中身を読んでもらわないと意味も面白さもわからない。
でも、古い文書は、くずし字で書かれていたり、文語体で書かれていたりして、
なかなか読みづらい。
すっきりと、わかりやすく、それでいて「文書」の持つ面白さを十分に伝える・・・
これは、公文書館における展示の大きな課題ではありますが、
せっかくブログなぞやっていますので、この場を借りまして、
展示中の文書資料をご紹介してみよう、と思います。
今回展示している県立図書館所蔵「福岡県史稿」のなかで、比較的読みやすく、
内容がわかりやすいのが、逃亡者捜索のための「人相書」です。
現代でも、指名手配犯のモンタージュ写真や似顔絵が、交番や公共の建物などに掲示されているのを
目にします。時代劇でも、高札に下手人の似顔絵を掲示している場面を見かけますが、江戸時代以来、
人相書といえば、姿かたちの特徴を箇条書きで示すのが一般的でした。
ご紹介するのは、西南戦争のさなか、明治10年3月に発生した「福岡の変」の首謀者の一人、
武部(建部)小四郎の人相書です。
西南戦争が始まると、福岡でも西郷軍に呼応して挙兵をもくろむ、越智彦四郎、武部小四郎ら
士族たちの動きが活発化し、ついに明治10年3月末、決起して福岡城を襲撃します(「福岡の変」)
が、あえなく失敗に終わります。越智彦四郎らの敗走を知った、別動隊の武部小四郎は、
逃走して身を隠します。この武部小四郎捜索・捕縛のために、福岡県は人相書を作成しました。
人相書
士族 建部小四郎
三十四、五歳位
一、丈 高く痩たる方 (身長:高く痩せている)
一、顔 長き方 (顔:面長)
一、色 白き方 (色:色白)
一、髪 斬切 (頭髪:ザンギリ頭)
一、眼 大なる方 (眼:大きい)
一、眉 常体 (眉:普通)
一、鼻 高き方 (鼻:高い)
一、唇 常体 (唇:普通)
一、歯 掽 (歯:掽※並んでいるほどの意か)
一、音声 穏なる方 (声:穏やか)
一、宗旨
当時の人相書はだいたいこんな感じですが、逃亡時の服装や持ち物の特徴などを
記したものもあります。
それにしても。
むむ。
年の頃は三十四、五。痩せて背が高く、色白、面長、鼻が高く、短髪で、穏やかな声…。
正直、こんな人、どこにでもいそう…。
しかし、福岡上土居町に潜伏中だった武部小四郎は一ヶ月後に捕縛され、斬罪に処せられます。
現代と比較して地域コミュニティの力が強かった時代ですし、
意外と今よりは身を隠しにくかったのかもしれません。
この人相書が綴られている、「福岡県史稿 福岡県暴動ニ付達書留他」には、
他にも「福岡の変」に関する興味深い資料が多く、丁寧に読んでいくと、
当時福岡を騒がせた事件の詳細が浮かび上がってきます。
「福岡県史稿 諸方電報綴」では、当時この事件に関して、中央政府や近県知事たちと通信した
電報が残っており、そのスピード感に満ちたやり取りからは、ニュースを見ているような臨場感を
味わうこともできます。
また、福岡県公文書「辞令原簿」には、この福岡の変の鎮圧に参加した巡査たちの
負傷の様子が記載され、通史では「決起したものの失敗に終わった」と
簡単に描かれる福岡の変の断片が、被害者を通して垣間見えますし、
また地元紙「筑紫新聞」も多くの紙面をさいて、「福岡の変」について報じています。
人相書も含め、事件と同時代のこうした文書資料を丹念に読み解くことで、
通史では数行で片付けられる事件の骨組みに肉付けをすることができます。
文書資料は、一見とっつきにくいけれど、
仲良くなれば、いろんなことを教えてくれる、魅力的なツンデレさんなのです。
あ。
人相書は、秋月の乱に関しても展示していますので、展示が終了する前に見に来てくださいね!
「暑い、暑い」と言っているうちに8月が過ぎ去り、
いつの間にか、9月がやってきていました。
しかし、まだ暑い。。。
さて。
7月18日(水)から開催している、企画展「西南戦争―かけめぐる情報―」も、
折返し地点を過ぎました。
酷暑であったにも関わらず、7月8月と、来館されるお客様の数も順調でした。
足を運んでくださった皆様、ありがとうございました。
8月21日(火)からは、展示資料の一部を入れ替えまして、装いも新たに、
でございます。
今回の展示替えでは、19点の錦絵資料を入れ替えています。
限られた開催期間中、なるべく多くの錦絵を見ていただきたい、ということで、
大幅に入れ替えております。
先日来館されたお客様から、
「くずし字が読めたらもっと面白いのになあ…」というご意見を聞き、
錦絵中の詞書(ことばがき)を活字化したパネルや、
作品解説のパネルを増やしております。
(スペースの関係で、すべての資料に対応することができませんでしたが・・)
今後とも、展示や展示資料に関して、ご意見やご質問がありましたら、
どんどん当館へお寄せください。
お客様の声を参考にして、今後とも楽しい展示を企画していきたい、と思っています。
久留米と北九州からやってきた、錦絵の数々。
県立図書館からやってきた、電報資料の数々。
貴重な原資料をこのように一覧できる機会は滅多にありません。
この機会を逃さず、ぜひぜひ福岡共同公文書館へ足をお運びください!
以前、「福岡共同公文書館のおしごと」で概要をお話ししましたが、
今回は文書班のお仕事を少し詳しく紹介します。
文書班は
公文書の移管(自治体から公文書館に移す)
公文書の選別(公文書館で保存するかどうかを判断する)
公文書の整理・保存に関すること
を担当しています。
今回は公文書が移管されるまでをお話しします。
県や各市町村で作成された文書にはそれぞれに
1年・3年・5年・10年・30年といった保存年限が設けられています。
そして保存年限を過ぎると、文書を廃棄するか重要な文書として
保存するかという判断をする必要があります。
まずは、
各自治体がリスト作成(今年度であれば主に平成28年度・平成25年度・平成23年度・
平成18年度・昭和61年度に作成された文書が対象となります)
次に、
リストを基に県や各市町村が廃棄するか、保存する文書として公文書館に移管するかを決定します。
(これを1次選別をいいます)
1次選別は基本的には県や各市町村で行うのですが、時には公文書館が
「目録選別」や「現地選別」という形でお手伝いします。
「目録選別」とは、県や各市町村が作成したリストを見て
公文書館の職員が廃棄か保存かの判断をします。
「現地選別」とは、公文書館の職員が市町村の役場に行き直接文書を見て
廃棄か保存かの判断をします。
廃棄か保存かの判断は行政の推移・内容・仕組み等が明らかとなるものや、
住民生活、社会情勢を反映した重要な文書を保存するという観点から定めた
選別基準を基に行います。
このような1次選別の後に保存の必要ありと判断された文書が
公文書館へと移管されます。
(文書搬入の様子は2018年5月30日に紹介しました)